今日は、イエス・キリストが「ご自分が誰であるか」を証しされるそのお姿を読み進めます。時は紀元30年頃、季節は秋。場所はユダヤの都エルサレムにある神殿の庭。ギリシャ語で「エゴー・エイミ」、「わたしは~である」を意味する独特の言い方でご自分を紹介するイエス様、それに対しユダヤ教指導者たちが声を荒げて反対する、その様子を群集が固唾を飲んで見つめる。そんな場面が続きます。
「わたしはいのちのパンです。」「わたしは羊の門です。」「わたしはよみがえりです。いのちです。」等、次々とご自分について紹介する、証しするイエス様の姿は他の福音書には見られないヨハネの福音書の際立った特徴でした。
今日の箇所もそのひとつ、「わたしは世の光です」とのイエス様の証しとそれに対するユダヤ教指導者たちの悪口の嵐、ことば尻をとらえての反対、ついには怒りを抑えきれず石を投げつけ殺そうとするという、緊張で息詰まるような場面です。
8:48「ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。『私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。』」
この直前の場面、ユダヤ教指導者たちはイエス様から「あなたがたがわたしを信じないのは、あなたがたが神から出た者ではないからだ」と言われ、プライドをへし折られました。群衆の見ている前で、土俵際に追い詰められたのです。
しかし、議論ではかなわないと思ったのでしょうか。彼らは「あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか」と罵りました。
サマリヤ人は元々ユダヤ人とは同じ民族で仲間同士。しかし、ある時からサマリヤ人は異邦人と結婚して混血、宗教的にも異教の影響を受けた部分がありましたから、ユダヤ人はサマリヤ人を「異邦人、背教者」と見下す。そうなるとサマリヤ人も反感を抱く。両者は長く対立し続け、言わばひどい兄弟喧嘩の状態にあったのです。
ですから、当時のユダヤ人が相手に向かって「お前はサマリヤ人」と言ったら、極めつけの悪口。「悪霊につかれた者」ということばも、他の訳では「気が狂った者」と表現されています。愚にもつかない悪口も二つ並べれば効果があるとでも考えたのか、みなで一緒になってイエス様を侮辱し、数の力で圧倒しようとしました。
しかし、それに対してイエス様は怒りに駆られて言い返さず、かと言って怯むこともなく、ただご自分が何者であるかを証しされたのです。
8:49~51「イエスは答えられた。『わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。』」
ユダヤ教指導者たちが自分を卑しめたこと、侮辱したことを知りながら、イエス様は「わたしは悪霊につかれてはいません。気が狂ってはいません。」と語られたのみ。感情的になって彼らを責めることばは一切口にしませんでした。イエス様は言われたら言い返す、罵られたら罵り返す、侮辱されたらやり返すという彼らの土俵に登ることはなかったのです。
何故でしょうか。「わたしは自分の栄誉を求めていない」とイエス様は言われました。議論に勝つとか、自分のプライドや立場を守るとか、そんな自分に関する栄誉などどうでもよい。わたしが気にかけているのは父なる神様の栄誉。だから、どんな侮辱もわたしの心を挫けないし、わたしの心を傷つけたり、怒らせたりする事はできない。そんなイエス様の思いが伝わってきます。
この柔和な態度はどこから生まれてくるのか。イエス・キリストに見る本当の柔和さとは何なのか。このことは後で考えてみたいところです。
さらに、柔和な人イエス様は愛の人でもありました。自分を罵る人々に「だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることはありません。」と福音を伝えたのです。
イエス・キリストを信じる者はその生涯の罪をすべて赦されており、死後のさばきを恐れることなく安心して死を迎えることができます。また、死後の復活と天国での生活が待っていますから、死は祝福された命への出発でした。
ご自分の命を狙う人々のために福音を語るイエス様。イエス様がいかに彼らの魂の救いを願っていたか。その愛を覚えて圧倒されます。しかし、この愛もプライドを傷つけられ怒り狂う彼ら宗教指導者の心には届かなかったようです。むしろ、彼らは屁理屈をこねくり回すと、「何を偉そうに。お前は一体何様のつもりだ」と非難を浴びせました。
8:52、53「ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない。』と言うのです。あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」
「あなたが狂っていることは今こそはっきりした」と断言する彼らは、イエス様のことば尻をとらえ、捻じ曲げました。「わたしのことばを守るなら、その人は死を見ることがない」と言われたのを「死を味わうことがない」と言い変えました。肉体の死をこえる永遠の命を教えたイエス様のことばを肉体の死を経験しないなどと言う愚かなことばに変えました。そして、「先祖アブラハムも預言者たちもみな死んだと言うのに、そんな大法螺を吹くあなたは彼らよりも偉いのか、一体何者か」と嘲ったのです。
けれども、この悪意に満ちたあざけりも、イエス様の真実な証しを止めることはできなかったのです。わたしとわたしに栄光を与えてくださる父なる神様とは一心一体、お互いに良く知り合った仲。しかし、神を知っているというあなたがたは本当には神を知らないのです。なぜなら神を知る者は、わたしがしているようにそのことばを守るはずだからです。心頑なな人間のためどこまでも真実を尽くすイエス様でした。
8:54~56「イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っています。
けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」
この中の最後のことば「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです」については、少し説明が必要かもしれません。アブラハムは旧約聖書に登場するユダヤ民族の先祖で信仰の父と称され、人々の尊敬を集めていました。イエス様の時代を遡ること二千年前の人物です。
そのアブラハムが神様のことばを心に受け止め、やがて自分の子孫から救い主が生まれ人々に罪からの救いをもたらす日が来ることを信じていたことを聖書は何度も教えています。それも、その日が到来することを思うと大いに喜び、実際に救い主を近くに見て喜ぶほどに喜んでいたと、イエス様は言うのです。
別の訳には「わたしの日を見る望みに胸を打ちふるわせていた」とあります。定住の地を持たなかったアブラハム、様々な労苦に悩んだアブラハムもやがて救い主が地上に来られる日を思う時胸を打ちふるわせるほど喜んだ。
それなのに、アブラハムの子孫と言い、アブラハムを尊敬すると口にするあなたがたは救い主であるわたしを間近に見、ことばを交わしてさえいると言うのに、その恵みにまだ気がつかないとは。イエス様の残念そうなお顔が目に浮かぶようです。
しかし、それでもまだ彼らは減らず口を叩いたと言うのです。
8:57,58「そこでユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」イエスは彼らに言われた。「まことにまことにあなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」
この頃の五十歳は一般的に社会の第一線から引退、長寿の老人と見られた年齢です。宗教指導者の意図は明白でした。「あなたはまだ長寿と認められる年齢にも達していないのに、今から二千年前の人アブラハムを見たと言うんですか」。これは皮肉です。
それなのに、イエス様はこんな減らず口を叩く人々のために、またも真実を尽くし、証しをされたのです。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」「まことに、まことに」とは、本当に大切なことだからよく耳を開いて聞きなさいという合図のことばです。
「アブラハムが生まれる前から、わたしはいた」ではなく「わたしはいる」とは不思議なことばです。実はこのことば、その昔出エジプトの指導者モーセが人々が自分を信頼してくれないことに悩み、せめて神様のお名前でも知ることができればと思い、「神様、あなたのお名前を教えてください」と尋ねたのに対するお答えが元となっています。
出エジプト3:14「神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはある。』という方が、私をあなたがたのところに遣わされた。と。」」
「わたしはある」とは、何者にも造られず、支えられず、助けられず、自ら永遠に存在する者、世界の造り主それが神様のお名前、本質という意味です。
つまり、イエス様はご自分が永遠の昔から、世界が造られる前、アブラハムが生まれる前から存在し-だから「わたしはいた」ではなく「わたしはいる」となります-、この世界を造り、支配しておられる神であることを、ここに宣言したのです。
皮肉を言い放ってプライドを守ろうとするような高慢な人間のために、もったいないような尊い証し、証言でした。
しかし、この恵みの宣言も彼らには通じず、怒り頂点に達した指導者たちは燃える怒りに我を忘れ、石を手に持ってイエス様を殺そうとしたというのです。石打は当時ユダヤの死刑でしたが、これは裁判なしの暴力、リンチでした。
けれども、こうなることは分かっていたのでしょう。イエス様は忽然と彼らの前から消え去られたと言うのです。イエス様最大の使命、十字架の時は未だ来たらず。十字架にのぼり私たちの罪を贖う死を遂げるための一時的避難、奇跡的な出来事でした。
8:59「すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。」
こうして読み終えた今日の箇所。改めて考えてみたいことが二つあります。
ひとつは、イエス様の柔和さです。イエス様が今日の場面で示された柔和さとはどのようなものだったでしょうか。一般的に柔和と言うと生まれつき穏やかな性質の人、自分の考えをあまり語らない物静かな人という印象があります。
しかし、イエス様の柔和さは違いました。不当に罵られても、怒りに駆られて相手にやり返さない強さ、相手の侮辱的なことばや態度に怯んだり、傷つけられてイライラしたり、怒り出したりしない強さ、神様のためには愛をもって語るべきことを語る強さを感じます。弟子のペテロはイエス様の柔和さが余程心に残ったのか、手紙の中でこの様に書いていました。
Ⅰペテロ2:22,23「キリストは罪を犯したことが無く、その口に何の偽りも見出されませんでした。ののしられてもののしり返さず、苦しめられてもおどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」
ご自分に関することは正しくさばかれる方、父なる神様にすべてお任せしていたので、人を罵ることも、脅すこともしない柔和な態度をとることができたと言うのです。
「わたしはわたしの栄誉、権利を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます」と同じ事をイエス様も言っていました。イエス様が自分に関する栄誉、自分の立場やプライドを守る権利を捨ててかかり、人々に柔和な態度で接することができたのは、自分に関することはすべて完全に守ってくださる父なる神様に信頼していたからと知ることができます。
本当の柔和さは自分に関することはすべて完全に守ってくださる神様を信頼する心から生まれ、身につけてゆく態度であることを覚え、イエス様に倣う者となりたく思います。
次に考えたいのは、アブラハムの信仰です。アブラハムをはじめ旧約時代の人々は今の私達よりもはるかに僅かな神様のことばを通し、ぼんやりと来るべき救い主のことを知り、信じていました。それにも関らず、アブラハムは救い主を心の目で見て、大いに喜んでいたという、イエス・キリストのもたらす救いを思い、胸打ちふるわせるほど喜んでいたと言う。
同じイエス・キリストを信じる者として、いや遥かに詳しくイエス様のことを、そのみ業を、その十字架と復活を知る私たちにアブラハムの喜びがあるかと問われる思いがします。今日の聖句です。
Ⅰペテロ1:8「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」
やがて終わりの日再び地上に来られるイエス・キリストを思い喜ぶ者、今この時どこにいても、何をしていても、私たちとともにおられるイエス・キリストを心の目で見、大いに喜ぶ者となりたく思います。