ところで、皆様にとって、イエス・キリストは、ぜひ人々に紹介したいと思う存在でしょうか。私たちはことばを通して、また生き方、行動を通してイエス・キリストを紹介することができますし、すべきことを命じられています。
今日の聖書の箇所に登場するマリヤは、その行動を通して雄弁にイエス・キリストがどのようなお方であるかを示し、私たちに紹介してくれる女性の一人でした。
さて、今日の出来事の舞台は、ユダヤの都エルサレムに近いベタニヤ村の、とある家。恐らく、らい病人シモンの家と考えられます。
前の11章で、ラザロを墓の中からよみがえらせたイエス様は、宗教指導者から命を付け狙われることとなり、いったん荒野に退かれました。しかし、ユダヤ最大の祭り、過越しの祭りが近づくと再び都に上り、祭りの六日前には都近くのベタニヤ村で、親しい人々と晩餐の交わりを楽しまれたと言うのです。
12:1、2「イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。」
マルタが給仕し、復活したラザロがゲストとしてイエス様とともに食卓に着き、この後マリヤも登場する。この様子からしますと、晩餐の席はラザロのいのち回復、健康回復を祝い、ラザロをよみがえらせたイエス様に対する感謝を表すための交わり、親しい者同士の集まりではなかったかと思われます。
元気になったラザロ。都エルサレムでの使命達成を控えているのに、喜んで顔を見せてくださったイエス様。甲斐甲斐しく働くラザロの姉マルタ。この晩餐のため快く家を提供したシモン。和やかな神の家族の交わりが進む中、家の中にかぐわしい香りが満ちたと思いきや、刺々しい非難の声が響き、人々の心を凍らせます。
12:3~6「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。」
ラザロの姉妹マリヤが使ったのは外国製のナルドの香油。同じ出来事を記す他の福音書によれば、マリヤはイエス様の頭にも香油を注いだとありますから、頭から足に至る全身に香油を塗り、最後に髪の毛で足の部分を拭ったのでしょう。
最初は黙って見ていたユダ。しかし、驚くべきことに、高価な油は惜しげもなく全身に塗られ、足に塗られた油に至っては髪の毛で拭われ、余分が床に滴り落ちる。この様子を見て、ついに「大盤振る舞いの贅沢もいい加減にしろ」と、堪忍袋の緒が切れたのでしょうか。「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人に施さなかったのか」と怒り爆発、マリヤを責めました。
他の福音書では、ユダ以外の弟子たちもマリヤに同じことを言ったとありますから、大の男たちから一斉に責められ、マリヤはどんなに心細かったことか。特に、会計係のユダは、公の金を誤魔化すという悪事に手を染めてきた貪欲な人でしたから、「勿体ない」と糾弾する声が一際高かったのでしょう。
確かに、一デナリは当時の相場で男子一日分の賃金。三百デナリはざっと一年分の賃金ですから、決して安くはない。むしろ、庶民には高根の花の高価な香油。もしかすると、これはマルタ、マリヤ、ラザロ三人兄弟の家の家宝だったのかもしれません。
しかし、そんな宝物を惜しげもなくささげたマリアの思いを、イエス様はよくご存知でした。と同時に、男たちが「貧しい人のことも考えよ」と、強い口調の正論でマリヤを責める姿勢の裏側にある偽善をも見抜いておられたようです。
12:7、8「イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」
ここに語られたイエス様のことばからしますと、マリヤは人一倍イエス様の死が迫っているのを感じ、その死に表わされたイエス様の愛を悟っていたように見えます。
マリヤはラザロの姉妹。彼女は、ユダヤ教指導者が亡き者にしようと狙っていることを知りながら、大切な家族を墓からよみがえらせてくださったイエス様の姿、身の危険も顧みず、不信仰な者のため永遠のいのちの主であることを示してくださったイエス様の行動をまじかに見てきました。
まさにイエス様のいのちがけの愛を知り、受けとめたマリヤにとって、感謝を表す時は今この時しかない、そのために大切なナルドの香油をすべてささげたとしても、少しも惜しくはない。その様な思いであったでしょう。
そんなマリヤの思いを汲んで、「マリヤはわたしの葬りの日のために、大切な香油をとっておこうとしていたのです」と語り、イエス様は責める弟子たちからマリヤを守られました。
一方、男の弟子たちに向けて「あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいる」と語り、貧しい人を助けることはいつでもできたし、これからもできるはずとして、本当に心にかけているのは貧しい人ではなく、高価な香油の金銭的価値の方ではないのかと問いかけています。
えてして、人間は自分の卑しい心を隠すために、正論を吐きます。さも、いつも自分が困っている人のことを考えているかのように言い繕い、人の善い行いにケチをつけたがります。人間だけが持つ偽善と言う病気です。決して他人事ではない、私たちのうちにも宿っているこの病に注意したいと思います。
また、「わたしとはいつもいっしょではない」と語り、マリヤと違って、迫りくるイエス様の死とその尊さを考えようとしない彼らを、やんわり叱っているようにも見えます。事実、のんびり構えていた男の弟子たちの思いとは裏腹に、イエス様の死はそこまで迫っていたのです。ユダヤの宗教指導者は、復活の生き証人ラザロを見るために、人々が自分たちのもとを去ってゆくのを見ると、イエス様はもちろんラザロをも殺そうと相談し始めました。ラザロ復活が、大勢の人々がイエス様のもとにゆくという、彼らが最も恐れていた出来事を引き起こしたのです。
12:9~11「大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。」
さて、こうして読み終えた今日の箇所。和やかな交わりの席を、一瞬にして女性一人を責め立てる場に変えてしまった男の弟子たちの嫌らしい偽善。イエス様に迫りくる死とその意味を思いもせず、ただナルドの香油の金銭的価値を惜しむ貪欲。しかし、これらの中にあって、惜しげもなく香油三百グラムを愛する主のためにすべてささげきったマリヤの姿が燦然と輝いていました。
今日の箇所から、私たち心に覚えたいことが二つあります。ひとつは、マリヤの行動は所有物よりも、イエス・キリストが宝であることを示しています。マリヤの行動は高価なナルドの香油という所有物ではなく、イエス・キリストこそが彼女の宝であることを示しているということです。
現代社会の一つの特徴は、物質主義と言い表すことができると思います。それは多く
の人が物を所有することを人生の目的と考えている社会、物事や行動を金銭的価値で測
る社会、所有物が心の拠り所であり宝であると感じている人の多い社会です。
この様な社会で、私たちがイエス・キリストの素晴らしさを人々に示すためには、ど
のような生き方が求められるのでしょうか。それは、マリヤのように、所有物ではなく、イエス・キリストが宝物であることを示すような生き方をすることです。
そうだとすれば、考えてみなければならないことがあります。果たして、皆様の宝は所有物でしょうか。それともイエス・キリストご自身でしょうか。イエス様は「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:21)と教えてくださいましたが、皆様の心はいつもどこにあるでしょうか。
金銭や所有物を獲得すること、守ること、自分のために使うことでしょうか。それとも、それらを受けるに価しない自分のために十字架に死んでくださり、その死によって良きものすべてを与えてくださったイエス・キリストこそが宝であることを示すために、所有物をどう使うべきか。このことに心を用いているでしょうか。
物質主義の悲惨さは、所有物を求めれば求めるほど、物質に心縛られ、物質の奴隷になることです。ユダが金銭を盗んでいたこと、弟子たちがマリヤの行動を、香油の金銭的価値のみで判断してしまったこと。いずれも、物質主義の影響です。
私の心はどこにあるのか。どこに向いているのか。これはいつも神様の前で、私たちチェックしないといけないことと思います。なぜなら、放っておけば自然と、私たちはこの世の人が求める物を求め、イエス・キリストを知らない人が金銭を使うのと同じように金銭を使い、本来の生き方を忘れ始めるからです。
私たちを物質主義から解放するのは、イエス・キリストの愛を心に満たすこと、また
与えられた所有物をイエス・キリストの素晴らしさを示すために惜しみなくささげ、与
え、手放すことと教えられたいと思います。
二つ目は、イエス・イエス・キリストがいのちより大切であることを証しするために
生かされていることを自覚し、そのような生き方に取り組むことです。今日の聖句です。
詩篇63:3「あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。」
所有物の使い方、時間の使い方、働き方などにおいて、普段私たちは何を第一に考え、行動しているでしょうか。もし、余った物の中から神にささげものをし、時間が余ったから聖書を読み、生活に必要な糧を得ることのみを目的として働いているのなら、人々はキリスト教信仰を趣味の一つと思い、私たちが本当に神様に信頼しているとは考えないでしょう。
しかし、私たちが、イエス・キリストの恵みはいのちにもまさると考え、イエス・キリストの素晴らしさを示すことを第一とし、そのような生き方に取り組み、惜しみなく実践するなら、人々はキリストが私たちのうちに生きていると感じ、信仰について尋ねてくるのではないかと思います。その為に週毎の礼拝を、イエス・キリストの恵みがいのちにもまさることを覚える機会として用いてゆきたいと思います。