さて、時は紀元30年頃。季節は春。ユダヤ最大の祭り、過越しの祭りを翌日に控えた金曜日の昼12時。十字架の立つゴルゴダの丘を中心に、都エルサレムは、突如暗闇に覆われたと聖書は語ります。
15:33、34「さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」
イエス様が十字架に釘付けにされたのは朝の9時。世界史上最も残酷な刑罰と言われる十字架刑は、すでに鞭打ちによって痛めつけられたイエス様の体をさらに苦しめたと思われます。それに加えて、ユダヤの祭司長、律法学者、道行く人々ら、すべての人が浴びせた嘲りのことばは、どれほどイエス様の心を挫いたことでしょう。
そして、不思議なことに、人々のことばは異口同音。本当にお前が救い主だと言うなら、十字架から降りて、自分を救ってみろと罵ったのです。もちろん、イエス様の力をもってすれば、十字架から降りて自分を救うことは容易なこと。しかし、それでは人類の罪を贖うために命をささげると言う使命は果たせない。そう思い、計り知れない肉体的、精神的苦しみに耐えながら、自ら十字架の上にとどまり続けたのがイエス様でした。
しかし、真昼の12時。突然全地を覆った暗闇は人々の心を恐れしめ、さっきまで嘲り、罵り続けていた者たちの口を閉じさせたようです。それもそのはず。聖書において、暗闇は神様のさばきを示すもの、超自然的な出来事でした。
人類の先祖アダムが罪を犯して以来、この世界は神のさばきのもとにあることを聖書は教えています。自然環境の悪化、人間の悪行が法律などによりさばかれること、悪しき思いのまま、平気で悪を重ねる人間の生き方などに、神のさばきは示されているのです。
しかし、この時、ユダヤの都エルサレムを襲った暗闇は、神による特別なさばき。すべての人間に対する最後の、究極的なさばきを示すものと考えられてきました。そして、神の完全な義のさばきは、ただひとりイエス様の上に、罪なき神の御子の上に降ったのです。
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫び声は、イエス様が私たち人間の罪を背負い、本当に父なる神様から捨てられたこと、さばかれたこと、神様の愛のまったく及ばない世界に落ちたことを物語っていました。
十字架刑による肉体的痛み、人々の嘲りのことばによる精神的悩み。それに加えて、これが最も深く心を裂いたであろう、父なる神から見捨てられ、さばかれるという霊的な苦しみ。
しかし、それにもかかわらず、罪人を愛するがゆえに十字架の上にとどまり続けられたイエス様の思いを、当の罪人は知らないし、理解しようともしませんでした。わが神を意味する「エロイ」ということばを聞き違えたか、そばに立っていた幾人かの人が、イエス様は預言者のエリヤに助けを求めていると誤解したようです。安物の酸いぶどう酒を飲ませて囚人の命を少々長引かせ、本当に預言者エリヤが生き返って助けに来るのかどうか、一丁見物してやろう。そう人々は考えたと言うのです。
15:35、36「そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、『そら、エリヤを呼んでいる』と言った。すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。『エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。』」
先の道行く人々の嘲りといい、この無理解な人々の心無い行動といい、どれほどイエス様の心を落胆させたことか。しかも、この時は愛する天の父からの支えもない状態で、全くの一人きり。ただおひとりで人類の罪を背負い、身代わりの死を遂げんとするイエス様の苦しみは計り知れないと思われます。
そして、ついにイエス様の救い主としての罪の贖いのわざが完成する時が来ました。福音書のクライマックス、全聖書の頂点とも言うべき二行です。
15:37、38「それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」
イエス様が息を引き取る間際に大声を上げて叫ばれたことばは、ヨハネの福音書で「完了した」と記されています。罪から救われ、神の子となるために私たち人間が何一つ付け加える必要はない。イエス様が必要なことは全部してくださった、完成してくださった。私たちがすべきこと、できることはただひとつ。十字架のイエス様を救い主と仰ぎ、信じることのみ。
私たちを心から安心させてくれる「完了した」という、この一言を大声で言うために、イエス様は酸いぶどう酒を飲み、力を振り絞られたのです。自分が楽になるためではなく、私たちを安心させるために。最後までイエス様は自分のためではなく、私たち罪人のために生きられた。そう感じさせてくれる場面です。
そして、その最後の一言が発せられるや否や、エルサレム神殿の幕が真っ二つに裂けました。神殿の幕は、神と人間とを隔てていたもの。これまで、この幕を通って、神のご臨在される最も奥の至聖所に入れたのは、罪のいけにえをもった大祭司ひとりでした。それを、今この時、イエス様が真の大祭司となり、ご自分の命を真の罪のいけにえとして十字架にささげられので、隔ての幕が裂けたのです。
イエス・キリストを信じる者は、誰でも自由に神様のところに行き、親しく神様と交わることが出来るようになったということです。
そして、十字架上でのイエス様の行動やことば。イエス様が発した「完了した」とのことばとともに暗闇は晴れ、神殿の幕が裂けた事。これらを通して、数は少ないながらも、イエス・キリストの命がけの愛を心に受けとめた人がこの場にいたと聖書は語っています。
15:39~41「イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『この方はまことに神の子であった』と言った。また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。」
ローマ人の百人隊長はイエス様処刑の指揮を執っていた人物の一人。そのような人物が「この方はまことに神の子であった」と信仰を告白することは、どれほど勇気が必要だったでしょう。また、わが身の安全のため、雲の子を散らすように逃げた情けない男の弟子に代わって、イエス様の最後を見守ろうと、ゴルゴダの丘に足を運んだ女性の弟子たちの信仰も命がけでした。
この百人隊長と女性たちこそ、イエス・キリストの十字架の目撃者、数少ない証人として活躍し、兄弟姉妹を励ましたのではと考えられます。
さて、今日の十字架の場面。イエス・キリストの十字架の死は、私たちに何をもたらしたのか。私たちの人生をどのように変えたのか。二つのことを確認したいと思います。
第一に、イエス・キリストの十字架の死は、私たちを神様との関係において新しい立場に置いたということです。このことについて、聖書はこう教えていました。
Ⅱコリント5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされた。言い換えるなら、本来十字架の上で神のさばきを受けるべき立場に、私たちがいたと聖書は語っているのです。皆様は、このことばに同意できるでしょうか。それとも、確かに自分は罪を持っているが、十字架に死ななければならないほどのものではないと反発されるでしょうか。
神様を離れて生きる人間の特徴のひとつは、罪を神様の視点からではなく、ほかの人との比較の中で考えるということです。イエス様の時代の宗教家、パリサイ人や律法学者と呼ばれる人々がまさにその典型でした。
ひとつの例を挙げますと、「殺してはならない」という神様の戒めを、その頃の宗教家たちは殺人という人間社会の法律を犯すことと同列に考え、教えていたのです。それに対して、イエス様は、神様の戒めの真の意味は心の殺人を指すとされました。
5:21~24「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」
イエス様の言われる心の殺人とは何でしょうか。理由はどうであれ、人に向かって腹を立てること。人に向かって能無しとかばか者と言うこと、思うこと。それぞれさばきを受ける、最高議会に引き渡される、ゲヘナに投げ込まれると区別されていますが、要するにどれも神様の最後のさばきに値する罪だと指摘されているのです。
それぐらい、人間なら誰しも身に覚えのあること。思っただけ、ことばにしただけで地獄に投げ込まれるなど、余りにも厳しすぎないか。「赤信号皆で渡れば怖くない」式の考えで、世間一般がそうであるなら、罪とまでは言えないと、私たちの生まれながらの性質は反発を覚えるのです。聖なる神様の眼から見たらどうなのかとは考えようとしない、神様抜きの生き方です。
そのような私たちにとってさらに驚くのは、理由はどうあれ、もし隣人が自分を恨んでいることを思い出したら、供え物はそのままつまり礼拝を中断して、まずその人と仲直りすることにつとめなさいという命令です。
人に腹を立てるな、見下すな、感情的に責めるな。そうした態度やことばを口にしないだけでなく、心にその様な思いを抱いてもさばかれるべき罪。それだけでなく、自分を恨み、快く思っていない人のために、自分のほうから和解し、仲良くなるよう、愛をもって行動しないなら、それもまた神様のさばきに値する罪だと教えられるのです。
思いとことばと行動における自分の罪を、世間一般と比べてではなく、聖なる神様の眼から見て、その酷さ、汚さを思うこと。自分こそあの十字架の上にいるべき存在であったと悟ること。
そんな自分がキリストを信じることで、あらゆる罪を赦して頂ける。それを思う時、私たちはイエス様の身代わりの死がどんなに尊く、有難いものであるかを感謝できるのではないでしょうか。
しかも、罪の赦しだけではないのです。イエス・キリストを信じる者は、中身は罪人のままであるにもかかわらず、神の義となる、つまり神様から義なる者、正しい人と認められ、その立場は永遠に変わらないと保証されていました。
日々心の中で殺人の罪を犯す私たちを、ただイエス・キリストの罪の贖いを信じているからという一点で、神様はさばかず、責めず、正しい者として守ってくださる。この新しい立場を自覚して、心から安心して生きる。これがクリスチャンの人生であることを確認したいと思います。
第二に、イエス・キリストの十字架の死は、私たちに十字架を誇りとする新しい生き方をもたらすということです。今日の聖句を読んでみたいと思います。
ガラテヤ6:14「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」
これは、十字架に死んだイエス・キリストなど救い主ではありえないとし、キリスト者を迫害していたパウロのことばです。十字架に躓き、反発していた者が、十字架の意味、十字架の尊さが分かったら180度の大転換。キリストの十字架以外誇りとするものは持たないという生き方に変えられたと言うのです。
以前の教会で、教会学校の奉仕を共にさせて頂いていたSさんという年配の婦人がいました。Sさんは子供の頃お母さんが大好きでしたが、ただ一つ嫌なのは、お母さんと銭湯にゆくことだったそうです。何故か。お母さんの背中には黒く爛れたケロイド上の皮膚があり、それが人目につくとお母さんの存在をとても恥ずかしく感じたからです。
しかし、ある時お父さんから、それが自分の小さい頃、薬缶のお湯をこぼしてできた火傷で傷ついた皮膚の代わりに、お母さんが移植した手術のあとであることを教えられ、お母さんの黒い皮膚はSさんの誇りになったという証です。十字架について子供たちに話すとき、いつもSさんが話してくれた体験談です。
イエス・キリストを離れたら、自分は良きものを何一つ受け取る立場にはいないのを自覚すること。人生において与えられるすべてのものを、イエス様が十字架の死によって買い取って下さったものと考え、感謝して受け取ること。イエス様がその命を父なる神様のすばらしさを表すために使われたように、この人生と受け取ったものすべてを、キリストのすばらしさを示すために使うべくつとめること。私たちもキリストの十字架を誇りとする生き方にとりくめたらと思います。