2014年6月1日日曜日

ヨハネ12章27節~36節 「光がある間に」

 私がクリスチャンになったのは大学時代です。ある日哲学の授業に出席していると仲間の一人が「君は、聖書の神という答えを見つけたのだから、もう哲学なんて学ぶ必要はないのではないか」と言ってきました。
 一般的に、宗教家、クリスチャンということばには、悟りを開いた人というイメージがあります。何事にも答えを持っていて、悩んだり、心動じたりすることのない人と言えるかもしれません。私もクリスチャンになる前には、信仰に対してそういう意識があり、信じれば様々な人生の悩みに答えが与えられるかのように考えていました。
 また、キリスト教のすべてが分かったから信じることにしたとか、神様の教えに完全に従えると思ったので洗礼を受けたなど、そういう人は一人もいないことは皆様もよくお分かりかと思います。つまり、私たちにとって信仰は出発点、決してゴールではないのです。
 ただ一つ言えるのは、神様を信じてからは悩みの質、なかみが変わったように感じます。神様を信じる以前は、何が自分にとって利益になるかが考え方の基準にありました。しかし、今はどうでしょう。何をするにおいても、神様のみこころはなにかを考え、それに従うことのできない自分に悩む。その様な変化を感じます。自分中心に生きる者の悩みから、神中心に生きようとする者としての悩みへの変化です。
 今日のヨハネの福音書の箇所。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(12:24)と、ご自分を一粒の麦にたとえて十字架の死の意味を語られたイエス・キリストが、十字架のことで悩み、苦しむ場面。イエス様の心は石でも鉄でもない。ご自分の思いと父なる神様のみこころの狭間で悩み、苦しむその姿は、イエス様が私たちと同じ人間、本当に私たちの仲間であることを思わせてくれます。

 12:27、28「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」

 しかし、イエス様の心が騒いでいたのは、十字架の死そのものが恐ろしかったからではありません。人類の罪を背負ったがゆえに、身代わりに受ける神の罰、神から見捨てられ、切り離されることが恐ろしかったのです。心から愛する天の父からさばかれる。それは、恐れて当然、避けたいと願って当然のことでした。 
 けれども、他方自分が十字架に死ななければ、人間の罪はそのまま。人類に救いはない。それならば、神様のみこころである十字架を選び。その道を進むべきではないか。「『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言ってよいものか」とのことばには、ご自分の思いと神のみこころの間で揺れ動き、悩むイエス様の心が伺えます。
 そして、最終的にイエス様が選んだのは神様のみこころでした。「いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。」。悩み、迷い、苦しんだ末に、最後は心から信頼する父のみこころに帰ってゆき、十字架の死を通して神様の罪人に対する愛があらわされるようにと願い、祈る。
 イエス様の姿を通して、愛されるに値しない罪人のために、ここまで悩み苦しんでくださったその大きな愛に、私たちは心打たれます。それと同時に、イエス様が十字架を選ぶことができたのは、父なる神様との交わりがあったからと知るのです。
 「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」という声は、天の父からの声。父なる神様が今までイエス様を通して栄光を現してきたように、もう一度十字架を通して栄光を現すとのみ声は、どれ程イエス様の心を支え、励ましたことでしょう。
 こうして自分の思いを捨て、改めて神様のみこころを選ばれたイエス様は、人々に十字架の死がもたらす恵みについて語られます。

 12:29~33「そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、『御使いがあの方に話したのだ。』と言った。イエスは答えて言われた。『この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。』イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。」

 天の父のみ声は空に鳴り響く程に大きかったのでしょうか。ある人はこれを雷と感じ、ある人は御使い、つまり天使の声と受けとめたらしいのです。しかし、人々が声の大きさに驚くばかり、内容を聞いていないのではと心配したイエス様は、「十字架の死によって、神様の愛がさらにはっきりと大きく現される」とのことばは、あなた方こそ心に留めるべきメッセージと釘を刺します。
 そして、ご自分の死によってこの世に起こる二つの大きな変化について、説明されました。第一は、この世を支配する者、サタンがその地位を追われることです。この世の霊的支配者がサタンという聖書独特の世界観には、少し説明が必要かもしれません。
 言うまでもなく、サタンは人間を神から引き離し、堕落させた誘惑者。私たちをお金、名誉、快楽などの偶像に誘い、それで心満たそうとする生き方へと導きます。私たちを自分の行いにより頼ませ、上手く行けば高慢に、失敗すれば劣等感の塊にするのもサタンの支配です。この世のあらゆるものを使って、私たちの心が神様から遠ざかり、信頼することのない様、日夜励んでいる存在。それがサタンでした。
 しかし、そのようなサタンの支配は不法な支配です。神様から一時この世を不法に占拠することを許容された者に過ぎません。イエス・キリストがこの世に来られてから、サタンは支配者の地位を追われ、力を失った。これが聖書の教えるところです。
 もう一つの変化は、十字架の死によって私たちの罪を贖われたイエス・キリストが、サタンに代わり、この世の霊的な支配者となられたことです。「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」これは、十字架の死において現されたイエス様の尊い愛を受け取った世界中の人々が、サタンの支配から解放され、イエス様を信じ、従うようになることを預言するもの。
 ユダヤから遠く離れた場所に住む私たちはこの預言が現在実現していることを実感できますし、将来あらゆる国々から集められた神の民がこぞってイエス・キリストを王とする天国が到来することを待ち望んでいます。
 人間の心をこの世の物、お金、力などに縛りつけ、神様との正しい関係、親しい交わりからとことん遠ざけようとするサタンの支配が力を失い、代わってイエス・キリストの愛による支配が始まる。十字架がもたらす恵み、この大きな変化を知れと人々は勧められました。
 しかし、この勧めも、ローマ帝国を倒し、ユダヤに繁栄をもたらす王の登場を期待する人々の心には、残念ながら届かなかったようです。

 12:34 「そこで、群衆はイエスに答えた。『私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。その人の子とはだれですか。』」

 その頃ユダヤの人々は、キリストを地上の王と思い、その到来を期待していましたから、十字架に死ぬキリストなど考えられませんでした。他方、イエス様は、人々の中でキリストということばが余りにも地上の王と結びついていましたので、あえて地上の王を連想させない「人の子」ということばで、ご自分を呼んでいたと考えられます。
 人の子は、旧約聖書ダニエル書に預言された人物で、神様から永遠の国を託された救い主です。その人の子が死ぬ、しかも十字架に死ぬなど、やはり人々には想像もできなかったのです。聖書には、木にかけられて死ぬ者は、神に呪われた者という教えがありましたから、イエス様のことばは余計に人々の心に嫌悪感を与えたはずです。
 その様な反発心から生まれたのが、「その人の子とはだれですか。」ということばであり、要するにイエス様を救い主として信じることを拒否する最後通告でした。
 しかし、十字架の死によって人類の罪を贖うことこそ、ご自分の使命。悩み苦しむ中、自ら選んだ進むべき道、神様のみこころと信じるイエス様にしてみれば、十字架の死の意味を説いて、これを拒まれたら、返すことばはなし。あとは、ご自分を信じるよう招くのみです。

  12:35~37「イエスは彼らに言われた。『まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。』イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。」

 光と闇は、ヨハネの福音書の冒頭にも登場した象徴的表現。光はイエス・キリストを、闇は罪の支配する心、あるいは世界を意味します。「光がある間に歩きなさい。」「光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」要するに、イエス様は、ご自分がこの世にある間に、光であるご自分を信じて、罪に支配される生き方から逃れよ、自由になれと勧めているのです。
 光であるイエス・キリストを信じて、その大きな愛の世界に生きるか。それとも、闇の中にとどまって、罪に支配されたまま生きるのか。光の中にあるのは自由、平安、喜び。闇の中にあるのは束縛、不安、恐れ。
 あなたはどちらを選ぶのか。光の子として生きたいのか。それとも、闇の子のままでいたいのか。よく考えよ。よく考えて光の子として生きよ。その様なイエス様の招きの声を心に聞きながら、今日の箇所を読み終えたいと思います。
 最後に、皆様とともに考え、確認したいことがあります。光の子として生きるとはどういうことでしょうか。「~の子」という表現がよく聖書に出てきますが、これは文字通り親子の関係を示す場合もありますが、多くはその人、あるいはその物と深い関係を持ち、その影響の下生きる人を指します。ですから、光の子と言ったら、イエス様と深く、親しい関係を持ち、イエス様の影響のもと生きる人、つまりイエス様の影響のもと考え、選択し、行動する人のことです。
 私たちはみな誰かしらの影響を受けて生きています。特に、日々生活を共にする人、ことばを交わしたり、ともに時間を過ごすことの多い人の影響は絶大です。
 人生は選択の連続。どんな選択をするか。選択の積み重ねで、私たちの人格は形づくられると言われます。そうだとすれば、誰と行動を共にするのか、だれと交わるのか、だれと大切な時間を過ごすのか。これは、非常に大切な選択ではないでしょか。
 もし、私たちが光の子として、本当にイエス様の影響のもと生きたいと思うなら、イエス様とともに仕事をし、学び、食べ、人と交わるのが良いでしょう。イエス様のことばを聴き、自分の思いを語る時間を十分とる必要があるのではないでしょうか。このようなことを意識して歩むうちに、私たちの考え方、価値観はイエス様の影響を受けたものとなってゆくと思います。何を、また、どんな態度や行動を選択するのか。イエス様の影響は徐々に深まってゆくはずです。
 「~の子」には、その人と似た者、その人の性質を宿した人と言う意味もありますが、私たちは、イエス様と交わり、そのことばを聴き、考え方や価値観を整えられてゆく中で、イエス・キリストに似た者へと造りかえられてゆくと、聖書は約束していました。
 ちなみに、今日の箇所で見たイエス様の姿、悩み苦しむ中、自分の思いを捨て、神様のみこころを第一として選択したイエス様の生き方は、どれほど私たちに影響を与えているでしょうか。 
 黙って人の話を聞くべき時に、自分のことばかり語る。人を受け入れる代わりに人を責める。人に仕えるべき時に、人の上に立とうとする。人に感謝すべき時に口を閉ざし、見逃すべき人の欠点や失敗をあげつらう。失敗しても謝罪を選ばず、正当化することを選ぶ。
 聖書を読む時間があるのに、どうでもよいテレビを見る。神様と交わる時間があるのに、いつでもできることで時間をつぶす。深く交わるべき友と過ごす時間を、インターネットで消してしまう。
 どれ程、私たちは自分の思い、自我を捨てられず、間違った態度や行動を選択してきたことでしょうか。神様のみこころは何かを考え、正しいことばや態度、行動を選んでこなかったことでしょうか。
 私たちみなが、今日見たところのイエス様の生き方を思い起こし、自分の思いを捨て、神様のみこころに従うことを選ぶ者となりたく思います。たとえ何度失敗しても、神様の愛に励まされて、正しいことを選択するよう努めてゆきたいと思うのです。私たちは正しいこと、つまり神様のみこころを選択し,実行する時、最高の喜びを感じるよう神様に造られた者であることを心に刻みたいと思います。今日の聖句です。

 ヘブル12:2「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」