2013年10月27日日曜日

ウェルカム礼拝 コリント人への手紙第一13章1節~8節 「夫婦は愛で輝く」

今日はウェルカム礼拝です。テーマは「ともに輝く」。夫婦、親子、友人、職場の同僚など、ともに生きることで輝く関係とはどのような関係なのか。どのような間柄であってもともにお互いが輝くような関係を築くためにはどうすればよいのか。今日は特に結婚関係を中心に考えてみたいと思います。
この夏本当に久しぶりに、もしかすると結婚して以来かもしれませんが、私は新婚旅行の写真を見る機会がありました。そして驚きました。写真に映っていた妻が何と可愛らしかったことか。
皆様、可愛らしかったという過去形に特に意図はありませんので、ご注意ください。現在妻は50代半ば。50代は50代なりの可愛らしさがあると私は心から感じています。ただ昔のような新鮮な感動を久しく忘れていたので驚いたということでしょうか。
しかし、私たちの新婚旅行は楽しいだけではありませんでした。初めての夫婦喧嘩、第一次世界大戦の場でもありました。
私はせっかく旅行に来たのだから色々な所を見て歩きたいタイプ。事前にガイドブックを読んでスケジュールを立て、そのスケジュール通りにきっちり動きたい、動けないとストレスを感じるというタイプでした。
それに対して妻はゆったり派。せっかく旅行に来たのだから時間など気にせずゆっくりしたいタイプ。ですから、何度も朝の出発時間を念押ししておいても、絶対に時間通りには出発できない。ゆっくり食べ、ゆっくり見物し、ゆっくり歩いて、スケジュールなどどこ吹く風、まったく関心がないように見える。
そんな妻にイライラし、長崎に着いた時には風邪を引いてしまったため念願の本場長崎ちゃんぽんに箸もつけられず。そんなこんなで堪忍袋の緒が切れたと言うわけです。
つい二三日前には、神様の前に生涯愛することを誓ったはずの女性に、「なんて奴だ」と怒り、イライラする。可愛らしく感じたり、腹が立ったり。そんなややこしい結婚というものをどうして人間は願い、求めるのか。
「人間はひとりでは人間ではない。」詩人テニスンのことばです。共に協力して何かを成し遂げたり、心の絆を感じたり、共に生活する相手を持たないと人間は寂しい存在だ、ということです。
実は、聖書も同じことを教えています。この世界を創造した始めの時、すべてのものを造り終えた神様は「非常に良い」と思われたとあります。しかし、ただひとつ良くないと言われたことがありました。それは何でしょうか。

創世記218「神である主は仰せられた。『人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。』」

最初の人アダムは神様に愛されていました。食べ物や豊かな土地にも恵まれていました。生きがいのある仕事に励んでいました。
しかし、食べる物に事欠かず、やりがいのある仕事を持つだけでは何か物足りないことを、神様はアダムに気づかせたのです。
もっと親しい友を、人間のことば人間の感情で語り合い、喜怒哀楽を対等に、ともに分かち合える友、自分にないものをもって豊かにしてくれる人生のパートナーがいてくれたら。そんな願いを抱くようになったアダムのために造られたのが女性エバであり、ふたりは愛し合う夫婦となりました。
つまり、私たちは他の人と愛し合う交わりの中にある時、人間として最高の喜びを感じるよう神様に造られた存在と、聖書は教えているのです。皆様はこのことを自覚しているでしょうか。
私は食べることが大好きです。いつか私が四日市で一番美味しいと思うラーメン屋とうどん屋を説教で紹介したことがありますが、「山崎先生、この間行っていたラーメン屋に行ってきました。本当に美味しかったです。」と言ってくれた兄弟姉妹が何人かいます。
そのことばを聞いた瞬間、その人が大好きになりました。この人は友達になれると思いました。ちなみに、私の妻は外食と言うと余りにもその店ばかり私が誘うので、「良いわよ」と口では言いますが、目は「またか」と明らかに呆れています。共感不能のレベルです。
しかし、自分の大好きなものに共感してくれる人がいる。これが交わりです。今度は、是非一緒に店に行って実物を食べながら、もっと詳しくその店のラーメンを賞賛し合い、喜びを分かち合えたらと思っています。
一人で食べても美味しいラーメンは間違いなく美味しいでしょう。しかし、その美味しさを語り合い、喜び合える人と食べたら、その美味しさは二倍、三倍。どうでも良い例かもしれませんが、人間は思いを分かち合うため、共感するため、交わるために神様に造られた者ということを確認できると思います。
しかし、そうだとすれば、親子が対立し、夫婦が憎みあい、昨日の友が今日の敵となるという現実は、どうしてなのでしょうか。
聖書は、愛の源である神様に人間が背き、離れて生きるようになったからと語ります。神様から離れた人間の愛は歪んでしまった、あるいは正しく愛する能力を失ったのです。
その愛の歪みは、人間が人格でないものを愛するようになったことに現れています。人格でないものとは、お金、地位、能力、容姿などです。
もちろん、聖書はそれらのものに意味があることを教えています。お金や地位は私たちが努力した結果として神様から受け取るべきもの、能力や容姿の神様からの賜物と言う一面があります。
問題はそれらのものを愛する時、本来ならお金や地位や能力を使いこなす主人であるべき人間が、それらの奴隷となったり、悪用したりすることです。
お金を溜め込むことを人生の目的として、人を助けるために使おうなどとは考えない貪欲。社会的地位を悪用して、弱き立場にある者を苦しめるパワハラ。能力や容姿に秀でているというだけで上から目線になる高慢。
これらが、いかに夫婦や親子、社会の隣人関係を壊すものか。私たちは嫌と言うほどそれを見、聞きますし、自分の心の中にもその様な悪しき思いがあることを感じます。
また、正しく愛する能力を失った私たちの愛は自己中心的です。自分にとってこの人の友人となること、あるいは結婚することは得か損か。この人と関わることは、自分にとって有利か不利か。いつもその様に考え行動する者は、人を心から愛する能力を失ってしまうということです。
ギリシャ神話に登場する美少年ナルシスのお話を思い出します。ナルシスは自分を満足させてくれない女性の愛を退けた罰として、自分しか愛せない者となります。
ある日、池のほとりに立ったナルシスは水面に映る人間、つまり自分の美しさに目を奪われます。自分のことばかりを見、思い、愛するナルシスはとうとうその場から動けなくなり、一本の水仙の花となってしまったというお話です。
ナルシストはこのナルシスから来たことばで、自己愛の人という意味です。ナルシスは極端な例かもしれません。しかし、自分を満足させること、自分の財産や立場、自分に対する人の評価を気にするばかりの人は、いつしか人間らしい心を失ってしまうということは事実でしょう。自己中心の愛、これも私たちが愛し合う関係を築く時の大きな問題でした。
そして、正しく愛する能力を失った人間は相手を支配し、自分の思い通りにしようとします。
「火の鳥」という手塚治虫の漫画に、猿田博士という鼻が以上に大きな人物が登場します。自分は醜い顔の男で、女性に愛されるはずがないという劣等感を抱く博士は、その天才的頭脳を使って、自分が言って欲しいことを言って欲しい時に言ってくれる女性のロボットを作ることに成功します。
「ご主人様、あなたは天才です。」「ご主人様、私はあなたが好きです。」その様に言われて最初は喜んでいた博士ですが、その様にしか応えられないように作られたロボット相手の生活が虚しくなり、壊してしまうと言うお話です。
愛すると言うことは、自由な心から生まれてくる思いであり、行動です。相手にコントロールされて「ノー」を言えず、「愛している」としか言えないのは愛ではありません。自由に「ノー」を言えない関係から、心から愛し合う関係は生まれてこないということです。
イエス様は、私たち人間の中に感情的に責めることで、相手を自分の思い通りにしようとする傾向があることを見抜き、それでは愛し合う交わりは築けないことを教えています。

マタイ71,2「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなた方も量られるからです。」

ここで言われる「さばく」というのは、感情的になり、イライラして相手を責めることです。大抵の場合、私たちが相手を責める時、夫婦で言えば夫が妻を、妻が夫を責める時、夫々が自分は正しいことを言っている、指摘しているだけだと思っています。自分が間違っているなどとは思いません。
つまり、夫は妻が自分を愛しているならこうあるべき、妻は妻で夫が自分を愛しているならこうするべきという基準が心の中にあり、その枠の中に相手を入れようとする、しかし相手は思うとおりにならない、その為にイライラし責めることになるのです。
同じ責めるにしても、理屈で責める、黙り込む、無視する、わざと不機嫌な態度をとる、物に当り散らすなど、各々のタイプがあるでしょう。
しかし、イエス・キリストは、あなたが相手を責めるなら、相手もあなたを責め返してくるだけのこと。間違っても心から謝ったり、感謝されたりすることはありえない、責めることは相手の怒りに油を注ぐだけと教えています。
あなたの言っていることが正しくとも、腹を立て責めるあなたの態度の方が、相手の欠点や失敗よりも余程大きな問題であることに気がつきなさいと言われるのです。
夫婦喧嘩をおさめ、愛し合う関係を築くためには、自分の態度のひどさに気づき、悔い改め、自分の本当の思いを柔和な態度で伝えること。これがイエス・キリストの教える愛でした。
「結婚前には眼を大きく開き、結婚してからは片眼を閉じよ。」という名言があります。毎日生活を共にする中で、相手の弱さや欠点が目に付くのは当然でしょう。だからこそ、相手の弱さや欠点には肩眼を閉じるぐらいの寛容な心が必要との教えでした。
 仕事をすればするほど収入は増えるかもしれませんし、地位も挙がる可能性が高いでしょう。才能も磨けば磨くほど、成績が向上したり、仕事の成果が上がってゆくものです。
 しかし、私たちの貪欲や高慢、自己中心的な愛し方、イライラして人を責めてしまう態度などを修正、改善するのは簡単なことではありません。いや、聖書は、自分の努力でどうにかなるような問題ではないと教えているのです。
 ですから、聖書が示す解決方法は、イエス・キリストを信じて神様のいのち、すなわち正しく愛する能力を受け取ることでした。

 Ⅰヨハネ49「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。」

 イエス・キリストを信じるとは、自分の愛が歪んでいて、自分の努力で修正できないと認めること。神のひとり子イエス・キリストがそのゆがみ、聖書で言う罪のために十字架で死んでくださったと信じることです。
 私たちは自分の力で愛というエネルギーを生み出すことも、蓄えることもできない存在です。エネルギーを生み出すことも蓄えることもできない電池がものを動かすことができないように、愛を自家発電できない私たちは愛をもって行動することができません。
 しかし、ただひとつ私たちを愛に向けて動かすことのできるものがあります。それがご自分のひとり子を私たちの罪のために十字架に死なせたほどに私たちの存在を大切に思う、神様の愛です。
 神様を離れ、神様を無視して生きている私たちがもう一度正しく愛する能力を回復できるように、もっとも大切なイエス・キリストを十字架に犠牲にされた神様の愛こそが、正しい愛を教え、正しい愛の実践に向けて私たちの心を動かすエネルギーであることを知っていただきたいと思います。
 愛することに近道はありません。愛について聖書に学ぶ、愛を実行する、失敗する、神様の愛を受け取る。この繰り返しです。結婚生活は愛することを学ぶために神様が備えてくれた学校と言えるかもしれません。
しかし、安心してください。神様は私たちが何度愛することにおいて失敗しても、ひどい失敗を犯しても、私たちを赦し、責めず、私たちの存在を丸ごと受け入れてくださるお方です。私たちのすべてを知りながら、私たちの存在を喜び、受け入れ、私たちが何度でも愛することに取り組むよう励ましてくださるお方なのです。
皆様が本当に愛し合う夫婦また親子になりたいと願うなら、お互いに尊敬しあう友情を育てたいと思うなら、この神様の愛を受け取ることをお勧めします。


2013年10月20日日曜日

第2列王記17章1-8節「一書説教 第二列王記」~不従順の結果~

 三週間前の日曜日。四日市教会での礼拝、鈴鹿教会での礼拝を終えて家に帰りますと、風邪の症状で寝込むことになりました。熱と腹痛、お腹を下している状態が続き、丸二日間、何も食べることが出来ない状態。脱水症状にならないように、水を飲むのですが、水が腸にいくと、腸が痛む。水を飲むのも怖いという状態でした。車を運転することも出来ず、妻に病院に連れて行ってもらい、軽い脱水症状ということで点滴がうたれ、薬を貰って帰りました。その段階で、ひどい風邪だと思っていたのですが、後日病院から電話があり、検査結果が出たので受診して下さいとのこと。行ってみますと、食中毒でした。お医者さんに、何か心当たりはありますかと聞かれるのですが、何も心当たりがない。同じ物を食べているはずの家族や教会の人でも、誰からも聞かない。未だに原因が分からない状況です。
 食中毒になりまして、生まれて初めて、水でもお腹が痛くなることを経験しました。食べ物は勿論、水分を取ることも大変という状況が、どれ程大変なのか。症状が出ている二日間も大変でしたが、その後数日間は、体力が落ちているためか、何かと力が出ない。それも大変でした。
 体に必要な食べ物、水分をとることが出来ない。その大変さを味わって、ふと考えたのは、これまで自分は、霊に必要な糧、神様のことばである聖書を読まない時に、同じように苦しんできたのか。自分の霊の状態に注意を払ってきただろうかということです。心のどこかで、食べ物、水分をとれないことは大変なこと。聖書を読まないのは、さしたる問題ではないと、思っていないだろうか。そうは思っていなくとも、実際の生き方は、聖書を後回しにする生き方となっていないだろうかと考えることになりました。いかがでしょうか。皆様は、御言葉に対する飢え渇きをどれ程感じて生きているでしょうか。もっと聖書のことを知りたい。もっと神様のことを知りたいという思いを、持って生きているでしょうか。

 聖書の中には、食べ物の飢饉よりも、恐ろしい出来事として、次のような言葉があります。
 アモス8章11節
「見よ。その日が来る。――神である主の御告げ。――その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」

 食べ物の飢饉よりも、神のことばの飢饉の方が、より恐ろしいもの。しかし、それよりも恐ろしいのは、神のことばをとらないでも大丈夫と考えること。御言葉への飢え渇きを感じなくなっている状況ではないかと思います。果たして、私たちは大丈夫でしょうか。
 私自身も含め、愛する四日市キリスト教会が聖書を読むことで強き教会となるように。聖書を読むことにより取り組む教会でありたいと願い、私の説教の際、断続的に一書説教を取り組んでいます。今日は十二回目。旧約聖書、第十二の巻、第二列王記を見ていきたいと思います。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。

 さて、第二列王記を確認する前に、これまでの流れを確認しておきたいと思います。旧約聖書を読み進める上で、覚えておきたい考え方の一つは「神の民」というものです。
人間が神様を無視するようになった結果、この世界は悲惨な状態になりました。ひどい状態になった世界を、良い状態にするために神様がとられた基本的な方針は、神の民を通して世界を良くするというもの。自分が中心、自分の好きなように生きることが最善とする世界にあって、本来の人間のあるべき生き方。神様とどのような関係にあるべきなのかを示していく。それが神の民の使命であり、そのようにして世界を良くしていくのです。
 この神の民の使命は、最初アブラハムに与えられ、その子孫に引き継がれました。(今や、キリストを信じる私たちに、この使命が与えられています。)旧約聖書第一巻、創世記の終わりの段階では、神の民は七十名。それ以降、神の民はイスラエル民族として、増え広がります。このイスラエル民族が王国を建て上げ、その歴史が記されているのが、列王記でした。
前回確認した第一列王記では、王国が南北に分裂。神様はダビデの王座が続くことを約束されていましたが、ダビデの子孫が王となるのは南側の王国。南ユダです。北側の王国は、代々の王が、聖書の教えから外れた自分勝手な礼拝方式(ヤロブアムの罪)を繰り返すことになる。その都度、預言者を通して警告されるも、神の民として使命を果たさない状態が続くと、裁きが下され、王が変わります。北側の王国、北イスラエルは続々と王が変わる歴史。中でも、アハブという王は、自分勝手な礼拝方式どころか、聖書の神を信ずることをせず、その地方の神、バアル宗教を取り入れた人物で、最悪の王として評されていました。第一列王記の後半は、そのアハブ王と、預言者エリヤとのやりとりが中心。最後は、アハブ王の死をもって、第一列王記が閉じられていました。第二列王記は、その続きからとなります。
 前半は預言者エリヤの後継者、エリシャの活躍。中盤は北イスラエルへの裁き、アッシリア捕囚。後半は南ユダへの裁き、バビロン捕囚となります。

 前半、エリシャの活躍から確認します。
 神の民として使命が与えられていたイスラエル王国。もしイスラエル王国が神の民として使命を果たさない時、それを戒めるのは、預言者の役割でした。第一列王記で大いに活躍したエリヤの後継者として、エリシャが立てられ、エリシャの活躍する場面が前半に出てきます。そのエピソードはユニークなものが多数。
 預言者の仲間と食事をする時、誤って毒草が入ってしまった時。エリシャの働きによって、食べても大丈夫なものとする。預言者仲間が木を切り倒している時、人から借りていた斧をヨルダン川に落としてしまう。その斧をエリシャの働きによって、浮かび上がらせる。預言者仲間が死に、その家族が貧しくて大変なところを助ける。など、国を左右する話しではない。牧歌的、家庭的、個人的な活躍の記録。エリシャを身近に感じさせるエピソードも多数あります。
 中には、これは一体どういうことなのか、と頭を捻るような記録もありました。

 Ⅱ列王記2章23節~24節
「エリシャはそこからベテルへ上って行った。彼が道を上って行くと、この町から小さい子どもたちが出て来て、彼をからかって、『上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭。』と言ったので、彼は振り向いて、彼らをにらみ、主の名によって彼らをのろった。すると、森の中から二頭の雌熊が出て来て、彼らのうち、四十二人の子どもをかき裂いた。」

 エリシャを馬鹿にした子どもたちに、エリシャの呪いの言葉が下ると、子どもたちは熊に殺されたという記録。エリシャは怒りやすかったのか。子どもの言葉に、そこまでしなくてもと感じるところ。一応解説しますと、この小さな子どもと訳されている言葉は、結婚適齢期の者にも使われる言葉。そしてベテルと言えば、金の子牛が置かれていたところで、真の預言者に対する反抗が強い地域と考えられます。つまり、真の預言者を排除しようと集まった者たちに対する、神様の裁きの場面と見ることが出来ます。

 小さな出来事、不思議な出来事も多くあるエリシャですが、王を相手に活躍する場面。大きな奇跡を起こす記録も多くあります。死人を蘇らせる奇跡。異国の将軍、ナアマンの癒しの奇跡。王に対する助言や裁きの言葉。戦を勝利に導く記録などなど。第二列王記の前半は、王の記録よりも、預言者エリシャの記録の方が多く記されています。
 神様に従わない者たちに対して、神様は預言者を通して語りかけます。エリシャの活躍を通して、不従順な者たちに、なおも語りかける神様の姿を見ていきたいと思います。

 第二列王記の中盤は、南北の王の記録。あのアハブが死んだ後、イゼベルや北イスラエルがどのようになったのか。アハブ、イゼベルの影響が南ユダにも来ている、アタルヤ王権の記録。重要な記録がいくつか出てきます。中でも特に覚えておきたいのは、北イスラエルが滅ぼされるという記録。北イスラエルに対する裁き、アッシリア捕囚という事件です。
 Ⅱ列王記17章5節~8節
「アッシリヤの王はこの国全土に攻め上り、サマリヤに攻め上って、三年間これを包囲した。ホセアの第九年に、アッシリヤの王はサマリヤを取り、イスラエル人をアッシリヤに捕え移し、彼らをハラフと、ハボル、すなわちゴザンの川のほとり、メディヤの町々に住ませた。こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王パロの支配下から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである。」

 イスラエル王国のあったカナン地方は、南(南西)にエジプト。北(北東)にアッシリア。(後の時代には、バビロンとなります。)二つの強国に挟まれた地域で、絶えず緊張関係がありました。北イスラエル、南ユダの王たちは、時にアッシリアに貢物を送ることもありました。
 この時のアッシリアの王シャルマヌエセルは、紀元前720年頃の王。北イスラエル最後の王、ホセアがアッシリアに貢物をしなくなったために、首都セマリヤを包囲し攻め落としたといいます。シャルマヌエセルにとっての理由は、貢物が無くなったからですが、聖書はもう一つの視点からこの出来事を捉えています。
神の民として、本来あるべき生き方を示す使命が与えられていたはずのイスラエル王国。ところが、あるべき生き方を示すどころか、異教の風習、その地方の風習を取り入れた。その使命とは正反対の生き方となった。これまで何度も預言者を通して警告が出されたにも関わらず、変わることのない北イスラエルへの裁きとして、このアッシリア捕囚が起こったというのです。

 新約の時代。神の民の使命を「地の塩」と表現し、もし神の民が使命を果たさなくなると、それは何を意味するのか。イエス様が語られた言葉が響いてくる場面。
 マタイ5章13節
「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」

 神の民の使命を果たさなくなった北イスラエルは、アッシリアに負けました。アッシリアに負け、捕えられた。これには、重大な意味がありました。アッシリアは、捕えた者たちを、支配している地域の様々な場所に住まわせることをします。仮に今の時代、アッシリアが、東アジアを支配したとします。捕えられた私たちのうち、ある者は韓国に、ある者は北朝鮮に、ある者は中国に住まわされることに。日本には、韓国の、北朝鮮の、あるいは中国の人たちが移住してきます。すると何が起こるのか。文化が入り混じり、次第に民族のアイデンティティが失われていくことになります。
例えば、ある日本人男性が捕えられて、韓国に住むことに。そこには中国から移住させられた女性がいて結婚。子どもが生まれたとします。その子は、アッシリアの支配国にある韓国の土地に住む、日本と中国の文化を持つ子となります。その子は自分を何人と考えるのか。
 アッシリアは支配国に対して、このような政策をとりました。何故か。民族のアイデンティティを失うと、支配国に対して歯向かうことが無くなるからです。自分は何人で、自分の土地はここであるということがないと、反抗する力がなくなる。それを見越しての政策。恐ろしい政策でした。
 北イスラエルはアッシリアに負け、捕えられました。それはつまり、神の民としてのアイデンティティが失われることになるのです。イスラエル十二部族のうち、多くの部族が、ここで失われることになる。残念無念。神の民として使命を持つ者たちは、南ユダに住む者たちとなるのです。

 このアッシリアは、北イスラエルを滅ぼして終わりではなく、南ユダにも攻め込んできます。北イスラエルが滅ぼされ、強国アッシリアにエルサレムが包囲される。絶体絶命の場面。列王記の中でも、最も印象的な場面の一つ。
アッシリアの将軍、ラブ・シャケの口上。それに対する、南ユダの王ヒゼキヤ。ヒゼキヤに与する預言者イザヤ。アッシリアが攻め込んで来た時、南ユダの王が善王で知られるヒゼキヤで良かったと思うところ。果たして何が起こるのか。是非、聖書で確認して頂きたいと思います。(この出来事は、歴代誌でも、イザヤ書にも記されている。当時の人たちにとって、余程の大事件であったことが分かります。)

 こうして北イスラエルは滅び、南ユダは生き残ることになる。ここまで北、南と交互にその記録を記してきた列王記ですが、後半は南ユダの王たちの記録となります。
 南ユダの王にも、いくつか王が立ちますが、特筆すべきはマナセという王。アッシリアを退けた善王ヒゼキヤの子でありながら、聖書の観点からは最悪の王。それも五十五年という長きに渡って、南ユダに悪影響を与えます。何をしたのか。
 Ⅱ列王記21章2~3、6、9節
「彼は、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行なった。彼は、父ヒゼキヤが打ちこわした高き所を築き直し、バアルのために祭壇を立て、イスラエルの王アハブがしたようにアシェラ像を造り、天の万象を拝み、これに仕えた。・・・また、自分の子どもに火の中をくぐらせ、卜占をし、まじないをし、霊媒や口寄せをして、主の目の前に悪を行ない、主の怒りを引き起こした。・・・マナセは彼らを迷わせて、主がイスラエル人の前で根絶やしにされた異邦人よりも、さらに悪いことを行なわせた。」

 このマナセの為したことは、かつてカナンにいた異教の者たちよりも更に悪いとされ(21章11節)、明確に裁きの宣告がされます。このマナセの後に、善王として名高いヨシヤ王が生まれ、南ユダに対して、もう一度神様に従うようにと取り組みがなされます。聖書はヨシヤの働きを大きく評価するも、それでもこのマナセの悪の故に、裁きが実行されることが宣せられるのです。

 Ⅱ列王記23章25~26節
「ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった。それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行ないのために、主はユダに向けて燃やされた激しい怒りを静めようとはされなかった。」

 南ユダに対する裁きは、アッシリアに代わってその地方に力を持つようになっていたバビロンによる裁きとして行われます。バビロン捕囚という事件です。第二列王記の最後は、南ユダがバビロンに滅ぼされ、捕えられるところで終わりとなります。既に北イスラエルが滅び、神の民として残っているのは南ユダのみ。その南ユダも滅ぼされることになる。
 果たして神の民の使命は、これから誰が担っていくのか。ダビデの王座は続くとの約束は、どうなるのかという場面。

 大事な点は、南ユダを滅ぼしたのがバビロンだったということです。アッシリアは先に言いましたように、捕虜とした民に対して、民族としてのアイデンティティを失うような政策をとりました。バビロンはそのようなことはせず、捕虜のうち優秀な者たちを自国に連れていき、奴隷として扱うことをします。つまり、南ユダの者たちは、約束の地を離れることになりますが、バビロンで神の民として生きることになる。神の民としてのアイデンティティは失われずに済むのです。列王記以降の神の民の歴史は、王国としての歴史でなく、捕囚の民として、バビロンでの生活、またそこからカナンの地に戻ってくる歴史となるのですが、詳しくは続く歴史書で見ることになります。

 以上、第二列王記を概観しました。第二列王記に流れているテーマは何でしょうか。どのようなことを汲み取れば良いでしょうか。実に多くのことが教えられます。神様が歴史を支配されていること。義なる神様は、罪を見過ごすのではなく、裁きをもたらす方であること。しかしそれは、度重なる警告や注意があってのこと。更には、その裁きの中にも、神の民が生き残る道が用意されている。恵みの、救いの神様の姿を見ることが出来ます。
 中でも特に覚えておきたのは、神の民に与えられている使命の重要性です。イスラエルの民が、エジプトを脱出し、約束の地カナンに定住するようになる。その地で増え広がり、王国が建てられた。それは何のためかと言えば、イスラエルが神の民として使命を果たすためでした。その生活を通して、人間のあるべき生き方、神様とのあるべき関係を示していく。そのために、約束の地が与えられ、王国が建てられていく歴史があったのです。
 それにもかかわらず、神の民の使命を果たさないイスラエルの民。その不従順の結果、どうなったのかと言えば、アッシリア捕囚、バビロン捕囚という裁きとなりました。

 旧約の時代、神の民としての使命は、アブラハムの子孫。イスラエル民族に与えられたものでした。今の時代、神の民としての使命は、キリストを信じる者、私たちに与えられている使命です。(ガラテヤ3章7節)私たちが罪から贖われるために、イエス・キリストが十字架にかかり、復活された。その救いの御業によって、私たちは永遠の命を頂き、神の民としての使命を頂きました。私たちが、神の民の使命を果たさないとしたら、それはキリストの贖いの御業をないがしろにする生き方になっている。どれ程、父なる神様を悲しませる歩みとなるのか。
 私たちは今一度、イエス様の大きな犠牲によって救われたこと。その救いによって、神の民としての使命。人間のあるべき生き方、あるべき神様との関係の持ち方を、示していく使命を頂いたことを再確認し、皆で励まし合い、祈り合い、支え合いながら、その使命を全うしていきたいと思います。

 今日の聖句です。ペテロの手紙第一2章9節

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」

2013年10月13日日曜日

ヨハネの福音書(28)/ヨハネ8:48~59「命がけの証し」

今日は、イエス・キリストが「ご自分が誰であるか」を証しされるそのお姿を読み進めます。時は紀元30年頃、季節は秋。場所はユダヤの都エルサレムにある神殿の庭。ギリシャ語で「エゴー・エイミ」、「わたしは~である」を意味する独特の言い方でご自分を紹介するイエス様、それに対しユダヤ教指導者たちが声を荒げて反対する、その様子を群集が固唾を飲んで見つめる。そんな場面が続きます。
「わたしはいのちのパンです。」「わたしは羊の門です。」「わたしはよみがえりです。いのちです。」等、次々とご自分について紹介する、証しするイエス様の姿は他の福音書には見られないヨハネの福音書の際立った特徴でした。
今日の箇所もそのひとつ、「わたしは世の光です」とのイエス様の証しとそれに対するユダヤ教指導者たちの悪口の嵐、ことば尻をとらえての反対、ついには怒りを抑えきれず石を投げつけ殺そうとするという、緊張で息詰まるような場面です。

8:48「ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。『私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。』」

この直前の場面、ユダヤ教指導者たちはイエス様から「あなたがたがわたしを信じないのは、あなたがたが神から出た者ではないからだ」と言われ、プライドをへし折られました。群衆の見ている前で、土俵際に追い詰められたのです。
しかし、議論ではかなわないと思ったのでしょうか。彼らは「あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか」と罵りました。
サマリヤ人は元々ユダヤ人とは同じ民族で仲間同士。しかし、ある時からサマリヤ人は異邦人と結婚して混血、宗教的にも異教の影響を受けた部分がありましたから、ユダヤ人はサマリヤ人を「異邦人、背教者」と見下す。そうなるとサマリヤ人も反感を抱く。両者は長く対立し続け、言わばひどい兄弟喧嘩の状態にあったのです。
ですから、当時のユダヤ人が相手に向かって「お前はサマリヤ人」と言ったら、極めつけの悪口。「悪霊につかれた者」ということばも、他の訳では「気が狂った者」と表現されています。愚にもつかない悪口も二つ並べれば効果があるとでも考えたのか、みなで一緒になってイエス様を侮辱し、数の力で圧倒しようとしました。
しかし、それに対してイエス様は怒りに駆られて言い返さず、かと言って怯むこともなく、ただご自分が何者であるかを証しされたのです。

8:4951「イエスは答えられた。『わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。』」
ユダヤ教指導者たちが自分を卑しめたこと、侮辱したことを知りながら、イエス様は「わたしは悪霊につかれてはいません。気が狂ってはいません。」と語られたのみ。感情的になって彼らを責めることばは一切口にしませんでした。イエス様は言われたら言い返す、罵られたら罵り返す、侮辱されたらやり返すという彼らの土俵に登ることはなかったのです。
何故でしょうか。「わたしは自分の栄誉を求めていない」とイエス様は言われました。議論に勝つとか、自分のプライドや立場を守るとか、そんな自分に関する栄誉などどうでもよい。わたしが気にかけているのは父なる神様の栄誉。だから、どんな侮辱もわたしの心を挫けないし、わたしの心を傷つけたり、怒らせたりする事はできない。そんなイエス様の思いが伝わってきます。
この柔和な態度はどこから生まれてくるのか。イエス・キリストに見る本当の柔和さとは何なのか。このことは後で考えてみたいところです。
さらに、柔和な人イエス様は愛の人でもありました。自分を罵る人々に「だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることはありません。」と福音を伝えたのです。
イエス・キリストを信じる者はその生涯の罪をすべて赦されており、死後のさばきを恐れることなく安心して死を迎えることができます。また、死後の復活と天国での生活が待っていますから、死は祝福された命への出発でした。
ご自分の命を狙う人々のために福音を語るイエス様。イエス様がいかに彼らの魂の救いを願っていたか。その愛を覚えて圧倒されます。しかし、この愛もプライドを傷つけられ怒り狂う彼ら宗教指導者の心には届かなかったようです。むしろ、彼らは屁理屈をこねくり回すと、「何を偉そうに。お前は一体何様のつもりだ」と非難を浴びせました。

8:5253「ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない。』と言うのです。あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」

「あなたが狂っていることは今こそはっきりした」と断言する彼らは、イエス様のことば尻をとらえ、捻じ曲げました。「わたしのことばを守るなら、その人は死を見ることがない」と言われたのを「死を味わうことがない」と言い変えました。肉体の死をこえる永遠の命を教えたイエス様のことばを肉体の死を経験しないなどと言う愚かなことばに変えました。そして、「先祖アブラハムも預言者たちもみな死んだと言うのに、そんな大法螺を吹くあなたは彼らよりも偉いのか、一体何者か」と嘲ったのです。
けれども、この悪意に満ちたあざけりも、イエス様の真実な証しを止めることはできなかったのです。わたしとわたしに栄光を与えてくださる父なる神様とは一心一体、お互いに良く知り合った仲。しかし、神を知っているというあなたがたは本当には神を知らないのです。なぜなら神を知る者は、わたしがしているようにそのことばを守るはずだからです。心頑なな人間のためどこまでも真実を尽くすイエス様でした。

 8:5456「イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っています。
けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」

この中の最後のことば「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです」については、少し説明が必要かもしれません。アブラハムは旧約聖書に登場するユダヤ民族の先祖で信仰の父と称され、人々の尊敬を集めていました。イエス様の時代を遡ること二千年前の人物です。
そのアブラハムが神様のことばを心に受け止め、やがて自分の子孫から救い主が生まれ人々に罪からの救いをもたらす日が来ることを信じていたことを聖書は何度も教えています。それも、その日が到来することを思うと大いに喜び、実際に救い主を近くに見て喜ぶほどに喜んでいたと、イエス様は言うのです。
別の訳には「わたしの日を見る望みに胸を打ちふるわせていた」とあります。定住の地を持たなかったアブラハム、様々な労苦に悩んだアブラハムもやがて救い主が地上に来られる日を思う時胸を打ちふるわせるほど喜んだ。
それなのに、アブラハムの子孫と言い、アブラハムを尊敬すると口にするあなたがたは救い主であるわたしを間近に見、ことばを交わしてさえいると言うのに、その恵みにまだ気がつかないとは。イエス様の残念そうなお顔が目に浮かぶようです。
しかし、それでもまだ彼らは減らず口を叩いたと言うのです。

 8:57,58「そこでユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」イエスは彼らに言われた。「まことにまことにあなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」

 この頃の五十歳は一般的に社会の第一線から引退、長寿の老人と見られた年齢です。宗教指導者の意図は明白でした。「あなたはまだ長寿と認められる年齢にも達していないのに、今から二千年前の人アブラハムを見たと言うんですか」。これは皮肉です。
 それなのに、イエス様はこんな減らず口を叩く人々のために、またも真実を尽くし、証しをされたのです。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」「まことに、まことに」とは、本当に大切なことだからよく耳を開いて聞きなさいという合図のことばです。
 「アブラハムが生まれる前から、わたしはいた」ではなく「わたしはいる」とは不思議なことばです。実はこのことば、その昔出エジプトの指導者モーセが人々が自分を信頼してくれないことに悩み、せめて神様のお名前でも知ることができればと思い、「神様、あなたのお名前を教えてください」と尋ねたのに対するお答えが元となっています。

 出エジプト314「神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはある。』という方が、私をあなたがたのところに遣わされた。と。」」

 「わたしはある」とは、何者にも造られず、支えられず、助けられず、自ら永遠に存在する者、世界の造り主それが神様のお名前、本質という意味です。
 つまり、イエス様はご自分が永遠の昔から、世界が造られる前、アブラハムが生まれる前から存在し-だから「わたしはいた」ではなく「わたしはいる」となります-、この世界を造り、支配しておられる神であることを、ここに宣言したのです。
 皮肉を言い放ってプライドを守ろうとするような高慢な人間のために、もったいないような尊い証し、証言でした。
 しかし、この恵みの宣言も彼らには通じず、怒り頂点に達した指導者たちは燃える怒りに我を忘れ、石を手に持ってイエス様を殺そうとしたというのです。石打は当時ユダヤの死刑でしたが、これは裁判なしの暴力、リンチでした。
 けれども、こうなることは分かっていたのでしょう。イエス様は忽然と彼らの前から消え去られたと言うのです。イエス様最大の使命、十字架の時は未だ来たらず。十字架にのぼり私たちの罪を贖う死を遂げるための一時的避難、奇跡的な出来事でした。

8:59「すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。」

こうして読み終えた今日の箇所。改めて考えてみたいことが二つあります。
ひとつは、イエス様の柔和さです。イエス様が今日の場面で示された柔和さとはどのようなものだったでしょうか。一般的に柔和と言うと生まれつき穏やかな性質の人、自分の考えをあまり語らない物静かな人という印象があります。
しかし、イエス様の柔和さは違いました。不当に罵られても、怒りに駆られて相手にやり返さない強さ、相手の侮辱的なことばや態度に怯んだり、傷つけられてイライラしたり、怒り出したりしない強さ、神様のためには愛をもって語るべきことを語る強さを感じます。弟子のペテロはイエス様の柔和さが余程心に残ったのか、手紙の中でこの様に書いていました。

Ⅰペテロ222,23「キリストは罪を犯したことが無く、その口に何の偽りも見出されませんでした。ののしられてもののしり返さず、苦しめられてもおどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」

ご自分に関することは正しくさばかれる方、父なる神様にすべてお任せしていたので、人を罵ることも、脅すこともしない柔和な態度をとることができたと言うのです。
「わたしはわたしの栄誉、権利を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます」と同じ事をイエス様も言っていました。イエス様が自分に関する栄誉、自分の立場やプライドを守る権利を捨ててかかり、人々に柔和な態度で接することができたのは、自分に関することはすべて完全に守ってくださる父なる神様に信頼していたからと知ることができます。
本当の柔和さは自分に関することはすべて完全に守ってくださる神様を信頼する心から生まれ、身につけてゆく態度であることを覚え、イエス様に倣う者となりたく思います。
次に考えたいのは、アブラハムの信仰です。アブラハムをはじめ旧約時代の人々は今の私達よりもはるかに僅かな神様のことばを通し、ぼんやりと来るべき救い主のことを知り、信じていました。それにも関らず、アブラハムは救い主を心の目で見て、大いに喜んでいたという、イエス・キリストのもたらす救いを思い、胸打ちふるわせるほど喜んでいたと言う。
同じイエス・キリストを信じる者として、いや遥かに詳しくイエス様のことを、そのみ業を、その十字架と復活を知る私たちにアブラハムの喜びがあるかと問われる思いがします。今日の聖句です。

Ⅰペテロ18「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」


やがて終わりの日再び地上に来られるイエス・キリストを思い喜ぶ者、今この時どこにいても、何をしていても、私たちとともにおられるイエス・キリストを心の目で見、大いに喜ぶ者となりたく思います。

2013年10月6日日曜日

ヨハネの福音書(27)/ヨハネ8:31、ガラテヤ5:1「私たちを生かす自由」

先回私たちは、イエス・キリストが「真理はあなたがたを自由にします。」と語られた場面を読み進めました。真理つまりイエス・キリストがご自身を信じる者に与えてくださる自由とは何なのか。今日は聖書全体からもう少し詳しく考えてみたいと思います。
何故なら、この自由を理解し、自由を味わっているかどうか。それで、私たちの信仰生活が随分変わってくると思われるからです。今日は、イエス・キリストのもたらす自由について三つの視点から考えてみます。
一つ目は、罪責からの自由です。私たちはイエス・キリストを信じた時から、たとえ罪を犯しても最早罪に定められたり、神様から責められることのない者とされました。というのは、キリストが私たちが受けるべき一切の罪の責めを身代わりに負われ、決着をつけてくださったからです。
言葉を変えて言えば、神様はキリストの義というレンズを通して御覧になるので、私たちは法的に最早罪人の立場にはいないのです。現実には思いにおいても行いにおいても日々罪を犯す者であるにも関わらず、神様の目には義人、義しい人だということです。
皆様は神様の眼に自分は義人であると信じているでしょうか。キリストは私たちが罪神様から義人と見られるために、十字架に死なれた。このことを信じているでしょうか。聖書にはこうあります。

Ⅱコリント521「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」

しかし、私たちをすべきことをしないと神様から非難されているように感じます。自分のしたことは罰せられても当然と考え、神様はこんな自分を愛してくれないのではないかという思いに囚われます。その様に反応する性質が身に染み付いているのです。
けれども、聖書は言います。私たちがなすべきことをしようとしまいと、神様はいつでも愛してくださる。私たちが罪にまみれ人間としてあるべき姿からどんなに落ちていても、神様は変わることなく私たちのために心砕き、ありのままの私たちを丸ごと受け入れてくださると。
つまり、イエス・キリストを信じる者は心の思いにおいて、行いにおいてどのような罪をなしたとしても、神様から責められたり、非難されたり感じたりする必要はない。むしろそうした思いから自由にされるためにキリストが死んでくださったことを思い起こすべきでした。
しかし、そうだとすると人間は罪をいい加減に考えるようにならないかと言う人もあるでしょう。けれども、聖書は私たちが神様の愛を実感すればするほど、真剣に自分の罪に向き合い、悔い改めることができると教えているのです。

ローマ24「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことを知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」

ここで聖書ははっきりと語っています。神様の慈愛こそが私たちが罪を真剣に悔い、悲しみ、神様の喜ばれる生き方へと立ちかえらせる力があると。
私たち親はしばしば悪戯をした子どもに向かって「絶対にお父さんは怒らないから、本当のことを言ってごらん。」と言うことがあります。しかし、そういう親の眼が既に怒っていて、子どももそれを感じているので本当のことを言わないし、言えません。
神学生の時代、私が奉仕していた教会の崔先生という牧師は、信徒の方々に「愛と祈りの人」として信頼されていました。多くの人が「崔先生の怒った顔、イライラしている顔を見たことがない。崔先生の前に出てその顔を見ると、どんなに自分のことを心配しているか、どれ程自分のために祈ってくれているかが伝わってくるので、つい本当のことを言ってしまう」と語ってくれました。
神様はあるいはこの人はあるがままの自分を受け入れてもらっていると安心してこそ、私たちは自分の罪について真剣に考え、それを悲しみ、正直に告白できる。まさに慈愛と忍耐と寛容の力ここにありでした。
さらに、因果応報という考え方が古今東西人間の心には共通して染み込んでいます。因果応報、病気や苦しみはその人の罪、悪い行いへの報い、罰として与えられるものという考え方です。
しかし、イエス・キリストを信じる者に与えられる病や苦難は罪に対する罰ではない。それは、神様の愛から生まれた試練であり、訓練であると聖書は語ります。

ヘブル1258「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れているのです。「我が子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、本当の子ではないのです。」

病や苦難を罪に対する罰あるいは不幸な出来事ととらえるか、反対に神様に本当の子どもとして愛されているが故の試練、訓練と考えるか。二つの人生観のどちらを選ぶかは、私たちの生き方を大きく左右します。
神様に義と認められ、丸ごとこの存在を受け入れてもらっていることは、神の子とされたこと。人間の父親であっても我が子には良いものを与えようとするとすれば、まして父なる神様はその愛から出る良きもののみ私たちに与えるはず。
罪人の私たちが義と認められたことは、神様は何があっても完全に愛してくださる方だと言うこと、その愛から生まれるものだけを私たちは受け取る者とされた。この信仰に立つ時、私たちは罪責から自由にされる。この様な歩みを進めてゆきたいと思います。
二つ目は、律法主義的な生き方からの自由です。先ほど読んでいただいた聖書ガラテヤ人への手紙の中で、ガラテヤ教会の人々は「…しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」と教えられています。何故でしょうか?
聖書は「救われるために律法を行う必要はない。イエス・キリストを信じるだけで人は救われる」と一貫して教えています。いわゆる信仰による救い、キリストへの信仰のみによる救いです。
ガラテヤ教会の人々も最初はこの教えを信じていました。しかし、律法特にユダヤ人が重んじていた割礼の儀式を守らなければ、キリストを信じるだけでは救われないと主張する人々の影響を受け、非常に動揺していたらしいのです。
つまり割礼を受けねば救われないと考え、割礼と言う奴隷のくびき、主人から命じられたなすべき行いを重荷として負うことになりました。
キリスト教以外のこの世のあらゆる宗教がそうであるように、神様から離れた人間は本能的に律法を守ること、儀式を正しく行うこと、禁欲的な修行をすることによって神的な存在から認められると考えてきました。
ガラテヤ教会の人々はせっかくイエス・キリストを信じて律法主義から自由にされたのに、いつの間にか律法や儀式を重荷として背負う生き方へと戻る道を歩み始めたのです。
この生き方の特徴は律法を守ることに失敗したり、なすべきことをしないと神様に愛されないと思うこと、心に平安がないこと。動機よりも行いやかたち、つまり見た目を重視するので、心にあるのはやりたくないのにやらされているという義務感ばかりで喜びが無いこと。
そして、自分の規準に合わない人、自分の思うように行動しない人、愛してくれない人を感情的に責めること。すなわち、自分が自由を感じていないので、人の自由も認めず、人に批判的なことです。
まさにこの様な生き方の典型的な例が、イエス・キリストのお話に登場するパリサイ人でした。彼は神殿に神に祈る時、隣にいる収税人を意識し、見下してこう祈っています。

ルカ18912「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは収税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。神よ。私は他の人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの収税人のようではないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」」
世間的に見ればパリサイ人は品行方正な紳士。週に二度断食し、十分の一献金をささげる良い行いの人。対照的に収税人はパリサイ人が言うとおり、人を強請り、不正を働き、姦淫をなす罪人、悪行の人でした。
しかし、人の眼から見れば正しい行いの人パリサイ人も心の中はと言うと収税人を見下し、裁判官の如く人をさばくという高慢の塊。行いは正しくとも心は酷い。それに対し収税人は自分の行いも心の中も罪の塊であることを認め、悲しみ、神様のあわれみを請い願うばかり。
神様の眼から見れば収税人は文句なく義人で、自分の行いにより頼み、神様により頼む心なきパリサイ人は律法主義で高慢の塊。到底義とすることはできない人でした。
しかし、これは他人事ではありません。律法主義という重荷を負って、それを守れなければ不安に陥り、それを守ったら守ったで高慢という神様の最も嫌われる罪の持ち主になってしまう。
イエス・キリストを信じ、神様の愛に憩う自由はこの様な生き方から私たちを解放してくれるものであることを確認したいと思います。
そして三つ目は、罪の支配からの自由です。イエス・キリストを信じる者は罪の支配の下になく、恵みの支配の下にあることを皆様は知っているでしょうか。

ローマ614「というのは、罪はあなた方を支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」

イエス・キリストを信じる前、私たちは罪の支配の下にいました。罪という巨大な力を持つ手の中に握られ、がんじがらめになり、逃れることができない状態です。しかし、キリストを信じた今、私たちは罪よりもはるかに強力な神様の恵みの御手の中にしっかりと握られ、堅く守られている状態にあるということです。
もちろん地上にある限り、罪は執拗に誘惑し、私たちは恵みの中から引きずり出そうとしますが、神様の恵みの御手は絶対的に私たちを守ってくださる。このことを皆様は信じているでしょうか。
そして、この恵みのもとで、私たちに与えられた自由は心から義つまり神様の御心、律法を選び、愛する自由、神様に喜ばれる生き方をしたいと願う自由です。

ローマ610,11「何故なら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからでです。このように、あなたがたも、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思いなさい。」

イエス・キリストはただ一度罪を背負い、罪に対して死なれ、神様に対して生きるために復活されました。二千年前のことです。そして、イエス・キリストを信じる私たちもキリストと同じく、罪に対して死んで罪の支配から自由になり、神に対して生きる者とされたのです。神様の子どもとして、神様とともに、神様のために生きることを選ぶ自由を与えられました。
十字架刑を前にした夜。ゲッセマネの園で父なる神様に祈るイエス・キリストの姿を思い出してください。イエス・キリストは十字架にかかることを望まないと言いました。 
十字架において私たちの代わりに神様の罰を受け、神様から見捨てられるわけですから、イエス・キリストがこれを恐れ、苦しみ、拒んだのは当然の事だったと思われます。
しかし、父なる神様との祈りと交わりの中で、自分が本当に成し遂げたいことに気がついたキリストは自ら、そして自由な心で十字架の死を選びました。贖いの死を遂げることで私たち罪人を罪から救うこと。それが、父なる神様の御心であり、イエス・キリストが本当に心から成し遂げたいことだったのです。
今この瞬間にはしたくないと思う困難なこと、それを願わないような苦しいことであっても、本当に心から成し遂げたいと思うことのために忍耐する自由。この様な自由を私たちにもたらすため、キリストは十字架に死なれたことを心に刻みたいのです。
最後に、このような自由において成長、成熟するためにお勧めしたいことがあります。
第一に、神様との関係を深めることです。神様との父と子の関係、神様の友としての交わり。それが本当にすばらしく、心励まされるので、私たちはもっとキリストに似た者となることを願い、神様を悲しませる罪を犯したくはないと思うようになります。
キリストに似た者になるべし、罪は犯すまじという重い義務感ではなく、こころからそうなりたい、そうしたくはないと思うところに自由があり、喜びがあります。
第二は、神の家族である教会の兄弟姉妹との関係を深めることです。ある人を愛し、信頼関係で繋がっている時、私たちはその人を傷つけたいとは思いません。その様な兄弟姉妹に対する愛が、私たちの罪の思いや行動にブレーキをかけ、正しい思いや行動をとるよう促してくれるのです。
私たちはただひとりでキリストから頂いた尊い自由を活用し、成長することはできない存在です。神様との関係を深めること、兄弟姉妹との関係を深めることが大いなる助けになることを覚え、信仰生活を歩んでゆきたいと思います。

ヨハネ831,32「…もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたは本当にわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」