2014年4月27日日曜日

エズラ記3章8節~13節 「一書説教 エズラ記」

 私たちは、何が大事で、どのように生きるべきなのか、分かっていてもそれに取り組めないということが往々にしてあります。今日一日、どのように生きるべきなのか、よく考えることなく、その日のスケジュールをこなすのに精一杯になること。人の評価、この世の評価に心が捕われて、神様の前でどのように生きるのか、考えることがないこと。地上の事柄に終始して、神の民として生きる意識がないこと。聖書を読み、実践すること。祈ることが大事だと分かっていても、取り組めないことがあります。
そのような私たちが、この日曜日、礼拝に導かれました。今一度、私たちの神様はどのようなお方で、その方の前で自分はどのように生きるべきなのか。何を大事にすべきか。神を愛し、人を愛するとは、私にとっては具体的にどのようなことなのか。真剣に考え、それに取り組む決心をする時として、この礼拝が祝福されますように。特に、聖書を読み、実践することの大切さを、エズラの姿を通して再確認し、取り組めるようにと願います。

私の説教の際、断続的に一書説教に取り組んでいます。六十六巻からなる聖書、一つの書を丸ごと扱い説教する。今日は十五回目。旧約聖書、第十五の巻、エズラ記を扱うことになります。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。

 エズラ記は、これまで聖書に記されてきましたイスラエルの歴史の続きが記されることになります。今一度、イスラエルの歴史を確認しておきたいと思います。
 神様を無視して生きる人間が増え広がる世界にあって、人間のあるべき生き方、神様を信じ、神様に従う生き方を示す使命が「神の民」に与えられます。その「神の民」に選ばれたのが、アブラハムとその子孫。
 アブラハムの子孫は、イスラエル民族と呼ばれ、カナン(現在のパレスチナ)の地で、国家として成長します。ダビデ王、ソロモン王の時代、イスラエル王国は大繁栄をしますが、その後、王国が南北に分裂。北の国を、北イスラエル。南の国を、南ユダと呼ばれます。
南北に分かれたアブラハムの子孫、神の民は、それぞれの歴史を歩むことになります。ところで、「神の民」として選ばれた者たちが、その使命を果たさない時。神様を信じ、神様に従う生き方を止め、異教の神々、本来神でないものを拝するようになった時、裁きが下されるのですが、先に決定的な裁きが下されるのが、北イスラエル。アッシリアに滅ぼされ、北イスラエルは民族としてのアイデンティティを失います。非常に残念な歴史。その後、神の民として残された南ユダは、バビロンに敗北します。南ユダの多くの者たちは、バビロンに奴隷として連れて行かれるのですが、アイデンティティは失われることなく、バビロンにて「神の民」として歴史が続きます。

 この南ユダの人々がバビロンに敗北して奴隷として連れて行かれる際、エレミヤという預言者を通して、神様の約束が与えられます。
 エレミヤ29章10節
「まことに、主はこう仰せられる。『バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。』」

 「神の民」が奴隷として生きる期間。バビロン捕囚という裁きの期間は、七十年という約束でした。
 これまで読み進めてきました列王記、歴代誌の最後は、南ユダがバビロンに敗北し奴隷として連れて行かれる記録まで。奴隷として連れて行かれた者たちが、果たしてどうなったのか。エレミヤの預言は、約束通りに実現したのか。実現したとして、どのように実現したのか。その南ユダの歴史が記されるのが、このエズラ記になります。

 このエズラ記ですが、大きく二つに分けることが出来ます。前半は一章から六章まで。バビロンに敗れた際、破壊された神殿を再建する記録。後半は七章から十章まで。この書を記した著者エズラによる、宗教改革、信仰復興の記録です。
 この前半と後半には、年代として約六十年の隔たりがあります。つまり、著者のエズラからして、前半部分は六十年以上前の出来事を記録していることになります。かつて起こった出来事より、神様がどのようなお方なのか確認していくエズラの視点。そして、だからこそ、自分はどのように生きて行くのか決心するエズラの様を見て行くことになります。まずは前半から。

 エズラ記1章1節~4節
「ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。』」」

 バビロン捕囚という出来事から、約五十年後。強国バビロンに勝利したペルシャが、バビロンで奴隷となっていた南ユダの者たちに、エルサレムに戻って神殿を再建するようにと命令を下します。なぜ、ペルシャの王クロスは、このような命令を下したのか。
 この時、ペルシャが支配した領土は、非常に広範囲。西はエジプトより南。東はインドのあたりまで。この広い範囲を、どのように支配するのか。多数の民族を含む広範囲を画一的に支配することは大変難しいもの。そこでペルシャのとった政策は、税金と徴兵を課す代わりに、支配している地域のそれぞれの民族に自治をさせるというもの。軍役、貢物を求める代わりに、内政には干渉しないという政策。そのため、奴隷としてバビロンに連れて来られていた者たちに対して、もといたところに戻るように、それぞれの場所で自治を行うようにと命令が下されたのです。つまり、南ユダの人々だけが特別に扱われたというのではなく、他の民族も同様に、もといた場所に戻り、自治をするようにと命令が下されたのです。
 この冒頭の言葉を読みますと、クロス王には強い信仰があったように読めますが、クロス王に、どれほどの信仰があったのか、はっきりとしたことが言えません。明確に言えるのは、私たちの神様は歴史を支配し、合理的にバビロン捕囚からの帰還が起こるようにされていたということです。

 こうして神殿が破壊されてから、約五十年後に、南ユダの人々はもとの地に帰ることになります。帰ってきた人々の名簿が二章に。この名簿の中に、歌うたいや門衛、宮に仕えるしもべたちがいました。つまり、南ユダの人々は、バビロンで奴隷生活をしている間、五十年の間、その役割と技術を継承していた。神殿再建がなされた際、礼拝が出来るように準備していた。神の民として、歩んでいたことが見てとれます。
そして、念願の神殿再建への第一歩、神殿の基を据えた様が三章に記されます。

 エズラ3章12節~13節
「しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。そのため、だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた。」

 ソロモンが建てた神殿を見たことのある者たち。破壊されてから五十年経っていますので、老人となっていましたが、その者たちからすると、かつての神殿から比べてあまりに脆弱に見えたのでしょう、泣き声をあげたと言います。片や、念願の神殿再建への第一歩として、定礎式を迎えられた喜びの声をあげた者たちもいた。不信の結果としてバビロン捕囚という裁きを受けることになった悲しみと、それでも神様は守って下さり神殿再建へ踏み出すことが出来た喜びと、悲喜交々の叫び声があがります。

 ところで、エレミヤを通して与えられた預言は、バビロン捕囚の期間は七十年というものでした。それが、南ユダの人々が帰って来たのは、神殿崩壊から約五十年のことです。この二十年の誤差はどういうことでしょうか。七十年というのは、大体の数字で、五十年でも良いということなのか。長い年数での約束があり、実際、それより短ければ、よりありがたいという話しなのか。そうではありません。帰って来たのは約五十年。約束は七十年。この違いはどのようなことなのか。この違いの意味が、続く四章以降に出てきます。

 エズラ4章4節~5節
「すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした。さらに、議官を買収して彼らに反対させ、この計画を打ちこわそうとした。このことはペルシヤの王クロスの時代からペルシヤの王ダリヨスの治世の時まで続いた。」

 南ユダの人々がバビロンに連れて行かれて約五十年。その間に、エルサレム近隣の地に住むようになった人々がいます。この人々が、帰って来た南ユダの人々をよく思わなかった。その結果、神殿再建の妨害が起こります。この四章に記されたのは、帰ってきた南ユダの人々に対する様々な妨害の記録。(神殿再建以降の嫌がらせの記録も記されています。)この妨害の結果、神殿の基は据えられながらも、神殿再建の工事は、ある時まで中断されることになったと言います。

 エズラ4章24節
「こうして、エルサレムにある神の宮の工事は中止され、ペルシヤの王ダリヨスの治世の第二年まで中止された。」

 ダリヨス王の治世の第二年目まで神殿再建の工事は中止。つまり、この時から工事は再開。このダリヨス王の治世の第二年目というのは、聖書の中でも重要な年の一つ。エズラ記以外の書にも出てくる年なので、記憶しておきたいと思います。
 それはそれとしまして、しばらく中断されていた神殿再建の工事が再開され、四年かかって再建されます。

 エズラ6章15節~16節
「こうして、この宮はダリヨス王の治世の第六年、アダルの月の三日に完成した。そこで、イスラエル人、すなわち、祭司、レビ人、その他、捕囚から帰って来た人々は、この神の宮の奉献式を喜んで祝った。」

 エズラ記前半のクライマックスの場面。念願の神殿再建がなされたという記録です。このダリヨス王の治世第六年というのが、いつなのか。この年が、神殿が破壊されてから七十年目。エレミヤを通して約束されていた、七十年目の年となるのです。神殿崩壊が起こる前、エレミヤを通して与えられた約束は、神殿再建の妨害を含めた年数。神の民に敵対する者たちの妨害も含めて、神様の約束は、その通りに必ず実現する。完全に真実なものとして、神様の約束は成就する。改めて、この世界を支配されている神様の偉大さを覚えることになります。
 著者エズラにとって、この六章までは、六十年以上前の出来事。エレミヤの預言の記録、バビロンやペルシャの記録を確認しながら、七十年の意味を知った時、エズラはどのような感慨を味わったでしょうか。どのような思いになったでしょうか。神様の真実さに触れた時、エズラはどのような生き方を目指す者となったでしょうか。

 エズラ記の七章からは、後半。書名となっているエズラの登場です。クロス王の命令の際、エルサレムに帰った人たちもいましたが、バビロンに残った者たちもいました。バビロンに残った南ユダの人々は、その後、何回かに分けて、エルサレムに戻ります。エズラも、神殿再建より約六十年後に、エルサレムに戻った人物。エズラは目的をもって、戻りました。

 エズラ7章1節、9節~10節
「これらの出来事の後、ペルシヤの王アルタシャスタの治世に、エズラという人がいた。・・・彼は第一の月の一日にバビロンを出発して、第五の月の一日にエルサレムに着いた。彼の神の恵みの御手が確かに彼の上にあった。エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていたからである。」

 神様の真実さに触れたエズラ。神の言葉は必ずその通りになると理解したエズラの生き方は、神の言葉を調べ、実行し、またそれを神の民に伝えるものとなります。私たちは、聖書を神の言葉として受けとめているでしょうか。そのように受けとめているのだとしたら、何故、聖書を読むこと、聖書を実践することを後回しにするのでしょうか。真摯に神の言葉に向き合う姿勢。その情熱を、私たちも持ちたいと思うところ。

 また神様の真実さに触れたエズラは、信じた通りに生きることに取り組む人。エズラの姿の中でも、特に印象的なアハワ川での断食祈祷というのがあります。
 エズラ記8章21節~23節
「そこで、私はその所、アハワ川のほとりで断食を布告した。それは、私たちの神の前でへりくだり、私たちのために、私たちの子どもたちと、私たちのすべての持ち物のために、道中の無事を神に願い求めるためであった。私は道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを王に求めるのを恥じたからである。私たちは、かつて王に、『私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る。』と言っていたからである。だから、私たちはこのことのために断食して、私たちの神に願い求めた。すると神は私たちの願いを聞き入れてくださった。」

 バビロンからエルサレムに向かう。当時の旅は今と比べ物にならない程、大変であり危険なことでした。王に愛されていたエズラは、その道中、護衛する部隊を王に求めることは容易いことでしたが、エズラ自身は王に護衛を求めたくないと考えていた。なぜなら、かつて王に「私たちの神様は、尋ね求めるすべての者に幸いを与える」と証していたからというのです。つまり、ここで王に護衛を求めたら、かつての証が何だったのかと思われかねないことを恐れたというのです。
 頭だけの宗教ではなかった。本当に神様を信じ、神様に従うことに取り組んだエズラ。私たちもかくありたいと願います。

 南ユダの人々が、聖書に従うように働きかける。エズラの宗教改革の働きも、徹底的です。是非、その活躍、徹底ぶりは実際に読んで頂きたいと思います。中でも印象的なのが、南ユダの人々の罪を聞いた時のエズラの姿です。
 エズラ記9章3節
「私はこのことを聞いて、着物と上着を裂き、髪の毛とひげを引き抜き、色を失ってすわってしまった。」

 自分がエズラの立場だとしたら、南ユダの人々の罪が分かった時、どのように受けとめるでしょうか。神の民にとって、神の言葉に従うことがどれだけ大事なことか。よくよく理解していたエズラは、南ユダの罪を聞いた時、強い衝撃を受けたという場面。髪の毛と髭を引き抜き、色を失って座ったという姿。神様の言葉は、従っても、従わなくても良いものではない。必ず従うべきものとして、エズラが受けとめていたことがよく分かります。
エズラ記の後半に記されるエズラの姿は、どこをとっても、神様の言葉に対する真摯な態度を持つ姿です。神様の言葉は必ず実現すると信じきった人。神様の真実さに触れた人はどうなるのか。その一つの例が、エズラの姿でした。

 以上、エズラ記を概観してきました。バビロン捕囚という大きな裁きの中にあって与えられたエレミヤの預言。その預言の通りに神の民を導かれた神様の姿を見出したエズラ。神様の真実さに触れる。神の言葉の偉大さに触れた時、エズラ自身、神の言葉を慕い、実践する歩みを選びとりました。
 私たちも今一度、神様の真実さを再確認したく思います。自分にとって神の言葉、聖書はどれほど意味のあるものなのか。その重要性を覚えたいと思います。そして、私たち自身、御言葉に真摯に向き合うこと。よく聖書を読み、実践する歩みを送りたい。そのような恵みに浴したいと思います。

2014年4月20日日曜日

Ⅰコリント15章20節~26節 「死者の復活」

 昔から続けられてきた議論のひとつに、「死後の命はあるかないか」というものがあります。どちらの立場にもそれなりの考え方があり、興味深く感じますが、結局は五分五分。死後の命はないだろうとは言えても、ないと断定はできない。死後の命はあるのではないか、いやあってほしいと言う人はいても、あると断言できない。死後の命は、人間の推論や想像の及ばないところと思わされます。
それならば、キリスト教はどうなのか。キリスト教は真っ向から死後の世界を教えています。それも、イエス・キリストの復活という歴史の事実を基に、死後のいのちを説くことがキリスト教の根本でした。
死後のいのちはあるかないか。あると思えばあり、ないと思えばない。そのような人間の曖昧な推測や想像をこえて、ここに事実、死者の世界から復活してきた、イエス・キリストと言う証人がいる。イエス・キリストは十字架に死んで、三日目に復活し、死後のいのちがあることを、身を以て示されたと語るのです。
ここに紹介するのは、キリスト教徒迫害の鬼であったパウロのことば。パウロは、十字架に死んだ者など神ではないし、キリストの復活などあり得ないとの固い信念を持っていました。
そのパウロが、ある時復活のイエス・キリストに出会って、180度人生が変わったのです。推測や想像や願いではなく、実際に復活のキリストに出会うことによってクリスチャンになった人。それがパウロでした。

15:20「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」

注目していただきたいのは、「キリストはよみがえられたらしい」とか、「よみがえったと私は信じている」と言うのではなく、今やキリストは、死者の中からよみがえられましたと、復活が歴史の事実として断言されていることです。
いわば、キリストの復活は死者の世界からの便りであり、お知らせ、ニュース。死後のいのちに関する、ああだこうだという人間の百の議論も、キリストの復活という証拠ひとつでピリオドが打たれる。キリスト教は論より証拠の宗教でした。
イエス・キリストは復活して弟子たちの前に現れると、信じられないという弟子のために手やわき腹に触ってよい、いや十字架の跡に指を突っ込んでも構わないと言われ、幽霊ではないかと思った弟子とは、一緒に焼き魚を食べてみせました。
パウロも、自分以外にキリストの復活を目撃した証人は500人以上いると語り、それらの人々はどんなに迫害されても、キリスト復活を否定しなかったのです。
キリストの十字架の死により風前の灯となったキリスト教は、復活のキリストに出会い、キリストを神と確信した人々によって力強く前進。世界中に広まってゆくことになります。
イエス・キリストの生涯を背景に、気高く生きるひとりのユダヤ人の姿を描いた名画「ベン・ハー」の監督、ルー・ウォーレスは、最初キリスト否定論者、復活否定論者でした。しかし、映画撮影のためキリストの十字架と復活について調べるうち、ついにキリストの復活を否定できない事実と確信し、それが困難な映画撮影を成し遂げる原動力になったと言われます。
また、私たちも、どうして日曜日に教会に集まるのかと問われれば、「それは、私たちの救い主が、死者の世界から復活された記念日だから」と答えるでしょう。
こうして、キリストの復活という事実で、人間の議論にピリオドを打ったパウロは、キリストの復活が、私たちの復活にも通じることをも述べています。キリストは眠った者、死者の初穂としてよみがえられたと言うのです。
四日市ではすでに桜は散ってしまいましたが、同じ桜でも種類によって咲く時期が異なることを皆様もご存じと思います。3月上旬、初穂として一番最初に咲くのは河津桜、3月中旬になると小彼岸桜、4月の上旬入学式の季節になると咲き誇るのが最も知られた染井吉野です。つまり、河津桜が咲くと、およそ一か月後に染井吉野が咲く姿を確信できます。
それと同じく、二千年前のキリストの復活は、やがてきたるべき、私たちキリストを信じる者の復活の初穂、先駆けでした。キリストの復活によって、私たちは私たち自身の復活を確信できるし、確信すべしということです。
次に、パウロはキリスト復活の意味を語ります。これは、普段私たちが何気なく口にするいのちとか死の意味について、改めて考えさせてくれることばでした。

15:21,22「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」

息を吸って吐いて、食べて飲んで働いて眠る。また食べて飲んで働いて眠る。体が動いていれば生きている、命があると考える私たちに向け、聖書は「アダムにあってすべての人が死んでいる」と強烈な一言をぶつけてきます。
人類の先祖アダムが神様に背いたために死がこの世界に入り、そのアダムの性質を受け継いでいるので、私たちはみな霊的に死んでいると言うのです。
霊的な死とは、神様との関係で人生の目的や価値、物事の善悪を考えないこと、神様の教え抜きに、自分の思いで行動すること、神様以外のもので心満たそうとする生き方を言います。肉体的には生きていても、霊的には死んでいる状態です。
例えて言うなら、燃料がなくなった飛行機が、慣性の法則でしばらくの間空を飛んでいる状態でしょうか。外側から見れば大丈夫でも、飛行機を動かしている燃料が切れ、補給できない状態が続けば、必ずや墜落、破滅となります。
それと同じく、私たちも魂を本当に動かす燃料である、神様の愛を補給できない燃料ゼロが続けば、永遠の死、つまり神様の愛の全くない世界へ落ちてゆくと聖書は教えています。
しかし、イエス・キリストを信じるなら、私たちはみなキリストの復活のいのちに生かされ、魂を正しく動かす神様の愛という燃料を永遠に補給し続けること、これに満たされることができると教えられるのです。
はたして、自分はアダムにあって死んでいるのか。それとも、キリストにあって生かされている者か。ひとりひとり振り返ってみたいと思います。
神様との関係で人生の目的、物事の善悪を考えているか。自分の思いではなく、神様の御心を第一にして行動しようとしているか。自分の魂を本当に動かしているのは、食欲か物欲か名誉欲か、それとも神様の愛か。肉体的に生きているのは確かだとしても、自分の霊的な命はどのような状態か。いつも、神様との関係でいのちを考える者でありたいと思います。
さて、そうであるなら、イエス・キリストを信じ、キリストの復活のいのちに生かされる者となったのなら、初穂であるキリストが死後三日目によみがえったように、どうして私たちも死後三日目によみがえらないのかと言う人もあったのでしょう。そんな疑問に、パウロはこう答えています。

15:23~26「しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。」

植物が花を咲かせ、実をつけるにも、それぞれの時期があるように、復活にも神様が定めた時期があると言うのです。私たちの復活は、イエス・キリスト再臨の時に指定されていました。
何故でしょうか。キリストがもう一度この世界に戻られる時、人間の罪に満ちたこの世界のあり方が正しく改められ、最後の敵である死も完全に滅ぼされるからと、聖書は語ります。
最後の敵である死。どんなに悲しくても、どんなに恐ろしくても、どんなに虚しく感じても、すべての人が現実として受け入れるしかなかった死。ソクラテスもプラトンも、釈迦も孔子も、宗教家も哲学者も、避けられない現実としてきた死。それが無力になる。死が死んでしまうという世界でした。
「終わり」というのは、罪によって汚れたこの世界のあり方が終わり、人間のいのちとこの世界が神様によって全く新しくされること、神の国、天国の完成をさします。
私たちの復活が死後三日目ではなく、天国の完成を待って実現すること。これにも、神様のご配慮があるように思われます。
皆様は、死後三日で、もう一度この罪に満ちた世界に復活したいと思われるでしょうか。悲惨なこの世界で、時には涙を流し、時には呻き、しかし力一杯生き抜いたなら、次は神様の用意された新しい世界、天国に復活し、永遠にそこで過ごしたいとは思われないでしょうか。
桜が寒さ厳しい冬をじっと忍耐し、暖かい春の訪れを待って、実をつけ花を咲かせるように、私たちもこの世界が最高、最善の環境に整えられるのを待って、よみがえるのです。まるで、親がお腹の中にいる子どものために、よい部屋やベッドを準備するように、それを受けるに価しない私たちのために、最高、最善の環境を準備しくださる神様に感謝したいと思います。
最後に、復活を確信することは、私たちの人生にどのような影響があるのか。二つのことを確認したいと思います。今日の聖句です。

3:20,21「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」

第一に、「私たちの国籍は天にある」とあるように、この地上で天国の民として生きることです。具体的には、天に国籍がある者、天国の民として、考え、行動することです。
もし、私たちがこの世の国にだけ国籍があるとしたら、この世の法律を守るだけで十分と思うでしょう。しかし、天に国籍があるのなら、神のことばが従うべき法律となります。私たちが日々意識するのは、地上の法律でしょうか。それとも、それ以上に神様のことば、神様の御心が心に刻まれているでしょうか。
また、もし私たちがこの世の国にだけ国籍があるとしたら、この世での自分の権利、名誉、財産を守ることが最大の願いでしょう。しかし、天に国籍があるのなら、神様の栄光、すばらしさを示す生き方をすることが、何ものにもまさる願いとなるはずです。
第二に、死後の復活を心から待ち望むことです。
ドイツ語では、お墓のことを「神の畑」と言うそうです。神様の作るいのちが芽を出す場所.なるほどと思います。今墓に眠っているキリスト者の体は、なんとイエス・キリストの栄光の体と同じものに造りかえられて復活すると言われるのです。
聖書には、全身膿の塊と化すという恐ろしい病気に苦しむヨブと言う人が登場します。ヨブほどではなくとも、根治、完治することのない病に犯された人々にとって、新しいいのち、新しいからだへの夢は切実です。体を損なった人々は、いわゆる五体満足の健康そのもののからだ、復活のからだを心から期待しておられます。
どんなに医学が発達しても、私たち人間はこの世界にある限り、病の苦しみ、痛みから逃れることはできないでしょう。しかし、イエス・キリストの復活を神様のみわざ、歴史の事実と信じる私たちは、私たち自身のからだも、キリストの栄光のからだに変えられる復活が、事実起こると信じています。なぜなら、神様の愛と真実に信頼するからです。
その日、私たちは神様が造られた本物の健康な体がどんなに力強く、心地よいものであるか驚くでしょう。この体がどんなに素晴らしい能力を本来備えているか、今よりもさらに深く知ることによって、神様をほめたたえることでしょう。
個人的なことですが、私が大のジャイアンツファンであることは皆様ご存知と思います。しかし、私は巨人ファンである以上に、野球というスポーツが好きです。知的で、肉体的で、男性も女性も楽しめる野球を愛しています。そんな私の願望ですが、天国では私のようなものでも、練習次第ではダルビッシュのような速球を投げ、イチローのような華麗な守備と王選手のようなホームランを打って、心から野球を楽しめるからだが与えられるのではないかと心から期待しています。
死んだらおしまいという人の生き方、また死後のいのちはあるかないかわからないという人の人生と、死んで後さらにすばらしいいのちに入ると確信している人の生き方は、まるでちがうことがお分かりになったでしょうか。キリストの復活と言う事実によってもたらされた人生観で自分の人生観を立て直したい。本当に手ごたえのある、先行きのあるいのちに生きたい。このイースターの礼拝、私たちみながこの様な願いにおいて一つになれたらと思います。

2014年4月13日日曜日

マルコ15章33節~41節 「キリストの十字架を誇る」

 教会の暦では、今日から受難週。私たちが、イエス・キリストの受難、特に十字架の苦しみを思い巡らし、その意味を考えるべき時です。四日市教会では、今日の夕方聖餐礼拝を行いますが、これもまた、イエス・キリストが十字架で裂かれた肉と流された血に預かり、私たちのうちに生きるイエス様のいのちを実感する良い機会と思います。今日からの一週間、聖書特に福音書を通して、十字架の死に至るイエス・キリストの歩みをたどり、来週の復活祭イースターを迎えられたらと思います。
 さて、時は紀元30年頃。季節は春。ユダヤ最大の祭り、過越しの祭りを翌日に控えた金曜日の昼12時。十字架の立つゴルゴダの丘を中心に、都エルサレムは、突如暗闇に覆われたと聖書は語ります。

 15:33、34「さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」
 
 イエス様が十字架に釘付けにされたのは朝の9時。世界史上最も残酷な刑罰と言われる十字架刑は、すでに鞭打ちによって痛めつけられたイエス様の体をさらに苦しめたと思われます。それに加えて、ユダヤの祭司長、律法学者、道行く人々ら、すべての人が浴びせた嘲りのことばは、どれほどイエス様の心を挫いたことでしょう。
 そして、不思議なことに、人々のことばは異口同音。本当にお前が救い主だと言うなら、十字架から降りて、自分を救ってみろと罵ったのです。もちろん、イエス様の力をもってすれば、十字架から降りて自分を救うことは容易なこと。しかし、それでは人類の罪を贖うために命をささげると言う使命は果たせない。そう思い、計り知れない肉体的、精神的苦しみに耐えながら、自ら十字架の上にとどまり続けたのがイエス様でした。
 しかし、真昼の12時。突然全地を覆った暗闇は人々の心を恐れしめ、さっきまで嘲り、罵り続けていた者たちの口を閉じさせたようです。それもそのはず。聖書において、暗闇は神様のさばきを示すもの、超自然的な出来事でした。
 人類の先祖アダムが罪を犯して以来、この世界は神のさばきのもとにあることを聖書は教えています。自然環境の悪化、人間の悪行が法律などによりさばかれること、悪しき思いのまま、平気で悪を重ねる人間の生き方などに、神のさばきは示されているのです。
 しかし、この時、ユダヤの都エルサレムを襲った暗闇は、神による特別なさばき。すべての人間に対する最後の、究極的なさばきを示すものと考えられてきました。そして、神の完全な義のさばきは、ただひとりイエス様の上に、罪なき神の御子の上に降ったのです。
 「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫び声は、イエス様が私たち人間の罪を背負い、本当に父なる神様から捨てられたこと、さばかれたこと、神様の愛のまったく及ばない世界に落ちたことを物語っていました。
 十字架刑による肉体的痛み、人々の嘲りのことばによる精神的悩み。それに加えて、これが最も深く心を裂いたであろう、父なる神から見捨てられ、さばかれるという霊的な苦しみ。
 しかし、それにもかかわらず、罪人を愛するがゆえに十字架の上にとどまり続けられたイエス様の思いを、当の罪人は知らないし、理解しようともしませんでした。わが神を意味する「エロイ」ということばを聞き違えたか、そばに立っていた幾人かの人が、イエス様は預言者のエリヤに助けを求めていると誤解したようです。安物の酸いぶどう酒を飲ませて囚人の命を少々長引かせ、本当に預言者エリヤが生き返って助けに来るのかどうか、一丁見物してやろう。そう人々は考えたと言うのです。

 15:35、36「そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、『そら、エリヤを呼んでいる』と言った。すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。『エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。』」

 先の道行く人々の嘲りといい、この無理解な人々の心無い行動といい、どれほどイエス様の心を落胆させたことか。しかも、この時は愛する天の父からの支えもない状態で、全くの一人きり。ただおひとりで人類の罪を背負い、身代わりの死を遂げんとするイエス様の苦しみは計り知れないと思われます。
 そして、ついにイエス様の救い主としての罪の贖いのわざが完成する時が来ました。福音書のクライマックス、全聖書の頂点とも言うべき二行です。

 15:37、38「それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」

 イエス様が息を引き取る間際に大声を上げて叫ばれたことばは、ヨハネの福音書で「完了した」と記されています。罪から救われ、神の子となるために私たち人間が何一つ付け加える必要はない。イエス様が必要なことは全部してくださった、完成してくださった。私たちがすべきこと、できることはただひとつ。十字架のイエス様を救い主と仰ぎ、信じることのみ。
 私たちを心から安心させてくれる「完了した」という、この一言を大声で言うために、イエス様は酸いぶどう酒を飲み、力を振り絞られたのです。自分が楽になるためではなく、私たちを安心させるために。最後までイエス様は自分のためではなく、私たち罪人のために生きられた。そう感じさせてくれる場面です。
 そして、その最後の一言が発せられるや否や、エルサレム神殿の幕が真っ二つに裂けました。神殿の幕は、神と人間とを隔てていたもの。これまで、この幕を通って、神のご臨在される最も奥の至聖所に入れたのは、罪のいけにえをもった大祭司ひとりでした。それを、今この時、イエス様が真の大祭司となり、ご自分の命を真の罪のいけにえとして十字架にささげられので、隔ての幕が裂けたのです。
 イエス・キリストを信じる者は、誰でも自由に神様のところに行き、親しく神様と交わることが出来るようになったということです。
 そして、十字架上でのイエス様の行動やことば。イエス様が発した「完了した」とのことばとともに暗闇は晴れ、神殿の幕が裂けた事。これらを通して、数は少ないながらも、イエス・キリストの命がけの愛を心に受けとめた人がこの場にいたと聖書は語っています。

 15:39~41「イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『この方はまことに神の子であった』と言った。また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。」

 ローマ人の百人隊長はイエス様処刑の指揮を執っていた人物の一人。そのような人物が「この方はまことに神の子であった」と信仰を告白することは、どれほど勇気が必要だったでしょう。また、わが身の安全のため、雲の子を散らすように逃げた情けない男の弟子に代わって、イエス様の最後を見守ろうと、ゴルゴダの丘に足を運んだ女性の弟子たちの信仰も命がけでした。
 この百人隊長と女性たちこそ、イエス・キリストの十字架の目撃者、数少ない証人として活躍し、兄弟姉妹を励ましたのではと考えられます。
 さて、今日の十字架の場面。イエス・キリストの十字架の死は、私たちに何をもたらしたのか。私たちの人生をどのように変えたのか。二つのことを確認したいと思います。
 第一に、イエス・キリストの十字架の死は、私たちを神様との関係において新しい立場に置いたということです。このことについて、聖書はこう教えていました。

 Ⅱコリント5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」 

 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされた。言い換えるなら、本来十字架の上で神のさばきを受けるべき立場に、私たちがいたと聖書は語っているのです。皆様は、このことばに同意できるでしょうか。それとも、確かに自分は罪を持っているが、十字架に死ななければならないほどのものではないと反発されるでしょうか。
 神様を離れて生きる人間の特徴のひとつは、罪を神様の視点からではなく、ほかの人との比較の中で考えるということです。イエス様の時代の宗教家、パリサイ人や律法学者と呼ばれる人々がまさにその典型でした。
 ひとつの例を挙げますと、「殺してはならない」という神様の戒めを、その頃の宗教家たちは殺人という人間社会の法律を犯すことと同列に考え、教えていたのです。それに対して、イエス様は、神様の戒めの真の意味は心の殺人を指すとされました。
  5:21~24「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」

 イエス様の言われる心の殺人とは何でしょうか。理由はどうであれ、人に向かって腹を立てること。人に向かって能無しとかばか者と言うこと、思うこと。それぞれさばきを受ける、最高議会に引き渡される、ゲヘナに投げ込まれると区別されていますが、要するにどれも神様の最後のさばきに値する罪だと指摘されているのです。
 それぐらい、人間なら誰しも身に覚えのあること。思っただけ、ことばにしただけで地獄に投げ込まれるなど、余りにも厳しすぎないか。「赤信号皆で渡れば怖くない」式の考えで、世間一般がそうであるなら、罪とまでは言えないと、私たちの生まれながらの性質は反発を覚えるのです。聖なる神様の眼から見たらどうなのかとは考えようとしない、神様抜きの生き方です。
 そのような私たちにとってさらに驚くのは、理由はどうあれ、もし隣人が自分を恨んでいることを思い出したら、供え物はそのままつまり礼拝を中断して、まずその人と仲直りすることにつとめなさいという命令です。
 人に腹を立てるな、見下すな、感情的に責めるな。そうした態度やことばを口にしないだけでなく、心にその様な思いを抱いてもさばかれるべき罪。それだけでなく、自分を恨み、快く思っていない人のために、自分のほうから和解し、仲良くなるよう、愛をもって行動しないなら、それもまた神様のさばきに値する罪だと教えられるのです。
 思いとことばと行動における自分の罪を、世間一般と比べてではなく、聖なる神様の眼から見て、その酷さ、汚さを思うこと。自分こそあの十字架の上にいるべき存在であったと悟ること。
そんな自分がキリストを信じることで、あらゆる罪を赦して頂ける。それを思う時、私たちはイエス様の身代わりの死がどんなに尊く、有難いものであるかを感謝できるのではないでしょうか。
 しかも、罪の赦しだけではないのです。イエス・キリストを信じる者は、中身は罪人のままであるにもかかわらず、神の義となる、つまり神様から義なる者、正しい人と認められ、その立場は永遠に変わらないと保証されていました。
 日々心の中で殺人の罪を犯す私たちを、ただイエス・キリストの罪の贖いを信じているからという一点で、神様はさばかず、責めず、正しい者として守ってくださる。この新しい立場を自覚して、心から安心して生きる。これがクリスチャンの人生であることを確認したいと思います。
 第二に、イエス・キリストの十字架の死は、私たちに十字架を誇りとする新しい生き方をもたらすということです。今日の聖句を読んでみたいと思います。
 ガラテヤ6:14「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」

 これは、十字架に死んだイエス・キリストなど救い主ではありえないとし、キリスト者を迫害していたパウロのことばです。十字架に躓き、反発していた者が、十字架の意味、十字架の尊さが分かったら180度の大転換。キリストの十字架以外誇りとするものは持たないという生き方に変えられたと言うのです。
 以前の教会で、教会学校の奉仕を共にさせて頂いていたSさんという年配の婦人がいました。Sさんは子供の頃お母さんが大好きでしたが、ただ一つ嫌なのは、お母さんと銭湯にゆくことだったそうです。何故か。お母さんの背中には黒く爛れたケロイド上の皮膚があり、それが人目につくとお母さんの存在をとても恥ずかしく感じたからです。
 しかし、ある時お父さんから、それが自分の小さい頃、薬缶のお湯をこぼしてできた火傷で傷ついた皮膚の代わりに、お母さんが移植した手術のあとであることを教えられ、お母さんの黒い皮膚はSさんの誇りになったという証です。十字架について子供たちに話すとき、いつもSさんが話してくれた体験談です。
 イエス・キリストを離れたら、自分は良きものを何一つ受け取る立場にはいないのを自覚すること。人生において与えられるすべてのものを、イエス様が十字架の死によって買い取って下さったものと考え、感謝して受け取ること。イエス様がその命を父なる神様のすばらしさを表すために使われたように、この人生と受け取ったものすべてを、キリストのすばらしさを示すために使うべくつとめること。私たちもキリストの十字架を誇りとする生き方にとりくめたらと思います。

2014年4月6日日曜日

コリント人への手紙第一10章31節 「神の栄光をあらわすための人生」

先週は桜が満開。今週はめぐみの園の入園式、全国の学校でも入学式が行なわれ、新年度のスタートを感じる季節となりました。その様な中、今日は2014年度最初の礼拝。この礼拝に備えて、2014年度をどのように歩むべきかを思い巡らしていた時、与えられたのが、今読んでいただいたことばです。
今日は、このことばを学ぶことにより、私たち皆が神様の栄光を現すという願いを抱き、その願いにおいてひとつとなり、新しい年度を歩んで行けたらと思います。
さて、このことばは使徒パウロが、コリントにあった教会に宛てた手紙のなかにあるもの。当時コリントの教会と言えば対立、分裂に不品行。非常に世俗的な教会として知られていました。
そんなコリントの教会の抱えていた問題の一つが食べ物の問題。コリントの町には異教の神殿が多くありましたが、そこに祭られた異教の神々、聖書が偶像と呼ぶものにささげた肉を食べてよいのかどうか。この問題を巡って喧々諤々。教会は揺れに揺れていたのです。
方や、偶像など実際は存在しないのだから、いつ、どこで、誰と食べようが各人の自由。人にとやかく言われる筋合いは無いとする自由派がいました。かと思えば、偶像にささげられた肉など、たとえ市場で売られていても汚れている。どんな場合も神を信じる者は食べるべからず。そう主張する禁欲派もいたらしいのです。これを聞いたパウロが、問題を整理し、考え方の基本をアドバイスしたのが、この手紙の第10章です。
先ず、パウロは、偶像の宮で行なわれる祝宴で、供え物の肉を食べることは偶像崇拝に通じるとして、これを不可としました。そして、次は偶像の神殿ではなく、一般の家庭で私的な集まりの場合はどうなのかということを取り上げると、その場合は別であり、かまわない、と明言したのです。
町の市場で売られている肉の中に、偶像にささげられた肉が混じっていても、それを買って食べることは問題なし。その場合、肉がいちいち偶像にささげられた肉かどうかを詮索し、心配するのは不必要なこと。何故なら、肉も野菜も、神様が創造したもの、神様の恵み。それ自体は汚れていないのだから、感謝して食べれば良いとアドバイスしました。
しかし、物事はケースバイケース。私たちに肉を食べる自由と権利はあるとしても、それを実行するかどうか決める際は、自分の利益よりも、他人の利益を十分考える必要がある。偶像にささげた肉を食べたら汚れると心配する、宗教的に神経質な人がその思いをことばにしたら、その人の心の平安のために食べてはいけないとも命じたのです。
すべてのものは、神様からの恵みとして食べて良いと言う自由の原則。しかし、大切な兄弟姉妹の心を痛めると察したら、喜んで自由も権利も捨てて、相手の益となるよう行動するという愛の原則。たかが肉のこと、たかが食べ物のことではない。ごく日常的な飲み食いのこと、日常茶飯事に、私たちクリスチャンとしての考え方、生き方が現れると教えられます。
こうした流れのなか発せられたパウロの有名なことばが「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(Ⅰコリント10:31)だったのです。
そして、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにする。これは、私たちが神様に創造された目的、イエス・キリストによって十字架で罪を贖われた目的と、聖書は教えています。私たちは、神様の栄光、聖さ、偉大さ、麗しさ、すばらしさを現わすため、造られ、救われ、この世に生かされている存在。神を信じる信仰と生活とが分離しないように。日常生活の中で、神様の栄光を現わすために考え、行動する。このことを、私たちはどれだけ自覚しているでしょうか。
ところで、神様の栄光を現わすとは具体的にどのような意味なのでしょうか。
ウェストミンスター小教理問答の第一問は「人のおもな目的は何ですか」。その答えは、人のおもな目的は、神の栄光を現わし、永遠に神を喜ぶことでした。ここで、教えられるのは、神様の栄光、すばらしさを表すことと、神様を喜ぶことはコインの表裏の関係にあるということです。
ある人は、神の栄光を現わすために生きると聞くと、自分が神に利用されているように感じるかもしれません。人間は神を喜ぶために造られたと聞くと、人間は神のために造られた道具かと思う人もいるかもしれない。
しかし、これは誤解でした。中高生のキャンプで、自分はお父さんを尊敬している。お父さんが大好きだ。お父さんのような人になりたい。そんな中高生の声を聞いたことがあります。牧師、サラリーマン、大工など、彼らの父親の職業は様々でした。
私は、自分が子どもからどう思われているのか、非常に心配になるのと同時に、「彼らの父親は幸せだなあ」と感じました。しかし、尊敬し、愛し、憧れる父親を持つ彼ら子どもたちはもっと幸せではないかと思われます。
自分の益のために利用したり、利用されたり。自分の権利のために道具にしたり、道具にされたり。父親と子ども、神様と私たち人間の関係はこの様なものではありません。
父親を尊敬し、愛し、その生き方に憧れる子ども、父親を喜ぶ子どもは、その喜びを通して父親のすばらしさを示しています。人生において受け取る物、出来事、人との出会い、それらすべてにおいて神様の愛を思い、神様を喜ぶなら、私たちはその喜びを通して、神様の栄光、すばらしさを示すことができるし、私たちもまた幸福なのです。
私たちは、休むことなく働く心臓も、健康な手足も、太陽も、雨も、友人も配偶者も、親も子も、すべてを当たり前と思っていないでしょうか。当然のように、自分のものと考えてはいないでしょうか。
しかし、それら一切は、本来私たちが受けるに値しないものと聖書は教えていました。本来罪人の私たちが受け取るべきは、神のさばきとしての死だと言うのです。

ローマ6:23「罪から来る報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」


本来、私たちは死を代表とする、意味の無いもの、呪われたもの、悪いものを受け取るべき立場にいましたのに、キリストが十字架の死で罪を贖ってくださったお蔭で、すべての良いものを無償で、神様からの贈り物として受け取ることができるようになった。この本来の立場を自覚することなくして、神様と神様にある人生を喜ぶことはできないと思います。

キリストの十字架を離れては、神のさばき以外受け取れなかった私たち。それが、キリストの十字架の死に現れた神様の愛を信じた時、幸いも、良き友との出会いも、健康も、人生において受け取る全て良いものは、神様からの贈り物と考え、神様を喜ぶことができるようになる。それどころか、苦難も、愛しにくい人との出会いも、病も、私たちをキリストに似た者へと造りかえるためのプレゼントとして受け取り、神様を喜ぶことができるようになる。これが、神様の栄光を現わすことでした。
第二に、生活のあらゆる分野で、神様のすばらしさを人々に示してゆくことです。
コリント教会の兄弟姉妹の問題。それは、どこまでも自分の権利に固執し、譲らないことでした。イエス・キリストは、神としての栄光、権利を惜しみなく捨てて、地上にくだり、十字架に死んでくださったというのに、彼らはどこまでも自分の権利を守り、隣人のためにそれを捨てることができなかったのです。
しかし、これはコリント教会だけの問題ではないでしょう。特に、自分の権利はとことん守る。人のことなどおかまいなし。そんな考え方、生き方が蔓延する現代においては、人の益、人の幸いのために、自分の権利を喜んで捨てる。その様な生き方は愚かなものと笑われるかもしれません。
けれども、神を信じる私たちが、この世の人と同じ考え方、生き方をしていたら、誰が、神を知りたいと思うでしょうか。罪人のために、喜んでご自分の権利や持てるものを捨ててくださった神様を信じているはずの私たちが、自分の権利や持ち物や時間を守ること、拡大することを何よりも願い、情熱を傾けているとしたら、一体誰が、私たちの信じる神様について、関心をもつのでしょうか。
パウロは、イエス・キリストを信じる者は、自分を守ることを第一とする生き方を十字架につけられたと告白しています。

 ガラテヤ2:20「私はキリストとともに、十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」


日々、自分第一の古い生き方を十字架につけること、また、自分のような罪人のために惜しみなくその身を十字架につけ、捨ててくださったイエス・キリストが内に生きていることを自覚し、日々キリストの命を育てること。古い自分に死に、新しく頂いたキリストの命を生きる、育てる。これが、神の栄光を表す歩みであることをおぼえたいと思います。

イエス・キリストは、人々に「あなたが信じるようになれ」と言われました。「あなたが信じるようになれ」。何とも不思議なことばですが、神様は、人間は自分が信じるところ、願うところの者になってゆく。その様な存在として私たちを造られたということでしょう。
そうだとすれば、何を第一の願いとして選ぶか。何を第一の願いとして生きるかは、本当に私たちの人生に大きな影響を与えることになると思います。
果たして、皆様の第一の願い、最も情熱を傾けていることは何でしょうか。自分の権利や持ち物を守ることでしょうか。それとも、この身をもって神様の栄光を表すこと、すばらしさを示すこと、神様から与えられたもので心満ちたり、神様を喜ぶこと。この様な生き方が第一の願い、最も情熱を傾けることになっているでしょうか。
しかし、私たちは救われた罪人。いまだ自己中心の性質は心に根を張り、神様の栄光を表すという願いにおいても、それを日常生活で実践するという点においても、はなはだ弱い者です。
けれども、そんな私たちが取り組めることを、最後に二つ確認したいと思います。
ひとつ目は、イエス様の生き方にならう、まねをするということです。パウロは、今日のことばのあとで、コリントの兄弟姉妹に「私がキリストをみならっているように、あなたがたも私をみならってください。」(11:1)と勧めていました。
パウロがイエス様の考え方、生き方にならっていたのなら、私たちも同じようにしたいと思います。子どもが大好きなお父さんのようになりたい。お母さんのようになりたい。そう考え、お父さんの行動のまねをしたり、お母さんの服装のまねをしてみたりすることがあるでしょう。私たちは愛する人、尊敬する人がいたら、その人にならいたい、まねをしたいという気持ちが自然に湧いてきます。
小学生の頃、私の憧れ、尊敬する人、スターは、巨人の王選手とピッチャーの堀内選手でした。寝てもさめても遊びは野球、読む本は野球、テレビも野球の毎日でした。友達と野球が出来ない時は、コンクリートの壁にストライクゾーンを書くと、それに向かって、堀内選手のフォームそっくりに球を投げ、阪神タイガース相手に一回から九回まで一本もヒットを打たれない完璧なピッチングをして、満足する。
家に帰れば帰ったで、王選手が一本足打法を身につけるため、荒川コーチと修行をしたという場面を思い起こし、新聞紙を丸めたボールを家の電灯の紐の先につけ、それを新聞紙で作ったバットで打つ。王選手が激しい練習で畳を何枚もだめにしたという話を知っていましたから、自分もと思ってわざわざ畳を足で強くこする。電球のひもと畳がすぐに悪くなると、母親から何度怒られたことか。
もちろん、いくら子どもでも、自分が堀内選手や王選手になれるとは考えていませんでしたが、尊敬し、憧れるスターの真似ができるということ自体が途轍もなく喜びだったのだと思います。
そうだとすれば、私たちにとって最高に尊敬し、憧れ、愛するお方、イエス・キリストにならう、イエス・キリストにまねることが、喜びでないなどということがあるでしょうか。イエス様だったら、このような時どう考えるのか。どう行動しただろうか。その様な歩みができたらと思います。
ふたつ目は、神様の栄光を現わすことを願い続け、情熱を抱き続けるために、聖書を読むことです。信仰の友、先輩と交わり、聖書的な考え方、生き方を学ぶことです。そして、神様と交わり、神様の愛に憩う時間を持つことです。
私たちの心は、水を汲んでもすぐに網の目から洩らしてしまうざるのような物。一つのことを願い続け、情熱を抱き続けることは容易ではありません。そして、ざるから水を洩らさない方法は、水の中につけておくこと。そうだとすれば、私たちの心ができる限り、聖書と神を信じる仲間と神様ご自身とともにいられるようにすることにつとめるのが最上の生き方、時間の使い方ではないでしょうか。
人生とは時間のすごし方、時間の使い方で人生は決る。私たちの魂にとって最も大切なことに優先順位を置いて、この一年を歩んでゆきたいと思います。

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(Ⅰコリント10:31)