いくつか理由があります。自分の罪深さを理解し、それを赦される神様の偉大さを知るために。また、罪を意識することで、同じ罪を犯さないようになるために。聖書は、私たちが罪を告白することで、罪からきよめられていくと教えていました。
Ⅰヨハネ1章9節
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
この一週間、皆さまはどのような罪を悔い改め、告白してきたでしょうか。今、この場所で、自分の歩みを振り返り、悔い改めるべき罪を考えるとしたら、それはどのような罪でしょうか。
ねたみ、殺意、争い、欺き、悪だくみ、不品行、好色、陰口、そしり、神を憎む、人を人と思わない、自分を正しいとし勝手な判断をする、わきまえがない、約束を破る、情けしらず(ローマ1章参照)などなど。
一日の終わりに。そして、礼拝に来る時に。私たちは神様の前で、悔い改めるべき罪を告白し、悪からきよめられる恵みを味わう。それを繰り返しながら生きて行くクリスチャンの歩みを送りたいと願うのです。
ところで、この一週間を振り返り、どのような罪を告白してきたのか。今、この場所で、悔い改めるべき罪を考える時、どのような罪が思い返されるのか。その中に、「親を敬うこと」、「親に従わなかったこと」はあるでしょうか。あるいは「子どもをおこらせたこと」「聖書に基づく教育をしなかったこと」は含まれているでしょうか。
親子関係について、聖書には明確な基準があります。そのあるべき親子関係を築こうと取り組まない時、神様は大変悲しまれる。
勿論、親子関係だけでなく、他の事柄における私たちの罪も、神様を悲しませるものです。しかし特に、私たちがあるべき親子関係を築こうと取り組まないことについて、神様は大いに心を痛めていると教えられていました。
マラキ4章5節~6節
「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」
旧約聖書の最後の言葉。ご存知、バプテスマのヨハネについての預言の箇所です。イエス様の先駆け、露払いのヨハネ。約束の救い主の前に現われ、救い主の到来に合わせて、人々を整える役割の人物。このバプテスマのヨハネの活躍は、新約聖書の冒頭に記されますが、人々を悔い改めに導くものでした。罪を指摘し、救い主への渇望を抱かせる働きです。
人々を悔い改めに導く働きをしたバプテスマのヨハネですが、マラキ書では、その役割がどのようなものだと表現しているでしょうか。「父の心を子に向け」「子の心をその父に向ける」と。バプテスマのヨハネの役割は、人々があるべき親子関係を築くように取り組ませることでした。しかも、それは神様ご自身が、この地をのろいで打ち滅ぼさないためだと言われています。何とも強い表現。
バプテスマのヨハネの実際の活躍と、このマラキ書の言葉を重ねて読む時に、神様が求めている悔い改めの実の重要な一つが、私たちがあるべき親子関係を築こうと取り組むことだと分かります。私たちがあるべき親子関係を築こうと取り組まないことについて、神様は大いに心を痛められるお方。神様が、ここまで私たちの親子関係に注目していることに、気付いていたでしょうか。
以上のことを踏まえ、今日はあるべき親子関係について記されているエペソ書6章を皆さまとともに読みたいと思います。
エペソ書6章の冒頭は、親子関係のあるべき姿について語られているところですが、このテーマは、5章の中盤と繋がりがあります。
エペソ5章18節
「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」
有名な言葉。酒に満たされるのではなく、御霊に満たされなさい。「御霊に満たされる。」果たしてこれはどのような意味でしょうか。御霊に満たされた者の生き方とはどのようなものか。その具体的な生き方が、続くところに記されるのです。まずは夫婦関係について、5章の後半。それに続くのが、6章の冒頭、親子関係についてです。
エペソ6章1節~4節
「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。』という約束です。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」
エペソ書の著者パウロが、この手紙を記した時、ローマで獄中生活でした。直接行くことが出来ない状況にあって、エペソにある教会を教え、励ましたく記された手紙。この手紙はエペソに運ばれ、複数の教会で朗読されたと考えられます。礼拝に集まったエペソ教会の面々。大人も子どももいます。朗読された手紙の後半。ここで、子どもたちよ、と呼びかけがあります。
もし、私が朗読者であったら。ここで一度、子どもたちを前の方に集めたと思います。「ここにいる子どもたち、前の方に来て下さい。パウロ先生が、イエス様を信じる子どもがどのように生きるべきか、教えていますよ。よく聞いて下さい。いいですか。お父さんとお母さんの言うことを聞きなさい。・・・」と。当時のエペソ教会は、この手紙が朗読されて、どのような雰囲気になったでしょうか。想像出来るでしょうか。
勝手な想像が許されるならば、親に従うように言われ、反抗的な子どもたちは、苦い顔を伏せ、親たちは「パウロ先生、よくぞ言ってくれた。」と膝を打って喜ぶ。しかし、次の言葉でまた雰囲気が変わるのです。「続いて、キリスト者である親に対する教えです。子どもが、あなたがたに喜んで従えるように。敬われる親となるように。子どもをおこらせないようにしなさい。・・・」と。すると、子どもたちは鋭い視線を親に向け、今度は親が顔を伏せることになる。
実際に、この手紙が朗読された時のエペソ教会の様子は全く分かりません。私の勝手な想像は、聖書を読む際の良くない例の一つです。つまり、「あなたは子どもなのだから、このような聖書の教えを守りなさい。」とか、「あなたは親なのだから、このような聖書の言葉に従いなさい」という視点は、良くないのです。聖書を読む際、他の人がどのように生きるべきなのかではなく、自分がどのように生きるのか考えるべきでした。
つまり、「子どもたちよ」と言われているところでは、自分が何歳でも、どのような状況でも、「子ども」として聞くべきですし、「親たちよ」と言われているところでは、親として聞く。あるいは、やがて親となる者として聞くのが大切です。
エペソ6章1節~3節
「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。』という約束です。」
パウロが教えるあるべき親子関係。子どもに対して語られるのは、親に従うこと。それも、「主にあって」親に従うことです。「主にあって」というのは、キリストに従う者として、御霊に満たされた者としてという意味。つまり、親に従うというのは、イエス様に従うことの一部分と言えます。聖書の他の箇所に、「神を愛する者は、兄弟をも愛するべきです。」とありますが、今日の箇所に合わせて言うならば「神を愛する者は、親に従うべきです。」と言えます。そして、子どもが親に従うというのは、正しいことであり、非常に重要なこと(第一の戒め)なのです。
(念のために確認しておきますと、親の言うことはどのようなことでも従うように教えられているわけではありません。もし親が、聖書に反することを命じる場合、私たちは「主にあって」親に従うことは出来ないのです。)
この「親に従う」というのは、何も初めて語られることではなく、既に十戒で語られていることであり、これに従うことが、私たちをさいわいへ導く道であり、神様が祝福される生き方なのだと付け加えます。これでもか、これでもかと、「親に従うこと」「親を敬うこと」の大切さを語るパウロ。
自分は親を大切にしているだろうか。従っているだろうか。敬っているだろうか。さいわいの道、祝福の道を歩んでいるだろうかと、真剣に考える必要があります。今の私にとって、親に従うこと、親を敬うこととは、具体的にどのようなことなのか。考え、実行する者でありたいと思います。
このように、子どもたちに御言葉を打ちつけたパウロは、返す刀で親に打ちかかります。
エペソ6章4節
「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」
親に対するパウロの勧めは二つありますが、どちらも同じ意味です。消極的な表現で言えば、「子どもをおこらせないように。」積極的な表現で言えば、「主の教育と訓戒によって育てる」こと。どちらも、子どもが喜んで従えるような親であるように。敬われる親となるように、との教えです。
それでは、子どもをおこらせることなく、主の教育と訓戒によって子どもを育てるとは、どのような生き方でしょうか。敬われる親として生きるとは、どのような生き方でしょうか。それは、親である者が、真剣に聖書に従う生き方をすることです。間違ってはならないのは、この世の基準で立派な親となるようにと言われているのではないこと。そうではなく、聖書的な視点で、敬われる親となることを目指す。真剣に聖書に従う生き方をすることです。
真剣に聖書に従おうとする親を前にした時、キリスト者である子どもは、喜んで親に従うことが出来ます。親がどのような状況になったとしても。病気や事故、年をとって、子どもの助けが必要な状況になっても、真剣に聖書に従おうとする親を前にした時、キリスト者である子どもは、親を敬うことをやめないでしょう。この視点で考えると、子どもに対する親の役割は、死ぬ時まで続きます。何歳になっても、弱くなっていく最中でも、その時に、どのように神様に従うのか、子どもに伝える使命があるのです。
親である者は、今一度、その使命の大きさを確認し、自分自身が神様に従う歩みをすること、聖書に従う生き方を志すこと、新たに決心したいと思います。
ところで、今日の聖書のテーマ。「親を敬うこと」「敬われる親となる」というテーマを聞くのが辛いという方がいます。聖書は「親を敬う」ように、教えている。しかし、自分はどうしても親を敬うことが出来ない。親と関わろうとすると、苦しくてしょうがないという方。親子関係で苦しんでこられた方。壮絶な体験をしてきた方。他の人には理解出来ない苦しみがある方がいます。あるいは、これまでの歩みの中で、親子関係がこじれてしまった。今さら「敬われる親」として生きることは難しいと感じる方もいます。どちらも少数ではなく、多くの人が親子関係で傷つき、苦しんでいます。また日本の状況を考えると、これから益々、親子関係で苦しむ人が増えるのではないかと想像出来ます。
この点、もし皆さまの中で、特に葛藤なく、親を敬うことが出来る。敬われる親を目指して生きたいという方がいるとすれば、それは大変大きな恵みを神様から頂いているということです。それは、当たり前のことではなく神様からの大きな恵み頂いているということ。感謝すべき事柄です。
それはそれとしまして、「親を敬うこと」「敬われる親となる」ことが難しいと感じる場合。そうなれれば良いけど、取り組む気力も沸かないという場合。どうしたら良いでしょうか。私たちが覚えておかなければならないのは、今日の聖書の言葉は、道徳として語られているのではなく、福音として語られているということです。福音として語られている。それは、頑張ってこのように生きなさいと言われているのではなく、「御霊に満たされた者」の生き方はこのようなものです、と紹介されているということです。
先週、ペンテコステを記念する礼拝で確認しました。キリストを信じた者はどうなるのか。罪赦されて天国へ行く。それだけでしょうか。そうではない。聖霊なる神様がともに生きて、私たちを作り変え、聖書に従って生きることが出来るように整えて下さる。力を与えて下さるのです。つまり、キリストを信じた私たちは、聖書が教えるあるべき親子関係を築き上げていく力を、神様から頂いているということ。傷ついた心。激しい怒りや憎しみ。こじれた人間関係。自分ではどうしようもなくても、神様が癒し、励まし、力を下さる。自分自身には、正しく親子関係を築き上げる力はないけれども、神様がそのような力を与えて下さっていると信じて良いのです。
(親や、子が、キリストを信じていない場合。自分は、聖書的親子関係を築こうと努めても、相手にその思いがなく、なかなかうまくいかない状況が生まれることがあります。とはいえ、それでも自分自身、聖書的な親子関係を持とうと努めることは、神様の前に正しいことです。)
以上、聖書が教える親子関係について、エペソ書を確認しました。最後に、まとめたいと思います。
私たちの神様は聖書を通して、あるべき親子関係を私たちに明示されています。私たちが、そのように生きないことを、とても悲しまれるお方。そこで神様は、キリストを通して、私たちを御霊とともに生きる者とされました。私たちは聖霊なる神様の働きによって、示された親子関係に生きることが出来るように造り変えられた者です。
そうだとすれば、私たちが聖書的な意味で、親に従う場合。主にあって親に従う場合、何をしているのかと言えば、御霊によって新しくされたことを示しているのです。聖書的な意味で、敬われる親であろうと取り組んでいるというのは、何をしているのかと言えば、聖霊なる神様がともにおられることを証しているのです。
それが、私たちに与えられたさいわいへの道。祝福の道でした。御霊に満たされた者として、この御言葉に従うさいわいを皆さまとともに味わいたいと思います。
今日の聖句を一緒に読み終わりにしたいと思います。
テトス3章5節~6節
「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」