私の妻の父は大の飛行機嫌いです。「あんないつ落ちるかわからないようなものに乗って、旅行を楽しむなんて奴の気がしれない」と言うのが口癖で、断れない会社の仕事以外、一度も飛行機に乗ったことがないそうです。飛行機を信頼しない人は海外旅行を楽しむことができません。
以前病院通いをしていた頃、私はある薬を飲むのに一抹の不安があり、理屈を捏ねていたところ、その医者に「あなたはキリスト教の牧師でしょ。信じるのが仕事のはずなのに、どうして医者の勧めるものが信じられなくて、病気が治ると思うわけ」と言われたことがあります。一本取られたなと言う感じでした。
確かに、医者の言うことを信じて実行しないなら、何のために医者に行くのか。やぶ医者と言うのもいますから注意しないといけませんが、一般的には、医者に不信の念を抱いていたら、健康の回復は望めないと思われます。
私たちの人生において、信頼するという思い、態度は非常に重要ではないでしょうか。飛行機が信頼できず海外旅行ができないぐらいなら良いのですが、人を信頼できなければ仕事もできなければ、友人もできない。結婚はなおさら難しい。行き着く先は究極の孤独ということになります。
逆に、ある人物を盲目的に信じて裏切られる。だまされる。その様な出来事もこの世では後を絶ちません。信頼できなければ孤独、信頼すべきでない者を信頼すればひどい目にあう。実に生きにくい世の中ではないかと感じます。
聖書によれば、この世界を創造した神様に背いて以来、人間は大切なさまざまな能力を失いました。お互いに愛し合う能力、道徳的に正しいことを行う能力、自然を正しく管理する能力などです。中でも根本的なのは、神様に信頼する能力を失ったことで、私たちを愛してくださる、全能の神様を信頼せず、極めて信頼できない自分を信頼するようになったことです。
今日の皆様と読み進めるヨハネの福音書12章後半。ここは、イエス様がおよそ三年間にわたり、力を尽くしてユダヤ人のために宣教活動を終えた場面。果たして、その活動の結果はどうであったかが明らかにされます。
12:36b,37「イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。」
意外な気がします。「イエスが彼らユダヤ人の目の前でこのように多くのしるし、奇跡を行われたので、彼らはイエスを信じた」とあるかと思いきや、「多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった」と続くのです。
今まで読み進めてきたヨハネの福音書には、六つの奇跡がありました。結婚披露宴で一瞬にして水をぶどう酒に変えた奇跡、ベテスダの池で36年もの間苦しんでいた病人の癒し、二匹の魚と五つのパンで五千人の群衆を満腹させた奇跡、夜湖の上を歩いて弟子たちに近づいた奇跡、生まれつきの盲人の目を開けた奇跡。最後は愛する弟子ラザロを墓の中から蘇らせる奇跡。イエス様はまだこの他にも多くの奇跡を行われたと言われています。
神様でなければなしえない奇跡を目の当たりにしながら、ユダヤの人々の目は節穴だった。イエス様の尊い奇跡が豚に真珠だったのかと思うと、読んでいる私たちも残念無念です。しかし、こうした人間の不信仰は昔からのこと。昔も、神様のことば、神様のわざに対して、人間は心の扉を閉ざしてきたと、ヨハネは旧約聖書の有名な預言者イザヤのことばを引き、説明しているのです。
12:38「それは、『主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。』と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。」
主なる神様が語りイザヤが受け取った知らせ、私たちの知らせを誰も信じなかった。主なる神様の御腕つまりイザヤにより紹介されたみわざを理解する者は誰もいなかった。昔、活躍したイザヤも人々の不信仰に悩まされたということです。
12:39~41「彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。『主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。』イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」
イザヤは活動を始める時、神殿で主なる神様の栄光を見るという経験をしました。その時イザヤが見た主なる神様の栄光は、人間の姿を取る前のキリストの栄光であると説明されています。そして、昔イザヤが経験した神様のさばきが、イエス様に対するユダヤの人々の不信仰な態度においても実現したと、ヨハネは言うのです。
そのさばきとは何でしょうか。人間が自分の目で見、心で理解する、つまり自分の力で回心することがないために、神様が人間の目を盲目にし、人間の心をかたくなにすると言うさばきでした。
もちろん、人間の目を盲目にする、心をかたくなにすると言っても、神様のことばを理解したいと思っている人が理解できないように邪魔をするとか、神様を信じたいと思っている人の心を反対方向に捻じ曲げてしまうと言うことではありません。
神様のことばなど理解する必要がない、受け入れたくないと思っている人をそのままにしておく。神様は信じられない、信じたくないと思っている人がその思いのまま生きられるよう放っておくと言うことなのです。こうして見ると、昔主に対し人々が示した態度と、イエス様に対して人々が示した態度は全く同じ。人間は昔も今も、神様に放っておかれたら、神様を信頼できない不信仰という状態のまま、どこまでも生きるしかないと言う悲惨な現実が明らかになったのです。
事実、イエス様の奇跡を見れば見るほど、教えを聞けば聞くほど、ユダヤの人々の反発は強くなり、殺意にまで高まってゆきました。それは、人々の中にある不信仰な性質が明らかになったということです。例えるなら、粘土の塊は太陽の熱を受けると、どんどん固くなってゆきます。太陽によって、熱を受けると固まるという粘土の性質が明らかになるのと同じと言えるでしょうか。
しかし、そんな宗教指導者の中にも、イエスを信じる者がいたと言うのは嬉しいことでした。
12:42,43「しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。」
ヨハネの福音書には、人目を憚り、夜中にイエス様を訪ね、教えを乞うたニコデモと言う宗教指導者が登場しますが、ニコデモのような人が多かったのでしょうか。残念ながら、彼らは仲間はずれにされるのを恐れ、信仰を告白しなかったとあります。
折角心に抱いたイエス・キリストへの信仰も、土の中から顔を出したばかりの小さな芽のよう。ユダヤ社会での高い地位が災いしたのか、それを守ろうとする彼らの信仰は、神からの栄誉よりも、人の栄誉つまり世間の名誉や評判を大切にする弱弱しいものだったと言うのは残念なことです。いつも人間ばかり見ていて、神様を忘れている。これも違う形の不信仰と言えるかもしれません。
こうして、全身全霊を尽くしたユダヤ人のための宣教活動も、終わってみれば、キリストに反発と殺意を抱く不信仰な人々と、神よりも人を恐れる弱弱しい信仰者ばかり。さぞや、イエス様はがっかりされたかと思いきや、ここからが本番とばかり、一際大声をあげて、「わたしを信ぜよ」「わたしのことばを受け入れて、永遠の命を得よ」と人々を招くのでした。
不信仰な人間が神様に信頼するために、弱弱しい信仰者が心から神様を信頼するために、イエス様はいよいよご自分が十字架に死に、人類の罪の贖いを果たすべき時が来たことを心に覚えられたのです。ヨハネの福音書において、イエス様がユダヤ人のため語る説教はこれが最後。最後まで一気にお読みします。
12:44~50「また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」
イエス様最後の説教のポイントは三つです。わたしを信じる者は、だれも闇の中、つまり罪の中にとどまることがない。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たけれど、わたしを拒み続けるなら、終わりの日にわたしのことばがその人をさばくことになる。神様に背いた人間に永遠の命をもたらすこと、つまり神様を心から信頼できるようにすることが、わたしに対する父なる神の命令。
今まで、イエス様が教えてこられたことのまとめとも言える説教です。しかし、活動の結果明らかになった人間のひどい不信仰と言う罪、神様を信頼する能力を全く失った人間の悲惨な状態を受けとめたイエス様が、これを語ってくださったことには重大な意味があるのではないかと思います。
イエス様は、徹底的に不信仰な人間のために、十字架に死ぬことを覚悟しておられました。イエス・キリストの十字架の死においてあらわされた神様の愛だけが私たちの心にある不信仰の罪を取り除き、私たちを心から神様を信頼する者へと造りかえることができるからです。人間のどんなひどい不信仰も、どんなに弱弱しい信仰も、十字架の愛を心に受ける時、それに抵抗することはできないからです。
この後、弟子たちと最後の晩餐を過ごし、別れの説教を語ったイエス様は、不信仰極まりない私たちのことを心に留めながら、十字架の死へと進んで行かれます。
こうして、読み終えたヨハネの福音書12章の後半。私たち確認したいことが二つあります。
ひとつは、イエス・キリストの十字架において現された神様の愛を知り、神様に信頼することができるのは、恵み以外の何ものでもないと言うことです。
今日の箇所で見てきたとおり、ユダヤ人は昔も、イエス様の時代も不信仰。どれほどイエス・キリストの奇跡を目の当たりにしても、自分の目で見、心で理解して、つまり自分の力で神様を信頼することはできませんでした。これは、ユダヤ人だけでなく、私たちみなが同じ悲惨な状態にあることを、ヨハネの福音書は教えているのです。皆様は自分が神様を信頼する能力を失っていること、むしろ神様の代わりに信頼すべきでないものを信頼してしまう罪の状態にあることを自覚しているでしょうか。
その様な私たちが、キリストの十字架を通して神様を信頼することができると言うのは、神様が信仰を私たちに与えてくださったからでした。キリストの十字架を仰いで、神様の愛を知り、神様を信頼できる。これが本当に私たちにとってかけがえのない大きな恵みであることを自覚し、感謝したいのです。
二つ目は、神様からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したユダヤの宗教指導者の姿は、私たちの姿でもあることを覚えたいのです。神様からの栄誉と人の栄誉、どちらを愛し、大切にするか。大切にすべきは神様からの評価と考えつつも、いつしか人の評価評判を気にし、大切にしてしまう弱さを持ってはいないでしょうか。
信仰の父と呼ばれるアブラハムの信仰について書かれた、ローマ人への手紙4章20節を今日の聖句として、読んでみたいと思います。
ローマ4:20「彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」
アブラハムの信仰は最初強いものではありませんでした。彼は神様の約束を疑い、神様の約束に信頼せず、何度も人を恐れて、失敗を重ねています。しかし、神様はその度に、神様と神様の約束に信頼する生き方にアブラハムを連れ戻しました。アブラハムもそれにこたえ、神様の約束のことばに基づいて、現実を見、考え、判断し、行動するようになったのです。神様に与えられた信仰を働かせ、現実に適用することを繰り返すうちに、信仰が強められ、神様に心から信頼して歩むことができるようになった。これがアブラハムの歩みであり、私たちみなが目指すべき歩みではないかと思います。どんなにひどい不信仰も、いかなる失敗も、私たちに対する神様の愛を引き離すことはできない。神様との間にあるこの永遠に安全な関係を覚えながら、与えられた信仰を強めることに取り組んでゆきたいと思います。
自分の罪を認め、告白し、キリストを信じた私たちは罪が赦されています。過去の罪も、未来の罪も赦される。全ての罪が赦される。信仰義認です。しかし、毎日の生活で罪を自覚した時は、悔い改めるように教えられています。罪を赦された者ですが、それでも日々、罪を告白する歩みをするのが、クリスチャンの生き方でした。なぜ、全ての罪が赦されているのに、日々、罪を告白して生きる必要があるのでしょうか。
いくつか理由があります。自分の罪深さを理解し、それを赦される神様の偉大さを知るために。また、罪を意識することで、同じ罪を犯さないようになるために。聖書は、私たちが罪を告白することで、罪からきよめられていくと教えていました。
Ⅰヨハネ1章9節
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
この一週間、皆さまはどのような罪を悔い改め、告白してきたでしょうか。今、この場所で、自分の歩みを振り返り、悔い改めるべき罪を考えるとしたら、それはどのような罪でしょうか。
ねたみ、殺意、争い、欺き、悪だくみ、不品行、好色、陰口、そしり、神を憎む、人を人と思わない、自分を正しいとし勝手な判断をする、わきまえがない、約束を破る、情けしらず(ローマ1章参照)などなど。
一日の終わりに。そして、礼拝に来る時に。私たちは神様の前で、悔い改めるべき罪を告白し、悪からきよめられる恵みを味わう。それを繰り返しながら生きて行くクリスチャンの歩みを送りたいと願うのです。
ところで、この一週間を振り返り、どのような罪を告白してきたのか。今、この場所で、悔い改めるべき罪を考える時、どのような罪が思い返されるのか。その中に、「親を敬うこと」、「親に従わなかったこと」はあるでしょうか。あるいは「子どもをおこらせたこと」「聖書に基づく教育をしなかったこと」は含まれているでしょうか。
親子関係について、聖書には明確な基準があります。そのあるべき親子関係を築こうと取り組まない時、神様は大変悲しまれる。
勿論、親子関係だけでなく、他の事柄における私たちの罪も、神様を悲しませるものです。しかし特に、私たちがあるべき親子関係を築こうと取り組まないことについて、神様は大いに心を痛めていると教えられていました。
マラキ4章5節~6節
「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」
旧約聖書の最後の言葉。ご存知、バプテスマのヨハネについての預言の箇所です。イエス様の先駆け、露払いのヨハネ。約束の救い主の前に現われ、救い主の到来に合わせて、人々を整える役割の人物。このバプテスマのヨハネの活躍は、新約聖書の冒頭に記されますが、人々を悔い改めに導くものでした。罪を指摘し、救い主への渇望を抱かせる働きです。
人々を悔い改めに導く働きをしたバプテスマのヨハネですが、マラキ書では、その役割がどのようなものだと表現しているでしょうか。「父の心を子に向け」「子の心をその父に向ける」と。バプテスマのヨハネの役割は、人々があるべき親子関係を築くように取り組ませることでした。しかも、それは神様ご自身が、この地をのろいで打ち滅ぼさないためだと言われています。何とも強い表現。
バプテスマのヨハネの実際の活躍と、このマラキ書の言葉を重ねて読む時に、神様が求めている悔い改めの実の重要な一つが、私たちがあるべき親子関係を築こうと取り組むことだと分かります。私たちがあるべき親子関係を築こうと取り組まないことについて、神様は大いに心を痛められるお方。神様が、ここまで私たちの親子関係に注目していることに、気付いていたでしょうか。
以上のことを踏まえ、今日はあるべき親子関係について記されているエペソ書6章を皆さまとともに読みたいと思います。
エペソ書6章の冒頭は、親子関係のあるべき姿について語られているところですが、このテーマは、5章の中盤と繋がりがあります。
エペソ5章18節
「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」
有名な言葉。酒に満たされるのではなく、御霊に満たされなさい。「御霊に満たされる。」果たしてこれはどのような意味でしょうか。御霊に満たされた者の生き方とはどのようなものか。その具体的な生き方が、続くところに記されるのです。まずは夫婦関係について、5章の後半。それに続くのが、6章の冒頭、親子関係についてです。
エペソ6章1節~4節
「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。』という約束です。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」
エペソ書の著者パウロが、この手紙を記した時、ローマで獄中生活でした。直接行くことが出来ない状況にあって、エペソにある教会を教え、励ましたく記された手紙。この手紙はエペソに運ばれ、複数の教会で朗読されたと考えられます。礼拝に集まったエペソ教会の面々。大人も子どももいます。朗読された手紙の後半。ここで、子どもたちよ、と呼びかけがあります。
もし、私が朗読者であったら。ここで一度、子どもたちを前の方に集めたと思います。「ここにいる子どもたち、前の方に来て下さい。パウロ先生が、イエス様を信じる子どもがどのように生きるべきか、教えていますよ。よく聞いて下さい。いいですか。お父さんとお母さんの言うことを聞きなさい。・・・」と。当時のエペソ教会は、この手紙が朗読されて、どのような雰囲気になったでしょうか。想像出来るでしょうか。
勝手な想像が許されるならば、親に従うように言われ、反抗的な子どもたちは、苦い顔を伏せ、親たちは「パウロ先生、よくぞ言ってくれた。」と膝を打って喜ぶ。しかし、次の言葉でまた雰囲気が変わるのです。「続いて、キリスト者である親に対する教えです。子どもが、あなたがたに喜んで従えるように。敬われる親となるように。子どもをおこらせないようにしなさい。・・・」と。すると、子どもたちは鋭い視線を親に向け、今度は親が顔を伏せることになる。
実際に、この手紙が朗読された時のエペソ教会の様子は全く分かりません。私の勝手な想像は、聖書を読む際の良くない例の一つです。つまり、「あなたは子どもなのだから、このような聖書の教えを守りなさい。」とか、「あなたは親なのだから、このような聖書の言葉に従いなさい」という視点は、良くないのです。聖書を読む際、他の人がどのように生きるべきなのかではなく、自分がどのように生きるのか考えるべきでした。
つまり、「子どもたちよ」と言われているところでは、自分が何歳でも、どのような状況でも、「子ども」として聞くべきですし、「親たちよ」と言われているところでは、親として聞く。あるいは、やがて親となる者として聞くのが大切です。
エペソ6章1節~3節
「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。』という約束です。」
パウロが教えるあるべき親子関係。子どもに対して語られるのは、親に従うこと。それも、「主にあって」親に従うことです。「主にあって」というのは、キリストに従う者として、御霊に満たされた者としてという意味。つまり、親に従うというのは、イエス様に従うことの一部分と言えます。聖書の他の箇所に、「神を愛する者は、兄弟をも愛するべきです。」とありますが、今日の箇所に合わせて言うならば「神を愛する者は、親に従うべきです。」と言えます。そして、子どもが親に従うというのは、正しいことであり、非常に重要なこと(第一の戒め)なのです。
(念のために確認しておきますと、親の言うことはどのようなことでも従うように教えられているわけではありません。もし親が、聖書に反することを命じる場合、私たちは「主にあって」親に従うことは出来ないのです。)
この「親に従う」というのは、何も初めて語られることではなく、既に十戒で語られていることであり、これに従うことが、私たちをさいわいへ導く道であり、神様が祝福される生き方なのだと付け加えます。これでもか、これでもかと、「親に従うこと」「親を敬うこと」の大切さを語るパウロ。
自分は親を大切にしているだろうか。従っているだろうか。敬っているだろうか。さいわいの道、祝福の道を歩んでいるだろうかと、真剣に考える必要があります。今の私にとって、親に従うこと、親を敬うこととは、具体的にどのようなことなのか。考え、実行する者でありたいと思います。
このように、子どもたちに御言葉を打ちつけたパウロは、返す刀で親に打ちかかります。
エペソ6章4節
「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」
親に対するパウロの勧めは二つありますが、どちらも同じ意味です。消極的な表現で言えば、「子どもをおこらせないように。」積極的な表現で言えば、「主の教育と訓戒によって育てる」こと。どちらも、子どもが喜んで従えるような親であるように。敬われる親となるように、との教えです。
それでは、子どもをおこらせることなく、主の教育と訓戒によって子どもを育てるとは、どのような生き方でしょうか。敬われる親として生きるとは、どのような生き方でしょうか。それは、親である者が、真剣に聖書に従う生き方をすることです。間違ってはならないのは、この世の基準で立派な親となるようにと言われているのではないこと。そうではなく、聖書的な視点で、敬われる親となることを目指す。真剣に聖書に従う生き方をすることです。
真剣に聖書に従おうとする親を前にした時、キリスト者である子どもは、喜んで親に従うことが出来ます。親がどのような状況になったとしても。病気や事故、年をとって、子どもの助けが必要な状況になっても、真剣に聖書に従おうとする親を前にした時、キリスト者である子どもは、親を敬うことをやめないでしょう。この視点で考えると、子どもに対する親の役割は、死ぬ時まで続きます。何歳になっても、弱くなっていく最中でも、その時に、どのように神様に従うのか、子どもに伝える使命があるのです。
親である者は、今一度、その使命の大きさを確認し、自分自身が神様に従う歩みをすること、聖書に従う生き方を志すこと、新たに決心したいと思います。
ところで、今日の聖書のテーマ。「親を敬うこと」「敬われる親となる」というテーマを聞くのが辛いという方がいます。聖書は「親を敬う」ように、教えている。しかし、自分はどうしても親を敬うことが出来ない。親と関わろうとすると、苦しくてしょうがないという方。親子関係で苦しんでこられた方。壮絶な体験をしてきた方。他の人には理解出来ない苦しみがある方がいます。あるいは、これまでの歩みの中で、親子関係がこじれてしまった。今さら「敬われる親」として生きることは難しいと感じる方もいます。どちらも少数ではなく、多くの人が親子関係で傷つき、苦しんでいます。また日本の状況を考えると、これから益々、親子関係で苦しむ人が増えるのではないかと想像出来ます。
この点、もし皆さまの中で、特に葛藤なく、親を敬うことが出来る。敬われる親を目指して生きたいという方がいるとすれば、それは大変大きな恵みを神様から頂いているということです。それは、当たり前のことではなく神様からの大きな恵み頂いているということ。感謝すべき事柄です。
それはそれとしまして、「親を敬うこと」「敬われる親となる」ことが難しいと感じる場合。そうなれれば良いけど、取り組む気力も沸かないという場合。どうしたら良いでしょうか。私たちが覚えておかなければならないのは、今日の聖書の言葉は、道徳として語られているのではなく、福音として語られているということです。福音として語られている。それは、頑張ってこのように生きなさいと言われているのではなく、「御霊に満たされた者」の生き方はこのようなものです、と紹介されているということです。
先週、ペンテコステを記念する礼拝で確認しました。キリストを信じた者はどうなるのか。罪赦されて天国へ行く。それだけでしょうか。そうではない。聖霊なる神様がともに生きて、私たちを作り変え、聖書に従って生きることが出来るように整えて下さる。力を与えて下さるのです。つまり、キリストを信じた私たちは、聖書が教えるあるべき親子関係を築き上げていく力を、神様から頂いているということ。傷ついた心。激しい怒りや憎しみ。こじれた人間関係。自分ではどうしようもなくても、神様が癒し、励まし、力を下さる。自分自身には、正しく親子関係を築き上げる力はないけれども、神様がそのような力を与えて下さっていると信じて良いのです。
(親や、子が、キリストを信じていない場合。自分は、聖書的親子関係を築こうと努めても、相手にその思いがなく、なかなかうまくいかない状況が生まれることがあります。とはいえ、それでも自分自身、聖書的な親子関係を持とうと努めることは、神様の前に正しいことです。)
以上、聖書が教える親子関係について、エペソ書を確認しました。最後に、まとめたいと思います。
私たちの神様は聖書を通して、あるべき親子関係を私たちに明示されています。私たちが、そのように生きないことを、とても悲しまれるお方。そこで神様は、キリストを通して、私たちを御霊とともに生きる者とされました。私たちは聖霊なる神様の働きによって、示された親子関係に生きることが出来るように造り変えられた者です。
そうだとすれば、私たちが聖書的な意味で、親に従う場合。主にあって親に従う場合、何をしているのかと言えば、御霊によって新しくされたことを示しているのです。聖書的な意味で、敬われる親であろうと取り組んでいるというのは、何をしているのかと言えば、聖霊なる神様がともにおられることを証しているのです。
それが、私たちに与えられたさいわいへの道。祝福の道でした。御霊に満たされた者として、この御言葉に従うさいわいを皆さまとともに味わいたいと思います。
今日の聖句を一緒に読み終わりにしたいと思います。
テトス3章5節~6節
「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」
今日はペンテコステを記念する礼拝です。ペンテコステは50を意味するギリシャ語で、イエス・キリストの復活から50日後、弟子たちに聖霊が下り、教会が誕生した出来事を指します。長老教会では、この日を記念して、お互いの教会のことを祈り合う「共同の祈りの日」としています。礼拝後、お時間のある方は、ぜひ共同の祈りの日に参加していただけたらと思います。
その様な訳で、聖霊と私たちはどのような関係にあるのか。聖霊はどのような働きをされる神様なのか。その一端を、今日はともに考えてみたいと思います。
ダビンチの絵で有名な最後の晩餐。弟子たちとの会話が進む中、イエス様が何度も教えられたのが、もうひとりの助け主、聖霊のことでした。
14:16~18「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」
十字架前夜、「わたしは天に帰る」と言われたため、自分たちだけが地上に取り残されるのかと不安になった弟子たち。その様な彼らに対し、わたしが天に帰って真っ先にするのは、父なる神様にあなたがたのためもう一人の助け主を与えてくださいと願うこと、そうイエス様が語る場面です。
そして、弟子たちは放っておかれるどころか、天にはイエス様という助け主を、地上では真理の御霊、聖霊というもうひとりの助け主を与えられると言うのです。つまり、イエス様が十字架に死に、復活し、天に昇ることで、弟子たちは地上に一人寂しく取り残されるのではなく、天にひとり、地上にひとり、ふたりの助け主を持つという、本当に心強い約束がここに語られました。
私たちはここに改めて、聖書の神が三位一体の神様であることを見ることができます。天に昇り、私たちのためにとりなしの祈りをささげるイエス様、子なる神。私たちに聖霊を与えてくださる父なる神。イエス様に代わって、私たちといつまでもともにいてくださる聖霊の神。
聖書を全体として読んでみますと、旧約聖書よりも新約聖書において、神様が三位一体であることや、聖霊の存在がより明確に、具体的に示されていると感じますが、この箇所もその際たるもので、父、子、聖霊の神が心をひとつにして、私たちの救いのために協力してくださっている姿に心打たれます。
特に、イエス様がもうひとりの助け主と呼ばれた聖霊、真理の御霊の私たちに対する近さ、親しさはどうでしょう。イエス・キリストを信じる人は、世の人が知らない聖霊を知り、聖霊は私たちとともに住み、私たちのうちにおられると言う。言わば、聖霊の神様は私たちの心という部屋に住んでくださるルームメイトでした。
私は大学生の時2年間、神学生の時代は3年間、共同生活、ルームメートとの生活を経験しました。振り返ると、よく彼らは忍耐してくれたと思います。
整理整頓ができず、狭い部屋をすぐにゴミの山にしてしまう私。ろくに洗濯をしないため、異臭を放つシャツやズボンを着ていた私。熱心に聖書の話をしていたかと思うと、急にふさぎ込んで物を言わなくなる、気分変化の激しかった私。デートで門限すぎに帰るのに備えて、その時はたとえ眠くても寮の門を開けてくれるよう願った私。本当によく私のルームメイトは忍耐をつくし、親切にしてくれたのです。
しかし、聖霊の忍耐と親切は、私のルームメイト以上です。聖霊は、私たちの罪、欠点、悪しき習慣、自分中心の考え方や行動をすべて知った上で、私たちの存在を心から大切に思うルームメイトとなって下さいました。この感動をパウロはこう書いています。
Ⅰコリント6:19「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」
私の体は、私のうちに近く、親しく住んでくださる聖霊の宮。聖霊は私のルームメイト。皆様にこの自覚はあるでしょうか。その存在は目に見えず、声も聞こえない。しかし、私たちを愛してやまない聖霊を、心の中に住むルームメイトとして意識して生活する。それがクリスチャンでした。
ところで、聖霊の働きについて、聖書が教えていることのひとつは、私たちが与えられている賜物のこと。イエス・キリストを信じる者には全員、一人の例外もなく、他の人の益となるよう活用することのできる賜物が与えられていると言うのです。
Ⅰコリント12:7 「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。」
私たちはみな、家族や国という共同体に生きています。聖書も教会を神様が信仰者を集めた共同体とし、キリストの体と呼んでいました。そして、体といえば、皆様はこの私たちの体が、60兆の細胞からなる一種の共同体であることをご存知でしょうか。
一ヶ月ほど前、NHKテレビで細胞についての特番があり、iPS細胞で有名な山中伸也教授がコメンテーターをしていました。その山中教授が毎回口にしていたことばがあります。「細胞について知れば知るほど、人の命が偶然できたなどとは思えない。神様が造ったとしか考えられません」というのが、そのことばです。
山中教授によれば、私たちの体を構成している細胞は、各々が賜物と役割を自覚し、互いに支えあっている生命共同体だと言うのです。物質的に見れば、細胞はたんぱく質の塊にすぎません。その様な物質が、この様に高度で、知的で、多様な活動をしながら、一つの生命として生きているという奇跡。
ただ一つの例外はがん細胞で、がん細胞は他の細胞を支えると言う意識はなく、ただ自己増殖を目的として活動し、他の細胞を破壊してゆく危険な存在でした。
聖書は、御霊の賜物を与えられた私たちが、家庭でも、職場でも、地域社会でも、そして教会でも、健康な細胞のごとく、自分の賜物と役割を考えながら、隣人を支え、助ける生き方をするように勧めています。自分のためにのみ賜物を使うがん細胞のように生きるなかれと戒めているのです。
ですから、大切なのは、賜物の大小や、それが社会的、経済的にどう評価されるかではありません。神様が見ておられるのは、私たちが与えられた賜物を、自分が属する家庭を、地域を、教会をよくするために活用しようとする愛があるかどうかなのです。私たちの命は、与えられた賜物を隣人の益のために精一杯活用する時、尤も幸いであるよう、神様に造られたものであることを覚えたいのです。
それでは、愛とは何でしょうか。相手を喜び、相手を大切に思う。愛の一つの面は、そうした感情です。しかし、同時に愛は相手に対する態度であり、行いでもあります。聖霊は私たちのうちに愛の思いや態度、行動を生み出すお方と、聖書は教えていました。
ガラテヤ5:19~23「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」
どうでしょうか。ここで聖書は、肉の行い、つまり生まれながらの罪の性質が生み出す行いと、御霊の実としての愛を、喜び、平安という風に、具体的に並べていますが、振り返ってみて、私たちはどちらを選択することが多いでしょうか。
肉の行いは誰に教えられなくても、自然に抱く思いであり行いです。どんなにそれをしたくないと思っても、戻っていってしまう思いであり行いでもあります。純真であるはずの小さな子どもの中にも、妬みや争いの芽はありますから、私たちは生まれながらにして肉の行いの天才と言えるかもしれません。
それに対して、御霊の実は何度でも教えられ、意識することをしなければできないものばかりです。いや、何度教えられても、なかなか実行できないもの、何度決意しても、いつの間にか薄らいでゆくもの。抱き続けることが本当に難しい思い、守り続けることが本当に難しい態度や行いばかりです。
私たちのうちにあるのは、神様の子として愛され、生かされている喜びでしょうか。それとも日常生活に対する不平、不満でしょうか。キリストの十字架によって罪赦された平安でしょうか。それとも、神様から受け入れてもらっていないのではと感じる不安でしょうか。私たちは隣人に対して寛容、親切、善意、誠実、柔和な態度をとることと、批判的、冷淡、悪意、高慢な態度を取ることと、どちらが多いのでしょうか。なすべきことをなし、なすべからざることから遠ざかる自制心は働いているでしょうか。それとも非常に弱い状態でしょうか。
残念ながら、私たちの心という畑には、御霊の実が豊作というわけではありません。まだ十分実っていない状態、小さな芽の状態、まだ芽すら出ていない状態のものもあるでしょう。と同時に、肉の行いと言う雑草も生えています。しっかり根を張って、抜くことができない強力な雑草もあるでしょう。
励まされるのは、喜び、平安、寛容、親切などが、御霊の実と言われていることです。つまり、実の命の源である種を心の畑に蒔いてくださるのは聖霊の神様。私たちの役割は、それを農夫のように根気よく時間をかけて育てることなのです。
私たちの内に住む聖霊が助けてくださると信じて、日々肉の行いという雑草を抜きながら、宝石のような御霊の実を育ててゆきたいと思います。必ず、私たちの心の畑が御霊の実で一杯になる日が来ることを信じる歩みを続けてゆきたいと思うのです。
最後に今日の聖句をともに読んで、御霊によって歩むことの大切さと幸いを確認したいと思います。私たちの体は聖霊の住まいと感動したパウロが、兄弟姉妹に与えた勧めです。
ガラテヤ5:16「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」
肉の欲望を満足させる生き方とは、助け主の聖霊を知らない人の生き方です。人間はもっとお金が欲しいと思えば思うほど、お金に心が縛られてゆきます。人を赦したくないと思えば思うほど、赦せないという苦々しい思いに縛られ、苦しくなります。肉の欲望を満足させる生き方は、実に不自由で苦しいものなのです。
ですから、聖書はその様な生き方の代わりに、御霊によって歩みなさいと勧めていますが、御霊によって歩むとはどういう生き方でしょうか。
第一に、それは、聖霊の声を聞くことです。聖霊はみことばを通して語りかけてくださいますから、聖書を読み、神様から自分に対するメッセージを聞く時間を具体的にとる歩みを重ねてゆくことです。
私たちの心に語りかけてくるのは、聖霊だけではありません。私たちの内なる声もありますし、この世の様々な声もあります。私たちが主に耳を傾けている声は、どれでしょうか。私たちのルームメイトである聖霊は、私たちが気落ちしているのを見ると神様の愛の声を、高慢に陥っているとお叱りの声を、迷う時には選ぶべき態度や行動を示す声を語ってくださる方。私たちが最も信頼する方の声に耳を傾ける。その様な時間を多くとってゆけたらと思います。
第二に、御霊の実を結ぶようにつとめることです。御霊が私たちの心をその実で一杯にしてくださる日が来ることを信じて歩むこと、肉の行いと言う雑草を根気よく抜き続けることについては既にお話しました。
ここでお勧めしたいことは、同じことに取り組んでいる信仰の家族、仲間との交わりです。何度繰り返し、実行しても上手く行かない時、間違った選択を繰り返し、自分が無力であることに疲れ果てる時があると思います。そういう時「本当に疲れた」と言える兄弟姉妹が、私たちには必要です。もう一度、立ち上がるために、励ましあう信仰の仲間が必要なのです。
そして、最後に最も大切なのは、神様を信頼して、神様のところに帰ってゆくことではないでしょうか。聖書には「聖霊を悲しませてはいけない」とあります。聖霊が人格的な神様であり、心から私たちのことを悲しむほど、愛してくださるお方であることを教えることばとして、忘れられません。
それでは、聖霊が悲しむこと、最も悲しむこととは何でしょうか。それは、私たちが神様を信頼しないことです。罪を犯した時、それを神様に告白せず、イエス・キリストの十字架の死に現された神様の愛と赦しを受け取らないことです。神様がいつでも、どこにいてもともにいてくださることを忘れてしまうこと、聖霊の声を聞こうとしないことです。私たちがみな、御霊によって歩む者として思いを新たに、新しい一週間の歩みを進めてゆきたいと思います。
私がクリスチャンになったのは大学時代です。ある日哲学の授業に出席していると仲間の一人が「君は、聖書の神という答えを見つけたのだから、もう哲学なんて学ぶ必要はないのではないか」と言ってきました。
一般的に、宗教家、クリスチャンということばには、悟りを開いた人というイメージがあります。何事にも答えを持っていて、悩んだり、心動じたりすることのない人と言えるかもしれません。私もクリスチャンになる前には、信仰に対してそういう意識があり、信じれば様々な人生の悩みに答えが与えられるかのように考えていました。
また、キリスト教のすべてが分かったから信じることにしたとか、神様の教えに完全に従えると思ったので洗礼を受けたなど、そういう人は一人もいないことは皆様もよくお分かりかと思います。つまり、私たちにとって信仰は出発点、決してゴールではないのです。
ただ一つ言えるのは、神様を信じてからは悩みの質、なかみが変わったように感じます。神様を信じる以前は、何が自分にとって利益になるかが考え方の基準にありました。しかし、今はどうでしょう。何をするにおいても、神様のみこころはなにかを考え、それに従うことのできない自分に悩む。その様な変化を感じます。自分中心に生きる者の悩みから、神中心に生きようとする者としての悩みへの変化です。
今日のヨハネの福音書の箇所。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(12:24)と、ご自分を一粒の麦にたとえて十字架の死の意味を語られたイエス・キリストが、十字架のことで悩み、苦しむ場面。イエス様の心は石でも鉄でもない。ご自分の思いと父なる神様のみこころの狭間で悩み、苦しむその姿は、イエス様が私たちと同じ人間、本当に私たちの仲間であることを思わせてくれます。
12:27、28「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」
しかし、イエス様の心が騒いでいたのは、十字架の死そのものが恐ろしかったからではありません。人類の罪を背負ったがゆえに、身代わりに受ける神の罰、神から見捨てられ、切り離されることが恐ろしかったのです。心から愛する天の父からさばかれる。それは、恐れて当然、避けたいと願って当然のことでした。
けれども、他方自分が十字架に死ななければ、人間の罪はそのまま。人類に救いはない。それならば、神様のみこころである十字架を選び。その道を進むべきではないか。「『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言ってよいものか」とのことばには、ご自分の思いと神のみこころの間で揺れ動き、悩むイエス様の心が伺えます。
そして、最終的にイエス様が選んだのは神様のみこころでした。「いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。」。悩み、迷い、苦しんだ末に、最後は心から信頼する父のみこころに帰ってゆき、十字架の死を通して神様の罪人に対する愛があらわされるようにと願い、祈る。
イエス様の姿を通して、愛されるに値しない罪人のために、ここまで悩み苦しんでくださったその大きな愛に、私たちは心打たれます。それと同時に、イエス様が十字架を選ぶことができたのは、父なる神様との交わりがあったからと知るのです。
「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」という声は、天の父からの声。父なる神様が今までイエス様を通して栄光を現してきたように、もう一度十字架を通して栄光を現すとのみ声は、どれ程イエス様の心を支え、励ましたことでしょう。
こうして自分の思いを捨て、改めて神様のみこころを選ばれたイエス様は、人々に十字架の死がもたらす恵みについて語られます。
12:29~33「そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、『御使いがあの方に話したのだ。』と言った。イエスは答えて言われた。『この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。』イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。」
天の父のみ声は空に鳴り響く程に大きかったのでしょうか。ある人はこれを雷と感じ、ある人は御使い、つまり天使の声と受けとめたらしいのです。しかし、人々が声の大きさに驚くばかり、内容を聞いていないのではと心配したイエス様は、「十字架の死によって、神様の愛がさらにはっきりと大きく現される」とのことばは、あなた方こそ心に留めるべきメッセージと釘を刺します。
そして、ご自分の死によってこの世に起こる二つの大きな変化について、説明されました。第一は、この世を支配する者、サタンがその地位を追われることです。この世の霊的支配者がサタンという聖書独特の世界観には、少し説明が必要かもしれません。
言うまでもなく、サタンは人間を神から引き離し、堕落させた誘惑者。私たちをお金、名誉、快楽などの偶像に誘い、それで心満たそうとする生き方へと導きます。私たちを自分の行いにより頼ませ、上手く行けば高慢に、失敗すれば劣等感の塊にするのもサタンの支配です。この世のあらゆるものを使って、私たちの心が神様から遠ざかり、信頼することのない様、日夜励んでいる存在。それがサタンでした。
しかし、そのようなサタンの支配は不法な支配です。神様から一時この世を不法に占拠することを許容された者に過ぎません。イエス・キリストがこの世に来られてから、サタンは支配者の地位を追われ、力を失った。これが聖書の教えるところです。
もう一つの変化は、十字架の死によって私たちの罪を贖われたイエス・キリストが、サタンに代わり、この世の霊的な支配者となられたことです。「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」これは、十字架の死において現されたイエス様の尊い愛を受け取った世界中の人々が、サタンの支配から解放され、イエス様を信じ、従うようになることを預言するもの。
ユダヤから遠く離れた場所に住む私たちはこの預言が現在実現していることを実感できますし、将来あらゆる国々から集められた神の民がこぞってイエス・キリストを王とする天国が到来することを待ち望んでいます。
人間の心をこの世の物、お金、力などに縛りつけ、神様との正しい関係、親しい交わりからとことん遠ざけようとするサタンの支配が力を失い、代わってイエス・キリストの愛による支配が始まる。十字架がもたらす恵み、この大きな変化を知れと人々は勧められました。
しかし、この勧めも、ローマ帝国を倒し、ユダヤに繁栄をもたらす王の登場を期待する人々の心には、残念ながら届かなかったようです。
12:34 「そこで、群衆はイエスに答えた。『私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。その人の子とはだれですか。』」
その頃ユダヤの人々は、キリストを地上の王と思い、その到来を期待していましたから、十字架に死ぬキリストなど考えられませんでした。他方、イエス様は、人々の中でキリストということばが余りにも地上の王と結びついていましたので、あえて地上の王を連想させない「人の子」ということばで、ご自分を呼んでいたと考えられます。
人の子は、旧約聖書ダニエル書に預言された人物で、神様から永遠の国を託された救い主です。その人の子が死ぬ、しかも十字架に死ぬなど、やはり人々には想像もできなかったのです。聖書には、木にかけられて死ぬ者は、神に呪われた者という教えがありましたから、イエス様のことばは余計に人々の心に嫌悪感を与えたはずです。
その様な反発心から生まれたのが、「その人の子とはだれですか。」ということばであり、要するにイエス様を救い主として信じることを拒否する最後通告でした。
しかし、十字架の死によって人類の罪を贖うことこそ、ご自分の使命。悩み苦しむ中、自ら選んだ進むべき道、神様のみこころと信じるイエス様にしてみれば、十字架の死の意味を説いて、これを拒まれたら、返すことばはなし。あとは、ご自分を信じるよう招くのみです。
12:35~37「イエスは彼らに言われた。『まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。』イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。」
光と闇は、ヨハネの福音書の冒頭にも登場した象徴的表現。光はイエス・キリストを、闇は罪の支配する心、あるいは世界を意味します。「光がある間に歩きなさい。」「光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」要するに、イエス様は、ご自分がこの世にある間に、光であるご自分を信じて、罪に支配される生き方から逃れよ、自由になれと勧めているのです。
光であるイエス・キリストを信じて、その大きな愛の世界に生きるか。それとも、闇の中にとどまって、罪に支配されたまま生きるのか。光の中にあるのは自由、平安、喜び。闇の中にあるのは束縛、不安、恐れ。
あなたはどちらを選ぶのか。光の子として生きたいのか。それとも、闇の子のままでいたいのか。よく考えよ。よく考えて光の子として生きよ。その様なイエス様の招きの声を心に聞きながら、今日の箇所を読み終えたいと思います。
最後に、皆様とともに考え、確認したいことがあります。光の子として生きるとはどういうことでしょうか。「~の子」という表現がよく聖書に出てきますが、これは文字通り親子の関係を示す場合もありますが、多くはその人、あるいはその物と深い関係を持ち、その影響の下生きる人を指します。ですから、光の子と言ったら、イエス様と深く、親しい関係を持ち、イエス様の影響のもと生きる人、つまりイエス様の影響のもと考え、選択し、行動する人のことです。
私たちはみな誰かしらの影響を受けて生きています。特に、日々生活を共にする人、ことばを交わしたり、ともに時間を過ごすことの多い人の影響は絶大です。
人生は選択の連続。どんな選択をするか。選択の積み重ねで、私たちの人格は形づくられると言われます。そうだとすれば、誰と行動を共にするのか、だれと交わるのか、だれと大切な時間を過ごすのか。これは、非常に大切な選択ではないでしょか。
もし、私たちが光の子として、本当にイエス様の影響のもと生きたいと思うなら、イエス様とともに仕事をし、学び、食べ、人と交わるのが良いでしょう。イエス様のことばを聴き、自分の思いを語る時間を十分とる必要があるのではないでしょうか。このようなことを意識して歩むうちに、私たちの考え方、価値観はイエス様の影響を受けたものとなってゆくと思います。何を、また、どんな態度や行動を選択するのか。イエス様の影響は徐々に深まってゆくはずです。
「~の子」には、その人と似た者、その人の性質を宿した人と言う意味もありますが、私たちは、イエス様と交わり、そのことばを聴き、考え方や価値観を整えられてゆく中で、イエス・キリストに似た者へと造りかえられてゆくと、聖書は約束していました。
ちなみに、今日の箇所で見たイエス様の姿、悩み苦しむ中、自分の思いを捨て、神様のみこころを第一として選択したイエス様の生き方は、どれほど私たちに影響を与えているでしょうか。
黙って人の話を聞くべき時に、自分のことばかり語る。人を受け入れる代わりに人を責める。人に仕えるべき時に、人の上に立とうとする。人に感謝すべき時に口を閉ざし、見逃すべき人の欠点や失敗をあげつらう。失敗しても謝罪を選ばず、正当化することを選ぶ。
聖書を読む時間があるのに、どうでもよいテレビを見る。神様と交わる時間があるのに、いつでもできることで時間をつぶす。深く交わるべき友と過ごす時間を、インターネットで消してしまう。
どれ程、私たちは自分の思い、自我を捨てられず、間違った態度や行動を選択してきたことでしょうか。神様のみこころは何かを考え、正しいことばや態度、行動を選んでこなかったことでしょうか。
私たちみなが、今日見たところのイエス様の生き方を思い起こし、自分の思いを捨て、神様のみこころに従うことを選ぶ者となりたく思います。たとえ何度失敗しても、神様の愛に励まされて、正しいことを選択するよう努めてゆきたいと思うのです。私たちは正しいこと、つまり神様のみこころを選択し,実行する時、最高の喜びを感じるよう神様に造られた者であることを心に刻みたいと思います。今日の聖句です。
ヘブル12:2「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」