昔から続けられてきた議論のひとつに、「死後の命はあるかないか」というものがあります。どちらの立場にもそれなりの考え方があり、興味深く感じますが、結局は五分五分。死後の命はないだろうとは言えても、ないと断定はできない。死後の命はあるのではないか、いやあってほしいと言う人はいても、あると断言できない。死後の命は、人間の推論や想像の及ばないところと思わされます。
それならば、キリスト教はどうなのか。キリスト教は真っ向から死後の世界を教えています。それも、イエス・キリストの復活という歴史の事実を基に、死後のいのちを説くことがキリスト教の根本でした。
死後のいのちはあるかないか。あると思えばあり、ないと思えばない。そのような人間の曖昧な推測や想像をこえて、ここに事実、死者の世界から復活してきた、イエス・キリストと言う証人がいる。イエス・キリストは十字架に死んで、三日目に復活し、死後のいのちがあることを、身を以て示されたと語るのです。
ここに紹介するのは、キリスト教徒迫害の鬼であったパウロのことば。パウロは、十字架に死んだ者など神ではないし、キリストの復活などあり得ないとの固い信念を持っていました。
そのパウロが、ある時復活のイエス・キリストに出会って、180度人生が変わったのです。推測や想像や願いではなく、実際に復活のキリストに出会うことによってクリスチャンになった人。それがパウロでした。
15:20「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」
注目していただきたいのは、「キリストはよみがえられたらしい」とか、「よみがえったと私は信じている」と言うのではなく、今やキリストは、死者の中からよみがえられましたと、復活が歴史の事実として断言されていることです。
いわば、キリストの復活は死者の世界からの便りであり、お知らせ、ニュース。死後のいのちに関する、ああだこうだという人間の百の議論も、キリストの復活という証拠ひとつでピリオドが打たれる。キリスト教は論より証拠の宗教でした。
イエス・キリストは復活して弟子たちの前に現れると、信じられないという弟子のために手やわき腹に触ってよい、いや十字架の跡に指を突っ込んでも構わないと言われ、幽霊ではないかと思った弟子とは、一緒に焼き魚を食べてみせました。
パウロも、自分以外にキリストの復活を目撃した証人は500人以上いると語り、それらの人々はどんなに迫害されても、キリスト復活を否定しなかったのです。
キリストの十字架の死により風前の灯となったキリスト教は、復活のキリストに出会い、キリストを神と確信した人々によって力強く前進。世界中に広まってゆくことになります。
イエス・キリストの生涯を背景に、気高く生きるひとりのユダヤ人の姿を描いた名画「ベン・ハー」の監督、ルー・ウォーレスは、最初キリスト否定論者、復活否定論者でした。しかし、映画撮影のためキリストの十字架と復活について調べるうち、ついにキリストの復活を否定できない事実と確信し、それが困難な映画撮影を成し遂げる原動力になったと言われます。
また、私たちも、どうして日曜日に教会に集まるのかと問われれば、「それは、私たちの救い主が、死者の世界から復活された記念日だから」と答えるでしょう。
こうして、キリストの復活という事実で、人間の議論にピリオドを打ったパウロは、キリストの復活が、私たちの復活にも通じることをも述べています。キリストは眠った者、死者の初穂としてよみがえられたと言うのです。
四日市ではすでに桜は散ってしまいましたが、同じ桜でも種類によって咲く時期が異なることを皆様もご存じと思います。3月上旬、初穂として一番最初に咲くのは河津桜、3月中旬になると小彼岸桜、4月の上旬入学式の季節になると咲き誇るのが最も知られた染井吉野です。つまり、河津桜が咲くと、およそ一か月後に染井吉野が咲く姿を確信できます。
それと同じく、二千年前のキリストの復活は、やがてきたるべき、私たちキリストを信じる者の復活の初穂、先駆けでした。キリストの復活によって、私たちは私たち自身の復活を確信できるし、確信すべしということです。
次に、パウロはキリスト復活の意味を語ります。これは、普段私たちが何気なく口にするいのちとか死の意味について、改めて考えさせてくれることばでした。
15:21,22「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」
息を吸って吐いて、食べて飲んで働いて眠る。また食べて飲んで働いて眠る。体が動いていれば生きている、命があると考える私たちに向け、聖書は「アダムにあってすべての人が死んでいる」と強烈な一言をぶつけてきます。
人類の先祖アダムが神様に背いたために死がこの世界に入り、そのアダムの性質を受け継いでいるので、私たちはみな霊的に死んでいると言うのです。
霊的な死とは、神様との関係で人生の目的や価値、物事の善悪を考えないこと、神様の教え抜きに、自分の思いで行動すること、神様以外のもので心満たそうとする生き方を言います。肉体的には生きていても、霊的には死んでいる状態です。
例えて言うなら、燃料がなくなった飛行機が、慣性の法則でしばらくの間空を飛んでいる状態でしょうか。外側から見れば大丈夫でも、飛行機を動かしている燃料が切れ、補給できない状態が続けば、必ずや墜落、破滅となります。
それと同じく、私たちも魂を本当に動かす燃料である、神様の愛を補給できない燃料ゼロが続けば、永遠の死、つまり神様の愛の全くない世界へ落ちてゆくと聖書は教えています。
しかし、イエス・キリストを信じるなら、私たちはみなキリストの復活のいのちに生かされ、魂を正しく動かす神様の愛という燃料を永遠に補給し続けること、これに満たされることができると教えられるのです。
はたして、自分はアダムにあって死んでいるのか。それとも、キリストにあって生かされている者か。ひとりひとり振り返ってみたいと思います。
神様との関係で人生の目的、物事の善悪を考えているか。自分の思いではなく、神様の御心を第一にして行動しようとしているか。自分の魂を本当に動かしているのは、食欲か物欲か名誉欲か、それとも神様の愛か。肉体的に生きているのは確かだとしても、自分の霊的な命はどのような状態か。いつも、神様との関係でいのちを考える者でありたいと思います。
さて、そうであるなら、イエス・キリストを信じ、キリストの復活のいのちに生かされる者となったのなら、初穂であるキリストが死後三日目によみがえったように、どうして私たちも死後三日目によみがえらないのかと言う人もあったのでしょう。そんな疑問に、パウロはこう答えています。
15:23~26「しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。」
植物が花を咲かせ、実をつけるにも、それぞれの時期があるように、復活にも神様が定めた時期があると言うのです。私たちの復活は、イエス・キリスト再臨の時に指定されていました。
何故でしょうか。キリストがもう一度この世界に戻られる時、人間の罪に満ちたこの世界のあり方が正しく改められ、最後の敵である死も完全に滅ぼされるからと、聖書は語ります。
最後の敵である死。どんなに悲しくても、どんなに恐ろしくても、どんなに虚しく感じても、すべての人が現実として受け入れるしかなかった死。ソクラテスもプラトンも、釈迦も孔子も、宗教家も哲学者も、避けられない現実としてきた死。それが無力になる。死が死んでしまうという世界でした。
「終わり」というのは、罪によって汚れたこの世界のあり方が終わり、人間のいのちとこの世界が神様によって全く新しくされること、神の国、天国の完成をさします。
私たちの復活が死後三日目ではなく、天国の完成を待って実現すること。これにも、神様のご配慮があるように思われます。
皆様は、死後三日で、もう一度この罪に満ちた世界に復活したいと思われるでしょうか。悲惨なこの世界で、時には涙を流し、時には呻き、しかし力一杯生き抜いたなら、次は神様の用意された新しい世界、天国に復活し、永遠にそこで過ごしたいとは思われないでしょうか。
桜が寒さ厳しい冬をじっと忍耐し、暖かい春の訪れを待って、実をつけ花を咲かせるように、私たちもこの世界が最高、最善の環境に整えられるのを待って、よみがえるのです。まるで、親がお腹の中にいる子どものために、よい部屋やベッドを準備するように、それを受けるに価しない私たちのために、最高、最善の環境を準備しくださる神様に感謝したいと思います。
最後に、復活を確信することは、私たちの人生にどのような影響があるのか。二つのことを確認したいと思います。今日の聖句です。
3:20,21「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」
第一に、「私たちの国籍は天にある」とあるように、この地上で天国の民として生きることです。具体的には、天に国籍がある者、天国の民として、考え、行動することです。
もし、私たちがこの世の国にだけ国籍があるとしたら、この世の法律を守るだけで十分と思うでしょう。しかし、天に国籍があるのなら、神のことばが従うべき法律となります。私たちが日々意識するのは、地上の法律でしょうか。それとも、それ以上に神様のことば、神様の御心が心に刻まれているでしょうか。
また、もし私たちがこの世の国にだけ国籍があるとしたら、この世での自分の権利、名誉、財産を守ることが最大の願いでしょう。しかし、天に国籍があるのなら、神様の栄光、すばらしさを示す生き方をすることが、何ものにもまさる願いとなるはずです。
第二に、死後の復活を心から待ち望むことです。
ドイツ語では、お墓のことを「神の畑」と言うそうです。神様の作るいのちが芽を出す場所.なるほどと思います。今墓に眠っているキリスト者の体は、なんとイエス・キリストの栄光の体と同じものに造りかえられて復活すると言われるのです。
聖書には、全身膿の塊と化すという恐ろしい病気に苦しむヨブと言う人が登場します。ヨブほどではなくとも、根治、完治することのない病に犯された人々にとって、新しいいのち、新しいからだへの夢は切実です。体を損なった人々は、いわゆる五体満足の健康そのもののからだ、復活のからだを心から期待しておられます。
どんなに医学が発達しても、私たち人間はこの世界にある限り、病の苦しみ、痛みから逃れることはできないでしょう。しかし、イエス・キリストの復活を神様のみわざ、歴史の事実と信じる私たちは、私たち自身のからだも、キリストの栄光のからだに変えられる復活が、事実起こると信じています。なぜなら、神様の愛と真実に信頼するからです。
その日、私たちは神様が造られた本物の健康な体がどんなに力強く、心地よいものであるか驚くでしょう。この体がどんなに素晴らしい能力を本来備えているか、今よりもさらに深く知ることによって、神様をほめたたえることでしょう。
個人的なことですが、私が大のジャイアンツファンであることは皆様ご存知と思います。しかし、私は巨人ファンである以上に、野球というスポーツが好きです。知的で、肉体的で、男性も女性も楽しめる野球を愛しています。そんな私の願望ですが、天国では私のようなものでも、練習次第ではダルビッシュのような速球を投げ、イチローのような華麗な守備と王選手のようなホームランを打って、心から野球を楽しめるからだが与えられるのではないかと心から期待しています。
死んだらおしまいという人の生き方、また死後のいのちはあるかないかわからないという人の人生と、死んで後さらにすばらしいいのちに入ると確信している人の生き方は、まるでちがうことがお分かりになったでしょうか。キリストの復活と言う事実によってもたらされた人生観で自分の人生観を立て直したい。本当に手ごたえのある、先行きのあるいのちに生きたい。このイースターの礼拝、私たちみながこの様な願いにおいて一つになれたらと思います。