2014年5月25日日曜日

講壇交換 ダニエル6章1節~28節 「ダニエルの祈り」

 ある人から「奇跡のりんご」という本をお借りしました。お読みになった方はおられるでしょうか?それは農薬を使わないでリンゴを生産する話でした。
他の野菜は、無農薬で作れても、りんごに関しては農薬を減らすと虫が大量に発生してしまい、綺麗で美味しいリンゴは作れないらしいのです。何故この著者が、無農薬でリンゴを作ろうとしたかというと、大量の農薬を使う中で、奥さんが体を崩してしまい、無農薬でのリンゴ栽培せざるを得なくなったのでした。害虫を取る作業は家族総出で朝から晩まで続いたようです。なんと、直に袋の中が虫で一杯になってしまったとありました。
考えたくないですね。虫一杯の袋など・・・。しかし、無農薬でリンゴを作るのならばそうなってしまうと言うのです。
 何年も、そんな生活をしている中で、売れるリンゴも出来ず、苦しい生活となり、借金も膨らみ、万策尽き、ついに著者は、絶望し自殺をしようと山の中に行くのです。
しかし自殺にさえ失敗してしまいました。暫くその場に呆然とするのです。すると、その森に生えている木が不思議ですねりんごの木のように見えてくるのです。その時、森に生えているこの木は、農薬を使わないのになぜ育つのかと疑問に思ったというのです。
調べた結果、森の土が畑の土よりも温かいということに気が付くのでした。森には微生物が沢山いるため、土が良く、根っこが強くされ、木全体が強められ、病気や害虫に負けない木になっていたということです。その方は、大事なのは地上に見えている部分ではなく、根っこだという事に気が付きました。
その後その方は、家に帰り、農薬を一切使わないりんごを生産することに成功します。その人は言っています。「私はりんごの木の見えている部分を気にしていたが、本当に必要な部分は根っこであり、土であった」と。害虫がいてもそれに負けないりんごの木を作るには、微生物を増やし、根っこを強くすることが重要だったのです。

 これは私たちクリスチャンにも当てはまる事だなあと思います。
いざと言った時に、キリストに深く根ざしているかどうかは、私たちの人生を左右することでしょう。もし、神との交わりが無ければ、試練の中ですぐに神を疑ったり、妥協をした人生を取る様になるのではないでしょうか?
それとは逆にもし、キリストに堅く根ざしキリストの愛と養分を十分頂いているのなら 、私たちは試練の中で耐えそして揺るぎない信仰へと導かれていくのではないでしょうか?今朝は、信仰者ダニエルの姿から共に学んで見たいと思います。

時は、ペルシャの時代でした。神に従わなかった約束の民ユダに、神の裁きが下った時代です。本日の主人公のダニエルはユダから奴隷として連れてこられた一人でした。しかしダニエルは、神が共におられたので、次第に力が認められていくのです。2節には、奴隷の民出身のダニエルが120人の太守を統括する、3人の大臣の1人になったとあります。
しかし、ダリヨス王は、ダニエルを大臣である事に飽き足らず、国の全てを治めさせる政策責任者にするのです。これは驚くべき事でしょう。いや、神がダニエルと共におられ、「際だって優れていたから」だと書かれています。

だから、ここまで一気に出世したのだと思います。しかし、いつの時代にも、成り上がり者に対してねたむ人々がいるものです。特に奴隷から政策決定者になるなど許せないと言う輩がであります。
4節には大臣や太守がダニエルの欠点を見つけ失脚させようとしたとあります。しかしダニエルのどこを見ても、何の問題も見えてこないのです。現在の政界においても、叩けばほこりが出るように、大体の為政者には一つや二つの弱点があるでしょうが、ダニエルにはその様な部分が見当たらないのです。
ダニエルは神を知っており、神がいつも自分と共におられることを知っていました。その神の前に忠実に歩むことは怠慢も欠点も妥協も無くなっていくことなのです。

その様な信仰の態度に反して時折、こんな話を聞きます。「神に従うことが重要なのだから、他の事はなおざりになってもしょうがない」と言う考え方です。神に従うことと、生活のそのほかのことを切り離して考えるように聖書は教えていません。神と共に生きる上で、「なおざりになって良い」というものはなく、神から与えられたポジションで誠実に仕えることこそ、神に従うことになるでしょう。
使徒の働き5章13節には生まれたばかりの教会の姿が描かれています。
使徒5章13節
「ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。」

信仰を持っていればそれで良いのではなく、神を信じて神の声に誠実に従い生きる信仰生活こそが必要であることを今一度、考えさせられます。そしてそれは、神の愛をこれでもかこれでもかと受ける中で、神の愛に応えたくなる人生なのです。ダニエルも初代教会の姿もその様に導かれていったのでしょう。

5節で大臣達はダニエルを失脚させるには、信仰に関わること以外にはないと気が付くのです。そしてその信仰の部分を攻めるのです。そしてこう言うのです。国中の権力者はみな、王が一つの法令と禁令を出してほしいと思います。それは三十日間、王以外のどんな神にも人にも、祈る人は、獅子の穴に投げ込まれるとです。 そしてそれを、取り消せない様にして下さい。とです。
何も知らないダリヨス王は、自分が王であり、更には神であるということを天下に示せる機会を大臣たちやが持ってきたと思い、二つ返事で署名したことでしょう。背後にある、大臣や太守の陰謀には気づかないのでした。
こんな法令が出されたら、皆様だったら、どうするでしょうか。困ったことになったと、見られないように祈ったり礼拝する事を考えるのかもしれません。しかしダニエルはそうしなかったのです。

 ダニエル6章10節~11節
「ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。──彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。──彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。すると、この者たちは申し合わせてやって来て、ダニエルが神に祈願し、哀願しているのを見た。」

ダニエルはその禁令を知りつつ、いつものように神の前に礼拝をささげました。私は、ここで一つの話を思い出します。それは多くの迫害の中で、戦ったポリュカルポスという司教の話です。もし彼が、ここで信仰を捨てるならいのちを得る、しかしもし、信仰をそのまま持ち続けるなら目の前の処刑台で死ぬという場面でした。その時、ポリュカルポスは言うのです。「これまで、私の人生で一度として裏切られなかった方を私は裏切ることが出来ない」そうして彼は喜んで殉教を選んだというのです。  
ダニエルにとっても、同じだったでしょう。ダニエルのこれまでの人生、確かに神は共におられました。彼を外国の大臣にし、多くの問題や困難についても彼と共におられ力づけ導かれた神をダニエルは愛していたでしょう。それ故に何者も、神から自分を引き離す事は出来ない、自分は主に従うのだと信仰をもっていたでしょう。
彼はいつものようにひざまずき、神の前に祈って感謝をしました。神と豊かな交わりの時間を守ったのです。王が国の全てを任せている為政者が、このように低くなってひざまずき、感謝を捧げ祈っているのです。
おそらく、彼はペルシャ王国の為に主にとりなし、祈っていたでしょう!そのようなダニエルに対し、大臣たちはそれを逆手にとって足をすくおうとするのです。ダニエルの祈りの姿を見て、大臣たちや太守たちは大喜びです。そして計画通りダニエルを訴えるのです。決して取り消すことが出来ない法律をダニエルが破ったからです。

この訴えを聞いて、王は憂いたとあります。王はダニエルを最も信頼し、愛し尊敬していたのでしょう。また、この法律が大臣たちによって、ダニエルを陥れるために謀った罠であったことに気が付き、どうにか、ダニエルを助けようとしたとあります。私は、王にここまで信頼されているダニエルの人柄にも驚かされます。
もし、自分だったらどうかと思います。誠実な人柄や仁徳はさることながら、本当に王様から愛されていたのだなあと羨ましくも思います。恐らく、ダニエルは王に対してへつらったり、こびを売らず、率直で愛情深く、そして誠実に関わったのでしょう。王の心配ぶりは、ダニエルがライオンの穴に投げ込まれた時を見るとどれ程だったかが分かります。

 ダニエル6章16節、18節
「そこで、王が命令を出すと、ダニエルは連れ出され、獅子の穴に投げ込まれた。王はダニエルに話しかけて言った。『あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。』」
「こうして王は宮殿に帰り、一晩中断食をして、食事を持って来させなかった。また、眠けも催さなかった。」

ダニエルは、ダリヨス王にこう言わせるのです。「あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。」これは普段からのダニエルの信仰生活が物語っていたのでしょう。一縷の望みを、ダリヨス王は自分の神ではなく、ダニエルの神である主に委ねたのです。王はダニエルのために断食し眠気さえ催さないのです。このダニエルこそ、イエス様が山上説教で語られた、地の塩、世の光として生きた信仰者でしょう。
地の防腐剤となるだけではなく、輝いているのです。私たちもまさにそのような生き方を求められているのです。そう考えると、ただただ、自分の足りなさを知りつつ、主の名を汚すことなく歩ませて下さいと祈らされるばかりです。

ダニエルは獅子の穴に投げ込まれて一晩経ち、どうなったでしょうか。翌朝、ダリヨス王は日が昇った瞬間に獅子の穴に急いで行きました。ダニエルがどうなったのか心配する気持ちがよく表れています。万が一にも、まだいのちがあるかもしれないというかすかな希望を持っていたのかもしれません。そして穴に向かって悲痛な声でこうダニエルに言うのです。

ダニエル6章20節
「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。」

 ところが王の予想をはるかに越えて、あの聞きなれたダニエルのいつもの声が返ってきたのです。
 ダニエル6章21節~23節
「すると、ダニエルは王に答えた。『王さま。永遠に生きられますように。私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。』そこで王は非常に喜び、ダニエルをその穴から出せと命じた。ダニエルは穴から出されたが、彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼していたからである。」

王は大喜びでダニエルを穴から出しましたが、驚くことに、ライオンと一晩過ごしたダニエルは、全く無傷だったのです。この時にダニエルといたライオンが無力だった訳ではありませんでした。その証拠に、その後、陰謀を企んだ大臣たちが同じ穴に投げ込まれた時には、彼らが穴に落ちる前に骨まで噛み砕かれたとあります。まさに、ダニエルの言う通り、神が使いを送ってくださり、ダニエルを守られたのです。主を信じきった者の信仰の勝利でした。そしてその後、ダリヨス王はこう書き送ったとあります。

 ダニエル6章26節~27節
「私は命令する。私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震え、おののけ。この方こそ生ける神。永遠に堅く立つ方。その国は滅びることなく、その主権はいつまでも続く。この方は人を救って解放し、天においても、地においてもしるしと奇蹟を行い、獅子の力からダニエルを救い出された。」
 
このダニエルのすごいところはどこだとお思いでしょうか?神の大胆な証人として歩んだこと、王の法令が出ても逃げずに神を礼拝したこと、奴隷の民なのに国の大事なポストに就き、王様から非常に信頼されていたことなど考えられます。しかし、これらは冒頭のりんごの話でお話しした、地上で見える部分なのです。このダニエルのすごい所は、神と言う大地から十分に愛や信仰の養分を頂き、神との祈りによる交わりを通して生きていた事なのです。ここが大事なのです。重要なのは常日頃から、神の御言葉によって心の土地を耕され、御霊によって元気づけられ、神の愛を人生の中で味わい、祈り導かれていく、その中でたくさんの栄養を神から頂くことなのです。そうすれば、見える部分も全て整えられるのです。

コロサイ2章7節
「キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」

私たちはそのためには、御言葉から養分を頂き、ダニエルのように主との交わりである祈りと御言葉を中心とした歩みをしたいと思います。お祈りをいたします。

2014年5月18日日曜日

ネヘミヤ6章15章~16節 「一書説教 ネヘミヤ記」 ~神によってなされた~

 聖書を読む際、記された出来事や登場する人物について、私たちはどれだけ身近に感じているでしょうか。
今の私と関係があるとは思えないとしながら聖書を読むのか。今日、神様が私に何を語られるのか期待して読むのか。聖書に向き合う心構えで、聖書を読む喜び、楽しみは大きく変わると思います。
はるか昔、遠い国で起こった出来事と捉えるのか。かつて神の民がどのように歩み、神様がどのように導かれたのか。同じ神様が、私を導いて下さる、私はどのように生きるべきなのかを考えながら読むのか。心の姿勢により、聖書を通して頂く恵みに大きな違いがあります。
 私たちの聖書を読む歩みが祝福されて、身近なものとして聖書を読むことが出来るように。今の自分と関係のあるものとして受けとめることが出来るようにと願います。

私の説教の際、断続的に取り組んでいます一書説教。今日は十六回目。旧約聖書、第十六の巻、ネヘミヤ記となりました。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。

 ネヘミヤ記は、先に扱いましたエズラ記と繋がりの強い書。南ユダの人々がバビロンに捕え移された、「バビロン捕囚」の後のこと。神様の約束通り、バビロンで奴隷だった者たちがエルサレムに帰り、神殿再建を為したというのがエズラ記の前半。神殿再建の立役者は、ゾロバベルと祭司ヨシュアでした。神殿再建後、約六十年経ってから、聖書の教えを伝えるべく南ユダに戻るのがエズラ。エズラ記の後半は、エズラの宗教改革の記録です。
 今日扱いますネヘミヤ記は、このエズラ記の後半と同時代。エズラ記に記されていた、エズラの宗教改革の後、どのようなことが起こったのかが記されている書です。

 ネヘミヤ1章1節~4節
「ハカルヤの子ネヘミヤのことば。第二十年のキスレウの月に、私がシュシャンの城にいたとき、私の親類のひとりハナニが、ユダから来た数人の者といっしょにやって来た。そこで私は、捕囚から残ってのがれたユダヤ人とエルサレムのことについて、彼らに尋ねた。すると、彼らは私に答えた。「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。」私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、言った。」

 ここにある第二十年とは、アルタシャスタ王の第二十年のこと。エズラがエルサレムに戻ったのが、アルタシャスタ王の第七年(エズラ記7章7節~8節)のことでしたから、その十三年後のこと。
 この時、ネヘミヤはアルタシャスタ王の献酌官でした。食事の時に王の近くにいて話し相手となり、毒味をする者。王より絶大な信頼を得ていた人物。このネヘミヤのもとに親類のハナニが来て、エルサレムの窮状を伝えました。神殿再建が為され、エズラもエルサレムに向かい、更に十年以上経ったこの時。エルサレムはひどい困難の中にいる、その大きな原因は城壁が崩されたままになっていること、との報告です。
 このエルサレムの状態を聞いたネヘミヤは、ひどく心を痛め、泣きだし、喪に服し、断食して祈りました。これより以前に、ネヘミヤがエルサレムに行ったことがあったのか。エルサレムにいた人々で、ネヘミヤの親類、友人、知人がどれだけいたのか。分かりませんが、聖書の神様を信じる仲間、神の民が大変な状況にあると知って、ひどく心を痛めたネヘミヤの姿が印象的です。自分がネヘミヤの立場だったとしたら、同じように心を痛め、祈っただろうか。今の自分が、神の民、教会の窮状を聞いて、同じように心を痛め、祈っているのかと心探られます。

 このネヘミヤの祈りがどのようなものだったのか。一章は五節以降がその祈りの言葉となっていて、是非目にして頂きたいところです。まさに聖書を身近に感じている人の祈りです。その祈りの最後に、次のようなネヘミヤの願いがありました。
 ネヘミヤ1章11節
「どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」

 ここで祈られている「この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」とは、アルタシャスタ王の前であわれみを受けられるように、アルタシャスタ王が私の願いを聞いてくれるように、との祈りです。では、ネヘミヤは、アルタシャスタ王に何を願いたかったのか。城壁の再建です。エルサレムの窮状を聞いて、ひどく心を痛めたネヘミヤの思いは、何とか城壁を再建したいという思いへとつながるのです。

 このネヘミヤの祈り、願いは不思議な形で実現します。
 ネヘミヤ2章2節~5節
「そのとき、王は私に言った。『あなたは病気でもなさそうなのに、なぜ、そのように悲しい顔つきをしているのか。きっと心に悲しみがあるに違いない。』私はひどく恐れて、王に言った。『王よ。いつまでも生きられますように。私の先祖の墓のある町が廃墟となり、その門が火で焼き尽くされているというのに、どうして悲しい顔をしないでおられましょうか。』すると、王は私に言った。『では、あなたは何を願うのか。』そこで私は、天の神に祈ってから、王に答えた。『王さま。もしもよろしくて、このしもべをいれてくださいますなら、私をユダの地、私の先祖の墓のある町へ送って、それを再建させてください。』」

 毒味役であり、話し相手であるネヘミヤが、王の前で悲しい顔つきをしていた。献酌官として大失態。しかし、王がネヘミヤに気を使い、どうしたのかと聞いたというのです。余程、王に愛された人物。この事態に、ひどく恐れを感じながらも、千載一遇の好機とみて、エルサレムの窮状を訴え、さらに何を願うのかと聞かれると、すかさず神に祈りつつ、城壁再建を願い出たというのです。
 おそらくは、偶像の飾り建てられた一室でのこと。異教の神々に囲まれ、ペルシャの大王を前に、ネヘミヤの心は神様に向いていました。王に質問され、自分が答えるまでの間に、神に祈る。ここに、ネヘミヤの強さを見る気がします。
 こうして献酌官であったネヘミヤが、南ユダの総督として城壁再建という一大事業に取り組む人として、表舞台に立つことになる。ネヘミヤ記は城壁再建の記録です。

 この城壁再建ですが、いくつか困難な課題がありました。一つは、この城壁再建に真っ向から反対する勢力があったことです。
 ネヘミヤ2章10節
「ホロン人サヌバラテと、アモン人で役人のトビヤは、これを聞いて、非常に不きげんになった。イスラエル人の利益を求める人がやって来たからである。」

 バビロン捕囚の間、南ユダの地域は、サマリヤ(北イスラエルのあった地域)と同一の地域として、支配されていました。ところが、ネヘミヤの働きは、南ユダとサマリヤを区分けするものであり、城壁再建はそれを目に見えて明らかにするもの。南ユダの地域を、自分たちの支配下としておきたい、サマリヤの有力者たちは、この城壁再建を執拗に妨害します。
 ネヘミヤや南ユダの人々への暴言、恐喝。あるいは城壁を壊そうとする破壊工作。ネヘミヤの地位を奪おうとする買収工作。ついには、ネヘミヤを殺そうとする暗殺計画まで。何としてでも、城壁がならぬようにとする妨害の数々。

 これに対して、ネヘミヤはどう対処したのか。祈ることと、出来ることに精一杯努めることです。様々な妨害と、それに対する様々な対処が記されていますが、例えば次の箇所にはこうあります。
 ネヘミヤ4章8節~9節
「彼らはみな共にエルサレムに攻め入り、混乱を起こそうと陰謀を企てた。しかし私たちは、私たちの神に祈り、彼らに備えて日夜見張りを置いた。」

 アルタシャスタ王の前でもそうでしたが、ネヘミヤは問題が起こると、すぐに祈る人。ネヘミヤは祈りの人でした。しかし、祈って何もしないというのではない。取り組めることに、精一杯取り組む。神様を信頼して事を行うというのは、祈りとともに、出来る限りのことに取り組むことでした。
 その具体的な妨害策と、ネヘミヤの対応は、是非読んで確認して頂きたいと思います。

 城壁再建を困難にするもう一つの問題は、南ユダの人たちにあった問題です。
 ネヘミヤ5章7節~8節
「私は十分考えたうえで、おもだった者たちや代表者たちを非難して言った。『あなたがたはみな、自分の兄弟たちに、担保を取って金を貸している。』と。私は大集会を開いて彼らを責め、彼らに言った。『私たちは、異邦人に売られた私たちの兄弟、ユダヤ人を、できるかぎり買い取った。それなのに、あなたがたはまた、自分の兄弟たちを売ろうとしている。私たちが彼らを買わなければならないのだ。』すると、彼らは黙ってしまい、一言も言いだせなかった。」

 事の発端は、貧しい者たちの訴えでした。確認したところ、富める者たちが、貧し者に金を貸し、その取り立ての厳しさの故に、貧しい者たちは食べ者に困り、子どもたちを奴隷としなければならない状況にあったというのです。一致して困難に当たるべき時、富める者たちが私利私欲に走ったという事態。
激怒したネヘミヤは、富める者たち、それはつまり、民の中の主だった者たち、代表たちを責め、事態を収束させます。自分自身も借金を免除し、かつ総督としての手当ても要求しないとします。
 文字で読むと、あっという間のことですが、相当難しい事態。民の代表者たちを責めることは、より大きな混乱を招くことになりかねない。どのような場面で、どのような言葉を使うのか。十分に考えたうえでなされたことですが、この問題を解決出来たところに、ネヘミヤの人格、器の大きさを感じるところ。ここも、神様が大いに祝福して下さったと見ることが出来ます。

 このように様々な問題を抱えながらも、城壁は無事に再建となります。
 ネヘミヤ6章15節~16節
「こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。私たちの敵がみな、これを聞いたとき、私たちの回りの諸国民はみな恐れ、大いに面目を失った。この工事が、私たちの神によってなされたことを知ったからである。」

 城壁の再建工事は五十二日間。とても短く感じます。この五十二日間というのが、ネヘミヤがエルサレムに帰って来た日から、城壁完成までの日数なのか。それとも、準備期間や、後処理の期間は除いた日数なのか。どちらか分かりませんが、何にしろ、ネヘミヤの指導力が卓越しており、民の一致があったと言えます。しかし、ネヘミヤ自身は「この工事が、私たちの神によってなされた」と記しました。これは、神によってなされたことなのだと。
 ネヘミヤ自身、多大な労力を使い、危険を味わい、問題に取り組み、出来る精一杯のことをしてきました。様々な問題にぶつかり、命の危険もありました。城壁再建に対してのネヘミヤの働きは、誰の目にも称賛されるもの。それでも、ネヘミヤ自身は「神によってなされた」と記します。ここに信仰者の清々しさを見る気がします。
 私はあれもやった、これもやったとふんぞり返る信仰者ではなく、栄光は神に、とする信仰者の潔さ。私はこれをやったと喜ぶよりも、神様に用いられたことを喜ぶネヘミヤの姿に憧れます。

 さて、六章にて城壁再建が記録されてから後、ネヘミヤ記に記されるのは、南ユダの人たちの礼拝や悔い改めの姿です。見える城壁の再建から、精神的、信仰的な城壁の再建へとテーマが移ると言えるでしょうか。
 人々の礼拝、悔い改めを導く、大きな働きをするのが、エズラとなります。
 ネヘミヤ8章1節
「民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。」

 これより十三年前にエルサレムに来ていたエズラ。その宗教改革の働きは、エズラ記の後半に記されていました。あの働き以降、エズラが何をしていたのか分かりません。そのままエルサレムで、聖書の教えを続けていたのか。あるいは、一度、ペルシャに戻っていたのか。何にしろ、城壁がないことが大きな原因で、困窮していたエルサレムに、城壁が再建された。これ以降、ますますエズラの活躍が期待されるところ。
 律法の書が朗読される。仮庵の祭りが行われる。悔い改めの断食祈祷が行われる。城壁の奉献式が行われるなど、賛美、祈り、悔い改め、礼拝の姿が記録されるのが、ネヘミヤ記の後半となります。その賛美の言葉、祈りの言葉、悔い改めの言葉、礼拝の姿は、是非とも目を通して頂きたいと思います。

 以上、ネヘミヤ記を概観しました。全体を通して、教えられること多数のネヘミヤ記ですが、神の民を通して、事をなさせる神様を覚えてまとめとしたいと思います。
 ネヘミヤはエルサレムの窮状を聞いた時、ひどく心を痛め、泣きだし、喪に服し、断食して祈りました。その祈りの中で、何とか城壁を再建したいという思いに至ります。
 このネヘミヤの姿を、パウロは次のように説明しています。今日の聖句です。

 ピリピ人への手紙2章13節
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」

 何故、ネヘミヤはエルサレムの窮状を聞いた時、そこまで心を痛め、城壁再建への情熱を持ったのでしょうか。(聖書には記されていませんが)ネヘミヤなりの理由があったかもしれませんが、神様の視点、聖書の視点で言えば、神様がネヘミヤに志を与えられたということです。
 志を与えられたネヘミヤは、城壁再建への過程の中で、その都度神様に祈りつつ、自分の出来ることを精一杯行いました。ネヘミヤのリーダーとしての資質、手腕、その努力は凄まじいものがあったと思いますが、神様の視点、聖書の視点で言えば、神様が事を行わせてくださったということです。ネヘミヤ自身、そのことをよく理解していたので、城壁再建の際、「これは、神によってなされた」と告白しました。
 神様に与えられた志、情熱を持って、神様を信頼しつつ、自分の出来ることに精一杯取り組む。その志が果たされた時に、神によってなされたと告白することが出来る神の民は、どれほど幸いかと思います。

 このネヘミヤ記を読む際、私たちは自分に与えられた志が何であるのか。考えながら、読みたいと思います。どのような事柄、出来事に、心が痛むでしょうか。どのような事に、自分の関心が向いているでしょうか。自分自身の欲望を満たすため、自分が称賛されるための願いではなく、神様が私に与えて下さる、聖なる志は何か。自分に与えられた聖なる願いは何なのか。よく考え、よく祈りたいと思います。
 神様のために、教会のために、この世界を良くするために、自分が出来ることは何か。それを見つけ、神様を信頼しつつ、自分の出来ることに精一杯取り組む。神の民としての幸いを、皆さまとともに味わいたいと思います。

2014年5月11日日曜日

ヨハネの福音書12章12節~26節 「一粒の麦が」

 この季節、教会玄関の前にシャクナゲの花が咲いていたのを、皆様は気づかれたでしょうか。手入れをしてくださっているのは草野姉妹ですが、咲き終わったシャクナゲの花はスッパリ切り落としてしまわないと、次の花が咲かないのだそうです。山の樹木も下枝を刈らないと、木の全体が成長できません。
また、赤ちゃんはお母さんのお腹から出てくる時、血流が止まり一時的に酸素不足の状態に陥る、一種の仮死状態になるのですが、しかし、これが脳への刺激となって肺呼吸が始まるのだそうです。最初の呼吸の際大きな泣き声を上げるため、これを産声といいます。新しい命誕生の声でした。
植物にせよ、人間にせよ、古い命が死ぬことによって新しい命が生れ、成長してゆく。神様が定めたこのような自然法則は、私たちの霊的いのちについてもあてはまることを教えられるのが、今日の箇所となっています。
身近な自然から例を引いてくるのはイエス様の得意とするところ。誰もが聞いたことのある一粒の麦の死と再生のたとえは、ヨハネの福音書12章のこの箇所にありました。
さて、この印象的なたとえが語られたのは、イエス・キリストが生涯最後の都登り、いわゆるエルサレム入城を果たした時のことです。入城の前、愛する弟子ラザロを墓の中からよみがえらせ、ご自分が永遠の命の主であることを示されたイエス様は、ユダヤ宗教指導者の指名手配を受け、いつ命を奪われてもおかしくない状況にありました。
一旦は荒野に退いたものの、十字架に心を定めたイエス様は再び都エルサレムに戻ってきます。その途中、ベタニヤ村でラザロとその兄弟を中心に親しい人々と晩餐の交わりを持たれた後、イエス様は足をエルサレムに向けて歩みだしたのです。

12:12,13「その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」

イエス様が都エルサレムに来る。このニュースは瞬く内に、過越しの祭りのため都に集まっていた人々に届いたようです。大勢の人の群れがしゅろの木の枝を手に、出迎えたとあります。
しゅろの枝は、勝利の王を歓迎する際行われていた当時の風習。数々の奇跡に加え、死者をよみがえらせるという大奇跡を行ったイエス様をユダヤの王として、いかに期待してかがよく分かる場面でした。その頃、ローマ帝国の圧政に苦しんでいた人々は、憎きローマを力で倒し、繁栄を回復してくれる王の登場を願っていたのです。
しかし、イエス様には、その様な地上の王になる思いは微塵もありませんでした。むしろ、人々の心の罪から救い、平和をもたらす王としてわたしは来たとの思いを、ある行動によって示されたのです。
12:14~16「イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出した。」

普通、王様が行進の際乗るのは馬。足が速く、格好の良い馬は昔から王や戦士に好まれてきました。それに対してイエス様が選ばれたのはロバの子。見栄えのしないロバは荷物担ぎか、旅人の乗り物。人間のしもべとして、ひたすら仕える動物でした。
ですから、何故イエス様がロバを乗り物として選ばれたのか。分かるような気がします。その生涯を悩む人苦しみ人に仕えるためにささげ、ついには十字架に死に至るまでも仕えようとされるイエス様の姿は、馬ではなくロバと重なって見えます。
しかし、例によって心鈍い弟子たちは、イエス様の思いに気がつかなかったようです。彼らが出来事の意味を悟ったのは、十字架と復活の後のことと、ヨハネは記しています。
他方、イエス様を大歓迎する群衆を見て、地団駄ふんで悔しがったのが、ユダヤの宗教指導者たちでした。これほど多くの支持者がいる中では、最早イエス様を捕え、亡き者にすることはできないと落胆したのです。

12:17~19「イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。そのために群衆もイエスを出迎えた。イエスがこれらのしるしを行なわれたことを聞いたからである。そこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」

ラザロ復活を巡って語り合い、盛り上がる大勢の人々。「何一つうまくいってはいない」と肩を落とす宗教指導者パリサイ人。しかし、やがて彼らが心ひとつにしてイエス様を十字架の死に追いやることを、聖書は記録していました。
「女心と秋の空」等と言いますが、男も含めて人の心ほど変わりやすく、当てにならないものはないと思わされます。しかし、この様な信頼できない人間を救わんとするイエス様の愛は変わることなく、どこまでも真実でした。
時に、過越しの祭りのため都エルサレムに上ってきたギリシャ人が自分に会いたいと願っていることを聞くと、イエス様はいよいよ生涯の正念場、十字架の時が近づいたことを覚悟されたのです。

12:20~24「さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」

ギリシャ人が取次を弟子のピリポに頼んだは、ピリポがギリシャ語が得意だったのか。しかし、ピリポがアンデレに相談すると、二人一組でイエス様に話に行ったのは、恐らく、今までイエス様がユダヤの人々への伝道と奉仕に専念してきたからと思われます。
ご存知のように、イエス・キリストの十字架の死と復活以後、イエス・キリストを救い主とする人々は、ユダヤから出て世界中に広がってゆきます。まず、ユダヤ人を選び、ユダヤ人に聖書を与えて教育し、ユダヤ人の中に救い主を誕生させ、世界のあらゆる民族に罪からの救いの福音を伝えること。それが、世界の初めから、神様が定めた救いのご計画であることを、聖書は教えていました。
こうして、ギリシャ人の訪問を通し、最も重要な使命を果たすべき時が近づいたことを知ったイエス様が語られたのが、ご自分の死によって信じる人々の中に豊かな命を生むことを教える一粒の麦のたとえだったのです。「…一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
咲き終わったシャクナゲの花の死も、樹木の下枝の死も、一粒の麦の死も、それぞれの死に尊い意味があるように、イエス・キリストの死にも、信じるすべての人の心に永遠の命というもたらすという尊い意味があることを、私たち教えられたいのです。
すべての罪赦され、最早永遠に責められることのない神の子とされた平安な心。神様の愛を受け取り、自分の存在価値を知って喜ぶ心。神様を天の父、イエス様を友として、親しく交わることのできる関係。
果たして、皆様はイエス・キリストを信じた時、この様な永遠の命を与えられたことを自覚しているでしょうか。本当なら、このような尊いものを受け取るに価しない、本当に救いがたい罪人である自分が、ただイエス・キリストの犠牲の死により、人として本来生きるべき命に生かされていることを感謝しているでしょうか。
私たちは、神に背を向けてきた者に永遠の命をもたらすために、ご自分から進んで、十字架の上で命を捨てられたイエス様を、いつも見つめる者でありたいと思います。父なる神様の御心に従うことと、私たち人間に救いの道を開くことを喜びとして、十字架の死を選ばれたイエス・キリストに感謝をささげる者でありたいと思います。
そして、最後に注目したいのは、死んで豊かな命を生むというイエス様の生き方に、私たちもならうということの重要性でした。イエス様は私たちにも、一粒の麦のように、死んで生きることを勧められたのです。

12:25,26「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」

永遠の命は、神様からの賜物です。イエス・キリストの十字架に死によって獲得されたものであり、私たちの努力や行いによるものではありません。
しかし、永遠の命はそれを受け取ったら完成と言うものではないのです。命は与えられるものであると同時に、育て、充実させてゆくもの。そのために、私たちがなすべきことがあるとイエス様は教えていました。
一つ目は、自分の命を愛さない、この世で自分の命を憎むということです。ここで言われる「自分の命」とは、イエス様独特のことばですが、私たちが生れながらに持っている自己中心の性質、神様抜きで考え、行動する生き方を指します。
私たちにとって、その様な性質、その様な生き方は自然なことでした。しかし、神様との正しい関係を回復した私たちは、徐々に自己中心の性質や神様抜きで考え、行動することの問題点に気づかされています。気づかされていますが、なおもその様な性質や生き方から完全に解放されていませんから、イエス様は「自分の命を愛する者はそれを失う」と警告し、「この世で自分の命を憎むものはそれを保って永遠の命に至る」と励ましておられるのです。
それでは、具体的に「自分の命を愛さない、自分の命を憎む」とはどういうことでしょうか。私たちのうちにある、古い性質、生き方が大切に思うものを第一にしないということ、それらのものに拘る生き方を止める、死ぬということです。
私たちはこの世の富、名誉を得ることを第一にしていないでしょうか。快適な生活やプライドを守ることを第一にしてはいないでしょうか。
イエス様は、私たちが働いた結果富を得ること、努力した結果名誉を得ること、快適な生活を楽しむことや正しいプライドを持つことを問題としているのではありません。イエス様が問題にしているのは、私たちが神様を第一とせず、富や名誉を第一とすること、神様の御心に従うことより快適な生活を守ることを重んじる生き方、神様を誇らず自分を誇ることでした。このことを教えるイエス様のことばを読んでみたいと思います。

6:31「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

ここでイエス様があげているのは食べ物、飲み物、着物のことです。しかし、この教えは私たちが心配し、思い煩うすべてのものに当てはまるでしょう。富や名誉、快適な生活やプライドを愛するなら、私たちはそれらに支配され、縛られることになる。イエス様が指摘する心配、思い煩いは、私たちがそれらのものに支配されていることのしるしでした。
しかし、自分の命を愛することに慣れきった私たちにとって、その様な生き方に死に、神様を第一とする生き方を選ぶことは簡単なことではありません。与えられた富や地位を人に仕えるため使うこと、快適に過ごせる時間を犠牲にして隣人愛を実践すること、プライドを捨て、許しがたい人のために神様の祝福を祈り、和解に努めること。どれも言うは易し、行うは難しということばかりです。
しかし、それは本当に実践し続ける価値のあること、何故なら、神様と神様の御心を第一にすることで、あなたは私のように自由で、すべてのことにおいて満ち足りる命を味わうことができるから。私たちそうイエス様に教えられたいと思います。
ふたつめは、「わたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」とあるように、イエス・キリストに仕えることに対する、天の父からの報いを心から期待して、考え、行動することです。今日の聖句です。

Ⅰヨハネ3:2、3「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」

聖書が、将来私たちが必ず受け取る報いとして教えていることは様々ですが、ここにはそのうちの一つ、私たちがキリストに似る者となるという心踊らされるような約束が記されています。
もし見るのが初めてだとすれば、あの蛾が脱皮して優雅に空を舞う美しい蝶々になるのを想像するのは、相当難しいことです。それと同じく、今の私たちがイエス様と同じ栄光のからだを持ち、イエス様の心と同じ心を持つ者となるのを想像することも難しいかもしれません。
しかし、この心踊らされる約束を本気で信じるなら、私たちの生き方は変わります。いや変わらざるを得ないと思います。この望みを抱く者はキリストが清くあられるように、自分を清くする。つまり、自分の命を愛する考え方、行動に死に、神様の御心を第一にする生き方に励む者への変化です。こうした生き方の積み重ねの中で、私たちが与えられた永遠の命を育て、喜ぶことができたらと思います。

2014年5月4日日曜日

ヨハネの福音書12章1節~11節 「ナルドの香油」

 人を愛するということには様々な側面がありますが、愛する人のことを他の人々に紹介したいと考えるというのも、その一つかと思います。ある人の生涯について伝記を書く作家、私がそうだったように、大好きな野球選手の真似をしたがる少年、お父さんやお母さんのことを誇らしく語るをする子ども。みなその心には、相手に対する愛や尊敬があるはずです。 
ところで、皆様にとって、イエス・キリストは、ぜひ人々に紹介したいと思う存在でしょうか。私たちはことばを通して、また生き方、行動を通してイエス・キリストを紹介することができますし、すべきことを命じられています。
今日の聖書の箇所に登場するマリヤは、その行動を通して雄弁にイエス・キリストがどのようなお方であるかを示し、私たちに紹介してくれる女性の一人でした。
さて、今日の出来事の舞台は、ユダヤの都エルサレムに近いベタニヤ村の、とある家。恐らく、らい病人シモンの家と考えられます。
前の11章で、ラザロを墓の中からよみがえらせたイエス様は、宗教指導者から命を付け狙われることとなり、いったん荒野に退かれました。しかし、ユダヤ最大の祭り、過越しの祭りが近づくと再び都に上り、祭りの六日前には都近くのベタニヤ村で、親しい人々と晩餐の交わりを楽しまれたと言うのです。

12:1、2「イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。」

マルタが給仕し、復活したラザロがゲストとしてイエス様とともに食卓に着き、この後マリヤも登場する。この様子からしますと、晩餐の席はラザロのいのち回復、健康回復を祝い、ラザロをよみがえらせたイエス様に対する感謝を表すための交わり、親しい者同士の集まりではなかったかと思われます。
元気になったラザロ。都エルサレムでの使命達成を控えているのに、喜んで顔を見せてくださったイエス様。甲斐甲斐しく働くラザロの姉マルタ。この晩餐のため快く家を提供したシモン。和やかな神の家族の交わりが進む中、家の中にかぐわしい香りが満ちたと思いきや、刺々しい非難の声が響き、人々の心を凍らせます。

12:3~6「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。」

ラザロの姉妹マリヤが使ったのは外国製のナルドの香油。同じ出来事を記す他の福音書によれば、マリヤはイエス様の頭にも香油を注いだとありますから、頭から足に至る全身に香油を塗り、最後に髪の毛で足の部分を拭ったのでしょう。
最初は黙って見ていたユダ。しかし、驚くべきことに、高価な油は惜しげもなく全身に塗られ、足に塗られた油に至っては髪の毛で拭われ、余分が床に滴り落ちる。この様子を見て、ついに「大盤振る舞いの贅沢もいい加減にしろ」と、堪忍袋の緒が切れたのでしょうか。「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人に施さなかったのか」と怒り爆発、マリヤを責めました。
他の福音書では、ユダ以外の弟子たちもマリヤに同じことを言ったとありますから、大の男たちから一斉に責められ、マリヤはどんなに心細かったことか。特に、会計係のユダは、公の金を誤魔化すという悪事に手を染めてきた貪欲な人でしたから、「勿体ない」と糾弾する声が一際高かったのでしょう。
確かに、一デナリは当時の相場で男子一日分の賃金。三百デナリはざっと一年分の賃金ですから、決して安くはない。むしろ、庶民には高根の花の高価な香油。もしかすると、これはマルタ、マリヤ、ラザロ三人兄弟の家の家宝だったのかもしれません。
しかし、そんな宝物を惜しげもなくささげたマリアの思いを、イエス様はよくご存知でした。と同時に、男たちが「貧しい人のことも考えよ」と、強い口調の正論でマリヤを責める姿勢の裏側にある偽善をも見抜いておられたようです。

12:7、8「イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」

ここに語られたイエス様のことばからしますと、マリヤは人一倍イエス様の死が迫っているのを感じ、その死に表わされたイエス様の愛を悟っていたように見えます。
マリヤはラザロの姉妹。彼女は、ユダヤ教指導者が亡き者にしようと狙っていることを知りながら、大切な家族を墓からよみがえらせてくださったイエス様の姿、身の危険も顧みず、不信仰な者のため永遠のいのちの主であることを示してくださったイエス様の行動をまじかに見てきました。
まさにイエス様のいのちがけの愛を知り、受けとめたマリヤにとって、感謝を表す時は今この時しかない、そのために大切なナルドの香油をすべてささげたとしても、少しも惜しくはない。その様な思いであったでしょう。
そんなマリヤの思いを汲んで、「マリヤはわたしの葬りの日のために、大切な香油をとっておこうとしていたのです」と語り、イエス様は責める弟子たちからマリヤを守られました。
一方、男の弟子たちに向けて「あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいる」と語り、貧しい人を助けることはいつでもできたし、これからもできるはずとして、本当に心にかけているのは貧しい人ではなく、高価な香油の金銭的価値の方ではないのかと問いかけています。
えてして、人間は自分の卑しい心を隠すために、正論を吐きます。さも、いつも自分が困っている人のことを考えているかのように言い繕い、人の善い行いにケチをつけたがります。人間だけが持つ偽善と言う病気です。決して他人事ではない、私たちのうちにも宿っているこの病に注意したいと思います。
また、「わたしとはいつもいっしょではない」と語り、マリヤと違って、迫りくるイエス様の死とその尊さを考えようとしない彼らを、やんわり叱っているようにも見えます。事実、のんびり構えていた男の弟子たちの思いとは裏腹に、イエス様の死はそこまで迫っていたのです。ユダヤの宗教指導者は、復活の生き証人ラザロを見るために、人々が自分たちのもとを去ってゆくのを見ると、イエス様はもちろんラザロをも殺そうと相談し始めました。ラザロ復活が、大勢の人々がイエス様のもとにゆくという、彼らが最も恐れていた出来事を引き起こしたのです。

12:9~11「大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。」

さて、こうして読み終えた今日の箇所。和やかな交わりの席を、一瞬にして女性一人を責め立てる場に変えてしまった男の弟子たちの嫌らしい偽善。イエス様に迫りくる死とその意味を思いもせず、ただナルドの香油の金銭的価値を惜しむ貪欲。しかし、これらの中にあって、惜しげもなく香油三百グラムを愛する主のためにすべてささげきったマリヤの姿が燦然と輝いていました。
今日の箇所から、私たち心に覚えたいことが二つあります。ひとつは、マリヤの行動は所有物よりも、イエス・キリストが宝であることを示しています。マリヤの行動は高価なナルドの香油という所有物ではなく、イエス・キリストこそが彼女の宝であることを示しているということです。
 現代社会の一つの特徴は、物質主義と言い表すことができると思います。それは多く
の人が物を所有することを人生の目的と考えている社会、物事や行動を金銭的価値で測
る社会、所有物が心の拠り所であり宝であると感じている人の多い社会です。
この様な社会で、私たちがイエス・キリストの素晴らしさを人々に示すためには、ど
のような生き方が求められるのでしょうか。それは、マリヤのように、所有物ではなく、イエス・キリストが宝物であることを示すような生き方をすることです。
 そうだとすれば、考えてみなければならないことがあります。果たして、皆様の宝は所有物でしょうか。それともイエス・キリストご自身でしょうか。イエス様は「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:21)と教えてくださいましたが、皆様の心はいつもどこにあるでしょうか。
 金銭や所有物を獲得すること、守ること、自分のために使うことでしょうか。それとも、それらを受けるに価しない自分のために十字架に死んでくださり、その死によって良きものすべてを与えてくださったイエス・キリストこそが宝であることを示すために、所有物をどう使うべきか。このことに心を用いているでしょうか。
 物質主義の悲惨さは、所有物を求めれば求めるほど、物質に心縛られ、物質の奴隷になることです。ユダが金銭を盗んでいたこと、弟子たちがマリヤの行動を、香油の金銭的価値のみで判断してしまったこと。いずれも、物質主義の影響です。
 私の心はどこにあるのか。どこに向いているのか。これはいつも神様の前で、私たちチェックしないといけないことと思います。なぜなら、放っておけば自然と、私たちはこの世の人が求める物を求め、イエス・キリストを知らない人が金銭を使うのと同じように金銭を使い、本来の生き方を忘れ始めるからです。
 私たちを物質主義から解放するのは、イエス・キリストの愛を心に満たすこと、また
与えられた所有物をイエス・キリストの素晴らしさを示すために惜しみなくささげ、与
え、手放すことと教えられたいと思います。
 二つ目は、イエス・イエス・キリストがいのちより大切であることを証しするために
生かされていることを自覚し、そのような生き方に取り組むことです。今日の聖句です。

詩篇63:3「あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。」

所有物の使い方、時間の使い方、働き方などにおいて、普段私たちは何を第一に考え、行動しているでしょうか。もし、余った物の中から神にささげものをし、時間が余ったから聖書を読み、生活に必要な糧を得ることのみを目的として働いているのなら、人々はキリスト教信仰を趣味の一つと思い、私たちが本当に神様に信頼しているとは考えないでしょう。
しかし、私たちが、イエス・キリストの恵みはいのちにもまさると考え、イエス・キリストの素晴らしさを示すことを第一とし、そのような生き方に取り組み、惜しみなく実践するなら、人々はキリストが私たちのうちに生きていると感じ、信仰について尋ねてくるのではないかと思います。その為に週毎の礼拝を、イエス・キリストの恵みがいのちにもまさることを覚える機会として用いてゆきたいと思います。