そのような私たちが、この日曜日、礼拝に導かれました。今一度、私たちの神様はどのようなお方で、その方の前で自分はどのように生きるべきなのか。何を大事にすべきか。神を愛し、人を愛するとは、私にとっては具体的にどのようなことなのか。真剣に考え、それに取り組む決心をする時として、この礼拝が祝福されますように。特に、聖書を読み、実践することの大切さを、エズラの姿を通して再確認し、取り組めるようにと願います。
私の説教の際、断続的に一書説教に取り組んでいます。六十六巻からなる聖書、一つの書を丸ごと扱い説教する。今日は十五回目。旧約聖書、第十五の巻、エズラ記を扱うことになります。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。
エズラ記は、これまで聖書に記されてきましたイスラエルの歴史の続きが記されることになります。今一度、イスラエルの歴史を確認しておきたいと思います。
神様を無視して生きる人間が増え広がる世界にあって、人間のあるべき生き方、神様を信じ、神様に従う生き方を示す使命が「神の民」に与えられます。その「神の民」に選ばれたのが、アブラハムとその子孫。
アブラハムの子孫は、イスラエル民族と呼ばれ、カナン(現在のパレスチナ)の地で、国家として成長します。ダビデ王、ソロモン王の時代、イスラエル王国は大繁栄をしますが、その後、王国が南北に分裂。北の国を、北イスラエル。南の国を、南ユダと呼ばれます。
南北に分かれたアブラハムの子孫、神の民は、それぞれの歴史を歩むことになります。ところで、「神の民」として選ばれた者たちが、その使命を果たさない時。神様を信じ、神様に従う生き方を止め、異教の神々、本来神でないものを拝するようになった時、裁きが下されるのですが、先に決定的な裁きが下されるのが、北イスラエル。アッシリアに滅ぼされ、北イスラエルは民族としてのアイデンティティを失います。非常に残念な歴史。その後、神の民として残された南ユダは、バビロンに敗北します。南ユダの多くの者たちは、バビロンに奴隷として連れて行かれるのですが、アイデンティティは失われることなく、バビロンにて「神の民」として歴史が続きます。
この南ユダの人々がバビロンに敗北して奴隷として連れて行かれる際、エレミヤという預言者を通して、神様の約束が与えられます。
エレミヤ29章10節
「まことに、主はこう仰せられる。『バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。』」
「神の民」が奴隷として生きる期間。バビロン捕囚という裁きの期間は、七十年という約束でした。
これまで読み進めてきました列王記、歴代誌の最後は、南ユダがバビロンに敗北し奴隷として連れて行かれる記録まで。奴隷として連れて行かれた者たちが、果たしてどうなったのか。エレミヤの預言は、約束通りに実現したのか。実現したとして、どのように実現したのか。その南ユダの歴史が記されるのが、このエズラ記になります。
このエズラ記ですが、大きく二つに分けることが出来ます。前半は一章から六章まで。バビロンに敗れた際、破壊された神殿を再建する記録。後半は七章から十章まで。この書を記した著者エズラによる、宗教改革、信仰復興の記録です。
この前半と後半には、年代として約六十年の隔たりがあります。つまり、著者のエズラからして、前半部分は六十年以上前の出来事を記録していることになります。かつて起こった出来事より、神様がどのようなお方なのか確認していくエズラの視点。そして、だからこそ、自分はどのように生きて行くのか決心するエズラの様を見て行くことになります。まずは前半から。
エズラ記1章1節~4節
「ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。』」」
バビロン捕囚という出来事から、約五十年後。強国バビロンに勝利したペルシャが、バビロンで奴隷となっていた南ユダの者たちに、エルサレムに戻って神殿を再建するようにと命令を下します。なぜ、ペルシャの王クロスは、このような命令を下したのか。
この時、ペルシャが支配した領土は、非常に広範囲。西はエジプトより南。東はインドのあたりまで。この広い範囲を、どのように支配するのか。多数の民族を含む広範囲を画一的に支配することは大変難しいもの。そこでペルシャのとった政策は、税金と徴兵を課す代わりに、支配している地域のそれぞれの民族に自治をさせるというもの。軍役、貢物を求める代わりに、内政には干渉しないという政策。そのため、奴隷としてバビロンに連れて来られていた者たちに対して、もといたところに戻るように、それぞれの場所で自治を行うようにと命令が下されたのです。つまり、南ユダの人々だけが特別に扱われたというのではなく、他の民族も同様に、もといた場所に戻り、自治をするようにと命令が下されたのです。
この冒頭の言葉を読みますと、クロス王には強い信仰があったように読めますが、クロス王に、どれほどの信仰があったのか、はっきりとしたことが言えません。明確に言えるのは、私たちの神様は歴史を支配し、合理的にバビロン捕囚からの帰還が起こるようにされていたということです。
こうして神殿が破壊されてから、約五十年後に、南ユダの人々はもとの地に帰ることになります。帰ってきた人々の名簿が二章に。この名簿の中に、歌うたいや門衛、宮に仕えるしもべたちがいました。つまり、南ユダの人々は、バビロンで奴隷生活をしている間、五十年の間、その役割と技術を継承していた。神殿再建がなされた際、礼拝が出来るように準備していた。神の民として、歩んでいたことが見てとれます。
そして、念願の神殿再建への第一歩、神殿の基を据えた様が三章に記されます。
エズラ3章12節~13節
「しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。そのため、だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた。」
ソロモンが建てた神殿を見たことのある者たち。破壊されてから五十年経っていますので、老人となっていましたが、その者たちからすると、かつての神殿から比べてあまりに脆弱に見えたのでしょう、泣き声をあげたと言います。片や、念願の神殿再建への第一歩として、定礎式を迎えられた喜びの声をあげた者たちもいた。不信の結果としてバビロン捕囚という裁きを受けることになった悲しみと、それでも神様は守って下さり神殿再建へ踏み出すことが出来た喜びと、悲喜交々の叫び声があがります。
ところで、エレミヤを通して与えられた預言は、バビロン捕囚の期間は七十年というものでした。それが、南ユダの人々が帰って来たのは、神殿崩壊から約五十年のことです。この二十年の誤差はどういうことでしょうか。七十年というのは、大体の数字で、五十年でも良いということなのか。長い年数での約束があり、実際、それより短ければ、よりありがたいという話しなのか。そうではありません。帰って来たのは約五十年。約束は七十年。この違いはどのようなことなのか。この違いの意味が、続く四章以降に出てきます。
エズラ4章4節~5節
「すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした。さらに、議官を買収して彼らに反対させ、この計画を打ちこわそうとした。このことはペルシヤの王クロスの時代からペルシヤの王ダリヨスの治世の時まで続いた。」
南ユダの人々がバビロンに連れて行かれて約五十年。その間に、エルサレム近隣の地に住むようになった人々がいます。この人々が、帰って来た南ユダの人々をよく思わなかった。その結果、神殿再建の妨害が起こります。この四章に記されたのは、帰ってきた南ユダの人々に対する様々な妨害の記録。(神殿再建以降の嫌がらせの記録も記されています。)この妨害の結果、神殿の基は据えられながらも、神殿再建の工事は、ある時まで中断されることになったと言います。
エズラ4章24節
「こうして、エルサレムにある神の宮の工事は中止され、ペルシヤの王ダリヨスの治世の第二年まで中止された。」
ダリヨス王の治世の第二年目まで神殿再建の工事は中止。つまり、この時から工事は再開。このダリヨス王の治世の第二年目というのは、聖書の中でも重要な年の一つ。エズラ記以外の書にも出てくる年なので、記憶しておきたいと思います。
それはそれとしまして、しばらく中断されていた神殿再建の工事が再開され、四年かかって再建されます。
エズラ6章15節~16節
「こうして、この宮はダリヨス王の治世の第六年、アダルの月の三日に完成した。そこで、イスラエル人、すなわち、祭司、レビ人、その他、捕囚から帰って来た人々は、この神の宮の奉献式を喜んで祝った。」
エズラ記前半のクライマックスの場面。念願の神殿再建がなされたという記録です。このダリヨス王の治世第六年というのが、いつなのか。この年が、神殿が破壊されてから七十年目。エレミヤを通して約束されていた、七十年目の年となるのです。神殿崩壊が起こる前、エレミヤを通して与えられた約束は、神殿再建の妨害を含めた年数。神の民に敵対する者たちの妨害も含めて、神様の約束は、その通りに必ず実現する。完全に真実なものとして、神様の約束は成就する。改めて、この世界を支配されている神様の偉大さを覚えることになります。
著者エズラにとって、この六章までは、六十年以上前の出来事。エレミヤの預言の記録、バビロンやペルシャの記録を確認しながら、七十年の意味を知った時、エズラはどのような感慨を味わったでしょうか。どのような思いになったでしょうか。神様の真実さに触れた時、エズラはどのような生き方を目指す者となったでしょうか。
エズラ記の七章からは、後半。書名となっているエズラの登場です。クロス王の命令の際、エルサレムに帰った人たちもいましたが、バビロンに残った者たちもいました。バビロンに残った南ユダの人々は、その後、何回かに分けて、エルサレムに戻ります。エズラも、神殿再建より約六十年後に、エルサレムに戻った人物。エズラは目的をもって、戻りました。
エズラ7章1節、9節~10節
「これらの出来事の後、ペルシヤの王アルタシャスタの治世に、エズラという人がいた。・・・彼は第一の月の一日にバビロンを出発して、第五の月の一日にエルサレムに着いた。彼の神の恵みの御手が確かに彼の上にあった。エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていたからである。」
神様の真実さに触れたエズラ。神の言葉は必ずその通りになると理解したエズラの生き方は、神の言葉を調べ、実行し、またそれを神の民に伝えるものとなります。私たちは、聖書を神の言葉として受けとめているでしょうか。そのように受けとめているのだとしたら、何故、聖書を読むこと、聖書を実践することを後回しにするのでしょうか。真摯に神の言葉に向き合う姿勢。その情熱を、私たちも持ちたいと思うところ。
また神様の真実さに触れたエズラは、信じた通りに生きることに取り組む人。エズラの姿の中でも、特に印象的なアハワ川での断食祈祷というのがあります。
エズラ記8章21節~23節
「そこで、私はその所、アハワ川のほとりで断食を布告した。それは、私たちの神の前でへりくだり、私たちのために、私たちの子どもたちと、私たちのすべての持ち物のために、道中の無事を神に願い求めるためであった。私は道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを王に求めるのを恥じたからである。私たちは、かつて王に、『私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る。』と言っていたからである。だから、私たちはこのことのために断食して、私たちの神に願い求めた。すると神は私たちの願いを聞き入れてくださった。」
バビロンからエルサレムに向かう。当時の旅は今と比べ物にならない程、大変であり危険なことでした。王に愛されていたエズラは、その道中、護衛する部隊を王に求めることは容易いことでしたが、エズラ自身は王に護衛を求めたくないと考えていた。なぜなら、かつて王に「私たちの神様は、尋ね求めるすべての者に幸いを与える」と証していたからというのです。つまり、ここで王に護衛を求めたら、かつての証が何だったのかと思われかねないことを恐れたというのです。
頭だけの宗教ではなかった。本当に神様を信じ、神様に従うことに取り組んだエズラ。私たちもかくありたいと願います。
南ユダの人々が、聖書に従うように働きかける。エズラの宗教改革の働きも、徹底的です。是非、その活躍、徹底ぶりは実際に読んで頂きたいと思います。中でも印象的なのが、南ユダの人々の罪を聞いた時のエズラの姿です。
エズラ記9章3節
「私はこのことを聞いて、着物と上着を裂き、髪の毛とひげを引き抜き、色を失ってすわってしまった。」
自分がエズラの立場だとしたら、南ユダの人々の罪が分かった時、どのように受けとめるでしょうか。神の民にとって、神の言葉に従うことがどれだけ大事なことか。よくよく理解していたエズラは、南ユダの罪を聞いた時、強い衝撃を受けたという場面。髪の毛と髭を引き抜き、色を失って座ったという姿。神様の言葉は、従っても、従わなくても良いものではない。必ず従うべきものとして、エズラが受けとめていたことがよく分かります。
エズラ記の後半に記されるエズラの姿は、どこをとっても、神様の言葉に対する真摯な態度を持つ姿です。神様の言葉は必ず実現すると信じきった人。神様の真実さに触れた人はどうなるのか。その一つの例が、エズラの姿でした。
以上、エズラ記を概観してきました。バビロン捕囚という大きな裁きの中にあって与えられたエレミヤの預言。その預言の通りに神の民を導かれた神様の姿を見出したエズラ。神様の真実さに触れる。神の言葉の偉大さに触れた時、エズラ自身、神の言葉を慕い、実践する歩みを選びとりました。
私たちも今一度、神様の真実さを再確認したく思います。自分にとって神の言葉、聖書はどれほど意味のあるものなのか。その重要性を覚えたいと思います。そして、私たち自身、御言葉に真摯に向き合うこと。よく聖書を読み、実践する歩みを送りたい。そのような恵みに浴したいと思います。