2013年10月6日日曜日

ヨハネの福音書(27)/ヨハネ8:31、ガラテヤ5:1「私たちを生かす自由」

先回私たちは、イエス・キリストが「真理はあなたがたを自由にします。」と語られた場面を読み進めました。真理つまりイエス・キリストがご自身を信じる者に与えてくださる自由とは何なのか。今日は聖書全体からもう少し詳しく考えてみたいと思います。
何故なら、この自由を理解し、自由を味わっているかどうか。それで、私たちの信仰生活が随分変わってくると思われるからです。今日は、イエス・キリストのもたらす自由について三つの視点から考えてみます。
一つ目は、罪責からの自由です。私たちはイエス・キリストを信じた時から、たとえ罪を犯しても最早罪に定められたり、神様から責められることのない者とされました。というのは、キリストが私たちが受けるべき一切の罪の責めを身代わりに負われ、決着をつけてくださったからです。
言葉を変えて言えば、神様はキリストの義というレンズを通して御覧になるので、私たちは法的に最早罪人の立場にはいないのです。現実には思いにおいても行いにおいても日々罪を犯す者であるにも関わらず、神様の目には義人、義しい人だということです。
皆様は神様の眼に自分は義人であると信じているでしょうか。キリストは私たちが罪神様から義人と見られるために、十字架に死なれた。このことを信じているでしょうか。聖書にはこうあります。

Ⅱコリント521「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」

しかし、私たちをすべきことをしないと神様から非難されているように感じます。自分のしたことは罰せられても当然と考え、神様はこんな自分を愛してくれないのではないかという思いに囚われます。その様に反応する性質が身に染み付いているのです。
けれども、聖書は言います。私たちがなすべきことをしようとしまいと、神様はいつでも愛してくださる。私たちが罪にまみれ人間としてあるべき姿からどんなに落ちていても、神様は変わることなく私たちのために心砕き、ありのままの私たちを丸ごと受け入れてくださると。
つまり、イエス・キリストを信じる者は心の思いにおいて、行いにおいてどのような罪をなしたとしても、神様から責められたり、非難されたり感じたりする必要はない。むしろそうした思いから自由にされるためにキリストが死んでくださったことを思い起こすべきでした。
しかし、そうだとすると人間は罪をいい加減に考えるようにならないかと言う人もあるでしょう。けれども、聖書は私たちが神様の愛を実感すればするほど、真剣に自分の罪に向き合い、悔い改めることができると教えているのです。

ローマ24「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことを知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」

ここで聖書ははっきりと語っています。神様の慈愛こそが私たちが罪を真剣に悔い、悲しみ、神様の喜ばれる生き方へと立ちかえらせる力があると。
私たち親はしばしば悪戯をした子どもに向かって「絶対にお父さんは怒らないから、本当のことを言ってごらん。」と言うことがあります。しかし、そういう親の眼が既に怒っていて、子どももそれを感じているので本当のことを言わないし、言えません。
神学生の時代、私が奉仕していた教会の崔先生という牧師は、信徒の方々に「愛と祈りの人」として信頼されていました。多くの人が「崔先生の怒った顔、イライラしている顔を見たことがない。崔先生の前に出てその顔を見ると、どんなに自分のことを心配しているか、どれ程自分のために祈ってくれているかが伝わってくるので、つい本当のことを言ってしまう」と語ってくれました。
神様はあるいはこの人はあるがままの自分を受け入れてもらっていると安心してこそ、私たちは自分の罪について真剣に考え、それを悲しみ、正直に告白できる。まさに慈愛と忍耐と寛容の力ここにありでした。
さらに、因果応報という考え方が古今東西人間の心には共通して染み込んでいます。因果応報、病気や苦しみはその人の罪、悪い行いへの報い、罰として与えられるものという考え方です。
しかし、イエス・キリストを信じる者に与えられる病や苦難は罪に対する罰ではない。それは、神様の愛から生まれた試練であり、訓練であると聖書は語ります。

ヘブル1258「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れているのです。「我が子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、本当の子ではないのです。」

病や苦難を罪に対する罰あるいは不幸な出来事ととらえるか、反対に神様に本当の子どもとして愛されているが故の試練、訓練と考えるか。二つの人生観のどちらを選ぶかは、私たちの生き方を大きく左右します。
神様に義と認められ、丸ごとこの存在を受け入れてもらっていることは、神の子とされたこと。人間の父親であっても我が子には良いものを与えようとするとすれば、まして父なる神様はその愛から出る良きもののみ私たちに与えるはず。
罪人の私たちが義と認められたことは、神様は何があっても完全に愛してくださる方だと言うこと、その愛から生まれるものだけを私たちは受け取る者とされた。この信仰に立つ時、私たちは罪責から自由にされる。この様な歩みを進めてゆきたいと思います。
二つ目は、律法主義的な生き方からの自由です。先ほど読んでいただいた聖書ガラテヤ人への手紙の中で、ガラテヤ教会の人々は「…しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」と教えられています。何故でしょうか?
聖書は「救われるために律法を行う必要はない。イエス・キリストを信じるだけで人は救われる」と一貫して教えています。いわゆる信仰による救い、キリストへの信仰のみによる救いです。
ガラテヤ教会の人々も最初はこの教えを信じていました。しかし、律法特にユダヤ人が重んじていた割礼の儀式を守らなければ、キリストを信じるだけでは救われないと主張する人々の影響を受け、非常に動揺していたらしいのです。
つまり割礼を受けねば救われないと考え、割礼と言う奴隷のくびき、主人から命じられたなすべき行いを重荷として負うことになりました。
キリスト教以外のこの世のあらゆる宗教がそうであるように、神様から離れた人間は本能的に律法を守ること、儀式を正しく行うこと、禁欲的な修行をすることによって神的な存在から認められると考えてきました。
ガラテヤ教会の人々はせっかくイエス・キリストを信じて律法主義から自由にされたのに、いつの間にか律法や儀式を重荷として背負う生き方へと戻る道を歩み始めたのです。
この生き方の特徴は律法を守ることに失敗したり、なすべきことをしないと神様に愛されないと思うこと、心に平安がないこと。動機よりも行いやかたち、つまり見た目を重視するので、心にあるのはやりたくないのにやらされているという義務感ばかりで喜びが無いこと。
そして、自分の規準に合わない人、自分の思うように行動しない人、愛してくれない人を感情的に責めること。すなわち、自分が自由を感じていないので、人の自由も認めず、人に批判的なことです。
まさにこの様な生き方の典型的な例が、イエス・キリストのお話に登場するパリサイ人でした。彼は神殿に神に祈る時、隣にいる収税人を意識し、見下してこう祈っています。

ルカ18912「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは収税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。神よ。私は他の人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの収税人のようではないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」」
世間的に見ればパリサイ人は品行方正な紳士。週に二度断食し、十分の一献金をささげる良い行いの人。対照的に収税人はパリサイ人が言うとおり、人を強請り、不正を働き、姦淫をなす罪人、悪行の人でした。
しかし、人の眼から見れば正しい行いの人パリサイ人も心の中はと言うと収税人を見下し、裁判官の如く人をさばくという高慢の塊。行いは正しくとも心は酷い。それに対し収税人は自分の行いも心の中も罪の塊であることを認め、悲しみ、神様のあわれみを請い願うばかり。
神様の眼から見れば収税人は文句なく義人で、自分の行いにより頼み、神様により頼む心なきパリサイ人は律法主義で高慢の塊。到底義とすることはできない人でした。
しかし、これは他人事ではありません。律法主義という重荷を負って、それを守れなければ不安に陥り、それを守ったら守ったで高慢という神様の最も嫌われる罪の持ち主になってしまう。
イエス・キリストを信じ、神様の愛に憩う自由はこの様な生き方から私たちを解放してくれるものであることを確認したいと思います。
そして三つ目は、罪の支配からの自由です。イエス・キリストを信じる者は罪の支配の下になく、恵みの支配の下にあることを皆様は知っているでしょうか。

ローマ614「というのは、罪はあなた方を支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」

イエス・キリストを信じる前、私たちは罪の支配の下にいました。罪という巨大な力を持つ手の中に握られ、がんじがらめになり、逃れることができない状態です。しかし、キリストを信じた今、私たちは罪よりもはるかに強力な神様の恵みの御手の中にしっかりと握られ、堅く守られている状態にあるということです。
もちろん地上にある限り、罪は執拗に誘惑し、私たちは恵みの中から引きずり出そうとしますが、神様の恵みの御手は絶対的に私たちを守ってくださる。このことを皆様は信じているでしょうか。
そして、この恵みのもとで、私たちに与えられた自由は心から義つまり神様の御心、律法を選び、愛する自由、神様に喜ばれる生き方をしたいと願う自由です。

ローマ610,11「何故なら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからでです。このように、あなたがたも、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思いなさい。」

イエス・キリストはただ一度罪を背負い、罪に対して死なれ、神様に対して生きるために復活されました。二千年前のことです。そして、イエス・キリストを信じる私たちもキリストと同じく、罪に対して死んで罪の支配から自由になり、神に対して生きる者とされたのです。神様の子どもとして、神様とともに、神様のために生きることを選ぶ自由を与えられました。
十字架刑を前にした夜。ゲッセマネの園で父なる神様に祈るイエス・キリストの姿を思い出してください。イエス・キリストは十字架にかかることを望まないと言いました。 
十字架において私たちの代わりに神様の罰を受け、神様から見捨てられるわけですから、イエス・キリストがこれを恐れ、苦しみ、拒んだのは当然の事だったと思われます。
しかし、父なる神様との祈りと交わりの中で、自分が本当に成し遂げたいことに気がついたキリストは自ら、そして自由な心で十字架の死を選びました。贖いの死を遂げることで私たち罪人を罪から救うこと。それが、父なる神様の御心であり、イエス・キリストが本当に心から成し遂げたいことだったのです。
今この瞬間にはしたくないと思う困難なこと、それを願わないような苦しいことであっても、本当に心から成し遂げたいと思うことのために忍耐する自由。この様な自由を私たちにもたらすため、キリストは十字架に死なれたことを心に刻みたいのです。
最後に、このような自由において成長、成熟するためにお勧めしたいことがあります。
第一に、神様との関係を深めることです。神様との父と子の関係、神様の友としての交わり。それが本当にすばらしく、心励まされるので、私たちはもっとキリストに似た者となることを願い、神様を悲しませる罪を犯したくはないと思うようになります。
キリストに似た者になるべし、罪は犯すまじという重い義務感ではなく、こころからそうなりたい、そうしたくはないと思うところに自由があり、喜びがあります。
第二は、神の家族である教会の兄弟姉妹との関係を深めることです。ある人を愛し、信頼関係で繋がっている時、私たちはその人を傷つけたいとは思いません。その様な兄弟姉妹に対する愛が、私たちの罪の思いや行動にブレーキをかけ、正しい思いや行動をとるよう促してくれるのです。
私たちはただひとりでキリストから頂いた尊い自由を活用し、成長することはできない存在です。神様との関係を深めること、兄弟姉妹との関係を深めることが大いなる助けになることを覚え、信仰生活を歩んでゆきたいと思います。

ヨハネ831,32「…もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたは本当にわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」