三週間前の日曜日。四日市教会での礼拝、鈴鹿教会での礼拝を終えて家に帰りますと、風邪の症状で寝込むことになりました。熱と腹痛、お腹を下している状態が続き、丸二日間、何も食べることが出来ない状態。脱水症状にならないように、水を飲むのですが、水が腸にいくと、腸が痛む。水を飲むのも怖いという状態でした。車を運転することも出来ず、妻に病院に連れて行ってもらい、軽い脱水症状ということで点滴がうたれ、薬を貰って帰りました。その段階で、ひどい風邪だと思っていたのですが、後日病院から電話があり、検査結果が出たので受診して下さいとのこと。行ってみますと、食中毒でした。お医者さんに、何か心当たりはありますかと聞かれるのですが、何も心当たりがない。同じ物を食べているはずの家族や教会の人でも、誰からも聞かない。未だに原因が分からない状況です。
食中毒になりまして、生まれて初めて、水でもお腹が痛くなることを経験しました。食べ物は勿論、水分を取ることも大変という状況が、どれ程大変なのか。症状が出ている二日間も大変でしたが、その後数日間は、体力が落ちているためか、何かと力が出ない。それも大変でした。
体に必要な食べ物、水分をとることが出来ない。その大変さを味わって、ふと考えたのは、これまで自分は、霊に必要な糧、神様のことばである聖書を読まない時に、同じように苦しんできたのか。自分の霊の状態に注意を払ってきただろうかということです。心のどこかで、食べ物、水分をとれないことは大変なこと。聖書を読まないのは、さしたる問題ではないと、思っていないだろうか。そうは思っていなくとも、実際の生き方は、聖書を後回しにする生き方となっていないだろうかと考えることになりました。いかがでしょうか。皆様は、御言葉に対する飢え渇きをどれ程感じて生きているでしょうか。もっと聖書のことを知りたい。もっと神様のことを知りたいという思いを、持って生きているでしょうか。
聖書の中には、食べ物の飢饉よりも、恐ろしい出来事として、次のような言葉があります。
アモス8章11節
「見よ。その日が来る。――神である主の御告げ。――その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」
食べ物の飢饉よりも、神のことばの飢饉の方が、より恐ろしいもの。しかし、それよりも恐ろしいのは、神のことばをとらないでも大丈夫と考えること。御言葉への飢え渇きを感じなくなっている状況ではないかと思います。果たして、私たちは大丈夫でしょうか。
私自身も含め、愛する四日市キリスト教会が聖書を読むことで強き教会となるように。聖書を読むことにより取り組む教会でありたいと願い、私の説教の際、断続的に一書説教を取り組んでいます。今日は十二回目。旧約聖書、第十二の巻、第二列王記を見ていきたいと思います。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。
さて、第二列王記を確認する前に、これまでの流れを確認しておきたいと思います。旧約聖書を読み進める上で、覚えておきたい考え方の一つは「神の民」というものです。
人間が神様を無視するようになった結果、この世界は悲惨な状態になりました。ひどい状態になった世界を、良い状態にするために神様がとられた基本的な方針は、神の民を通して世界を良くするというもの。自分が中心、自分の好きなように生きることが最善とする世界にあって、本来の人間のあるべき生き方。神様とどのような関係にあるべきなのかを示していく。それが神の民の使命であり、そのようにして世界を良くしていくのです。
この神の民の使命は、最初アブラハムに与えられ、その子孫に引き継がれました。(今や、キリストを信じる私たちに、この使命が与えられています。)旧約聖書第一巻、創世記の終わりの段階では、神の民は七十名。それ以降、神の民はイスラエル民族として、増え広がります。このイスラエル民族が王国を建て上げ、その歴史が記されているのが、列王記でした。
前回確認した第一列王記では、王国が南北に分裂。神様はダビデの王座が続くことを約束されていましたが、ダビデの子孫が王となるのは南側の王国。南ユダです。北側の王国は、代々の王が、聖書の教えから外れた自分勝手な礼拝方式(ヤロブアムの罪)を繰り返すことになる。その都度、預言者を通して警告されるも、神の民として使命を果たさない状態が続くと、裁きが下され、王が変わります。北側の王国、北イスラエルは続々と王が変わる歴史。中でも、アハブという王は、自分勝手な礼拝方式どころか、聖書の神を信ずることをせず、その地方の神、バアル宗教を取り入れた人物で、最悪の王として評されていました。第一列王記の後半は、そのアハブ王と、預言者エリヤとのやりとりが中心。最後は、アハブ王の死をもって、第一列王記が閉じられていました。第二列王記は、その続きからとなります。
前半は預言者エリヤの後継者、エリシャの活躍。中盤は北イスラエルへの裁き、アッシリア捕囚。後半は南ユダへの裁き、バビロン捕囚となります。
前半、エリシャの活躍から確認します。
神の民として使命が与えられていたイスラエル王国。もしイスラエル王国が神の民として使命を果たさない時、それを戒めるのは、預言者の役割でした。第一列王記で大いに活躍したエリヤの後継者として、エリシャが立てられ、エリシャの活躍する場面が前半に出てきます。そのエピソードはユニークなものが多数。
預言者の仲間と食事をする時、誤って毒草が入ってしまった時。エリシャの働きによって、食べても大丈夫なものとする。預言者仲間が木を切り倒している時、人から借りていた斧をヨルダン川に落としてしまう。その斧をエリシャの働きによって、浮かび上がらせる。預言者仲間が死に、その家族が貧しくて大変なところを助ける。など、国を左右する話しではない。牧歌的、家庭的、個人的な活躍の記録。エリシャを身近に感じさせるエピソードも多数あります。
中には、これは一体どういうことなのか、と頭を捻るような記録もありました。
Ⅱ列王記2章23節~24節
「エリシャはそこからベテルへ上って行った。彼が道を上って行くと、この町から小さい子どもたちが出て来て、彼をからかって、『上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭。』と言ったので、彼は振り向いて、彼らをにらみ、主の名によって彼らをのろった。すると、森の中から二頭の雌熊が出て来て、彼らのうち、四十二人の子どもをかき裂いた。」
エリシャを馬鹿にした子どもたちに、エリシャの呪いの言葉が下ると、子どもたちは熊に殺されたという記録。エリシャは怒りやすかったのか。子どもの言葉に、そこまでしなくてもと感じるところ。一応解説しますと、この小さな子どもと訳されている言葉は、結婚適齢期の者にも使われる言葉。そしてベテルと言えば、金の子牛が置かれていたところで、真の預言者に対する反抗が強い地域と考えられます。つまり、真の預言者を排除しようと集まった者たちに対する、神様の裁きの場面と見ることが出来ます。
小さな出来事、不思議な出来事も多くあるエリシャですが、王を相手に活躍する場面。大きな奇跡を起こす記録も多くあります。死人を蘇らせる奇跡。異国の将軍、ナアマンの癒しの奇跡。王に対する助言や裁きの言葉。戦を勝利に導く記録などなど。第二列王記の前半は、王の記録よりも、預言者エリシャの記録の方が多く記されています。
神様に従わない者たちに対して、神様は預言者を通して語りかけます。エリシャの活躍を通して、不従順な者たちに、なおも語りかける神様の姿を見ていきたいと思います。
第二列王記の中盤は、南北の王の記録。あのアハブが死んだ後、イゼベルや北イスラエルがどのようになったのか。アハブ、イゼベルの影響が南ユダにも来ている、アタルヤ王権の記録。重要な記録がいくつか出てきます。中でも特に覚えておきたいのは、北イスラエルが滅ぼされるという記録。北イスラエルに対する裁き、アッシリア捕囚という事件です。
Ⅱ列王記17章5節~8節
「アッシリヤの王はこの国全土に攻め上り、サマリヤに攻め上って、三年間これを包囲した。ホセアの第九年に、アッシリヤの王はサマリヤを取り、イスラエル人をアッシリヤに捕え移し、彼らをハラフと、ハボル、すなわちゴザンの川のほとり、メディヤの町々に住ませた。こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王パロの支配下から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである。」
イスラエル王国のあったカナン地方は、南(南西)にエジプト。北(北東)にアッシリア。(後の時代には、バビロンとなります。)二つの強国に挟まれた地域で、絶えず緊張関係がありました。北イスラエル、南ユダの王たちは、時にアッシリアに貢物を送ることもありました。
この時のアッシリアの王シャルマヌエセルは、紀元前720年頃の王。北イスラエル最後の王、ホセアがアッシリアに貢物をしなくなったために、首都セマリヤを包囲し攻め落としたといいます。シャルマヌエセルにとっての理由は、貢物が無くなったからですが、聖書はもう一つの視点からこの出来事を捉えています。
神の民として、本来あるべき生き方を示す使命が与えられていたはずのイスラエル王国。ところが、あるべき生き方を示すどころか、異教の風習、その地方の風習を取り入れた。その使命とは正反対の生き方となった。これまで何度も預言者を通して警告が出されたにも関わらず、変わることのない北イスラエルへの裁きとして、このアッシリア捕囚が起こったというのです。
新約の時代。神の民の使命を「地の塩」と表現し、もし神の民が使命を果たさなくなると、それは何を意味するのか。イエス様が語られた言葉が響いてくる場面。
マタイ5章13節
「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」
神の民の使命を果たさなくなった北イスラエルは、アッシリアに負けました。アッシリアに負け、捕えられた。これには、重大な意味がありました。アッシリアは、捕えた者たちを、支配している地域の様々な場所に住まわせることをします。仮に今の時代、アッシリアが、東アジアを支配したとします。捕えられた私たちのうち、ある者は韓国に、ある者は北朝鮮に、ある者は中国に住まわされることに。日本には、韓国の、北朝鮮の、あるいは中国の人たちが移住してきます。すると何が起こるのか。文化が入り混じり、次第に民族のアイデンティティが失われていくことになります。
例えば、ある日本人男性が捕えられて、韓国に住むことに。そこには中国から移住させられた女性がいて結婚。子どもが生まれたとします。その子は、アッシリアの支配国にある韓国の土地に住む、日本と中国の文化を持つ子となります。その子は自分を何人と考えるのか。
アッシリアは支配国に対して、このような政策をとりました。何故か。民族のアイデンティティを失うと、支配国に対して歯向かうことが無くなるからです。自分は何人で、自分の土地はここであるということがないと、反抗する力がなくなる。それを見越しての政策。恐ろしい政策でした。
北イスラエルはアッシリアに負け、捕えられました。それはつまり、神の民としてのアイデンティティが失われることになるのです。イスラエル十二部族のうち、多くの部族が、ここで失われることになる。残念無念。神の民として使命を持つ者たちは、南ユダに住む者たちとなるのです。
このアッシリアは、北イスラエルを滅ぼして終わりではなく、南ユダにも攻め込んできます。北イスラエルが滅ぼされ、強国アッシリアにエルサレムが包囲される。絶体絶命の場面。列王記の中でも、最も印象的な場面の一つ。
アッシリアの将軍、ラブ・シャケの口上。それに対する、南ユダの王ヒゼキヤ。ヒゼキヤに与する預言者イザヤ。アッシリアが攻め込んで来た時、南ユダの王が善王で知られるヒゼキヤで良かったと思うところ。果たして何が起こるのか。是非、聖書で確認して頂きたいと思います。(この出来事は、歴代誌でも、イザヤ書にも記されている。当時の人たちにとって、余程の大事件であったことが分かります。)
こうして北イスラエルは滅び、南ユダは生き残ることになる。ここまで北、南と交互にその記録を記してきた列王記ですが、後半は南ユダの王たちの記録となります。
南ユダの王にも、いくつか王が立ちますが、特筆すべきはマナセという王。アッシリアを退けた善王ヒゼキヤの子でありながら、聖書の観点からは最悪の王。それも五十五年という長きに渡って、南ユダに悪影響を与えます。何をしたのか。
Ⅱ列王記21章2~3、6、9節
「彼は、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行なった。彼は、父ヒゼキヤが打ちこわした高き所を築き直し、バアルのために祭壇を立て、イスラエルの王アハブがしたようにアシェラ像を造り、天の万象を拝み、これに仕えた。・・・また、自分の子どもに火の中をくぐらせ、卜占をし、まじないをし、霊媒や口寄せをして、主の目の前に悪を行ない、主の怒りを引き起こした。・・・マナセは彼らを迷わせて、主がイスラエル人の前で根絶やしにされた異邦人よりも、さらに悪いことを行なわせた。」
このマナセの為したことは、かつてカナンにいた異教の者たちよりも更に悪いとされ(21章11節)、明確に裁きの宣告がされます。このマナセの後に、善王として名高いヨシヤ王が生まれ、南ユダに対して、もう一度神様に従うようにと取り組みがなされます。聖書はヨシヤの働きを大きく評価するも、それでもこのマナセの悪の故に、裁きが実行されることが宣せられるのです。
Ⅱ列王記23章25~26節
「ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった。それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行ないのために、主はユダに向けて燃やされた激しい怒りを静めようとはされなかった。」
南ユダに対する裁きは、アッシリアに代わってその地方に力を持つようになっていたバビロンによる裁きとして行われます。バビロン捕囚という事件です。第二列王記の最後は、南ユダがバビロンに滅ぼされ、捕えられるところで終わりとなります。既に北イスラエルが滅び、神の民として残っているのは南ユダのみ。その南ユダも滅ぼされることになる。
果たして神の民の使命は、これから誰が担っていくのか。ダビデの王座は続くとの約束は、どうなるのかという場面。
大事な点は、南ユダを滅ぼしたのがバビロンだったということです。アッシリアは先に言いましたように、捕虜とした民に対して、民族としてのアイデンティティを失うような政策をとりました。バビロンはそのようなことはせず、捕虜のうち優秀な者たちを自国に連れていき、奴隷として扱うことをします。つまり、南ユダの者たちは、約束の地を離れることになりますが、バビロンで神の民として生きることになる。神の民としてのアイデンティティは失われずに済むのです。列王記以降の神の民の歴史は、王国としての歴史でなく、捕囚の民として、バビロンでの生活、またそこからカナンの地に戻ってくる歴史となるのですが、詳しくは続く歴史書で見ることになります。
以上、第二列王記を概観しました。第二列王記に流れているテーマは何でしょうか。どのようなことを汲み取れば良いでしょうか。実に多くのことが教えられます。神様が歴史を支配されていること。義なる神様は、罪を見過ごすのではなく、裁きをもたらす方であること。しかしそれは、度重なる警告や注意があってのこと。更には、その裁きの中にも、神の民が生き残る道が用意されている。恵みの、救いの神様の姿を見ることが出来ます。
中でも特に覚えておきたのは、神の民に与えられている使命の重要性です。イスラエルの民が、エジプトを脱出し、約束の地カナンに定住するようになる。その地で増え広がり、王国が建てられた。それは何のためかと言えば、イスラエルが神の民として使命を果たすためでした。その生活を通して、人間のあるべき生き方、神様とのあるべき関係を示していく。そのために、約束の地が与えられ、王国が建てられていく歴史があったのです。
それにもかかわらず、神の民の使命を果たさないイスラエルの民。その不従順の結果、どうなったのかと言えば、アッシリア捕囚、バビロン捕囚という裁きとなりました。
旧約の時代、神の民としての使命は、アブラハムの子孫。イスラエル民族に与えられたものでした。今の時代、神の民としての使命は、キリストを信じる者、私たちに与えられている使命です。(ガラテヤ3章7節)私たちが罪から贖われるために、イエス・キリストが十字架にかかり、復活された。その救いの御業によって、私たちは永遠の命を頂き、神の民としての使命を頂きました。私たちが、神の民の使命を果たさないとしたら、それはキリストの贖いの御業をないがしろにする生き方になっている。どれ程、父なる神様を悲しませる歩みとなるのか。
私たちは今一度、イエス様の大きな犠牲によって救われたこと。その救いによって、神の民としての使命。人間のあるべき生き方、あるべき神様との関係の持ち方を、示していく使命を頂いたことを再確認し、皆で励まし合い、祈り合い、支え合いながら、その使命を全うしていきたいと思います。
今日の聖句です。ペテロの手紙第一2章9節
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」