2014年度も半年が過ぎ、あと一歩で10月。本格的な秋の到来です。秋と言えば読書の秋、食欲の秋。皆様は読書派、食欲派、どちらでしょうか。私は断然食欲派ですが、とりわけ秋の果物には目がありません。リンゴに梨、ぶどうに柿、無花果もあります。各々の果物に様々な種類があって楽しめるのも、醍醐味かもしれません。
皆様にもそれぞれひいきの果物があることと思いますが、イエス様が生れた国ユダヤにおいては、何と言ってもぶどうが特産品。貨幣や神殿の門に彫られたりと、国のシンボルともなっていたことをご存じだったでしょうか。
その背景は旧約聖書にありました。旧約聖書において、イスラエルの民は、神様の育てるぶどうの木、ぶどう園に譬えられています。その様な箇所はたくさんあるのですが、代表的なものを取り上げます。「わたしはわがブドウ畑、イスラエルの民を丹精込めて育てたのに、それができそこないの酸いぶどうとなってしまった。」そう神さまが嘆いておられる場面です。
イザヤ5:4「…わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうがなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができてしまったのか。」
この世界を創造した神様にとって、イスラエルの民が特別な存在でした。人間が神を離れ、この世界が罪に満ちた時、神様はイスラエルの民を選んで、神様の存在と、神様がどのようなお方であるかを周りの人々に知らせようとしました。イスラエルの民を教え、彼らの生き方を通して、神様を知り、神様に信頼する生き方がどれ程良いものか、それこそが人間本来の生き方であることを、世界中に示そうとされたのです。この様な意味で、イスラエルは神様のもの、神の民と呼ばれています。
しかし、その神様の願いは実現することはありませんでした。イスラエルの民は、神様に愛され養われたにもかかわらず、神様に背き続け、とうとう出来損ないのぶどうとなってしまったと言うのです。この様な流れの中で、今日の箇所を読む時、「わたしはまことのぶどうの木」とのことばには、イエス様の並々ならぬ思いが込められていたことに気がつきます。
15:1「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」
神様の栄光と人間本来の生き方をこの世界に示すことができなかったイスラエルの民に代わり、わたしとわたしを信じる弟子たち、すなわち教会こそが「まことのぶどうの木」として、これから神の民の使命を果たしてゆくことになる。そのために、わたしはこの世に生まれ、人類の罪を贖うため十字架にいのちをささげるのだ。その様なイエス様の思いを、ここに聞くことができます。
思い返せば、この時イエス様と弟子たちは、所謂最後の晩餐の席についていました。他の福音書では、イエス様がパンとぶどう酒を弟子たちに分け与える場面のみが記録されています。しかし、ヨハネはそれに触れず、イエス様が自分たちのもとを離れて行ってしまうことに動揺し、不安を感じていた弟子たちを思い遣って、イエス様が語られたことば、別れの説教を記していました。他の福音書ではほんの数行。それに対して、ヨハネの福音書では13章から17章まで、たっぷり5章。随分多くのことを、イエス様は弟子たちのためにお話しされたのだなと感じます。
今まで語られたことのポイントは、イエス様がこの世を去って天に行くことは、地上に残る弟子たちにとって祝福となり、益になるということです。どのような点で祝福なのかと言うと、ひとつは、天の父の所に行くイエス様が、弟子たちのための永遠の住まいを天に用意してくださるから。二つ目は、天の父がもうひとりの助け主、聖霊を送ってくださり、聖霊が信じる者の心に住んでくださることにより、弟子たちはこれまで以上に親しくイエス様と交わることができるようになるからでした。
天には永遠の住まい、地上ではもうひとりの助け主聖霊を心に頂くという祝福です。その上、聖霊によって、イエス様とより一層深く結ばれると言うのですから、イエス様が目の前から去ってしまうことを恐れていた弟子たちにとって、どれ程大きな励ましとなったことでしょうか。
そして、今日の箇所。自分たちの様な小さな存在がイスラエルに代わって神の民となること、自分たちの生き方を通して、この世の人々に神様の栄光、神様の素晴らしさを示してゆくことが期待されていることを教えられ、どれ程彼らの心は高鳴ったことかと思わされます。
果たして、今の私たちに、神の民の自覚はあるでしょうか。与えられた命を神様の栄光を表すために使う人生。ただ食べて、飲んで、稼ぐための人生ではない。己の人生にこの様な尊い意味があることを覚え、日々歩む者でありたいと思います。
もちろん、私たちが一人で頑張ると言うのではありません。天の父なる神様が農夫で、イエス様はぶどうの木。つまり、肝心要の部分は全部天の父とイエス様がやってくださるので、私たちは安心してお任せし、一本の枝として、実を結べばよいと言われます。
15:2、3「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」
ぶどうは、良い実を得るために非常に手間のかかる植物だそうです。特に、ぶどうの枝は勢いよく繁茂するので、刈り込みは欠かすことのできない作業です。刈り込みは冬に行われ、一本一本丁寧に枝を調べ、良い芽がついているものだけを残して、余計な枝を切り落とします。どうして冬なのかと言うと、木が冬眠しているので、あまり痛みを覚えないからとも言われます。まさにぶどうの木を命あるものとして労っている、そんな印象を受けます。
さらに春になり、枝が芽を出し、小さな実をつけるころになると、今度は摘粒と言い、房になっている半分ぐらいの実を摘み取ります。これをしないと実が大きくならないそうです。農夫は一本一本枝を調べ、房を手で確かめながら、地道な作業を精魂込めて続けなければなりません。
刈り込みというと、私たちは試練とか訓練の、厳しさの面だけを連想します。しかし、こうしたぶどうの命をいたわる愛情から生まれる一連の作業を考えると、人生における試練や訓練の背後に、本来人間として生きるべき命を私たちのうちに豊かに養い、育てるため、農夫のように仕えてくださる神様の愛を仰ぐことができるのではないでしょうか。
そして、このような試練、訓練が与えられるのは、弟子たちがイエス・キリストを信じて、きよめられたこと、つまり、完全に天の父のもの、父なる神の子どもとされたことの証拠と、イエス様は教えています。「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」は、人生に試練が襲っても、私たちがそれを天の父と子の関係で受けとめ、忍耐するようにと勧めるイエス様の配慮のことばと考えられます。
経済の問題、病の苦しみ、難しい人間関係等。私たちは、これらを天の父が私たちを子として愛するがゆえに与えられた必要な訓練と受けとめ、忍耐し、養われたいと思います。
以上、天の父が愛情を以てなしてくださる人生の訓練について見てきました。次は、私たちがなすべきことは何かです。イエス様は、それをただ一言「わたしにとどまりなさい。」と語りました。
15:4「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」
ぶどうの枝は木について、樹液、栄養分を貰わなければ実を結ぶことはできません。枝にとって木についているかどうかは生命にかかわる重大事なのです。同じく、私たちもイエス様という木にとどまっていなければ、何一つ実を結べないと言われます。
人生には努力してできることと、できないことがあります。例えば、今私は全くピアノを弾けませんが、これから努力を重ねればバッハやベートーベンは無理としても、簡単な曲ならいつかは弾けるようになると思います。
しかし、人に親切にするということはどうでしょう。多くの場合、私たちの親切は義務感からだったり、人の目を気にしてのものだったり、相手からの報いを期待してのものであったりします。「本当に100%相手の幸いを願って行う、心からの親切をあなたは為したことがあるか」と、神様に聞かれたら、全く自信がないと言うのが、神様を知る者の正直な気持ちでしょう。
つまり、神様が求める霊的な実について、私たちは全く無力な存在なのです。皆様はこのことを認めるでしょうか。己の無力を悟る時、私たちは自分が枝であり、本来人間として結ぶべき実を結ぶためには、木であるイエス様にとどまって、十字架の愛と言う栄養分を貰わけければならないと思い定めることができるのです。
しかし、弟子たちも私たちも、自分が実を結ぶことのできない枝であることをなかなか認めることができません。いったん認めても、すぐに忘れ、己に頼り、イエス様にとどまり、頼ることをしなくなるのです。それを知っておられたからでしょう。イエス様は、ご自分にとどまることの必要性を繰り返し、教えられます。
15:5、6「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」
自分の無力を悟り、イエス・キリストにとどまるなら、その人には多くの実を結ぶ人生が待っている。自分の無力を認めず、イエス・キリストにとどまることも、その愛を貰う必要も覚えることのなかった人には、イエス・キリストの愛のない悲惨な人生が待っている。この人生の明と暗とを心に刻んで、神様から見て自分は人間として本来あるべき生き方をしているのかどうかを考え、イエス様にとどまるという正しい選択ができたらと思います。
さらに、ご自分にとどまる者の幸いについて、イエス様は念を押しています。
15:7、8「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
私たちが何でも欲しいものを求める時、私たちのためにそれがかなえられる。何とも驚くべき言葉です。しかし、これには、私たちがイエス様にとどまり、イエス様のことばがわたしたちにとどまるなら、という条件がありました。
みことばに示されたイエス様の私たちに対するみ心と、私たち自身の願いが一つになるなら、つまり、イエス様が願い、喜ばれるような生き方をしたいと私たちが心から願い、欲する時、求めることは必ずかなえられると言うのです。
イエス様にとどまり続けてゆく中で、私たちの祈りが整えられ、私たちの歩みも多くの実を結び、神様の栄光をあらわすものになると教えられます。ところで、普段の私たちの祈りはどのようなものでしょうか。自分の願いだけを祈り、サッサと神様の前から離れてしまう。そんな祈りでしょうか。困った時の神頼み、困った事がなければ祈らない、その様な祈りでしょうか。
イエス様が教えているのは、その様な祈りの生活ではありません。イエス様がみことばにおいて示された私たちとこの世界に関わるみこころを、私たちの願いとして祈ること、私たちが自分の願いや理想を語る前に、もっとイエス様のみ心を知り、その実現を心から祈り続ける生活です。
もちろん、自分の願いがかなうことは、私たちにとって喜びです。しかし、それ以上に、神様のみ心が実現してゆくことの方が大きな喜びと感じられる。いや自分の願いがかなえられても、かなえられなくても、神様のみ心がわたしの人生になることが最大の喜びである。その様な祈りの生活を送れたらと思います。
最後に二つのことを確認したいと思います。ひとつは、私たちが農夫の眼で人生の歩みを見ると言うことです。実を結ぶとは具体的にどういうことなのか、いくつかのことが考えられますが、今日は御霊の実と言うことばで表現されている、人格的な成長について見てみたいと思います。
5:22~24「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」
自然のままであれば、私たちの心には喜びよりも不平不満が、寛容よりも、人をシャットアウトする思いが、親切よりも冷淡な思いが生れがちです。生まれつきの私たちは、善意よりも悪意で人を見ることを、誠実よりも表裏のある行動を、柔和よりも高慢な態度を、自制心よりも気ままに行動することを好む者です。
ですから、私たちは、神様の愛に動かされて、心の畑に喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制心と言った実を育ててゆく必要があるのです。神様の愛に答えて、自分の肉、生まれながらの罪の性質を十字架につけると言う戦いを続けていかなければなりません。
しかし、ぶどうの実を育てるのに時間と忍耐が必要なように、私たちの心の畑に御霊に実が実るのにも、時間が必要です。思うように実を結ばないからと言って、落胆したり、あきらめたりせず、イエス・キリストにとどまり続けるという忍耐が必要なのです。
焦らず、たゆまず、時が来れば必ず神様が実りをもたらしてくださることに信頼する。農夫の眼で自分の歩みを見ることが大切ではないでしょうか。
二つ目は、イエス・キリストにとどまり続けることの大切さです。それは、波立つプールで同じ場所にとどまり続けることに似て、意識してとどまることに取り組まないなら、私たちはこの世の流れに流されてしまうでしょう。
イエス様にとどまり続けることは、ことばを変えて言うな、イエス様との関係を最も大切なものとする、第一とすることです。果たして、私たちは何との関係を大切にしているでしょうか。それについて考え、それと共に過ごす時間の多いもの、それが私たちが実際に大切な関係をもっているものなのです。もし、それがお金やテレビであるなら、私たちは人生で大切な関係を持つべきものの優先順位を考え直す必要があると思います。
誰もが、イエス・キリストとの関係、天の父との関係が最も大切と考えています。しかし、そう考えていることと、実際に大切にしているものとが違うとしたら残念なことです。聖書を読むこと、イエス・キリストと交わること、教会の交わりに身を置くこと、イエス様ならこの場合どのような態度を取り、行動を選択するのか考えながら生きること。日々の生活の中で、実際にイエス・キリストにとどまることを意識しながら、歩む者でありたいと思います。今日の聖句です。
ヨハネ15:5「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」
2014年9月28日日曜日
2014年9月21日日曜日
ヨブ記42章節~6節 「一書説教」 ~主が主である~
一般論として、現代日本人の宗教についての考え方、信仰についての考え方は、生活の一分野、趣味のこととして捉える人が多いと言われます。宗教や信仰というのは、心の平安を得るためのもの。物事を円滑に進めるためのもの。その宗教を信仰していて、自分にとって良ければ信じる。自分にとって良くなければ信じない、という考え方です。(当然のことですが、日本人にも強い信仰心をもって宗教生活を送っている人もいます。)
私たちの信仰はどのようなものでしょうか。聖書の神様に対する信仰を持ち、順調な時は良いのです。神様に従っても、良い事無し。信仰を持ったら余計に大変なことが増えた、と感じる時に、私たちはどのような態度をとるでしょうか。神様が神様であるから信じているのか。神様ご自身を喜ぶ信仰なのか。それとも、神様の恵み、賜物だけを喜び、苦境の際には、熱心が冷める信仰でしょうか。
この点を徹底的に試された人がいます。旧約の信仰の偉人ヨブ。これ以上ない程の苦境に晒されて、ヨブの信仰が露わにされていく様がヨブ記に記されました。断続的に行ってきた一書説教、第十八回目、今日はこのヨブ記を扱うことになります。神様とヨブの姿から、信仰とは何か。神様はどのようなお方で、その方の前で私たちはどのような存在なのか。改めて確認することが出来るようにと願っています。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。
全四十二章に渡るヨブ記、最初と最後に散文がありますが、中心はヨブと友人、あるいは神様の語り言葉。それも詩で記された会話です。戯曲、詩劇構成となっていて、これまで読み進めてきた歴史書と印象が大きく変わります。聖書はどの書も神の言葉。この点で優劣を付けることは出来ませんが、文学作品という視点で見る時、ヨブ記は人類最高の傑作の一つと言われます。果たして自分に、読み解く力があるのかと、怖じ気づきますが、祈りながら、聖霊なる神様に頼りながら、読み進めていきたいのです。
中心は、詩劇構成となっている登場人物の会話部分ですが、その内容がどのような場面で語られたものなのか。最初の一、二章に記されます。(この一、二章が散文です。)
ヨブ記1章1節~3節
「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。」
この書の中心人物、ヨブの人となりが紹介されます。息子七人、娘三人、多数のしもべと家畜たち。子宝も財産も持ち合わせた、東一番の富豪。しかも、潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていたと、その人格、信仰においても落ち度のない傑出した人物。
このヨブについて、驚くことに神様とサタンの会話がなされるのです。
ヨブ記1章8節
「主はサタンに仰せられた。『おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。』」
ここに神様がヨブを「潔白で正しい」と評しています。欠けのない、正しい人。これは、どのような意味でしょうか。間違いのない人間、罪のない人間という意味でしょうか。そうではないはずです。何しろ聖書自体が、全ての人が罪を犯していると言います。それでは、神様がなしているヨブの評価、「潔白で正しい」とはどのような意味でしょうか。それは続くサタンの言葉により、考えることが出来ます。
ヨブ記1章9節~11節
「サタンは主に答えて言った。『ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。』」
サタンが言ったことは、「ヨブと言えども、ただで信仰生活を送っているのではないのです。あなたがヨブを祝福し、良い状態にあるから神を恐れる生活をしているのでしょう。ヨブとて、その財産が失われたら、あなたを呪うでしょう。」です。
これが、「潔白で正しい」と言われたヨブを貶める言葉でした。つまり、「潔白で正しい」という意味は、順調な時だけ神様を信じる信仰ではない。ご利益信仰ではない。神様が神様であるから。主が主であるから信じる信仰の持ち主という意味と考えられます。
私たちの信仰は、全くのご利益信仰ということはありませんが、同時に、神様が神様であるから信じるという信仰にいつも立てているわけではありません。正しく神様に向き合うことが出来る時もあれば、状況に左右されることもある。この点、ヨブはその時代、他にいないと言われるほど、状況に左右されることなく、正しく神様を恐れる人物でした。
このヨブに対して、激しい試練が下ることになります。一つ目の試練は、略奪、殺害、自然災害(雷、大風)にて、瞬時のうちに、財産と子どもたちが失われたという出来事。大悲劇です。聖書を読む私たちは、事もなげに数行で読み終える内容ですが、これを実際に味わうとしたら、どれだけのことかと思います。あまりの悲劇の大きさに、想像することも難しい。神様に対する信仰の無い者であれば、この出来事を前にして絶望するでしょう。信仰がある者は、なぜ神はこのようなことを許されるのか。神はいるのか。神は愛なのか、と苦悶するところ。ところが、この出来事に遭遇したヨブは、この中で一際輝く信仰告白をします。実に有名な言葉。
ヨブ記1章20節~21節
「このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』」
状況に左右されることなく、正しく神を恐れるヨブの姿に圧倒されます。自分の幸、不幸に関わらず、神様が神様だから信じる。主が主であるから拝するという姿。神中心の信仰。絶対的信仰。いや、これが信仰ということなのかと教えられます。ヨブのこの告白を前にする時に、自分の信仰生活がいかに自分中心だったか。いかに状況に左右されるものだったかと反省させられます。
ところが、ヨブへの試練はこれで終わりではありませんでした。続けて、ヨブ自身がひどい病になる。全身を悪性の腫物で覆われます。その姿に、ヨブの妻は度を失い、友人たちはそれがヨブだと見分けられない状況。この状況にあっても、ヨブの告白は光ります。
ヨブ記2章10節
「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」
これ程の悲劇の中にあっても、その信仰は損なわれなかった。不幸の最中でも神の主権を仰ぎみて、なおも神様を信じるヨブ。神様より「潔白で正しい」と言われたヨブの信仰は、この状況でも変わらなかったのです。
こうして、先に話されていた神様とサタンのやりとりの中で、ヨブに対する評価は神様の言われていた通り。サタンの評価は間違っていたことが明らかになった。ヨブ記はこれで終わりと言いたいところですが、ここからが本論となるのです。
悲劇の最中にいるヨブのところに友人が来ます。主だった友人は三人。慰めに、励ましに来たはずの友人が、ヨブの姿を見るとあまりのことに声を失い、七日間誰も声を上げなかったと言います。その後、ヨブが苦しみを口にすると、それを皮切りにヨブと友人との討論が始まります。その討論は詩劇形式、韻文。まずは、ヨブの嘆きの声を確認します。
ヨブ記2章13節~3章3節
「こうして、彼らは彼とともに七日七夜、地にすわっていたが、だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである。その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。ヨブは声を出して言った。私の生まれた日は滅びうせよ。『男の子が胎に宿った。』と言ったその夜も。」
痛切極まりない叫び。生まれた日を呪うとは、これ以上ない苦しみの表現です。この冒頭の叫び以降、三章は重苦しいヨブの苦しみの声が響き続けます。
ところでヨブ記を読む上で、この時のヨブの嘆きの本質は何か、よく理解することが重要と言われます。ヨブにとって、生まれた日を呪う程の苦しみとは何でしょうか。神様が神様だから拝するという信仰の持ち主。子ども、財産を一度に失うも、主は与え、主はとられる、主の御名はほむべきかな、と賛美した信仰者。重大な病の中にあっても、わざわいをも受けなければならない、と告白した人物。このヨブにとって、生まれた日を呪う程の苦しみとは何か。大きな悲劇を味わった時に、なおも神様を賛美していたヨブが、友が来て七日間の沈黙の後、苦しみを吐き出しました。何故なのか。
この七日間にヨブに何か起こったのでしょうか。何も起こらなかった。この何も無かったことがヨブを苦しめているのだと思います。つまり、神様からの応答が何もなかったのです。悲劇の中で、ヨブは神様を賛美し、その信仰を失わずにいました。ところが、神様から何の応答もない。七日間の沈黙は、ヨブと友人だけのものではなく、神様も沈黙されていた。そのため、神様との関係が失われていると感じたのです。それまで許されていた神様との親しい関係が、失われたと感じたヨブは苦しみの叫び声を上げるのです。
このヨブの苦しみ。神様からの答えがない。神様との交わりが失われたと感じる悲しみは、ヨブの言葉の色々なところで表現されていますが、例えば次のような言葉があります。
ヨブ6章8節~10節
「ああ、私の願いがかなえられ、私の望むものを神が与えてくださるとよいのに。私を砕き、御手を伸ばして私を絶つことが神のおぼしめしであるなら、私はなおも、それに慰めを得、容赦ない苦痛の中でも、こおどりして喜ぼう。私は聖なる方のことばを拒んだことがないからだ。」
神様からの語りかけが、私を砕き、私を絶つというものであっても、それでも神様からの応答があることが嬉しい。語られる内容がどうであろうとも、神様が語って下さることに慰めを得、こおどりして喜ぶ、というのです。ヨブにとって、神様からの答えがないと感じることがどれほど苦しいことなのか。
このようなヨブの苦しみに対して、友人たちが語りかけます。ヨブ記の本論は、この友人たちとヨブのやりとり。基本的に友人たちは、ヨブの苦しみは、家族や財産、健康を失ったことにあると理解し、それを取り戻すためには、己の罪を認めて、神様を呼び求めるようにとの勧め。
「己の罪を認め、神様を呼び求める。」この勧めはある意味で、とても聖書的です。そのため、ヨブの友人たちの言葉は、聖書的に正しい言葉のように読めるところが多数あります。しかし、ヨブ記の文脈においては、友人たちの言葉は、ヨブの苦しみの本質を理解せずに語りかけていること。更に言うと、失ったものを取り戻すために、罪を告白し神様に呼び求めるというのは、神様が神様だから信じる信仰とは異なると言えます。もし、ヨブがこの友人たちの言葉を聞きいれた上で、罪を告白し、神様を呼び求めるとしたら、失ったものを取り戻すために神様を拝する者となってしまう。
そのため、部分的には正しく見えるヨブの友人たちの言葉ですが、最終的に神様から、次のように言われています。
ヨブ記42章7節
「さて、主がこれらのことばをヨブに語られて後、主はテマン人エリファズに仰せられた。『わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。』」
このようなヨブの嘆きと、友人たちの思いを把握した上で、是非とも、その討論を耳にして下さい。主な友人は三人。エリファズ、ビルダデ、ツォファルの順に語りますが、それぞれにヨブが答えていくので、「エリファズ、ヨブ」「ビルダデ、ヨブ」「ツォファル、ヨブ」と討論が展開し、この順番での討論が三周あります。長い長い討論。(三回目は、ツォファルは語らず。またこの三人との討論の後、エリフという人物が登場し、意見を述べます。ヨブがエリフと討論しないため、エリフの意見だけが記録されています。今回の説教では、エリフについては扱いません。)
非常に長い討論を経て、ヨブにしろ友人にしろ、その意見が出尽くしたところで、最後に神様からヨブに対する語りかけが記されます。三十八章から四十一章まで、四章に渡る神様からの答え。大きな悲劇の中、それでも信仰を失わず、何よりも神様との交わりが失われたのではないかと戸惑い恐れているヨブに対して、神様は何をどう語られるのか。注目の場面。
何故、ヨブにあの悲劇が起こったのか、その意味を語られるのか。ここまで沈黙していた理由が明らかにされるのか。読者の私たちも、神様がどのように答えられるのか知りたいと思うところ。しかし、ここで神様が語られたのは、誰がこの世界の造り主であり、支配者であるのかということ。それも、質問のかたちをとった言葉です。「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。」(38章4節)とか、「あなたは海の源まで行ったことがあるのか。」(38章16節)とか、「あなたが馬に力を与えるのか。その首にたてがみをつけるのか。」(39章19節)などなど。宇宙、天体、陸、海、氷雪、更には動物。これらを造り支配しているのは誰か、との問いが繰り返し発せられるのです。
なぜ、あの悲劇の理由を語られなかったのか。なぜ、ここまで沈黙していた理由を明らかにされなかったのか。なぜ、誰が世界の造り主であり、支配者であることを今一度語られたのでしょうか。それは、神が神であるから。主が主であるから信じるという信仰を、神様も求めていたからでしょう。悲劇の理由が語られ、納得出来たら信じるというのではない。起こりくる出来事に納得出来なくても、神様を信じるかどうか。
ヨブはこの全四章に渡る神様からの語りかけに、次のように応答しています。
ヨブ記42章1節~6節
「ヨブは主に答えて言った。あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。どうか聞いてください。私が申し上げます。私はあなたにお尋ねします。私にお示しください。私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」
神様を前にこれ以上ない程、遜るヨブの姿です。自分の身にふりかかった大苦難は、何故だったのか。苦しみの最中にいる時、神様が沈黙されていたのは何故だったのか。その答えはなく、出来事に対する納得はないでしょう。その上、依然として、全てを失い、病の中にいるヨブ。それでも、ここに満ち足りているヨブの姿を見ることが出来ます。ヨブにとって最も大事なことは、苦難でもなく、その理由でもなく、神様との交わりでした。この点で、ヨブにとって神様の語りかけは十分。神様がどのようなお方で、自分がどのような存在なのか、よくよく分かったことで満足するヨブの姿に、潔白で正しいと評された見事さを見る気がします。
なお、四十二章のこのヨブの言葉までが韻文で、ここから散文に戻り、その後のことが短くまとめられています。神様がヨブを元通りにし、所有物を二倍にされ、ヨブはその後長寿を全うした、とです。大団円、ハッピーエンドで締めくくられます。
以上、大ヨブ記でした。正直に言いまして、今回ヨブ記の一書説教を取り組むのに、だいぶ苦しみました。調べれば調べる程、ヨブ記の奥深さに圧倒される思いがしました。一回の説教で何とかなるものではないと何度も思いましたし、今の段階でも不十分な気がしますが、これにて一書説教ヨブ記は終わりとなります。後は是非、ヨブ記を読んで頂ければと思います。自分がヨブの立場であれば、神様に対してどのような態度をとったか。ヨブが苦しみの最中にいる時、神様はどのような思いでおられたのか。考えながら読み進めること。そして、神が神であるから信じる。主が主であるから従うという信仰を、神様に求めることに取り組みたいと思います。
私たちの信仰はどのようなものでしょうか。聖書の神様に対する信仰を持ち、順調な時は良いのです。神様に従っても、良い事無し。信仰を持ったら余計に大変なことが増えた、と感じる時に、私たちはどのような態度をとるでしょうか。神様が神様であるから信じているのか。神様ご自身を喜ぶ信仰なのか。それとも、神様の恵み、賜物だけを喜び、苦境の際には、熱心が冷める信仰でしょうか。
この点を徹底的に試された人がいます。旧約の信仰の偉人ヨブ。これ以上ない程の苦境に晒されて、ヨブの信仰が露わにされていく様がヨブ記に記されました。断続的に行ってきた一書説教、第十八回目、今日はこのヨブ記を扱うことになります。神様とヨブの姿から、信仰とは何か。神様はどのようなお方で、その方の前で私たちはどのような存在なのか。改めて確認することが出来るようにと願っています。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。
全四十二章に渡るヨブ記、最初と最後に散文がありますが、中心はヨブと友人、あるいは神様の語り言葉。それも詩で記された会話です。戯曲、詩劇構成となっていて、これまで読み進めてきた歴史書と印象が大きく変わります。聖書はどの書も神の言葉。この点で優劣を付けることは出来ませんが、文学作品という視点で見る時、ヨブ記は人類最高の傑作の一つと言われます。果たして自分に、読み解く力があるのかと、怖じ気づきますが、祈りながら、聖霊なる神様に頼りながら、読み進めていきたいのです。
中心は、詩劇構成となっている登場人物の会話部分ですが、その内容がどのような場面で語られたものなのか。最初の一、二章に記されます。(この一、二章が散文です。)
ヨブ記1章1節~3節
「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。」
この書の中心人物、ヨブの人となりが紹介されます。息子七人、娘三人、多数のしもべと家畜たち。子宝も財産も持ち合わせた、東一番の富豪。しかも、潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていたと、その人格、信仰においても落ち度のない傑出した人物。
このヨブについて、驚くことに神様とサタンの会話がなされるのです。
ヨブ記1章8節
「主はサタンに仰せられた。『おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。』」
ここに神様がヨブを「潔白で正しい」と評しています。欠けのない、正しい人。これは、どのような意味でしょうか。間違いのない人間、罪のない人間という意味でしょうか。そうではないはずです。何しろ聖書自体が、全ての人が罪を犯していると言います。それでは、神様がなしているヨブの評価、「潔白で正しい」とはどのような意味でしょうか。それは続くサタンの言葉により、考えることが出来ます。
ヨブ記1章9節~11節
「サタンは主に答えて言った。『ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。』」
サタンが言ったことは、「ヨブと言えども、ただで信仰生活を送っているのではないのです。あなたがヨブを祝福し、良い状態にあるから神を恐れる生活をしているのでしょう。ヨブとて、その財産が失われたら、あなたを呪うでしょう。」です。
これが、「潔白で正しい」と言われたヨブを貶める言葉でした。つまり、「潔白で正しい」という意味は、順調な時だけ神様を信じる信仰ではない。ご利益信仰ではない。神様が神様であるから。主が主であるから信じる信仰の持ち主という意味と考えられます。
私たちの信仰は、全くのご利益信仰ということはありませんが、同時に、神様が神様であるから信じるという信仰にいつも立てているわけではありません。正しく神様に向き合うことが出来る時もあれば、状況に左右されることもある。この点、ヨブはその時代、他にいないと言われるほど、状況に左右されることなく、正しく神様を恐れる人物でした。
このヨブに対して、激しい試練が下ることになります。一つ目の試練は、略奪、殺害、自然災害(雷、大風)にて、瞬時のうちに、財産と子どもたちが失われたという出来事。大悲劇です。聖書を読む私たちは、事もなげに数行で読み終える内容ですが、これを実際に味わうとしたら、どれだけのことかと思います。あまりの悲劇の大きさに、想像することも難しい。神様に対する信仰の無い者であれば、この出来事を前にして絶望するでしょう。信仰がある者は、なぜ神はこのようなことを許されるのか。神はいるのか。神は愛なのか、と苦悶するところ。ところが、この出来事に遭遇したヨブは、この中で一際輝く信仰告白をします。実に有名な言葉。
ヨブ記1章20節~21節
「このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』」
状況に左右されることなく、正しく神を恐れるヨブの姿に圧倒されます。自分の幸、不幸に関わらず、神様が神様だから信じる。主が主であるから拝するという姿。神中心の信仰。絶対的信仰。いや、これが信仰ということなのかと教えられます。ヨブのこの告白を前にする時に、自分の信仰生活がいかに自分中心だったか。いかに状況に左右されるものだったかと反省させられます。
ところが、ヨブへの試練はこれで終わりではありませんでした。続けて、ヨブ自身がひどい病になる。全身を悪性の腫物で覆われます。その姿に、ヨブの妻は度を失い、友人たちはそれがヨブだと見分けられない状況。この状況にあっても、ヨブの告白は光ります。
ヨブ記2章10節
「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」
これ程の悲劇の中にあっても、その信仰は損なわれなかった。不幸の最中でも神の主権を仰ぎみて、なおも神様を信じるヨブ。神様より「潔白で正しい」と言われたヨブの信仰は、この状況でも変わらなかったのです。
こうして、先に話されていた神様とサタンのやりとりの中で、ヨブに対する評価は神様の言われていた通り。サタンの評価は間違っていたことが明らかになった。ヨブ記はこれで終わりと言いたいところですが、ここからが本論となるのです。
悲劇の最中にいるヨブのところに友人が来ます。主だった友人は三人。慰めに、励ましに来たはずの友人が、ヨブの姿を見るとあまりのことに声を失い、七日間誰も声を上げなかったと言います。その後、ヨブが苦しみを口にすると、それを皮切りにヨブと友人との討論が始まります。その討論は詩劇形式、韻文。まずは、ヨブの嘆きの声を確認します。
ヨブ記2章13節~3章3節
「こうして、彼らは彼とともに七日七夜、地にすわっていたが、だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである。その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。ヨブは声を出して言った。私の生まれた日は滅びうせよ。『男の子が胎に宿った。』と言ったその夜も。」
痛切極まりない叫び。生まれた日を呪うとは、これ以上ない苦しみの表現です。この冒頭の叫び以降、三章は重苦しいヨブの苦しみの声が響き続けます。
ところでヨブ記を読む上で、この時のヨブの嘆きの本質は何か、よく理解することが重要と言われます。ヨブにとって、生まれた日を呪う程の苦しみとは何でしょうか。神様が神様だから拝するという信仰の持ち主。子ども、財産を一度に失うも、主は与え、主はとられる、主の御名はほむべきかな、と賛美した信仰者。重大な病の中にあっても、わざわいをも受けなければならない、と告白した人物。このヨブにとって、生まれた日を呪う程の苦しみとは何か。大きな悲劇を味わった時に、なおも神様を賛美していたヨブが、友が来て七日間の沈黙の後、苦しみを吐き出しました。何故なのか。
この七日間にヨブに何か起こったのでしょうか。何も起こらなかった。この何も無かったことがヨブを苦しめているのだと思います。つまり、神様からの応答が何もなかったのです。悲劇の中で、ヨブは神様を賛美し、その信仰を失わずにいました。ところが、神様から何の応答もない。七日間の沈黙は、ヨブと友人だけのものではなく、神様も沈黙されていた。そのため、神様との関係が失われていると感じたのです。それまで許されていた神様との親しい関係が、失われたと感じたヨブは苦しみの叫び声を上げるのです。
このヨブの苦しみ。神様からの答えがない。神様との交わりが失われたと感じる悲しみは、ヨブの言葉の色々なところで表現されていますが、例えば次のような言葉があります。
ヨブ6章8節~10節
「ああ、私の願いがかなえられ、私の望むものを神が与えてくださるとよいのに。私を砕き、御手を伸ばして私を絶つことが神のおぼしめしであるなら、私はなおも、それに慰めを得、容赦ない苦痛の中でも、こおどりして喜ぼう。私は聖なる方のことばを拒んだことがないからだ。」
神様からの語りかけが、私を砕き、私を絶つというものであっても、それでも神様からの応答があることが嬉しい。語られる内容がどうであろうとも、神様が語って下さることに慰めを得、こおどりして喜ぶ、というのです。ヨブにとって、神様からの答えがないと感じることがどれほど苦しいことなのか。
このようなヨブの苦しみに対して、友人たちが語りかけます。ヨブ記の本論は、この友人たちとヨブのやりとり。基本的に友人たちは、ヨブの苦しみは、家族や財産、健康を失ったことにあると理解し、それを取り戻すためには、己の罪を認めて、神様を呼び求めるようにとの勧め。
「己の罪を認め、神様を呼び求める。」この勧めはある意味で、とても聖書的です。そのため、ヨブの友人たちの言葉は、聖書的に正しい言葉のように読めるところが多数あります。しかし、ヨブ記の文脈においては、友人たちの言葉は、ヨブの苦しみの本質を理解せずに語りかけていること。更に言うと、失ったものを取り戻すために、罪を告白し神様に呼び求めるというのは、神様が神様だから信じる信仰とは異なると言えます。もし、ヨブがこの友人たちの言葉を聞きいれた上で、罪を告白し、神様を呼び求めるとしたら、失ったものを取り戻すために神様を拝する者となってしまう。
そのため、部分的には正しく見えるヨブの友人たちの言葉ですが、最終的に神様から、次のように言われています。
ヨブ記42章7節
「さて、主がこれらのことばをヨブに語られて後、主はテマン人エリファズに仰せられた。『わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。』」
このようなヨブの嘆きと、友人たちの思いを把握した上で、是非とも、その討論を耳にして下さい。主な友人は三人。エリファズ、ビルダデ、ツォファルの順に語りますが、それぞれにヨブが答えていくので、「エリファズ、ヨブ」「ビルダデ、ヨブ」「ツォファル、ヨブ」と討論が展開し、この順番での討論が三周あります。長い長い討論。(三回目は、ツォファルは語らず。またこの三人との討論の後、エリフという人物が登場し、意見を述べます。ヨブがエリフと討論しないため、エリフの意見だけが記録されています。今回の説教では、エリフについては扱いません。)
非常に長い討論を経て、ヨブにしろ友人にしろ、その意見が出尽くしたところで、最後に神様からヨブに対する語りかけが記されます。三十八章から四十一章まで、四章に渡る神様からの答え。大きな悲劇の中、それでも信仰を失わず、何よりも神様との交わりが失われたのではないかと戸惑い恐れているヨブに対して、神様は何をどう語られるのか。注目の場面。
何故、ヨブにあの悲劇が起こったのか、その意味を語られるのか。ここまで沈黙していた理由が明らかにされるのか。読者の私たちも、神様がどのように答えられるのか知りたいと思うところ。しかし、ここで神様が語られたのは、誰がこの世界の造り主であり、支配者であるのかということ。それも、質問のかたちをとった言葉です。「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。」(38章4節)とか、「あなたは海の源まで行ったことがあるのか。」(38章16節)とか、「あなたが馬に力を与えるのか。その首にたてがみをつけるのか。」(39章19節)などなど。宇宙、天体、陸、海、氷雪、更には動物。これらを造り支配しているのは誰か、との問いが繰り返し発せられるのです。
なぜ、あの悲劇の理由を語られなかったのか。なぜ、ここまで沈黙していた理由を明らかにされなかったのか。なぜ、誰が世界の造り主であり、支配者であることを今一度語られたのでしょうか。それは、神が神であるから。主が主であるから信じるという信仰を、神様も求めていたからでしょう。悲劇の理由が語られ、納得出来たら信じるというのではない。起こりくる出来事に納得出来なくても、神様を信じるかどうか。
ヨブはこの全四章に渡る神様からの語りかけに、次のように応答しています。
ヨブ記42章1節~6節
「ヨブは主に答えて言った。あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。どうか聞いてください。私が申し上げます。私はあなたにお尋ねします。私にお示しください。私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」
神様を前にこれ以上ない程、遜るヨブの姿です。自分の身にふりかかった大苦難は、何故だったのか。苦しみの最中にいる時、神様が沈黙されていたのは何故だったのか。その答えはなく、出来事に対する納得はないでしょう。その上、依然として、全てを失い、病の中にいるヨブ。それでも、ここに満ち足りているヨブの姿を見ることが出来ます。ヨブにとって最も大事なことは、苦難でもなく、その理由でもなく、神様との交わりでした。この点で、ヨブにとって神様の語りかけは十分。神様がどのようなお方で、自分がどのような存在なのか、よくよく分かったことで満足するヨブの姿に、潔白で正しいと評された見事さを見る気がします。
なお、四十二章のこのヨブの言葉までが韻文で、ここから散文に戻り、その後のことが短くまとめられています。神様がヨブを元通りにし、所有物を二倍にされ、ヨブはその後長寿を全うした、とです。大団円、ハッピーエンドで締めくくられます。
以上、大ヨブ記でした。正直に言いまして、今回ヨブ記の一書説教を取り組むのに、だいぶ苦しみました。調べれば調べる程、ヨブ記の奥深さに圧倒される思いがしました。一回の説教で何とかなるものではないと何度も思いましたし、今の段階でも不十分な気がしますが、これにて一書説教ヨブ記は終わりとなります。後は是非、ヨブ記を読んで頂ければと思います。自分がヨブの立場であれば、神様に対してどのような態度をとったか。ヨブが苦しみの最中にいる時、神様はどのような思いでおられたのか。考えながら読み進めること。そして、神が神であるから信じる。主が主であるから従うという信仰を、神様に求めることに取り組みたいと思います。
2014年9月14日日曜日
敬老感謝礼拝 Ⅱコリント4章16節~18節 「長寿は神様の祝福」
今日は敬老感謝礼拝。人生に必ず訪れる老いをどう生きるのか、青年、壮年にとっても、老年にある方々にとっても、非常に大切なテーマについて聖書からともに考える礼拝です。また、礼拝後には、敬愛する70歳以上の兄弟姉妹の長寿を、みなでお祝いする時を持ちたいとも思っています。
ところで、「白雪姫」や「赤ずきん」で有名なグリム童話に、この様なお話があるのをご存知でしょうか。神様がロバと犬と猿それと人間に、各々の寿命を決めるというお話です。
神様が世界を造りになり、生き物たちの寿命を決めようとした時、一番先にやってきたのはロバ。ロバは「神様、私はどのぐらい生きることになりましょうか。」と尋ねます。「30年」と神様は答え、「それでよいか。」と聞き返されました。すると「ああ神様。それは長い時間です。朝から夜まで、人間のために重い荷物を運ばねばならない私の辛い暮らしを考えてください。人間からぶたれたり、けられたりして、次々と働かされる時間が30年とは長すぎます。少しでもよいですから減らしてください。』と、ロバは答えたのです。それで、神様はあわれに思い、ロバに18年の命を与えました。
ロバがほっとして立ち去ると、犬がやってきます。『お前はどのぐらい生きたいか。ロバに30年は長すぎたようだが、お前はそれで満足するか。』と、神様は言いました。それに対して、「それは神さまの思し召しでございましょうか。私がどんなに走らなければならないか、お考えください。私の足はそんなに長くは耐えられません。吠える声と、噛みつく歯をなくしたら、隅っこにひっこんで、呻るほかどう仕様がありますか。』神様は尤もと思い、犬に12年の寿命を与えました。
そのあとに続くのが猿です。『お前は30年生きたいだろうな。お前はロバや犬のように働く必要がない。それにいつも陽気だ。』と、神様は猿に声をかけます。すると,猿は『ああ神様。そう見えても、実は違うんです。みんなを笑わすために、私はいつもおかしなまねをしたり、顔をしかめたりするんです。りんごをもらって、かみつくと、すっぱいのです。ふざけている陰では、どんなに悲しい思いをしていることでしょう。30年なんて我慢できません。』そこで神様は恵み深く、猿に十年の寿命を命を与えます。
最後に人間があらわれます。人間は気負っていて、健康で、元気。神様が「30年の寿命で十分か」と尋ねると、「何て短い時間でしょう。それでは、自分の家を建てて、かまどに火を燃やし、庭に木を植えて、それが花を開き、実を結び、自分の暮らしを楽しもうと思ったら、死ななきゃならないじゃあないですか。私の寿命をもっと延ばしてください。」と願いました。
それに対し、「ロバの18年を足してやろう。」と神様が言うと、「それでは足りません。」と人間は答える。「犬の12年もお前にやる。」と言えば、「まだまだ少なすぎます。」と答えるので、「よろしい、猿の10年もお前にやろう。だが、それ以上はもらえないぞ。」と神さまは言い、漸く人間は立ち去りますが、満足してはいませんでした。
こうして、人間に与えられた寿命は七十年。初めは人間の年月で、そのあいだ人間は健康で明るく、喜んで仕事をし、生活を楽しみますが、30年はたちまち過ぎ去ります。その後はロバの18年で、人のために重荷を負わされ、苦労して働かねばなりません。それから犬の12年が来ると、隅っこに追いやられ、呻るばかりで、物をかむ歯もないと言う有様。それが過ぎると、猿の10年でその時、人間は頭が弱り、耄碌して、間の抜けたことをやって子どもの笑いものになる。この様な、お話です。
人生で最も良い時期は最初の30年で、誕生から少年期、青年期まで。後は様々な重荷を負い労苦しなければならない中年期。そして、体が衰えて社会の片隅に追いやられ、最後は耄碌して、若者に笑われる老年期。その様な人生観を表す物語ですが、皆様はどう思われたでしょうか。
体も知能も日々成長する少年期、一般的には体も精神も健やかな青年期を人生の最盛期とし、それ以降、特に老年期を否定的に見るこの様な人生観は、人生の各々の時期に神様の祝福ありとする聖書の人生観とは随分異なっていると感じます。
若さはプラス、老いはマイナス。健康はプラス、衰えはマイナスと言う様な単純な区別を聖書はしていませんし、事実、若く健康な青年が疲れ果てた心を抱いていたり、体の衰えた老人が若々しい心で日々歩んでおられると言う例も多く見られるからです。
私たちの教会の50周年記念ですから、今から15年ほど前になるでしょうか。講演会にお招きした東京聖路加病院の院長である日野原先生の事が思い出されます。あの時既に90歳を越えておられた日野原先生は、未だ医師として現役の最前線。昼休みは誰よりも短く、患者の診療、後進の指導にあたる。新老人の会を立ち上げ、作曲をし、コーラスクラブをリードする。さらに多くの本を執筆し、全国を講演して歩くという多忙な毎日。今はどうかわかりませんが、その頃は、駅の階段はかばんを持ちながら、一段飛ばしで登ってゆくという元気さでした。
私の中では、四日市キリスト教会の前身である高砂集会をフォックスウェル宣教師と共に支え、信仰の大先輩、教会の母の様な存在であった水野民子姉妹のことも忘れられません。良く明治生まれの日本人は気骨があると言われますが、まさに水野姉妹はその様な人でした。
ある時、高校生会で証しをして欲しいと思い、承知して頂いたので、車で迎えに行きましょうかと申し出ると、「私は車は嫌い。バスを使って、あとは歩いてゆけるから大丈夫」と断られました。しかし、集会当日雨が降ってきたので再び電話すると、「歩くのが好きだから、大丈夫」と言われましたので、お待ちしていると、どの高校生よりも早く、涼しい顔で教会に到着されたのです。できる限り歩く、集まりには絶対に遅刻しないと言うのが水野姉妹のモットー。よく、「先生も車ばかり使っていると、年取ってから大変よ」と言われたものです。
そんな自分に厳しい水野姉妹でしたが、他人には非常に優しい方でした。80歳代で老人ホームや施設に出かけ、自分よりも若い老人たちに為にボランティアをされていましたし、道を歩いていて恵まれない人を見かけると、すぐに助けの手を差し伸べようとされたのです。大抵の場合、カバンの中に聖書か教会のトラクトをもっていて、店員の方に「私はこんなおばあちゃんですが、神様の愛を知っているので本当に幸せです。あなたも教会に来てください」と、レストランで伝道することもしばしばでした。
日野原先生と水野姉妹。充実した老年期を送るお二人には、明治生まれと言うこと以外に、もう一つの共通点があります。二人とも、聖書の神様を信じ、神様から永遠の命、人間が本来持つべき命を頂いていたということです。
Ⅱコリント4:16「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」
ここで、聖書は私たち人間の命を二つに分けています。ひとつは、「私たちの外なる人」で、肉体の生命を指します。もうひとつは、「内なる人」で、イエス・キリストを信じる者に、神様が与える人間本来の命、永遠の命を言います。これを、神様の愛を受け取り、神様と交わることのできる魂と言ってもよいかと思います。
老年期になると、誰もが肉体の衰え、健康の問題を抱えるようになります。腰がかがむ、目がかすむ、耳が遠くなる、足がおぼつかなくなる、物忘れが進む。それに加えて、心臓、血管、脳など体の内部にも問題が起こり、若い時のように、これらがなかなか回復しないのです。
そうなったら、あのグリム童話が言う如く、私たちは社会の片隅に追いやられたり、自ら引っ込んでしまうしかないのか、何の存在意味もない者のように、寂しく生きるしかないのかと言うと決して、決してそうではないと聖書は教えています。
むしろ、外なる人は衰えても、内なる人、神様が与えてくださった命は日々新たにされると言う点において、充実した老年期を送ることができると教えているのです。
ノア、アブラハム、モーセ、ヨブをはじめ、聖書には、神様に与えられたこの命を活用して、長寿を全うした人々が大勢登場します。聖書だけではありません。四日市教会にも、神様に与えられた命を日々感謝し、活用しておられる兄弟姉妹がたくさんおられます。
80歳代にして、ひとり北アルプスの高嶺に登り、神様の創造した大自然を満喫した兄弟がいます。「私は、自分のことだけを考えると、一日も早く天国に迎えてもらえたらと願っている。どうして、神さまは天国に早く呼んでくれないのかと思う時もある。しかし、こんな自分を神さまがこの世に生かして置かれるのは、『自分よりも苦しんでいる人、寂しい人のために、あなたがいるのだ。その手と足をそういう人のために使いなさい』ということだと思い、毎日を生きている。」と言い、その通りに生きておられる姉妹がいます。
70歳代で、教会の働きに仕え、その豊かな社会経験と知恵をささげてくださる兄弟もいますし、地域において人々の役に立ちたいと思い、民政委員の働きや傾聴ボランティアを続ける兄弟姉妹もいます。
私もその様な兄弟姉妹から大いに刺激を受けています。今年の夏は、本当に久しぶりですが、泊りがけで北アルプスの山に登ってきました。体力的に少し自信がなかったのですが、80歳代の兄弟の行動に励まされたからです。また、長老教会では牧師の定年について「70歳で引退することができる」と定めていますが、その年齢でなお教会を愛し、仕えられる兄弟の姿に刺激され、教会が許して下さる限り、教会を愛し、教会に仕える者でありたいと強く願うようになったのです。
四日市教会の良さは様々にありますが、その一つは間違いなく、このような敬愛すべき兄弟姉妹との交わりの中に私たちが置かれていることではないかと思います。最近、ある姉妹から言われたことがあります。「先生、四日市教会も高齢者が増えてきて大変ですね。そうした方々のお世話や葬儀のこと等、負担ではないですか。」と。しかし、私は、それぞれ尊い歩みをしてこられた兄弟姉妹を知ることを非常に嬉しく思いますし、神様に与えられた命を活用している方々との交わりを心から感謝しています。そして、私たちが皆さらにこうした兄弟姉妹との交わりを深められと願っています。
クリスチャンの詩人である星野富広さんが、「命一式」という詩を書いておられます。紹介したいと思います。「神様。新しい命一式、ありがとうございます。大切に使わせていただいておりますが、大切なあまり、仕舞い込んでしまうこともあり、申し訳なく思っています。いつも、あなたが見ていてくださるのですし、使い込めばよい味も出てくることでしょうから、安心して思いっきり使ってゆきたいと思います。」
先ほどの、聖書にありました「内なる人は日々新たにされる」と言うのは、神様が与えてくださる命は古くなったり、減ってしまうものではなく、日ごと新しい命が100%与えられるということです。イエス・キリストが尊い命を十字架にささげてもたらしてくれた命、神様が毎日100%新鮮な状態で与えてくださるこの命を、仕舞い込まずに、どんどん使えば自分らしい味が出てくると星野さんは歌っています。
星野さんは若い時に事故で首の骨を折り四肢麻痺となり、首から下が動かぬ状態のまま、口に筆をくわえて絵をかき、それに詩を添えて、人々に神様のこと、聖書のことを伝えると言うことに命を使っておられます。
神様に与えられた命を使うと書いて使命と読みます。皆様は、日々何に命を使っておられるでしょうか。何が使命でしょうか。もし、テレビを見ることや、不平不満をこぼすこと、過去を嘆くことや人の悪口を言うことに命を使っているとしたら、神様が悲しんでおられる気がします。自分の財産や健康の心配に命を使うことが主だとしたら、少しもったいない気がします。
肉体の生命は必ず衰え、終わりを迎えます。これは、私たち人間にはどうしようもできないことです。しかし、神様に与えられた決して滅びることのない永遠の命をどう使うのか。これは、私たち次第なのです。いかに年老いても、私たちを愛してくださる神様がおられることに安心しながら、この命を思い切り使い、自分なりの味を出してゆく人生。その様な人生を皆様が歩まれたらと心から願います。
最後に、その様な人生を歩むために助けとなる、聖書の人生観について見ておきたいと思います。
Ⅱコリント4:17,18「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」
体の衰え、回復しない病、様々な能力を失うこと。これら老年期に起こることがらを、聖書は患難、苦しみと呼んでいます。しかし、その様な苦しみを神様に頼り、神様の愛を受け取りつつ忍耐するなら、必ずや計り知れない、重い栄光が私たちを待っていると言うのです。老年期の苦しみが軽いと言われているのは、私たちの苦しみ、悩みの深さを神様が分かっておられないと言うことではありません。むしろ、老年期の苦しみを軽く感じるほど、私たちが将来受け取る栄光、神様の祝福は素晴らしい、想像をこえて素晴らしいと言うことなのです。
やがて私たちに与えられるのは、病むことも、死ぬこともない、完全に健康な体。私たちが身にまとうのは、きよく、罪のないイエス・キリストのご性質。私たちが暮らすのは、神様によって新しくされた平和な世界。そこで、私たちは世界中から集められた兄弟姉妹と、愛し愛される交わりと神様への礼拝を心行くまで楽しむことができる。
今、老年期の苦しみを経験しておられる方々は、いったいこの状態がいつまで続くのかと感じておられることでしょう。しかし、それはひと時のこと。私たちの心の眼をそうしたひと時の事柄に向けるのではなく、天の御国での永遠の生活に向けよと、聖書は勧めています。
この地上での健康、財産などに目を向け、心配するのに命を使っていたら、心配の種は尽きることがないでしょう。目を向け、思えば思う程、それらの心配で私たちの心は心配で満ち、日々の歩みは重苦しくなってゆきます。しかし、目を神様と永遠の御国に向けるなら、私たちの心は神様の愛に満たされ、私たちが本来暮らすべき場所を目指す旅人の思いへと変えられてゆくのです。
気持ちが悲観的になりがちな老年期。皆様がこの信仰に立ち、私の人生は今も将来も神様が守っておられるから大丈夫と安心し、楽観して、与えられた命の活用に励み、後に続く者たちを大いに励まして頂きたいと思います。
Ⅱコリント4:16「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」
ところで、「白雪姫」や「赤ずきん」で有名なグリム童話に、この様なお話があるのをご存知でしょうか。神様がロバと犬と猿それと人間に、各々の寿命を決めるというお話です。
神様が世界を造りになり、生き物たちの寿命を決めようとした時、一番先にやってきたのはロバ。ロバは「神様、私はどのぐらい生きることになりましょうか。」と尋ねます。「30年」と神様は答え、「それでよいか。」と聞き返されました。すると「ああ神様。それは長い時間です。朝から夜まで、人間のために重い荷物を運ばねばならない私の辛い暮らしを考えてください。人間からぶたれたり、けられたりして、次々と働かされる時間が30年とは長すぎます。少しでもよいですから減らしてください。』と、ロバは答えたのです。それで、神様はあわれに思い、ロバに18年の命を与えました。
ロバがほっとして立ち去ると、犬がやってきます。『お前はどのぐらい生きたいか。ロバに30年は長すぎたようだが、お前はそれで満足するか。』と、神様は言いました。それに対して、「それは神さまの思し召しでございましょうか。私がどんなに走らなければならないか、お考えください。私の足はそんなに長くは耐えられません。吠える声と、噛みつく歯をなくしたら、隅っこにひっこんで、呻るほかどう仕様がありますか。』神様は尤もと思い、犬に12年の寿命を与えました。
そのあとに続くのが猿です。『お前は30年生きたいだろうな。お前はロバや犬のように働く必要がない。それにいつも陽気だ。』と、神様は猿に声をかけます。すると,猿は『ああ神様。そう見えても、実は違うんです。みんなを笑わすために、私はいつもおかしなまねをしたり、顔をしかめたりするんです。りんごをもらって、かみつくと、すっぱいのです。ふざけている陰では、どんなに悲しい思いをしていることでしょう。30年なんて我慢できません。』そこで神様は恵み深く、猿に十年の寿命を命を与えます。
最後に人間があらわれます。人間は気負っていて、健康で、元気。神様が「30年の寿命で十分か」と尋ねると、「何て短い時間でしょう。それでは、自分の家を建てて、かまどに火を燃やし、庭に木を植えて、それが花を開き、実を結び、自分の暮らしを楽しもうと思ったら、死ななきゃならないじゃあないですか。私の寿命をもっと延ばしてください。」と願いました。
それに対し、「ロバの18年を足してやろう。」と神様が言うと、「それでは足りません。」と人間は答える。「犬の12年もお前にやる。」と言えば、「まだまだ少なすぎます。」と答えるので、「よろしい、猿の10年もお前にやろう。だが、それ以上はもらえないぞ。」と神さまは言い、漸く人間は立ち去りますが、満足してはいませんでした。
こうして、人間に与えられた寿命は七十年。初めは人間の年月で、そのあいだ人間は健康で明るく、喜んで仕事をし、生活を楽しみますが、30年はたちまち過ぎ去ります。その後はロバの18年で、人のために重荷を負わされ、苦労して働かねばなりません。それから犬の12年が来ると、隅っこに追いやられ、呻るばかりで、物をかむ歯もないと言う有様。それが過ぎると、猿の10年でその時、人間は頭が弱り、耄碌して、間の抜けたことをやって子どもの笑いものになる。この様な、お話です。
人生で最も良い時期は最初の30年で、誕生から少年期、青年期まで。後は様々な重荷を負い労苦しなければならない中年期。そして、体が衰えて社会の片隅に追いやられ、最後は耄碌して、若者に笑われる老年期。その様な人生観を表す物語ですが、皆様はどう思われたでしょうか。
体も知能も日々成長する少年期、一般的には体も精神も健やかな青年期を人生の最盛期とし、それ以降、特に老年期を否定的に見るこの様な人生観は、人生の各々の時期に神様の祝福ありとする聖書の人生観とは随分異なっていると感じます。
若さはプラス、老いはマイナス。健康はプラス、衰えはマイナスと言う様な単純な区別を聖書はしていませんし、事実、若く健康な青年が疲れ果てた心を抱いていたり、体の衰えた老人が若々しい心で日々歩んでおられると言う例も多く見られるからです。
私たちの教会の50周年記念ですから、今から15年ほど前になるでしょうか。講演会にお招きした東京聖路加病院の院長である日野原先生の事が思い出されます。あの時既に90歳を越えておられた日野原先生は、未だ医師として現役の最前線。昼休みは誰よりも短く、患者の診療、後進の指導にあたる。新老人の会を立ち上げ、作曲をし、コーラスクラブをリードする。さらに多くの本を執筆し、全国を講演して歩くという多忙な毎日。今はどうかわかりませんが、その頃は、駅の階段はかばんを持ちながら、一段飛ばしで登ってゆくという元気さでした。
私の中では、四日市キリスト教会の前身である高砂集会をフォックスウェル宣教師と共に支え、信仰の大先輩、教会の母の様な存在であった水野民子姉妹のことも忘れられません。良く明治生まれの日本人は気骨があると言われますが、まさに水野姉妹はその様な人でした。
ある時、高校生会で証しをして欲しいと思い、承知して頂いたので、車で迎えに行きましょうかと申し出ると、「私は車は嫌い。バスを使って、あとは歩いてゆけるから大丈夫」と断られました。しかし、集会当日雨が降ってきたので再び電話すると、「歩くのが好きだから、大丈夫」と言われましたので、お待ちしていると、どの高校生よりも早く、涼しい顔で教会に到着されたのです。できる限り歩く、集まりには絶対に遅刻しないと言うのが水野姉妹のモットー。よく、「先生も車ばかり使っていると、年取ってから大変よ」と言われたものです。
そんな自分に厳しい水野姉妹でしたが、他人には非常に優しい方でした。80歳代で老人ホームや施設に出かけ、自分よりも若い老人たちに為にボランティアをされていましたし、道を歩いていて恵まれない人を見かけると、すぐに助けの手を差し伸べようとされたのです。大抵の場合、カバンの中に聖書か教会のトラクトをもっていて、店員の方に「私はこんなおばあちゃんですが、神様の愛を知っているので本当に幸せです。あなたも教会に来てください」と、レストランで伝道することもしばしばでした。
日野原先生と水野姉妹。充実した老年期を送るお二人には、明治生まれと言うこと以外に、もう一つの共通点があります。二人とも、聖書の神様を信じ、神様から永遠の命、人間が本来持つべき命を頂いていたということです。
Ⅱコリント4:16「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」
ここで、聖書は私たち人間の命を二つに分けています。ひとつは、「私たちの外なる人」で、肉体の生命を指します。もうひとつは、「内なる人」で、イエス・キリストを信じる者に、神様が与える人間本来の命、永遠の命を言います。これを、神様の愛を受け取り、神様と交わることのできる魂と言ってもよいかと思います。
老年期になると、誰もが肉体の衰え、健康の問題を抱えるようになります。腰がかがむ、目がかすむ、耳が遠くなる、足がおぼつかなくなる、物忘れが進む。それに加えて、心臓、血管、脳など体の内部にも問題が起こり、若い時のように、これらがなかなか回復しないのです。
そうなったら、あのグリム童話が言う如く、私たちは社会の片隅に追いやられたり、自ら引っ込んでしまうしかないのか、何の存在意味もない者のように、寂しく生きるしかないのかと言うと決して、決してそうではないと聖書は教えています。
むしろ、外なる人は衰えても、内なる人、神様が与えてくださった命は日々新たにされると言う点において、充実した老年期を送ることができると教えているのです。
ノア、アブラハム、モーセ、ヨブをはじめ、聖書には、神様に与えられたこの命を活用して、長寿を全うした人々が大勢登場します。聖書だけではありません。四日市教会にも、神様に与えられた命を日々感謝し、活用しておられる兄弟姉妹がたくさんおられます。
80歳代にして、ひとり北アルプスの高嶺に登り、神様の創造した大自然を満喫した兄弟がいます。「私は、自分のことだけを考えると、一日も早く天国に迎えてもらえたらと願っている。どうして、神さまは天国に早く呼んでくれないのかと思う時もある。しかし、こんな自分を神さまがこの世に生かして置かれるのは、『自分よりも苦しんでいる人、寂しい人のために、あなたがいるのだ。その手と足をそういう人のために使いなさい』ということだと思い、毎日を生きている。」と言い、その通りに生きておられる姉妹がいます。
70歳代で、教会の働きに仕え、その豊かな社会経験と知恵をささげてくださる兄弟もいますし、地域において人々の役に立ちたいと思い、民政委員の働きや傾聴ボランティアを続ける兄弟姉妹もいます。
私もその様な兄弟姉妹から大いに刺激を受けています。今年の夏は、本当に久しぶりですが、泊りがけで北アルプスの山に登ってきました。体力的に少し自信がなかったのですが、80歳代の兄弟の行動に励まされたからです。また、長老教会では牧師の定年について「70歳で引退することができる」と定めていますが、その年齢でなお教会を愛し、仕えられる兄弟の姿に刺激され、教会が許して下さる限り、教会を愛し、教会に仕える者でありたいと強く願うようになったのです。
四日市教会の良さは様々にありますが、その一つは間違いなく、このような敬愛すべき兄弟姉妹との交わりの中に私たちが置かれていることではないかと思います。最近、ある姉妹から言われたことがあります。「先生、四日市教会も高齢者が増えてきて大変ですね。そうした方々のお世話や葬儀のこと等、負担ではないですか。」と。しかし、私は、それぞれ尊い歩みをしてこられた兄弟姉妹を知ることを非常に嬉しく思いますし、神様に与えられた命を活用している方々との交わりを心から感謝しています。そして、私たちが皆さらにこうした兄弟姉妹との交わりを深められと願っています。
クリスチャンの詩人である星野富広さんが、「命一式」という詩を書いておられます。紹介したいと思います。「神様。新しい命一式、ありがとうございます。大切に使わせていただいておりますが、大切なあまり、仕舞い込んでしまうこともあり、申し訳なく思っています。いつも、あなたが見ていてくださるのですし、使い込めばよい味も出てくることでしょうから、安心して思いっきり使ってゆきたいと思います。」
先ほどの、聖書にありました「内なる人は日々新たにされる」と言うのは、神様が与えてくださる命は古くなったり、減ってしまうものではなく、日ごと新しい命が100%与えられるということです。イエス・キリストが尊い命を十字架にささげてもたらしてくれた命、神様が毎日100%新鮮な状態で与えてくださるこの命を、仕舞い込まずに、どんどん使えば自分らしい味が出てくると星野さんは歌っています。
星野さんは若い時に事故で首の骨を折り四肢麻痺となり、首から下が動かぬ状態のまま、口に筆をくわえて絵をかき、それに詩を添えて、人々に神様のこと、聖書のことを伝えると言うことに命を使っておられます。
神様に与えられた命を使うと書いて使命と読みます。皆様は、日々何に命を使っておられるでしょうか。何が使命でしょうか。もし、テレビを見ることや、不平不満をこぼすこと、過去を嘆くことや人の悪口を言うことに命を使っているとしたら、神様が悲しんでおられる気がします。自分の財産や健康の心配に命を使うことが主だとしたら、少しもったいない気がします。
肉体の生命は必ず衰え、終わりを迎えます。これは、私たち人間にはどうしようもできないことです。しかし、神様に与えられた決して滅びることのない永遠の命をどう使うのか。これは、私たち次第なのです。いかに年老いても、私たちを愛してくださる神様がおられることに安心しながら、この命を思い切り使い、自分なりの味を出してゆく人生。その様な人生を皆様が歩まれたらと心から願います。
最後に、その様な人生を歩むために助けとなる、聖書の人生観について見ておきたいと思います。
Ⅱコリント4:17,18「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」
体の衰え、回復しない病、様々な能力を失うこと。これら老年期に起こることがらを、聖書は患難、苦しみと呼んでいます。しかし、その様な苦しみを神様に頼り、神様の愛を受け取りつつ忍耐するなら、必ずや計り知れない、重い栄光が私たちを待っていると言うのです。老年期の苦しみが軽いと言われているのは、私たちの苦しみ、悩みの深さを神様が分かっておられないと言うことではありません。むしろ、老年期の苦しみを軽く感じるほど、私たちが将来受け取る栄光、神様の祝福は素晴らしい、想像をこえて素晴らしいと言うことなのです。
やがて私たちに与えられるのは、病むことも、死ぬこともない、完全に健康な体。私たちが身にまとうのは、きよく、罪のないイエス・キリストのご性質。私たちが暮らすのは、神様によって新しくされた平和な世界。そこで、私たちは世界中から集められた兄弟姉妹と、愛し愛される交わりと神様への礼拝を心行くまで楽しむことができる。
今、老年期の苦しみを経験しておられる方々は、いったいこの状態がいつまで続くのかと感じておられることでしょう。しかし、それはひと時のこと。私たちの心の眼をそうしたひと時の事柄に向けるのではなく、天の御国での永遠の生活に向けよと、聖書は勧めています。
この地上での健康、財産などに目を向け、心配するのに命を使っていたら、心配の種は尽きることがないでしょう。目を向け、思えば思う程、それらの心配で私たちの心は心配で満ち、日々の歩みは重苦しくなってゆきます。しかし、目を神様と永遠の御国に向けるなら、私たちの心は神様の愛に満たされ、私たちが本来暮らすべき場所を目指す旅人の思いへと変えられてゆくのです。
気持ちが悲観的になりがちな老年期。皆様がこの信仰に立ち、私の人生は今も将来も神様が守っておられるから大丈夫と安心し、楽観して、与えられた命の活用に励み、後に続く者たちを大いに励まして頂きたいと思います。
Ⅱコリント4:16「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」
2014年9月7日日曜日
ヨハネの福音書14章22節~31節 「わたしの平安を与えます」
私たちは今、ダビンチの絵で有名な最後の晩餐、その席上でイエス・キリストが弟子たちに対して語られた惜別説教、別れの説教を読み進めています。
今まで頼りにしてきたイエス様がこの世を去りゆくことを悲しみ、不安に揺れる弟子たち。その様な弟子たちのため、「わたしが世を去ることは、あなたがたにとって祝福となり、益となるのだよ」と語るイエス様の姿が描かれる場面です。親が愛する子どものもとを離れる際そうするように、イエス様のことばは優しく、思い遣りに満ちていました。
これまでのところ、ご自分がこの世を去ることは、二つの点で弟子たちの祝福、また益となることをイエス様は教えられました。ひとつは、世を去って天に行くイエス様が彼らのために天に住まいを準備すること。ふたつめは、天に行くイエス様が天の父に願い、もう一人の助け主、聖霊を与えてくださるということでした。
天には、父なる神様とともに永遠に暮らすことのできる住まいを与えられ、この世においては、イエス様の代わりに助け主の聖霊が与えられる。二つの祝福を頂くことができると知った弟子たちはどれ程安心したことかと思われます。
しかし、ここにまたひとりの弟子が声をあげます。イスカリオテではないユダ、イエス様を裏切るため、先程晩餐の席を立っていったあのユダではないもうひとりのユダ。他の福音書では、タダイと呼ばれる弟子でした。
ペテロ、ピリポに続いてもうひとりのユダも発言する。イエス様が、いかに心を騒がす弟子たちの思いを十分聞き、受けとも、丁寧に答えられたか。イエス様にとって彼らがいかに大切な存在であったかが伺われるところです。
14:22 イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」
天に用意される永遠の住まいのこと、もうひとりの助け主聖霊のこと。ユダは、自分たちにはこれ程詳しく、親切に話してくださるイエス様が、何故もっと広く人々の前に姿を現し、ご自分の思いを話そうとしないのか、不思議に感じたのでしょう。
しかし、イエス様はこれまでそのわざと教えを通して、十分ご自分を世の人に示し、現してこられました。それなのに、世の人々がイエス様を救い主として受け入れようとはしなかったと言うのが実情なのです。その原因は、人々が心にご自分への愛を欠いていたことと、イエス様は言われます。
14:23、24 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。
私たちが自分の思いを伝えたい、自分をもっと知ってもらいたいと思う人とは、どのような人でしょうか。自分を愛し、信頼してくれる人、自分に心開いてくれる人ではないでしょうか。逆に、自分に対して心閉ざしている人に対しては、どんなに伝えたいと思っても伝わらない壁、もどかしさを感じてしまいます。
イエス様も同じでした。これまで力を尽くして教え、多くのわざをなしても、ユダヤの宗教指導者、都の人々など、ご自分に対して心閉ざす人々の反応は反発、嘲り、憎しみばかり。イエス様が天の父から世に遣わされた救い主であることを認めようとはしませんでした。
しかし、その様な人々に対して感じておられたであろうもどかしさを、弟子たちには覚えることなく、ご自分の思い、ご自分の死の意味、ご自分の計画など、彼らの益になることを十分語ることができると言われたのです。何故なら、彼らはイエス様を愛しており、イエス様を愛する者は天の父に愛され、天の父とイエス様がその心に住んでくださるからでした。
それにしても、ここでイエス様が、弟子たちのうちに愛ありと認めてくださるとは思いもかけないことです。ご存知のように、この直後イエス様が逮捕されるや弟子たちは逃げ去り、ペテロは大祭司の庭で「イエスなど知らない」と誓う始末。彼らのイエス様への愛は本当に弱いものであることが明らかになります。
イエス様の弟子たちに対する愛の巨大さに比べれば、弟子たちのイエス様に対する愛など吹けば飛ぶような小さなもの。しかし、それをよく知りながら、彼らをご自分を愛する者と信頼し、大切な思いや計画を話してくださったイエス様。このイエス様のお姿は、私たちにとっても慰めではないでしょうか。
山よりも高く海よりも深いイエス様の愛を思う時、イエス様に対する私たちの愛など、愛と呼んでいただく価値が本当にあるのかどうか。それなのに、イエス様ときたら、その様な私たちを信頼し、みことばを通して私たちにご自分を示し、思いを伝えてくださる。私たちの愛がいかに小さくとも、それに目を留め、天の父とともに親しい交わりの相手として接してくださる。私たちも、弟子たちと同じ恵みを受けていることを覚え、イエス様との交わりを充実させてゆきたいと思います。
しかし、イエス様と弟子たち、私たちの交わりがさらに豊かになるためには、どうしても聖霊の助けが必要と、イエス様は繰り返し、語られます。
14:25、26 このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
イエス様がこれまで教えられたことばを弟子たちが思い起こし、その真の意味を理解し、自分のものとするためには聖霊の助けが欠かせないと、イエス様は強調されました。
これは私たちにも当てはまる真理です。果たして、私たちは聖書を読む際、聖霊の助けと導きを願い求めているでしょうか。聖書のことばを天の父やイエス様からの語りかけとして聞くことができるよう助けてくださいと、祈って来たでしょうか。折角、イエス様が願い、天の父が与えてくださった聖霊。聖霊の神様に信頼する歩みをしてゆきたいと思います。
そして、今日の箇所のハイライト。天に用意された永遠の住まい、もうひとりの助け主である聖霊についで、イエス様が私たちに与えてくださる三つ目の祝福です。
14:27~29 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。 『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。
イエス様が「あなたがたに残します」と言われた平安は、ヘブル語でシャローム。平安、平和と言う意味があります。ユダヤ人が「こんにちは」「さようなら」と言いかわす際の、ごく日常的な挨拶のことばともなっています。しかし、もともとは神様の与えてくださる平安、神様との間の平和という宗教的な意味があり、人間が心満たされた状態を指すとも考えられてきました。
イエス様が与えてくださる平安、シャロームは、「わたしの平安」とも「それはこの世が与えるものとはちがう」と言われていますから、普通私たちが考える平安とはちがうもの、イエス様だけが与えることのできる平安ということになります。
それでは、私たちは普通どのような状態を平和と考えるでしょうか。何によって満たされる時平安を感じるでしょうか。国と国との関係で言えば戦争のない状態。人間関係で言えば争いのない状態を平和と考えます。また、急かされる仕事がなく、のんびりと時間を過ごすことができた時、「今日は平和な一日だった」と感じます。
また、体が健康で満たされた状態、物質的豊かさで満たされた状態、努力を重ね、度量句を重ねてあることを成し遂げた結果、人の評価や賞賛で満たされる時、平安を感じると言う人もいることでしょう。あるいは、愛し合う夫婦、気の合う友人同士など、一緒にいるだけで相手の存在に満たされて平安と言う場合もあるかと思います。
どれもこれも良いこと、願わしいことばかりです。しかし、これらの平和、平安の多くは、その状態に達すること自体が難しく、稀であり、仮に実現しても、それは一時的なもの、長くは続かないと言う問題点があります。
また、ある人にとっての平和、平安が他の人にとっては苦しみ,恐れとなったり、平和、平安を追い求めること自体が争いを生むと言うことも稀ではありません。さらに、一旦手にした物質的豊かさや成功、人々の賞賛は、私たちの心に「これをいつ失ってしまうのか」と言う恐れや、「もっとそれが欲しい」と言う焦りを起こさせることがあります。ですから、将来への不安、健康の不安、経済的な不安、仕事を成し遂げられるかどうかと言う不安、人の評価を受けられるかどうかと言う不安など、様々な不安から私たちは逃れることができないと言う状態にあるのです。
人間は、真の平安の与え手である神様にではなく、他のものに平安を求めることで失敗を繰り返してきました。イエス様の眼から見ると、その様な人間が、弟子たちがかわいそうで仕方がない。だからこそ、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」と、約束されたのです。
やがて、ペンテコステで聖霊が下った際、「それが起こった時に、あなたがたがわたしの話したことを信じるために」と言われた通り、弟子たちは、十字架と復活の意味を理解し、イエス・キリストを心から信頼する者に変えられます。彼らの置かれた状況は非常に厳しく、心騒がせること、恐れることがしばしば起こりました。しかし、イエス・キリストの平安を受けとった彼らは心騒がせることはあっても、気落ちしてしまうことも、恐れに捕われてしまうこともなく、前進してゆくことになります。
なお、「父はわたしよりも偉大です。」とあるのは、イエス様が心からの尊敬を天の父に抱いておられたことを示すことばであり、ご自身が天の父と等しい神であることを否定するものではありませんでした。むしろ、イエス様と天の父が強い愛で結ばれていることを教えられるところです。
こうして、改めてご自身の平安を与えることを使命と覚えたイエス様は、目前に迫る十字架の死を思い、それを阻止せんとするこの世の君、サタンとの対決に臨もうとされます。
14:30、31 わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません。しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行なっていることを世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。
「彼はわたしに対して何もすることはできません。」毅然として、十字架への道を進まんとするイエス様の姿が目に浮かびます。この後、イエス様の気持ちを挫くような出来事が次々に起こります。ユダがイエス様を捕えるため、兵士や役人を引き連れてきたこと、弟子たちは離れ去り、ペテロがイエス様との関係を否定したこと、ユダヤ教指導者による偽りの裁判、十字架上のイエス様に向けられた人々の非難や嘲りのことば、そして、天の父なる神様から見捨てられ、さばかれること。
これらすべては、イエス・キリストが人類の罪を贖うことを阻止しようとする、この世の君、サタンの誘惑でした。しかし、その様な最低、最悪の境遇に置かれながら、天の父なる神様との愛の関係に支えられ、イエス様は十字架への道を進みゆこうとされたのです。
最後に、十字架の死と言う尊い犠牲を払ってまで、イエス・キリストが私たちに与えようとされた平安、弟子たちが確かに受け取り、イエス・キリストを信じる者が皆受け取ることのできると約束された平安とはどのようなものなのでしょうか。今日の聖句をご一緒に読んでみたいと思います。
ローマ5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
ここで、聖書は主イエス・キリストによって、私たちは神との平和を持っていると語っていますが、それはどういう意味なのでしょうか。聖書によれば、私たちはみな神様の前に罪人です。しかし、罪人である人間を愛してやまない神様は、いかにして罪人を赦すと同時に、ご自分が義でありつづけることができるか。人間的な表現を使えば、この問題に神様は苦心されたのです。
その答えは、神様がご自分の御子をこの世に遣わし、私たちのすべての罪を御子イエス様の上に置き、罪に対する御怒りをイエス様の上に注ぎだされるということでした。神は、このことによって、私たちの罪を赦し、私たちへの怒りを和らげてくださったのです。その上、なお罪を持つままの私たちを義なる者、神の子として受け入れてくださいました。最早神様の側に御怒りはひとつもなく、100%の愛が存在するだけなのです。
そして、イエス・キリストの死をこの様に理解し、信じる時、私たちの心からも、神様への恐れが消え去り、神様と和らぎ、心から安心することができる。お父さんの胸に抱かれた子どもがそうであるように、私たちも神様を父と仰いで、深い平安を覚えることができるのです。この様な、絶対に壊れることのない安全、安心な関係に置かれることを、聖書は神様との平和と呼んでいました。
私たちが人生の土台とすべき平安はここにあります。私たち人間は自分の努力で、このような平安を作り出すことはできません。ただ、イエス・キリストの十字架の死の意味をみことばに従って理解し、それを信じる時、私たちは神様との平和に導かれ、真の平安を得ることができるのです。
イエス様の弟子たちも、不安に陥り、恐れを覚える時、イエス様の十字架を思って、この神様との関係に帰り、そこで受け取る平安により、厳しい現実に立ち向かってゆきました。人生で何が起ころうとも、世界を創造した神様との間に平和な関係があるなら大丈夫。イエス様が十字架の死を通して与えてくださった尊い平安を土台にして、私たちあらゆることを考え、活動する。日々、その様な歩みができたらと思います。
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