2013年12月29日日曜日

マタイの福音書7章7節~12節 「求めるべきものを」

2013年が終わろうとしています。この一年はどのような年になったでしょうか。「どのような一年だったか、三分にまとめて話して下さい。」と言われたら、皆さまはどのようにまとめるでしょうか。喜び、楽しみの印象が強いでしょうか。悲しみ、困難が心に残っているでしょうか。皆様が味わいました人生の労苦に対して、神様のねぎらいや励まし、支えがあり、必要な力や満たしを得て、新年を迎えることが出来るようにと心からお祈りしています。
 ところで、一年を振り返ると言っても、様々な切り口があります。仕事のことか。学びのことか。趣味のことか。家族のことか。生活に大きな変化が起こったことか。信仰生活、教会生活のことか。振り返り方によって、その年の印象は変わると思います。
 それでは「何を求めてきたのか」という視点で、この一年を振り返るとどうなるでしょうか。この一年間、皆さまは何を求めてきたでしょうか。この一年間、継続的に神様に祈ったのは、どのようなことでしょうか。
一般的に「何を求めるのかで、その人の本性が分かる」と言われます。そうだとすれば、「何を求めてきたのか」という視点で一年を振り返るというのは、この一年、自分を何者として生きてきたのかを確認することになります。もう一度お聞きします。皆様は、この一年間、何を求めて生きてきたでしょうか。そして続く一年、何を求めて生きるでしょうか。
「山上の説教」と呼ばれるイエス様の有名な説教。神様に求めることをテーマにした箇所から、私たちは何を求めるべきなのか。考えていきたいと思います。
(約一年前の元旦礼拝にて、私たちは何を求めて生きるべきなのか。今日の並行箇所のルカ11章より考えました。今日は同じテーマを、マタイの箇所から考えることにします。)

 マタイ7章7節~8節
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」

 私たちはある意味で「求める」ことに関しては天才的です。生まれながらにして、求めることを知っています。祈りにおいても、「願い」が中心となりやすい。神様、こうして下さい。ああして下さいと祈る。
本来は、神様がどのような方か考え、聖書から教えられ、祈りの中でもっと、神様を賛美すべきではないか。与えられた恵みを覚え、もっと感謝すべきではないか。自分の歩みを振り返り、罪を告白すべきではないか。頭では分かっているのですが、実際には、最初に少し神様を褒め称え、少し感謝を述べ、少し罪を告白し、後は延々と願う。願い続ける。お願いばかりの祈りということがあります。
 今日の箇所で、イエス様は私たちに「求めなさい」と勧めていますが、「では、あれが欲しいです。これが欲しいです。」と言う前に、何を求めるべきなのか。本当に求めるべきものは何なのか。私たちは、よくよく考えるべきでした。
聖書は一方で、貪ることを禁じます。しかし、もう一方で、求めることを勧める。貪るのではなく、求めること。この違いは重要です。私たちは本当に求めるべきことを知り、信仰をもって求めているのか。問われるのです。

 ところで、マタイの福音書では、この「求めなさい」という言葉が、もう一つ、有名な言葉と合わせて記録されていました。「求めなさい」と勧められる一つ前の節です。
マタイ7章6節
「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」

「聖なるものを犬に」「豚に真珠」。どちらも同じ意味と考えられます。「豚に真珠」は日本でも諺として定着しています。その価値を知らないものに、高価なものを与えないように。もし与えたら、踏みにじられる、台無しにされてしまうから。
それでは、聖なるものとは何でしょうか。聖書の中には、聖なるものと呼ばれるものが多数出てきます。神殿の供え物、聖餐のパンとぶどう酒、救い、天国・・・。真珠とは、マタイ13章45節で、「天の御国」の比喩として使われています。聖なるものにしても、真珠にしても、神を信じる者にとって、最も大切なものの比喩です。
つまり、その価値が分からないものに、聖書が教えている最も大切なものを自由にさせてはならない。聖なることを尊ばない者に、聖なるものを差し出して、それを冒涜させてはならない、という戒めです。

 この言葉は与える側への注意として、「聖なるものを犬に与えるな」「豚に真珠を与えるな」とありますが、私たちがまず考えるべきは、受け手としてのことです。自分は、ここで言われている犬や豚のような者になっていないか。神様が与えて下さるもの。その価値を知らずに、足で踏みにじるようなことをしていないか。
 少なくとも、かつての私たちは、ここで言われている犬や豚でした。神様が下さるものに相応しい者ではなかった。神様が与えて下さるもの。その価値すら分からない者でした。私たちはもともと、ここで言われている犬であり豚であり、神様に求める権利などない存在であること。当然のように求めるのではなく、そもそも、天の父に求める資格などない者であったことを忘れてはいけません。
この「豚に真珠」という辛辣な言葉を経て、「求めなさい」との言葉が続くのです。

 マタイ7章7節~8節
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」

 もともとは、求める資格も、能力もない者に対して、「求めよ」との勧め。7節を、忠実に訳すなら、「求め続けよ。そうすれば与えられる。捜し続けよ。そうすれば見つかる。叩き続けよ。そうすれば開かれる。」と、執拗に食い下がる、うるさいほどに求めることの勧めです。8節は、念押しの約束です。「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれる。」
 私たちには、そもそも神に願う資格などない。神様はそれに答える義務などない。それでも、「求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれる」と教えられるのです。凄い約束。

 このように、「求めよ、さらば与えられん。」という御言葉を、直前の「豚に真珠」と合わせて受け取る時、私たちが神様に求める前に考えるべきことがあると教えられます。本来、私たちは求めるのに相応しくない者だということ。求めるべきものを知らず、神様が下さるものを足蹴にするような存在。この自覚の上に、「求める」ことが勧められているのです。
この自覚無しに求めようものなら、私たちの求める物は、私利私欲を満たすものばかり。自分では良いと思っても、有害なものばかり求めてしまう。私はもともと、何を求めたら良いのかも知らない。分からない者だった。何を求めたら良いのか、教えて頂かないといけない。その思いに立って、「求める者」となりたいと思います。

 それでは私たちは何を求めたら良いのか。その答えが、「求めなさい」との勧めの直後に出てくるように思います。
マタイ7章12節
「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり、預言者です。」

 これも非常に有名な教え。黄金律、ゴールデン・ルールと呼ばれるものです。この黄金律、聖書の重要な教えが、「求めなさい」との言葉と同じ文脈で出てくるのです。
(「求めなさい」という勧めと、黄金律が同じ文脈で語られるということが、並行箇所のルカ11章にはない、マタイならではの特徴と言えます。)

 聖書の中には様々な命令、戒めが出てきます。それらを集約するとどうなるのか。それを一つにまとめたらどうなるのか。私たちが生きるべき姿を、最も簡潔に表現したらどうなるのか。それがこの「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」という戒めです。何しろ、イエス様がまとめて下さった。
 この戒めが、「律法であり、預言者です」と言われていますが、「律法であり預言者」というのは、聖書のこと。(正確に言えば、キリストの時代には、まだ新約聖書はなかったので、旧約聖書を指します。)つまり「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにする。これが聖書の中心メッセージです。」という意味。「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようする。」これが、私たちのあるべき姿を示す大切な教えでした。

 私たちは自分にしてもらいたいことを考えることは、容易いこと。妻に何をしてもらいたいか。夫に何をしてもらいたいか。親に何をしてもらいたいか。子どもに何をしてもらいたいか。教会の仲間に何をしてもらいたいのか。上司に、部下に、同僚に、友人、知人、恋人に、近所の人に、何をしてもらいたいか。自分が何をしてもらいたいかを考えるならば、いくらでも出てくるでしょう。
 話しを聞いてもらいたい。理解して欲しい。ねぎらいの言葉、励ましの言葉がほしい。自分を評価してほしい。信頼してほしい。時間をとってほしい。などなど、いくらでも出てくる。簡単にまとめると、愛が欲しいとなるでしょうか。それも具体的な行動をもって、愛してほしいということ。

 自分がしてもらいたいことを考えるのは簡単。問題なのはその次です。「それと同じように、他の人にする」ということ。具体的な行動をもって、自分から愛すること。これが問題。いかがでしょうか。真実に、この黄金律に沿って生きることは、自分に出来ることでしょうか。
 果たして、この戒めに従って生きることが出来るのかと問われると、私たちは、困惑します。それが出来ないからです。自分はしてもらいたい。でも自分はしたくない。そのような思いが自分の中にあることを認めることになるのです。
 罪というのは、自分中心に生きること。いや、自己中心にしか生きられないこと。私たちは、罪赦された罪人。まだまだ自分の中に、自己中心的な思いがあり、自分にしてもらいたいことを、他の人にもするということが、非常に難しい。いや、出来ない、不可能といえます。

それでは、どうしたら良いのか。人間として、どのように生きたら良いのか。聖書で示されても、それが出来ない。私たちはどうしたら良いのか。思い出すべきは、この戒めは、この言葉だけ語られたのではないこと。「それで」という言葉でつなげられています。その前の言葉が「求めよ、さらば与えられん」でした。

 マタイ7章7節~11節
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子どもがパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してもると、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者に良いものを下さらないことがありましょう。」

 黄金律の前提になっている言葉は、私たちが求めること。求め続ける者であること。また、私たちの求めに応えて下さる天の父がいるということです。
 イエス様は「求め続ける者であれ」と勧めます。なぜなら、天の父は、求める者に良いものを下さらないわけがないから。それも印象的な言葉をもって、励まして下さっています。子どもがパンを求めているのに、石を与える親はいない。魚を求めているのに、蛇を与える親はいない。悪い者ですらそうならば、天の父は、良いものを下さるに決まっているではないかとの言葉。

 つまり、私たちは「自分にしてもらいたいことを、他の人にする」ことなど、出来ない。そのようなことはそもそも不可能。そのような力は自分にはない。しかし、自分には不可能なことを求めることは出来る。そして、天の父はそれに答えて下さる方だと教えられるのです。
 このように読んでいくことで、私たちな何を求めるべきなのか、分かってくるように思います。私たちは、自分の欲しいもの、自分勝手な願いを、求め続けるように勧められているわけではない。求めさえすれば、何でも与えられるわけではない。私たちにとって最高の人生、あるべき私たちの姿、黄金律に沿って生きる人生。それを求めること。そのような生き方が出来るように求め続けることが勧められているのです。この点について、「求めなさい。そうすれば与えられます。」との約束があるのだと教えられます。

 この一年間、私たちはどのような願いをもって生きてきたでしょうか。神様にどのようなことを求めて生きてきたでしょうか。私たちの口から出た願い、祈り、求めの中に、自分のしてもらいたいように、他の人に仕えさせて下さいというものは、どれだけあったでしょうか。

 今日の箇所に合わせて言うならば、キリストの贖いの御業は、求めるべきものが何かも分からない者が、正しく神様に求めることが出来るようにするもの。私たちが罪から離れ、この黄金律に沿って生きることが出来るようにしてくれるものでした。キリストを信じる者に与えられる聖霊も、求めるべきものが何かも分からない者が、正しく神様に求めることが出来るように助け手下さる方。私たちが、黄金律に沿って生きるように助けて下さる助け主でした。
 キリストの弟子。クリスチャンとは、どのような存在か。色々な答えがありますが、そのうちの一つの答えは、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにする。」という教えに沿って生きられるように、真剣に神に求める者と言えるでしょう。
 果たして、私たちはこのキリストの命令。「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにする。」という命令に真剣に取り組んできたでしょうか。この命令に心から従いたい。従う人生でありたいと考えてきたでしょうか。
 一年の最後の聖日。求めるべきものを教えられた者として、聖書の教えに従っていけるよう祈り求め続ける歩みをする決意をして、新たな年を迎えたいと思います。

 今日の聖句を皆で読みたいと思います。
 マタイ6章33節

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものは全て与えられます。」