2014年4月6日日曜日

コリント人への手紙第一10章31節 「神の栄光をあらわすための人生」

先週は桜が満開。今週はめぐみの園の入園式、全国の学校でも入学式が行なわれ、新年度のスタートを感じる季節となりました。その様な中、今日は2014年度最初の礼拝。この礼拝に備えて、2014年度をどのように歩むべきかを思い巡らしていた時、与えられたのが、今読んでいただいたことばです。
今日は、このことばを学ぶことにより、私たち皆が神様の栄光を現すという願いを抱き、その願いにおいてひとつとなり、新しい年度を歩んで行けたらと思います。
さて、このことばは使徒パウロが、コリントにあった教会に宛てた手紙のなかにあるもの。当時コリントの教会と言えば対立、分裂に不品行。非常に世俗的な教会として知られていました。
そんなコリントの教会の抱えていた問題の一つが食べ物の問題。コリントの町には異教の神殿が多くありましたが、そこに祭られた異教の神々、聖書が偶像と呼ぶものにささげた肉を食べてよいのかどうか。この問題を巡って喧々諤々。教会は揺れに揺れていたのです。
方や、偶像など実際は存在しないのだから、いつ、どこで、誰と食べようが各人の自由。人にとやかく言われる筋合いは無いとする自由派がいました。かと思えば、偶像にささげられた肉など、たとえ市場で売られていても汚れている。どんな場合も神を信じる者は食べるべからず。そう主張する禁欲派もいたらしいのです。これを聞いたパウロが、問題を整理し、考え方の基本をアドバイスしたのが、この手紙の第10章です。
先ず、パウロは、偶像の宮で行なわれる祝宴で、供え物の肉を食べることは偶像崇拝に通じるとして、これを不可としました。そして、次は偶像の神殿ではなく、一般の家庭で私的な集まりの場合はどうなのかということを取り上げると、その場合は別であり、かまわない、と明言したのです。
町の市場で売られている肉の中に、偶像にささげられた肉が混じっていても、それを買って食べることは問題なし。その場合、肉がいちいち偶像にささげられた肉かどうかを詮索し、心配するのは不必要なこと。何故なら、肉も野菜も、神様が創造したもの、神様の恵み。それ自体は汚れていないのだから、感謝して食べれば良いとアドバイスしました。
しかし、物事はケースバイケース。私たちに肉を食べる自由と権利はあるとしても、それを実行するかどうか決める際は、自分の利益よりも、他人の利益を十分考える必要がある。偶像にささげた肉を食べたら汚れると心配する、宗教的に神経質な人がその思いをことばにしたら、その人の心の平安のために食べてはいけないとも命じたのです。
すべてのものは、神様からの恵みとして食べて良いと言う自由の原則。しかし、大切な兄弟姉妹の心を痛めると察したら、喜んで自由も権利も捨てて、相手の益となるよう行動するという愛の原則。たかが肉のこと、たかが食べ物のことではない。ごく日常的な飲み食いのこと、日常茶飯事に、私たちクリスチャンとしての考え方、生き方が現れると教えられます。
こうした流れのなか発せられたパウロの有名なことばが「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(Ⅰコリント10:31)だったのです。
そして、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにする。これは、私たちが神様に創造された目的、イエス・キリストによって十字架で罪を贖われた目的と、聖書は教えています。私たちは、神様の栄光、聖さ、偉大さ、麗しさ、すばらしさを現わすため、造られ、救われ、この世に生かされている存在。神を信じる信仰と生活とが分離しないように。日常生活の中で、神様の栄光を現わすために考え、行動する。このことを、私たちはどれだけ自覚しているでしょうか。
ところで、神様の栄光を現わすとは具体的にどのような意味なのでしょうか。
ウェストミンスター小教理問答の第一問は「人のおもな目的は何ですか」。その答えは、人のおもな目的は、神の栄光を現わし、永遠に神を喜ぶことでした。ここで、教えられるのは、神様の栄光、すばらしさを表すことと、神様を喜ぶことはコインの表裏の関係にあるということです。
ある人は、神の栄光を現わすために生きると聞くと、自分が神に利用されているように感じるかもしれません。人間は神を喜ぶために造られたと聞くと、人間は神のために造られた道具かと思う人もいるかもしれない。
しかし、これは誤解でした。中高生のキャンプで、自分はお父さんを尊敬している。お父さんが大好きだ。お父さんのような人になりたい。そんな中高生の声を聞いたことがあります。牧師、サラリーマン、大工など、彼らの父親の職業は様々でした。
私は、自分が子どもからどう思われているのか、非常に心配になるのと同時に、「彼らの父親は幸せだなあ」と感じました。しかし、尊敬し、愛し、憧れる父親を持つ彼ら子どもたちはもっと幸せではないかと思われます。
自分の益のために利用したり、利用されたり。自分の権利のために道具にしたり、道具にされたり。父親と子ども、神様と私たち人間の関係はこの様なものではありません。
父親を尊敬し、愛し、その生き方に憧れる子ども、父親を喜ぶ子どもは、その喜びを通して父親のすばらしさを示しています。人生において受け取る物、出来事、人との出会い、それらすべてにおいて神様の愛を思い、神様を喜ぶなら、私たちはその喜びを通して、神様の栄光、すばらしさを示すことができるし、私たちもまた幸福なのです。
私たちは、休むことなく働く心臓も、健康な手足も、太陽も、雨も、友人も配偶者も、親も子も、すべてを当たり前と思っていないでしょうか。当然のように、自分のものと考えてはいないでしょうか。
しかし、それら一切は、本来私たちが受けるに値しないものと聖書は教えていました。本来罪人の私たちが受け取るべきは、神のさばきとしての死だと言うのです。

ローマ6:23「罪から来る報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」


本来、私たちは死を代表とする、意味の無いもの、呪われたもの、悪いものを受け取るべき立場にいましたのに、キリストが十字架の死で罪を贖ってくださったお蔭で、すべての良いものを無償で、神様からの贈り物として受け取ることができるようになった。この本来の立場を自覚することなくして、神様と神様にある人生を喜ぶことはできないと思います。

キリストの十字架を離れては、神のさばき以外受け取れなかった私たち。それが、キリストの十字架の死に現れた神様の愛を信じた時、幸いも、良き友との出会いも、健康も、人生において受け取る全て良いものは、神様からの贈り物と考え、神様を喜ぶことができるようになる。それどころか、苦難も、愛しにくい人との出会いも、病も、私たちをキリストに似た者へと造りかえるためのプレゼントとして受け取り、神様を喜ぶことができるようになる。これが、神様の栄光を現わすことでした。
第二に、生活のあらゆる分野で、神様のすばらしさを人々に示してゆくことです。
コリント教会の兄弟姉妹の問題。それは、どこまでも自分の権利に固執し、譲らないことでした。イエス・キリストは、神としての栄光、権利を惜しみなく捨てて、地上にくだり、十字架に死んでくださったというのに、彼らはどこまでも自分の権利を守り、隣人のためにそれを捨てることができなかったのです。
しかし、これはコリント教会だけの問題ではないでしょう。特に、自分の権利はとことん守る。人のことなどおかまいなし。そんな考え方、生き方が蔓延する現代においては、人の益、人の幸いのために、自分の権利を喜んで捨てる。その様な生き方は愚かなものと笑われるかもしれません。
けれども、神を信じる私たちが、この世の人と同じ考え方、生き方をしていたら、誰が、神を知りたいと思うでしょうか。罪人のために、喜んでご自分の権利や持てるものを捨ててくださった神様を信じているはずの私たちが、自分の権利や持ち物や時間を守ること、拡大することを何よりも願い、情熱を傾けているとしたら、一体誰が、私たちの信じる神様について、関心をもつのでしょうか。
パウロは、イエス・キリストを信じる者は、自分を守ることを第一とする生き方を十字架につけられたと告白しています。

 ガラテヤ2:20「私はキリストとともに、十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」


日々、自分第一の古い生き方を十字架につけること、また、自分のような罪人のために惜しみなくその身を十字架につけ、捨ててくださったイエス・キリストが内に生きていることを自覚し、日々キリストの命を育てること。古い自分に死に、新しく頂いたキリストの命を生きる、育てる。これが、神の栄光を表す歩みであることをおぼえたいと思います。

イエス・キリストは、人々に「あなたが信じるようになれ」と言われました。「あなたが信じるようになれ」。何とも不思議なことばですが、神様は、人間は自分が信じるところ、願うところの者になってゆく。その様な存在として私たちを造られたということでしょう。
そうだとすれば、何を第一の願いとして選ぶか。何を第一の願いとして生きるかは、本当に私たちの人生に大きな影響を与えることになると思います。
果たして、皆様の第一の願い、最も情熱を傾けていることは何でしょうか。自分の権利や持ち物を守ることでしょうか。それとも、この身をもって神様の栄光を表すこと、すばらしさを示すこと、神様から与えられたもので心満ちたり、神様を喜ぶこと。この様な生き方が第一の願い、最も情熱を傾けることになっているでしょうか。
しかし、私たちは救われた罪人。いまだ自己中心の性質は心に根を張り、神様の栄光を表すという願いにおいても、それを日常生活で実践するという点においても、はなはだ弱い者です。
けれども、そんな私たちが取り組めることを、最後に二つ確認したいと思います。
ひとつ目は、イエス様の生き方にならう、まねをするということです。パウロは、今日のことばのあとで、コリントの兄弟姉妹に「私がキリストをみならっているように、あなたがたも私をみならってください。」(11:1)と勧めていました。
パウロがイエス様の考え方、生き方にならっていたのなら、私たちも同じようにしたいと思います。子どもが大好きなお父さんのようになりたい。お母さんのようになりたい。そう考え、お父さんの行動のまねをしたり、お母さんの服装のまねをしてみたりすることがあるでしょう。私たちは愛する人、尊敬する人がいたら、その人にならいたい、まねをしたいという気持ちが自然に湧いてきます。
小学生の頃、私の憧れ、尊敬する人、スターは、巨人の王選手とピッチャーの堀内選手でした。寝てもさめても遊びは野球、読む本は野球、テレビも野球の毎日でした。友達と野球が出来ない時は、コンクリートの壁にストライクゾーンを書くと、それに向かって、堀内選手のフォームそっくりに球を投げ、阪神タイガース相手に一回から九回まで一本もヒットを打たれない完璧なピッチングをして、満足する。
家に帰れば帰ったで、王選手が一本足打法を身につけるため、荒川コーチと修行をしたという場面を思い起こし、新聞紙を丸めたボールを家の電灯の紐の先につけ、それを新聞紙で作ったバットで打つ。王選手が激しい練習で畳を何枚もだめにしたという話を知っていましたから、自分もと思ってわざわざ畳を足で強くこする。電球のひもと畳がすぐに悪くなると、母親から何度怒られたことか。
もちろん、いくら子どもでも、自分が堀内選手や王選手になれるとは考えていませんでしたが、尊敬し、憧れるスターの真似ができるということ自体が途轍もなく喜びだったのだと思います。
そうだとすれば、私たちにとって最高に尊敬し、憧れ、愛するお方、イエス・キリストにならう、イエス・キリストにまねることが、喜びでないなどということがあるでしょうか。イエス様だったら、このような時どう考えるのか。どう行動しただろうか。その様な歩みができたらと思います。
ふたつ目は、神様の栄光を現わすことを願い続け、情熱を抱き続けるために、聖書を読むことです。信仰の友、先輩と交わり、聖書的な考え方、生き方を学ぶことです。そして、神様と交わり、神様の愛に憩う時間を持つことです。
私たちの心は、水を汲んでもすぐに網の目から洩らしてしまうざるのような物。一つのことを願い続け、情熱を抱き続けることは容易ではありません。そして、ざるから水を洩らさない方法は、水の中につけておくこと。そうだとすれば、私たちの心ができる限り、聖書と神を信じる仲間と神様ご自身とともにいられるようにすることにつとめるのが最上の生き方、時間の使い方ではないでしょうか。
人生とは時間のすごし方、時間の使い方で人生は決る。私たちの魂にとって最も大切なことに優先順位を置いて、この一年を歩んでゆきたいと思います。

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(Ⅰコリント10:31)