今日はウェルカム礼拝です。テーマは「ともに輝く」。夫婦、親子、友人、職場の同僚など、ともに生きることで輝く関係とはどのような関係なのか。どのような間柄であってもともにお互いが輝くような関係を築くためにはどうすればよいのか。今日は特に結婚関係を中心に考えてみたいと思います。
この夏本当に久しぶりに、もしかすると結婚して以来かもしれませんが、私は新婚旅行の写真を見る機会がありました。そして驚きました。写真に映っていた妻が何と可愛らしかったことか。
皆様、可愛らしかったという過去形に特に意図はありませんので、ご注意ください。現在妻は50代半ば。50代は50代なりの可愛らしさがあると私は心から感じています。ただ昔のような新鮮な感動を久しく忘れていたので驚いたということでしょうか。
しかし、私たちの新婚旅行は楽しいだけではありませんでした。初めての夫婦喧嘩、第一次世界大戦の場でもありました。
私はせっかく旅行に来たのだから色々な所を見て歩きたいタイプ。事前にガイドブックを読んでスケジュールを立て、そのスケジュール通りにきっちり動きたい、動けないとストレスを感じるというタイプでした。
それに対して妻はゆったり派。せっかく旅行に来たのだから時間など気にせずゆっくりしたいタイプ。ですから、何度も朝の出発時間を念押ししておいても、絶対に時間通りには出発できない。ゆっくり食べ、ゆっくり見物し、ゆっくり歩いて、スケジュールなどどこ吹く風、まったく関心がないように見える。
そんな妻にイライラし、長崎に着いた時には風邪を引いてしまったため念願の本場長崎ちゃんぽんに箸もつけられず。そんなこんなで堪忍袋の緒が切れたと言うわけです。
つい二三日前には、神様の前に生涯愛することを誓ったはずの女性に、「なんて奴だ」と怒り、イライラする。可愛らしく感じたり、腹が立ったり。そんなややこしい結婚というものをどうして人間は願い、求めるのか。
「人間はひとりでは人間ではない。」詩人テニスンのことばです。共に協力して何かを成し遂げたり、心の絆を感じたり、共に生活する相手を持たないと人間は寂しい存在だ、ということです。
実は、聖書も同じことを教えています。この世界を創造した始めの時、すべてのものを造り終えた神様は「非常に良い」と思われたとあります。しかし、ただひとつ良くないと言われたことがありました。それは何でしょうか。
創世記2:18「神である主は仰せられた。『人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。』」
最初の人アダムは神様に愛されていました。食べ物や豊かな土地にも恵まれていました。生きがいのある仕事に励んでいました。
しかし、食べる物に事欠かず、やりがいのある仕事を持つだけでは何か物足りないことを、神様はアダムに気づかせたのです。
もっと親しい友を、人間のことば人間の感情で語り合い、喜怒哀楽を対等に、ともに分かち合える友、自分にないものをもって豊かにしてくれる人生のパートナーがいてくれたら。そんな願いを抱くようになったアダムのために造られたのが女性エバであり、ふたりは愛し合う夫婦となりました。
つまり、私たちは他の人と愛し合う交わりの中にある時、人間として最高の喜びを感じるよう神様に造られた存在と、聖書は教えているのです。皆様はこのことを自覚しているでしょうか。
私は食べることが大好きです。いつか私が四日市で一番美味しいと思うラーメン屋とうどん屋を説教で紹介したことがありますが、「山崎先生、この間行っていたラーメン屋に行ってきました。本当に美味しかったです。」と言ってくれた兄弟姉妹が何人かいます。
そのことばを聞いた瞬間、その人が大好きになりました。この人は友達になれると思いました。ちなみに、私の妻は外食と言うと余りにもその店ばかり私が誘うので、「良いわよ」と口では言いますが、目は「またか」と明らかに呆れています。共感不能のレベルです。
しかし、自分の大好きなものに共感してくれる人がいる。これが交わりです。今度は、是非一緒に店に行って実物を食べながら、もっと詳しくその店のラーメンを賞賛し合い、喜びを分かち合えたらと思っています。
一人で食べても美味しいラーメンは間違いなく美味しいでしょう。しかし、その美味しさを語り合い、喜び合える人と食べたら、その美味しさは二倍、三倍。どうでも良い例かもしれませんが、人間は思いを分かち合うため、共感するため、交わるために神様に造られた者ということを確認できると思います。
しかし、そうだとすれば、親子が対立し、夫婦が憎みあい、昨日の友が今日の敵となるという現実は、どうしてなのでしょうか。
聖書は、愛の源である神様に人間が背き、離れて生きるようになったからと語ります。神様から離れた人間の愛は歪んでしまった、あるいは正しく愛する能力を失ったのです。
その愛の歪みは、人間が人格でないものを愛するようになったことに現れています。人格でないものとは、お金、地位、能力、容姿などです。
もちろん、聖書はそれらのものに意味があることを教えています。お金や地位は私たちが努力した結果として神様から受け取るべきもの、能力や容姿の神様からの賜物と言う一面があります。
問題はそれらのものを愛する時、本来ならお金や地位や能力を使いこなす主人であるべき人間が、それらの奴隷となったり、悪用したりすることです。
お金を溜め込むことを人生の目的として、人を助けるために使おうなどとは考えない貪欲。社会的地位を悪用して、弱き立場にある者を苦しめるパワハラ。能力や容姿に秀でているというだけで上から目線になる高慢。
これらが、いかに夫婦や親子、社会の隣人関係を壊すものか。私たちは嫌と言うほどそれを見、聞きますし、自分の心の中にもその様な悪しき思いがあることを感じます。
また、正しく愛する能力を失った私たちの愛は自己中心的です。自分にとってこの人の友人となること、あるいは結婚することは得か損か。この人と関わることは、自分にとって有利か不利か。いつもその様に考え行動する者は、人を心から愛する能力を失ってしまうということです。
ギリシャ神話に登場する美少年ナルシスのお話を思い出します。ナルシスは自分を満足させてくれない女性の愛を退けた罰として、自分しか愛せない者となります。
ある日、池のほとりに立ったナルシスは水面に映る人間、つまり自分の美しさに目を奪われます。自分のことばかりを見、思い、愛するナルシスはとうとうその場から動けなくなり、一本の水仙の花となってしまったというお話です。
ナルシストはこのナルシスから来たことばで、自己愛の人という意味です。ナルシスは極端な例かもしれません。しかし、自分を満足させること、自分の財産や立場、自分に対する人の評価を気にするばかりの人は、いつしか人間らしい心を失ってしまうということは事実でしょう。自己中心の愛、これも私たちが愛し合う関係を築く時の大きな問題でした。
そして、正しく愛する能力を失った人間は相手を支配し、自分の思い通りにしようとします。
「火の鳥」という手塚治虫の漫画に、猿田博士という鼻が以上に大きな人物が登場します。自分は醜い顔の男で、女性に愛されるはずがないという劣等感を抱く博士は、その天才的頭脳を使って、自分が言って欲しいことを言って欲しい時に言ってくれる女性のロボットを作ることに成功します。
「ご主人様、あなたは天才です。」「ご主人様、私はあなたが好きです。」その様に言われて最初は喜んでいた博士ですが、その様にしか応えられないように作られたロボット相手の生活が虚しくなり、壊してしまうと言うお話です。
愛すると言うことは、自由な心から生まれてくる思いであり、行動です。相手にコントロールされて「ノー」を言えず、「愛している」としか言えないのは愛ではありません。自由に「ノー」を言えない関係から、心から愛し合う関係は生まれてこないということです。
イエス様は、私たち人間の中に感情的に責めることで、相手を自分の思い通りにしようとする傾向があることを見抜き、それでは愛し合う交わりは築けないことを教えています。
マタイ7:1,2「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなた方も量られるからです。」
ここで言われる「さばく」というのは、感情的になり、イライラして相手を責めることです。大抵の場合、私たちが相手を責める時、夫婦で言えば夫が妻を、妻が夫を責める時、夫々が自分は正しいことを言っている、指摘しているだけだと思っています。自分が間違っているなどとは思いません。
つまり、夫は妻が自分を愛しているならこうあるべき、妻は妻で夫が自分を愛しているならこうするべきという基準が心の中にあり、その枠の中に相手を入れようとする、しかし相手は思うとおりにならない、その為にイライラし責めることになるのです。
同じ責めるにしても、理屈で責める、黙り込む、無視する、わざと不機嫌な態度をとる、物に当り散らすなど、各々のタイプがあるでしょう。
しかし、イエス・キリストは、あなたが相手を責めるなら、相手もあなたを責め返してくるだけのこと。間違っても心から謝ったり、感謝されたりすることはありえない、責めることは相手の怒りに油を注ぐだけと教えています。
あなたの言っていることが正しくとも、腹を立て責めるあなたの態度の方が、相手の欠点や失敗よりも余程大きな問題であることに気がつきなさいと言われるのです。
夫婦喧嘩をおさめ、愛し合う関係を築くためには、自分の態度のひどさに気づき、悔い改め、自分の本当の思いを柔和な態度で伝えること。これがイエス・キリストの教える愛でした。
「結婚前には眼を大きく開き、結婚してからは片眼を閉じよ。」という名言があります。毎日生活を共にする中で、相手の弱さや欠点が目に付くのは当然でしょう。だからこそ、相手の弱さや欠点には肩眼を閉じるぐらいの寛容な心が必要との教えでした。
仕事をすればするほど収入は増えるかもしれませんし、地位も挙がる可能性が高いでしょう。才能も磨けば磨くほど、成績が向上したり、仕事の成果が上がってゆくものです。
しかし、私たちの貪欲や高慢、自己中心的な愛し方、イライラして人を責めてしまう態度などを修正、改善するのは簡単なことではありません。いや、聖書は、自分の努力でどうにかなるような問題ではないと教えているのです。
ですから、聖書が示す解決方法は、イエス・キリストを信じて神様のいのち、すなわち正しく愛する能力を受け取ることでした。
Ⅰヨハネ4:9「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。」
イエス・キリストを信じるとは、自分の愛が歪んでいて、自分の努力で修正できないと認めること。神のひとり子イエス・キリストがそのゆがみ、聖書で言う罪のために十字架で死んでくださったと信じることです。
私たちは自分の力で愛というエネルギーを生み出すことも、蓄えることもできない存在です。エネルギーを生み出すことも蓄えることもできない電池がものを動かすことができないように、愛を自家発電できない私たちは愛をもって行動することができません。
しかし、ただひとつ私たちを愛に向けて動かすことのできるものがあります。それがご自分のひとり子を私たちの罪のために十字架に死なせたほどに私たちの存在を大切に思う、神様の愛です。
神様を離れ、神様を無視して生きている私たちがもう一度正しく愛する能力を回復できるように、もっとも大切なイエス・キリストを十字架に犠牲にされた神様の愛こそが、正しい愛を教え、正しい愛の実践に向けて私たちの心を動かすエネルギーであることを知っていただきたいと思います。
愛することに近道はありません。愛について聖書に学ぶ、愛を実行する、失敗する、神様の愛を受け取る。この繰り返しです。結婚生活は愛することを学ぶために神様が備えてくれた学校と言えるかもしれません。
しかし、安心してください。神様は私たちが何度愛することにおいて失敗しても、ひどい失敗を犯しても、私たちを赦し、責めず、私たちの存在を丸ごと受け入れてくださるお方です。私たちのすべてを知りながら、私たちの存在を喜び、受け入れ、私たちが何度でも愛することに取り組むよう励ましてくださるお方なのです。
皆様が本当に愛し合う夫婦また親子になりたいと願うなら、お互いに尊敬しあう友情を育てたいと思うなら、この神様の愛を受け取ることをお勧めします。