2014年5月18日日曜日

ネヘミヤ6章15章~16節 「一書説教 ネヘミヤ記」 ~神によってなされた~

 聖書を読む際、記された出来事や登場する人物について、私たちはどれだけ身近に感じているでしょうか。
今の私と関係があるとは思えないとしながら聖書を読むのか。今日、神様が私に何を語られるのか期待して読むのか。聖書に向き合う心構えで、聖書を読む喜び、楽しみは大きく変わると思います。
はるか昔、遠い国で起こった出来事と捉えるのか。かつて神の民がどのように歩み、神様がどのように導かれたのか。同じ神様が、私を導いて下さる、私はどのように生きるべきなのかを考えながら読むのか。心の姿勢により、聖書を通して頂く恵みに大きな違いがあります。
 私たちの聖書を読む歩みが祝福されて、身近なものとして聖書を読むことが出来るように。今の自分と関係のあるものとして受けとめることが出来るようにと願います。

私の説教の際、断続的に取り組んでいます一書説教。今日は十六回目。旧約聖書、第十六の巻、ネヘミヤ記となりました。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。

 ネヘミヤ記は、先に扱いましたエズラ記と繋がりの強い書。南ユダの人々がバビロンに捕え移された、「バビロン捕囚」の後のこと。神様の約束通り、バビロンで奴隷だった者たちがエルサレムに帰り、神殿再建を為したというのがエズラ記の前半。神殿再建の立役者は、ゾロバベルと祭司ヨシュアでした。神殿再建後、約六十年経ってから、聖書の教えを伝えるべく南ユダに戻るのがエズラ。エズラ記の後半は、エズラの宗教改革の記録です。
 今日扱いますネヘミヤ記は、このエズラ記の後半と同時代。エズラ記に記されていた、エズラの宗教改革の後、どのようなことが起こったのかが記されている書です。

 ネヘミヤ1章1節~4節
「ハカルヤの子ネヘミヤのことば。第二十年のキスレウの月に、私がシュシャンの城にいたとき、私の親類のひとりハナニが、ユダから来た数人の者といっしょにやって来た。そこで私は、捕囚から残ってのがれたユダヤ人とエルサレムのことについて、彼らに尋ねた。すると、彼らは私に答えた。「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。」私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、言った。」

 ここにある第二十年とは、アルタシャスタ王の第二十年のこと。エズラがエルサレムに戻ったのが、アルタシャスタ王の第七年(エズラ記7章7節~8節)のことでしたから、その十三年後のこと。
 この時、ネヘミヤはアルタシャスタ王の献酌官でした。食事の時に王の近くにいて話し相手となり、毒味をする者。王より絶大な信頼を得ていた人物。このネヘミヤのもとに親類のハナニが来て、エルサレムの窮状を伝えました。神殿再建が為され、エズラもエルサレムに向かい、更に十年以上経ったこの時。エルサレムはひどい困難の中にいる、その大きな原因は城壁が崩されたままになっていること、との報告です。
 このエルサレムの状態を聞いたネヘミヤは、ひどく心を痛め、泣きだし、喪に服し、断食して祈りました。これより以前に、ネヘミヤがエルサレムに行ったことがあったのか。エルサレムにいた人々で、ネヘミヤの親類、友人、知人がどれだけいたのか。分かりませんが、聖書の神様を信じる仲間、神の民が大変な状況にあると知って、ひどく心を痛めたネヘミヤの姿が印象的です。自分がネヘミヤの立場だったとしたら、同じように心を痛め、祈っただろうか。今の自分が、神の民、教会の窮状を聞いて、同じように心を痛め、祈っているのかと心探られます。

 このネヘミヤの祈りがどのようなものだったのか。一章は五節以降がその祈りの言葉となっていて、是非目にして頂きたいところです。まさに聖書を身近に感じている人の祈りです。その祈りの最後に、次のようなネヘミヤの願いがありました。
 ネヘミヤ1章11節
「どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」

 ここで祈られている「この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」とは、アルタシャスタ王の前であわれみを受けられるように、アルタシャスタ王が私の願いを聞いてくれるように、との祈りです。では、ネヘミヤは、アルタシャスタ王に何を願いたかったのか。城壁の再建です。エルサレムの窮状を聞いて、ひどく心を痛めたネヘミヤの思いは、何とか城壁を再建したいという思いへとつながるのです。

 このネヘミヤの祈り、願いは不思議な形で実現します。
 ネヘミヤ2章2節~5節
「そのとき、王は私に言った。『あなたは病気でもなさそうなのに、なぜ、そのように悲しい顔つきをしているのか。きっと心に悲しみがあるに違いない。』私はひどく恐れて、王に言った。『王よ。いつまでも生きられますように。私の先祖の墓のある町が廃墟となり、その門が火で焼き尽くされているというのに、どうして悲しい顔をしないでおられましょうか。』すると、王は私に言った。『では、あなたは何を願うのか。』そこで私は、天の神に祈ってから、王に答えた。『王さま。もしもよろしくて、このしもべをいれてくださいますなら、私をユダの地、私の先祖の墓のある町へ送って、それを再建させてください。』」

 毒味役であり、話し相手であるネヘミヤが、王の前で悲しい顔つきをしていた。献酌官として大失態。しかし、王がネヘミヤに気を使い、どうしたのかと聞いたというのです。余程、王に愛された人物。この事態に、ひどく恐れを感じながらも、千載一遇の好機とみて、エルサレムの窮状を訴え、さらに何を願うのかと聞かれると、すかさず神に祈りつつ、城壁再建を願い出たというのです。
 おそらくは、偶像の飾り建てられた一室でのこと。異教の神々に囲まれ、ペルシャの大王を前に、ネヘミヤの心は神様に向いていました。王に質問され、自分が答えるまでの間に、神に祈る。ここに、ネヘミヤの強さを見る気がします。
 こうして献酌官であったネヘミヤが、南ユダの総督として城壁再建という一大事業に取り組む人として、表舞台に立つことになる。ネヘミヤ記は城壁再建の記録です。

 この城壁再建ですが、いくつか困難な課題がありました。一つは、この城壁再建に真っ向から反対する勢力があったことです。
 ネヘミヤ2章10節
「ホロン人サヌバラテと、アモン人で役人のトビヤは、これを聞いて、非常に不きげんになった。イスラエル人の利益を求める人がやって来たからである。」

 バビロン捕囚の間、南ユダの地域は、サマリヤ(北イスラエルのあった地域)と同一の地域として、支配されていました。ところが、ネヘミヤの働きは、南ユダとサマリヤを区分けするものであり、城壁再建はそれを目に見えて明らかにするもの。南ユダの地域を、自分たちの支配下としておきたい、サマリヤの有力者たちは、この城壁再建を執拗に妨害します。
 ネヘミヤや南ユダの人々への暴言、恐喝。あるいは城壁を壊そうとする破壊工作。ネヘミヤの地位を奪おうとする買収工作。ついには、ネヘミヤを殺そうとする暗殺計画まで。何としてでも、城壁がならぬようにとする妨害の数々。

 これに対して、ネヘミヤはどう対処したのか。祈ることと、出来ることに精一杯努めることです。様々な妨害と、それに対する様々な対処が記されていますが、例えば次の箇所にはこうあります。
 ネヘミヤ4章8節~9節
「彼らはみな共にエルサレムに攻め入り、混乱を起こそうと陰謀を企てた。しかし私たちは、私たちの神に祈り、彼らに備えて日夜見張りを置いた。」

 アルタシャスタ王の前でもそうでしたが、ネヘミヤは問題が起こると、すぐに祈る人。ネヘミヤは祈りの人でした。しかし、祈って何もしないというのではない。取り組めることに、精一杯取り組む。神様を信頼して事を行うというのは、祈りとともに、出来る限りのことに取り組むことでした。
 その具体的な妨害策と、ネヘミヤの対応は、是非読んで確認して頂きたいと思います。

 城壁再建を困難にするもう一つの問題は、南ユダの人たちにあった問題です。
 ネヘミヤ5章7節~8節
「私は十分考えたうえで、おもだった者たちや代表者たちを非難して言った。『あなたがたはみな、自分の兄弟たちに、担保を取って金を貸している。』と。私は大集会を開いて彼らを責め、彼らに言った。『私たちは、異邦人に売られた私たちの兄弟、ユダヤ人を、できるかぎり買い取った。それなのに、あなたがたはまた、自分の兄弟たちを売ろうとしている。私たちが彼らを買わなければならないのだ。』すると、彼らは黙ってしまい、一言も言いだせなかった。」

 事の発端は、貧しい者たちの訴えでした。確認したところ、富める者たちが、貧し者に金を貸し、その取り立ての厳しさの故に、貧しい者たちは食べ者に困り、子どもたちを奴隷としなければならない状況にあったというのです。一致して困難に当たるべき時、富める者たちが私利私欲に走ったという事態。
激怒したネヘミヤは、富める者たち、それはつまり、民の中の主だった者たち、代表たちを責め、事態を収束させます。自分自身も借金を免除し、かつ総督としての手当ても要求しないとします。
 文字で読むと、あっという間のことですが、相当難しい事態。民の代表者たちを責めることは、より大きな混乱を招くことになりかねない。どのような場面で、どのような言葉を使うのか。十分に考えたうえでなされたことですが、この問題を解決出来たところに、ネヘミヤの人格、器の大きさを感じるところ。ここも、神様が大いに祝福して下さったと見ることが出来ます。

 このように様々な問題を抱えながらも、城壁は無事に再建となります。
 ネヘミヤ6章15節~16節
「こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。私たちの敵がみな、これを聞いたとき、私たちの回りの諸国民はみな恐れ、大いに面目を失った。この工事が、私たちの神によってなされたことを知ったからである。」

 城壁の再建工事は五十二日間。とても短く感じます。この五十二日間というのが、ネヘミヤがエルサレムに帰って来た日から、城壁完成までの日数なのか。それとも、準備期間や、後処理の期間は除いた日数なのか。どちらか分かりませんが、何にしろ、ネヘミヤの指導力が卓越しており、民の一致があったと言えます。しかし、ネヘミヤ自身は「この工事が、私たちの神によってなされた」と記しました。これは、神によってなされたことなのだと。
 ネヘミヤ自身、多大な労力を使い、危険を味わい、問題に取り組み、出来る精一杯のことをしてきました。様々な問題にぶつかり、命の危険もありました。城壁再建に対してのネヘミヤの働きは、誰の目にも称賛されるもの。それでも、ネヘミヤ自身は「神によってなされた」と記します。ここに信仰者の清々しさを見る気がします。
 私はあれもやった、これもやったとふんぞり返る信仰者ではなく、栄光は神に、とする信仰者の潔さ。私はこれをやったと喜ぶよりも、神様に用いられたことを喜ぶネヘミヤの姿に憧れます。

 さて、六章にて城壁再建が記録されてから後、ネヘミヤ記に記されるのは、南ユダの人たちの礼拝や悔い改めの姿です。見える城壁の再建から、精神的、信仰的な城壁の再建へとテーマが移ると言えるでしょうか。
 人々の礼拝、悔い改めを導く、大きな働きをするのが、エズラとなります。
 ネヘミヤ8章1節
「民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。」

 これより十三年前にエルサレムに来ていたエズラ。その宗教改革の働きは、エズラ記の後半に記されていました。あの働き以降、エズラが何をしていたのか分かりません。そのままエルサレムで、聖書の教えを続けていたのか。あるいは、一度、ペルシャに戻っていたのか。何にしろ、城壁がないことが大きな原因で、困窮していたエルサレムに、城壁が再建された。これ以降、ますますエズラの活躍が期待されるところ。
 律法の書が朗読される。仮庵の祭りが行われる。悔い改めの断食祈祷が行われる。城壁の奉献式が行われるなど、賛美、祈り、悔い改め、礼拝の姿が記録されるのが、ネヘミヤ記の後半となります。その賛美の言葉、祈りの言葉、悔い改めの言葉、礼拝の姿は、是非とも目を通して頂きたいと思います。

 以上、ネヘミヤ記を概観しました。全体を通して、教えられること多数のネヘミヤ記ですが、神の民を通して、事をなさせる神様を覚えてまとめとしたいと思います。
 ネヘミヤはエルサレムの窮状を聞いた時、ひどく心を痛め、泣きだし、喪に服し、断食して祈りました。その祈りの中で、何とか城壁を再建したいという思いに至ります。
 このネヘミヤの姿を、パウロは次のように説明しています。今日の聖句です。

 ピリピ人への手紙2章13節
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」

 何故、ネヘミヤはエルサレムの窮状を聞いた時、そこまで心を痛め、城壁再建への情熱を持ったのでしょうか。(聖書には記されていませんが)ネヘミヤなりの理由があったかもしれませんが、神様の視点、聖書の視点で言えば、神様がネヘミヤに志を与えられたということです。
 志を与えられたネヘミヤは、城壁再建への過程の中で、その都度神様に祈りつつ、自分の出来ることを精一杯行いました。ネヘミヤのリーダーとしての資質、手腕、その努力は凄まじいものがあったと思いますが、神様の視点、聖書の視点で言えば、神様が事を行わせてくださったということです。ネヘミヤ自身、そのことをよく理解していたので、城壁再建の際、「これは、神によってなされた」と告白しました。
 神様に与えられた志、情熱を持って、神様を信頼しつつ、自分の出来ることに精一杯取り組む。その志が果たされた時に、神によってなされたと告白することが出来る神の民は、どれほど幸いかと思います。

 このネヘミヤ記を読む際、私たちは自分に与えられた志が何であるのか。考えながら、読みたいと思います。どのような事柄、出来事に、心が痛むでしょうか。どのような事に、自分の関心が向いているでしょうか。自分自身の欲望を満たすため、自分が称賛されるための願いではなく、神様が私に与えて下さる、聖なる志は何か。自分に与えられた聖なる願いは何なのか。よく考え、よく祈りたいと思います。
 神様のために、教会のために、この世界を良くするために、自分が出来ることは何か。それを見つけ、神様を信頼しつつ、自分の出来ることに精一杯取り組む。神の民としての幸いを、皆さまとともに味わいたいと思います。