その様な訳で、聖霊と私たちはどのような関係にあるのか。聖霊はどのような働きをされる神様なのか。その一端を、今日はともに考えてみたいと思います。
ダビンチの絵で有名な最後の晩餐。弟子たちとの会話が進む中、イエス様が何度も教えられたのが、もうひとりの助け主、聖霊のことでした。
14:16~18「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」
十字架前夜、「わたしは天に帰る」と言われたため、自分たちだけが地上に取り残されるのかと不安になった弟子たち。その様な彼らに対し、わたしが天に帰って真っ先にするのは、父なる神様にあなたがたのためもう一人の助け主を与えてくださいと願うこと、そうイエス様が語る場面です。
そして、弟子たちは放っておかれるどころか、天にはイエス様という助け主を、地上では真理の御霊、聖霊というもうひとりの助け主を与えられると言うのです。つまり、イエス様が十字架に死に、復活し、天に昇ることで、弟子たちは地上に一人寂しく取り残されるのではなく、天にひとり、地上にひとり、ふたりの助け主を持つという、本当に心強い約束がここに語られました。
私たちはここに改めて、聖書の神が三位一体の神様であることを見ることができます。天に昇り、私たちのためにとりなしの祈りをささげるイエス様、子なる神。私たちに聖霊を与えてくださる父なる神。イエス様に代わって、私たちといつまでもともにいてくださる聖霊の神。
聖書を全体として読んでみますと、旧約聖書よりも新約聖書において、神様が三位一体であることや、聖霊の存在がより明確に、具体的に示されていると感じますが、この箇所もその際たるもので、父、子、聖霊の神が心をひとつにして、私たちの救いのために協力してくださっている姿に心打たれます。
特に、イエス様がもうひとりの助け主と呼ばれた聖霊、真理の御霊の私たちに対する近さ、親しさはどうでしょう。イエス・キリストを信じる人は、世の人が知らない聖霊を知り、聖霊は私たちとともに住み、私たちのうちにおられると言う。言わば、聖霊の神様は私たちの心という部屋に住んでくださるルームメイトでした。
私は大学生の時2年間、神学生の時代は3年間、共同生活、ルームメートとの生活を経験しました。振り返ると、よく彼らは忍耐してくれたと思います。
整理整頓ができず、狭い部屋をすぐにゴミの山にしてしまう私。ろくに洗濯をしないため、異臭を放つシャツやズボンを着ていた私。熱心に聖書の話をしていたかと思うと、急にふさぎ込んで物を言わなくなる、気分変化の激しかった私。デートで門限すぎに帰るのに備えて、その時はたとえ眠くても寮の門を開けてくれるよう願った私。本当によく私のルームメイトは忍耐をつくし、親切にしてくれたのです。
しかし、聖霊の忍耐と親切は、私のルームメイト以上です。聖霊は、私たちの罪、欠点、悪しき習慣、自分中心の考え方や行動をすべて知った上で、私たちの存在を心から大切に思うルームメイトとなって下さいました。この感動をパウロはこう書いています。
Ⅰコリント6:19「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」
私の体は、私のうちに近く、親しく住んでくださる聖霊の宮。聖霊は私のルームメイト。皆様にこの自覚はあるでしょうか。その存在は目に見えず、声も聞こえない。しかし、私たちを愛してやまない聖霊を、心の中に住むルームメイトとして意識して生活する。それがクリスチャンでした。
ところで、聖霊の働きについて、聖書が教えていることのひとつは、私たちが与えられている賜物のこと。イエス・キリストを信じる者には全員、一人の例外もなく、他の人の益となるよう活用することのできる賜物が与えられていると言うのです。
Ⅰコリント12:7 「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。」
私たちはみな、家族や国という共同体に生きています。聖書も教会を神様が信仰者を集めた共同体とし、キリストの体と呼んでいました。そして、体といえば、皆様はこの私たちの体が、60兆の細胞からなる一種の共同体であることをご存知でしょうか。
一ヶ月ほど前、NHKテレビで細胞についての特番があり、iPS細胞で有名な山中伸也教授がコメンテーターをしていました。その山中教授が毎回口にしていたことばがあります。「細胞について知れば知るほど、人の命が偶然できたなどとは思えない。神様が造ったとしか考えられません」というのが、そのことばです。
山中教授によれば、私たちの体を構成している細胞は、各々が賜物と役割を自覚し、互いに支えあっている生命共同体だと言うのです。物質的に見れば、細胞はたんぱく質の塊にすぎません。その様な物質が、この様に高度で、知的で、多様な活動をしながら、一つの生命として生きているという奇跡。
ただ一つの例外はがん細胞で、がん細胞は他の細胞を支えると言う意識はなく、ただ自己増殖を目的として活動し、他の細胞を破壊してゆく危険な存在でした。
聖書は、御霊の賜物を与えられた私たちが、家庭でも、職場でも、地域社会でも、そして教会でも、健康な細胞のごとく、自分の賜物と役割を考えながら、隣人を支え、助ける生き方をするように勧めています。自分のためにのみ賜物を使うがん細胞のように生きるなかれと戒めているのです。
ですから、大切なのは、賜物の大小や、それが社会的、経済的にどう評価されるかではありません。神様が見ておられるのは、私たちが与えられた賜物を、自分が属する家庭を、地域を、教会をよくするために活用しようとする愛があるかどうかなのです。私たちの命は、与えられた賜物を隣人の益のために精一杯活用する時、尤も幸いであるよう、神様に造られたものであることを覚えたいのです。
それでは、愛とは何でしょうか。相手を喜び、相手を大切に思う。愛の一つの面は、そうした感情です。しかし、同時に愛は相手に対する態度であり、行いでもあります。聖霊は私たちのうちに愛の思いや態度、行動を生み出すお方と、聖書は教えていました。
ガラテヤ5:19~23「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」
どうでしょうか。ここで聖書は、肉の行い、つまり生まれながらの罪の性質が生み出す行いと、御霊の実としての愛を、喜び、平安という風に、具体的に並べていますが、振り返ってみて、私たちはどちらを選択することが多いでしょうか。
肉の行いは誰に教えられなくても、自然に抱く思いであり行いです。どんなにそれをしたくないと思っても、戻っていってしまう思いであり行いでもあります。純真であるはずの小さな子どもの中にも、妬みや争いの芽はありますから、私たちは生まれながらにして肉の行いの天才と言えるかもしれません。
それに対して、御霊の実は何度でも教えられ、意識することをしなければできないものばかりです。いや、何度教えられても、なかなか実行できないもの、何度決意しても、いつの間にか薄らいでゆくもの。抱き続けることが本当に難しい思い、守り続けることが本当に難しい態度や行いばかりです。
私たちのうちにあるのは、神様の子として愛され、生かされている喜びでしょうか。それとも日常生活に対する不平、不満でしょうか。キリストの十字架によって罪赦された平安でしょうか。それとも、神様から受け入れてもらっていないのではと感じる不安でしょうか。私たちは隣人に対して寛容、親切、善意、誠実、柔和な態度をとることと、批判的、冷淡、悪意、高慢な態度を取ることと、どちらが多いのでしょうか。なすべきことをなし、なすべからざることから遠ざかる自制心は働いているでしょうか。それとも非常に弱い状態でしょうか。
残念ながら、私たちの心という畑には、御霊の実が豊作というわけではありません。まだ十分実っていない状態、小さな芽の状態、まだ芽すら出ていない状態のものもあるでしょう。と同時に、肉の行いと言う雑草も生えています。しっかり根を張って、抜くことができない強力な雑草もあるでしょう。
励まされるのは、喜び、平安、寛容、親切などが、御霊の実と言われていることです。つまり、実の命の源である種を心の畑に蒔いてくださるのは聖霊の神様。私たちの役割は、それを農夫のように根気よく時間をかけて育てることなのです。
私たちの内に住む聖霊が助けてくださると信じて、日々肉の行いという雑草を抜きながら、宝石のような御霊の実を育ててゆきたいと思います。必ず、私たちの心の畑が御霊の実で一杯になる日が来ることを信じる歩みを続けてゆきたいと思うのです。
最後に今日の聖句をともに読んで、御霊によって歩むことの大切さと幸いを確認したいと思います。私たちの体は聖霊の住まいと感動したパウロが、兄弟姉妹に与えた勧めです。
ガラテヤ5:16「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」
肉の欲望を満足させる生き方とは、助け主の聖霊を知らない人の生き方です。人間はもっとお金が欲しいと思えば思うほど、お金に心が縛られてゆきます。人を赦したくないと思えば思うほど、赦せないという苦々しい思いに縛られ、苦しくなります。肉の欲望を満足させる生き方は、実に不自由で苦しいものなのです。
ですから、聖書はその様な生き方の代わりに、御霊によって歩みなさいと勧めていますが、御霊によって歩むとはどういう生き方でしょうか。
第一に、それは、聖霊の声を聞くことです。聖霊はみことばを通して語りかけてくださいますから、聖書を読み、神様から自分に対するメッセージを聞く時間を具体的にとる歩みを重ねてゆくことです。
私たちの心に語りかけてくるのは、聖霊だけではありません。私たちの内なる声もありますし、この世の様々な声もあります。私たちが主に耳を傾けている声は、どれでしょうか。私たちのルームメイトである聖霊は、私たちが気落ちしているのを見ると神様の愛の声を、高慢に陥っているとお叱りの声を、迷う時には選ぶべき態度や行動を示す声を語ってくださる方。私たちが最も信頼する方の声に耳を傾ける。その様な時間を多くとってゆけたらと思います。
第二に、御霊の実を結ぶようにつとめることです。御霊が私たちの心をその実で一杯にしてくださる日が来ることを信じて歩むこと、肉の行いと言う雑草を根気よく抜き続けることについては既にお話しました。
ここでお勧めしたいことは、同じことに取り組んでいる信仰の家族、仲間との交わりです。何度繰り返し、実行しても上手く行かない時、間違った選択を繰り返し、自分が無力であることに疲れ果てる時があると思います。そういう時「本当に疲れた」と言える兄弟姉妹が、私たちには必要です。もう一度、立ち上がるために、励ましあう信仰の仲間が必要なのです。
そして、最後に最も大切なのは、神様を信頼して、神様のところに帰ってゆくことではないでしょうか。聖書には「聖霊を悲しませてはいけない」とあります。聖霊が人格的な神様であり、心から私たちのことを悲しむほど、愛してくださるお方であることを教えることばとして、忘れられません。
それでは、聖霊が悲しむこと、最も悲しむこととは何でしょうか。それは、私たちが神様を信頼しないことです。罪を犯した時、それを神様に告白せず、イエス・キリストの十字架の死に現された神様の愛と赦しを受け取らないことです。神様がいつでも、どこにいてもともにいてくださることを忘れてしまうこと、聖霊の声を聞こうとしないことです。私たちがみな、御霊によって歩む者として思いを新たに、新しい一週間の歩みを進めてゆきたいと思います。