他の野菜は、無農薬で作れても、りんごに関しては農薬を減らすと虫が大量に発生してしまい、綺麗で美味しいリンゴは作れないらしいのです。何故この著者が、無農薬でリンゴを作ろうとしたかというと、大量の農薬を使う中で、奥さんが体を崩してしまい、無農薬でのリンゴ栽培せざるを得なくなったのでした。害虫を取る作業は家族総出で朝から晩まで続いたようです。なんと、直に袋の中が虫で一杯になってしまったとありました。
考えたくないですね。虫一杯の袋など・・・。しかし、無農薬でリンゴを作るのならばそうなってしまうと言うのです。
何年も、そんな生活をしている中で、売れるリンゴも出来ず、苦しい生活となり、借金も膨らみ、万策尽き、ついに著者は、絶望し自殺をしようと山の中に行くのです。
しかし自殺にさえ失敗してしまいました。暫くその場に呆然とするのです。すると、その森に生えている木が不思議ですねりんごの木のように見えてくるのです。その時、森に生えているこの木は、農薬を使わないのになぜ育つのかと疑問に思ったというのです。
調べた結果、森の土が畑の土よりも温かいということに気が付くのでした。森には微生物が沢山いるため、土が良く、根っこが強くされ、木全体が強められ、病気や害虫に負けない木になっていたということです。その方は、大事なのは地上に見えている部分ではなく、根っこだという事に気が付きました。
その後その方は、家に帰り、農薬を一切使わないりんごを生産することに成功します。その人は言っています。「私はりんごの木の見えている部分を気にしていたが、本当に必要な部分は根っこであり、土であった」と。害虫がいてもそれに負けないりんごの木を作るには、微生物を増やし、根っこを強くすることが重要だったのです。
これは私たちクリスチャンにも当てはまる事だなあと思います。
いざと言った時に、キリストに深く根ざしているかどうかは、私たちの人生を左右することでしょう。もし、神との交わりが無ければ、試練の中ですぐに神を疑ったり、妥協をした人生を取る様になるのではないでしょうか?
それとは逆にもし、キリストに堅く根ざしキリストの愛と養分を十分頂いているのなら 、私たちは試練の中で耐えそして揺るぎない信仰へと導かれていくのではないでしょうか?今朝は、信仰者ダニエルの姿から共に学んで見たいと思います。
時は、ペルシャの時代でした。神に従わなかった約束の民ユダに、神の裁きが下った時代です。本日の主人公のダニエルはユダから奴隷として連れてこられた一人でした。しかしダニエルは、神が共におられたので、次第に力が認められていくのです。2節には、奴隷の民出身のダニエルが120人の太守を統括する、3人の大臣の1人になったとあります。
しかし、ダリヨス王は、ダニエルを大臣である事に飽き足らず、国の全てを治めさせる政策責任者にするのです。これは驚くべき事でしょう。いや、神がダニエルと共におられ、「際だって優れていたから」だと書かれています。
だから、ここまで一気に出世したのだと思います。しかし、いつの時代にも、成り上がり者に対してねたむ人々がいるものです。特に奴隷から政策決定者になるなど許せないと言う輩がであります。
4節には大臣や太守がダニエルの欠点を見つけ失脚させようとしたとあります。しかしダニエルのどこを見ても、何の問題も見えてこないのです。現在の政界においても、叩けばほこりが出るように、大体の為政者には一つや二つの弱点があるでしょうが、ダニエルにはその様な部分が見当たらないのです。
ダニエルは神を知っており、神がいつも自分と共におられることを知っていました。その神の前に忠実に歩むことは怠慢も欠点も妥協も無くなっていくことなのです。
その様な信仰の態度に反して時折、こんな話を聞きます。「神に従うことが重要なのだから、他の事はなおざりになってもしょうがない」と言う考え方です。神に従うことと、生活のそのほかのことを切り離して考えるように聖書は教えていません。神と共に生きる上で、「なおざりになって良い」というものはなく、神から与えられたポジションで誠実に仕えることこそ、神に従うことになるでしょう。
使徒の働き5章13節には生まれたばかりの教会の姿が描かれています。
使徒5章13節
「ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。」
信仰を持っていればそれで良いのではなく、神を信じて神の声に誠実に従い生きる信仰生活こそが必要であることを今一度、考えさせられます。そしてそれは、神の愛をこれでもかこれでもかと受ける中で、神の愛に応えたくなる人生なのです。ダニエルも初代教会の姿もその様に導かれていったのでしょう。
5節で大臣達はダニエルを失脚させるには、信仰に関わること以外にはないと気が付くのです。そしてその信仰の部分を攻めるのです。そしてこう言うのです。国中の権力者はみな、王が一つの法令と禁令を出してほしいと思います。それは三十日間、王以外のどんな神にも人にも、祈る人は、獅子の穴に投げ込まれるとです。 そしてそれを、取り消せない様にして下さい。とです。
何も知らないダリヨス王は、自分が王であり、更には神であるということを天下に示せる機会を大臣たちやが持ってきたと思い、二つ返事で署名したことでしょう。背後にある、大臣や太守の陰謀には気づかないのでした。
こんな法令が出されたら、皆様だったら、どうするでしょうか。困ったことになったと、見られないように祈ったり礼拝する事を考えるのかもしれません。しかしダニエルはそうしなかったのです。
ダニエル6章10節~11節
「ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。──彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。──彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。すると、この者たちは申し合わせてやって来て、ダニエルが神に祈願し、哀願しているのを見た。」
ダニエルはその禁令を知りつつ、いつものように神の前に礼拝をささげました。私は、ここで一つの話を思い出します。それは多くの迫害の中で、戦ったポリュカルポスという司教の話です。もし彼が、ここで信仰を捨てるならいのちを得る、しかしもし、信仰をそのまま持ち続けるなら目の前の処刑台で死ぬという場面でした。その時、ポリュカルポスは言うのです。「これまで、私の人生で一度として裏切られなかった方を私は裏切ることが出来ない」そうして彼は喜んで殉教を選んだというのです。
ダニエルにとっても、同じだったでしょう。ダニエルのこれまでの人生、確かに神は共におられました。彼を外国の大臣にし、多くの問題や困難についても彼と共におられ力づけ導かれた神をダニエルは愛していたでしょう。それ故に何者も、神から自分を引き離す事は出来ない、自分は主に従うのだと信仰をもっていたでしょう。
彼はいつものようにひざまずき、神の前に祈って感謝をしました。神と豊かな交わりの時間を守ったのです。王が国の全てを任せている為政者が、このように低くなってひざまずき、感謝を捧げ祈っているのです。
おそらく、彼はペルシャ王国の為に主にとりなし、祈っていたでしょう!そのようなダニエルに対し、大臣たちはそれを逆手にとって足をすくおうとするのです。ダニエルの祈りの姿を見て、大臣たちや太守たちは大喜びです。そして計画通りダニエルを訴えるのです。決して取り消すことが出来ない法律をダニエルが破ったからです。
この訴えを聞いて、王は憂いたとあります。王はダニエルを最も信頼し、愛し尊敬していたのでしょう。また、この法律が大臣たちによって、ダニエルを陥れるために謀った罠であったことに気が付き、どうにか、ダニエルを助けようとしたとあります。私は、王にここまで信頼されているダニエルの人柄にも驚かされます。
もし、自分だったらどうかと思います。誠実な人柄や仁徳はさることながら、本当に王様から愛されていたのだなあと羨ましくも思います。恐らく、ダニエルは王に対してへつらったり、こびを売らず、率直で愛情深く、そして誠実に関わったのでしょう。王の心配ぶりは、ダニエルがライオンの穴に投げ込まれた時を見るとどれ程だったかが分かります。
ダニエル6章16節、18節
「そこで、王が命令を出すと、ダニエルは連れ出され、獅子の穴に投げ込まれた。王はダニエルに話しかけて言った。『あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。』」
「こうして王は宮殿に帰り、一晩中断食をして、食事を持って来させなかった。また、眠けも催さなかった。」
ダニエルは、ダリヨス王にこう言わせるのです。「あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。」これは普段からのダニエルの信仰生活が物語っていたのでしょう。一縷の望みを、ダリヨス王は自分の神ではなく、ダニエルの神である主に委ねたのです。王はダニエルのために断食し眠気さえ催さないのです。このダニエルこそ、イエス様が山上説教で語られた、地の塩、世の光として生きた信仰者でしょう。
地の防腐剤となるだけではなく、輝いているのです。私たちもまさにそのような生き方を求められているのです。そう考えると、ただただ、自分の足りなさを知りつつ、主の名を汚すことなく歩ませて下さいと祈らされるばかりです。
ダニエルは獅子の穴に投げ込まれて一晩経ち、どうなったでしょうか。翌朝、ダリヨス王は日が昇った瞬間に獅子の穴に急いで行きました。ダニエルがどうなったのか心配する気持ちがよく表れています。万が一にも、まだいのちがあるかもしれないというかすかな希望を持っていたのかもしれません。そして穴に向かって悲痛な声でこうダニエルに言うのです。
ダニエル6章20節
「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。」
ところが王の予想をはるかに越えて、あの聞きなれたダニエルのいつもの声が返ってきたのです。
ダニエル6章21節~23節
「すると、ダニエルは王に答えた。『王さま。永遠に生きられますように。私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。』そこで王は非常に喜び、ダニエルをその穴から出せと命じた。ダニエルは穴から出されたが、彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼していたからである。」
王は大喜びでダニエルを穴から出しましたが、驚くことに、ライオンと一晩過ごしたダニエルは、全く無傷だったのです。この時にダニエルといたライオンが無力だった訳ではありませんでした。その証拠に、その後、陰謀を企んだ大臣たちが同じ穴に投げ込まれた時には、彼らが穴に落ちる前に骨まで噛み砕かれたとあります。まさに、ダニエルの言う通り、神が使いを送ってくださり、ダニエルを守られたのです。主を信じきった者の信仰の勝利でした。そしてその後、ダリヨス王はこう書き送ったとあります。
ダニエル6章26節~27節
「私は命令する。私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震え、おののけ。この方こそ生ける神。永遠に堅く立つ方。その国は滅びることなく、その主権はいつまでも続く。この方は人を救って解放し、天においても、地においてもしるしと奇蹟を行い、獅子の力からダニエルを救い出された。」
このダニエルのすごいところはどこだとお思いでしょうか?神の大胆な証人として歩んだこと、王の法令が出ても逃げずに神を礼拝したこと、奴隷の民なのに国の大事なポストに就き、王様から非常に信頼されていたことなど考えられます。しかし、これらは冒頭のりんごの話でお話しした、地上で見える部分なのです。このダニエルのすごい所は、神と言う大地から十分に愛や信仰の養分を頂き、神との祈りによる交わりを通して生きていた事なのです。ここが大事なのです。重要なのは常日頃から、神の御言葉によって心の土地を耕され、御霊によって元気づけられ、神の愛を人生の中で味わい、祈り導かれていく、その中でたくさんの栄養を神から頂くことなのです。そうすれば、見える部分も全て整えられるのです。
コロサイ2章7節
「キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」
私たちはそのためには、御言葉から養分を頂き、ダニエルのように主との交わりである祈りと御言葉を中心とした歩みをしたいと思います。お祈りをいたします。