2014年5月11日日曜日

ヨハネの福音書12章12節~26節 「一粒の麦が」

 この季節、教会玄関の前にシャクナゲの花が咲いていたのを、皆様は気づかれたでしょうか。手入れをしてくださっているのは草野姉妹ですが、咲き終わったシャクナゲの花はスッパリ切り落としてしまわないと、次の花が咲かないのだそうです。山の樹木も下枝を刈らないと、木の全体が成長できません。
また、赤ちゃんはお母さんのお腹から出てくる時、血流が止まり一時的に酸素不足の状態に陥る、一種の仮死状態になるのですが、しかし、これが脳への刺激となって肺呼吸が始まるのだそうです。最初の呼吸の際大きな泣き声を上げるため、これを産声といいます。新しい命誕生の声でした。
植物にせよ、人間にせよ、古い命が死ぬことによって新しい命が生れ、成長してゆく。神様が定めたこのような自然法則は、私たちの霊的いのちについてもあてはまることを教えられるのが、今日の箇所となっています。
身近な自然から例を引いてくるのはイエス様の得意とするところ。誰もが聞いたことのある一粒の麦の死と再生のたとえは、ヨハネの福音書12章のこの箇所にありました。
さて、この印象的なたとえが語られたのは、イエス・キリストが生涯最後の都登り、いわゆるエルサレム入城を果たした時のことです。入城の前、愛する弟子ラザロを墓の中からよみがえらせ、ご自分が永遠の命の主であることを示されたイエス様は、ユダヤ宗教指導者の指名手配を受け、いつ命を奪われてもおかしくない状況にありました。
一旦は荒野に退いたものの、十字架に心を定めたイエス様は再び都エルサレムに戻ってきます。その途中、ベタニヤ村でラザロとその兄弟を中心に親しい人々と晩餐の交わりを持たれた後、イエス様は足をエルサレムに向けて歩みだしたのです。

12:12,13「その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」

イエス様が都エルサレムに来る。このニュースは瞬く内に、過越しの祭りのため都に集まっていた人々に届いたようです。大勢の人の群れがしゅろの木の枝を手に、出迎えたとあります。
しゅろの枝は、勝利の王を歓迎する際行われていた当時の風習。数々の奇跡に加え、死者をよみがえらせるという大奇跡を行ったイエス様をユダヤの王として、いかに期待してかがよく分かる場面でした。その頃、ローマ帝国の圧政に苦しんでいた人々は、憎きローマを力で倒し、繁栄を回復してくれる王の登場を願っていたのです。
しかし、イエス様には、その様な地上の王になる思いは微塵もありませんでした。むしろ、人々の心の罪から救い、平和をもたらす王としてわたしは来たとの思いを、ある行動によって示されたのです。
12:14~16「イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出した。」

普通、王様が行進の際乗るのは馬。足が速く、格好の良い馬は昔から王や戦士に好まれてきました。それに対してイエス様が選ばれたのはロバの子。見栄えのしないロバは荷物担ぎか、旅人の乗り物。人間のしもべとして、ひたすら仕える動物でした。
ですから、何故イエス様がロバを乗り物として選ばれたのか。分かるような気がします。その生涯を悩む人苦しみ人に仕えるためにささげ、ついには十字架に死に至るまでも仕えようとされるイエス様の姿は、馬ではなくロバと重なって見えます。
しかし、例によって心鈍い弟子たちは、イエス様の思いに気がつかなかったようです。彼らが出来事の意味を悟ったのは、十字架と復活の後のことと、ヨハネは記しています。
他方、イエス様を大歓迎する群衆を見て、地団駄ふんで悔しがったのが、ユダヤの宗教指導者たちでした。これほど多くの支持者がいる中では、最早イエス様を捕え、亡き者にすることはできないと落胆したのです。

12:17~19「イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。そのために群衆もイエスを出迎えた。イエスがこれらのしるしを行なわれたことを聞いたからである。そこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」

ラザロ復活を巡って語り合い、盛り上がる大勢の人々。「何一つうまくいってはいない」と肩を落とす宗教指導者パリサイ人。しかし、やがて彼らが心ひとつにしてイエス様を十字架の死に追いやることを、聖書は記録していました。
「女心と秋の空」等と言いますが、男も含めて人の心ほど変わりやすく、当てにならないものはないと思わされます。しかし、この様な信頼できない人間を救わんとするイエス様の愛は変わることなく、どこまでも真実でした。
時に、過越しの祭りのため都エルサレムに上ってきたギリシャ人が自分に会いたいと願っていることを聞くと、イエス様はいよいよ生涯の正念場、十字架の時が近づいたことを覚悟されたのです。

12:20~24「さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」

ギリシャ人が取次を弟子のピリポに頼んだは、ピリポがギリシャ語が得意だったのか。しかし、ピリポがアンデレに相談すると、二人一組でイエス様に話に行ったのは、恐らく、今までイエス様がユダヤの人々への伝道と奉仕に専念してきたからと思われます。
ご存知のように、イエス・キリストの十字架の死と復活以後、イエス・キリストを救い主とする人々は、ユダヤから出て世界中に広がってゆきます。まず、ユダヤ人を選び、ユダヤ人に聖書を与えて教育し、ユダヤ人の中に救い主を誕生させ、世界のあらゆる民族に罪からの救いの福音を伝えること。それが、世界の初めから、神様が定めた救いのご計画であることを、聖書は教えていました。
こうして、ギリシャ人の訪問を通し、最も重要な使命を果たすべき時が近づいたことを知ったイエス様が語られたのが、ご自分の死によって信じる人々の中に豊かな命を生むことを教える一粒の麦のたとえだったのです。「…一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
咲き終わったシャクナゲの花の死も、樹木の下枝の死も、一粒の麦の死も、それぞれの死に尊い意味があるように、イエス・キリストの死にも、信じるすべての人の心に永遠の命というもたらすという尊い意味があることを、私たち教えられたいのです。
すべての罪赦され、最早永遠に責められることのない神の子とされた平安な心。神様の愛を受け取り、自分の存在価値を知って喜ぶ心。神様を天の父、イエス様を友として、親しく交わることのできる関係。
果たして、皆様はイエス・キリストを信じた時、この様な永遠の命を与えられたことを自覚しているでしょうか。本当なら、このような尊いものを受け取るに価しない、本当に救いがたい罪人である自分が、ただイエス・キリストの犠牲の死により、人として本来生きるべき命に生かされていることを感謝しているでしょうか。
私たちは、神に背を向けてきた者に永遠の命をもたらすために、ご自分から進んで、十字架の上で命を捨てられたイエス様を、いつも見つめる者でありたいと思います。父なる神様の御心に従うことと、私たち人間に救いの道を開くことを喜びとして、十字架の死を選ばれたイエス・キリストに感謝をささげる者でありたいと思います。
そして、最後に注目したいのは、死んで豊かな命を生むというイエス様の生き方に、私たちもならうということの重要性でした。イエス様は私たちにも、一粒の麦のように、死んで生きることを勧められたのです。

12:25,26「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」

永遠の命は、神様からの賜物です。イエス・キリストの十字架に死によって獲得されたものであり、私たちの努力や行いによるものではありません。
しかし、永遠の命はそれを受け取ったら完成と言うものではないのです。命は与えられるものであると同時に、育て、充実させてゆくもの。そのために、私たちがなすべきことがあるとイエス様は教えていました。
一つ目は、自分の命を愛さない、この世で自分の命を憎むということです。ここで言われる「自分の命」とは、イエス様独特のことばですが、私たちが生れながらに持っている自己中心の性質、神様抜きで考え、行動する生き方を指します。
私たちにとって、その様な性質、その様な生き方は自然なことでした。しかし、神様との正しい関係を回復した私たちは、徐々に自己中心の性質や神様抜きで考え、行動することの問題点に気づかされています。気づかされていますが、なおもその様な性質や生き方から完全に解放されていませんから、イエス様は「自分の命を愛する者はそれを失う」と警告し、「この世で自分の命を憎むものはそれを保って永遠の命に至る」と励ましておられるのです。
それでは、具体的に「自分の命を愛さない、自分の命を憎む」とはどういうことでしょうか。私たちのうちにある、古い性質、生き方が大切に思うものを第一にしないということ、それらのものに拘る生き方を止める、死ぬということです。
私たちはこの世の富、名誉を得ることを第一にしていないでしょうか。快適な生活やプライドを守ることを第一にしてはいないでしょうか。
イエス様は、私たちが働いた結果富を得ること、努力した結果名誉を得ること、快適な生活を楽しむことや正しいプライドを持つことを問題としているのではありません。イエス様が問題にしているのは、私たちが神様を第一とせず、富や名誉を第一とすること、神様の御心に従うことより快適な生活を守ることを重んじる生き方、神様を誇らず自分を誇ることでした。このことを教えるイエス様のことばを読んでみたいと思います。

6:31「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

ここでイエス様があげているのは食べ物、飲み物、着物のことです。しかし、この教えは私たちが心配し、思い煩うすべてのものに当てはまるでしょう。富や名誉、快適な生活やプライドを愛するなら、私たちはそれらに支配され、縛られることになる。イエス様が指摘する心配、思い煩いは、私たちがそれらのものに支配されていることのしるしでした。
しかし、自分の命を愛することに慣れきった私たちにとって、その様な生き方に死に、神様を第一とする生き方を選ぶことは簡単なことではありません。与えられた富や地位を人に仕えるため使うこと、快適に過ごせる時間を犠牲にして隣人愛を実践すること、プライドを捨て、許しがたい人のために神様の祝福を祈り、和解に努めること。どれも言うは易し、行うは難しということばかりです。
しかし、それは本当に実践し続ける価値のあること、何故なら、神様と神様の御心を第一にすることで、あなたは私のように自由で、すべてのことにおいて満ち足りる命を味わうことができるから。私たちそうイエス様に教えられたいと思います。
ふたつめは、「わたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」とあるように、イエス・キリストに仕えることに対する、天の父からの報いを心から期待して、考え、行動することです。今日の聖句です。

Ⅰヨハネ3:2、3「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」

聖書が、将来私たちが必ず受け取る報いとして教えていることは様々ですが、ここにはそのうちの一つ、私たちがキリストに似る者となるという心踊らされるような約束が記されています。
もし見るのが初めてだとすれば、あの蛾が脱皮して優雅に空を舞う美しい蝶々になるのを想像するのは、相当難しいことです。それと同じく、今の私たちがイエス様と同じ栄光のからだを持ち、イエス様の心と同じ心を持つ者となるのを想像することも難しいかもしれません。
しかし、この心踊らされる約束を本気で信じるなら、私たちの生き方は変わります。いや変わらざるを得ないと思います。この望みを抱く者はキリストが清くあられるように、自分を清くする。つまり、自分の命を愛する考え方、行動に死に、神様の御心を第一にする生き方に励む者への変化です。こうした生き方の積み重ねの中で、私たちが与えられた永遠の命を育て、喜ぶことができたらと思います。