2014年9月21日日曜日

ヨブ記42章節~6節 「一書説教」 ~主が主である~ 

 一般論として、現代日本人の宗教についての考え方、信仰についての考え方は、生活の一分野、趣味のこととして捉える人が多いと言われます。宗教や信仰というのは、心の平安を得るためのもの。物事を円滑に進めるためのもの。その宗教を信仰していて、自分にとって良ければ信じる。自分にとって良くなければ信じない、という考え方です。(当然のことですが、日本人にも強い信仰心をもって宗教生活を送っている人もいます。)
 私たちの信仰はどのようなものでしょうか。聖書の神様に対する信仰を持ち、順調な時は良いのです。神様に従っても、良い事無し。信仰を持ったら余計に大変なことが増えた、と感じる時に、私たちはどのような態度をとるでしょうか。神様が神様であるから信じているのか。神様ご自身を喜ぶ信仰なのか。それとも、神様の恵み、賜物だけを喜び、苦境の際には、熱心が冷める信仰でしょうか。
 この点を徹底的に試された人がいます。旧約の信仰の偉人ヨブ。これ以上ない程の苦境に晒されて、ヨブの信仰が露わにされていく様がヨブ記に記されました。断続的に行ってきた一書説教、第十八回目、今日はこのヨブ記を扱うことになります。神様とヨブの姿から、信仰とは何か。神様はどのようなお方で、その方の前で私たちはどのような存在なのか。改めて確認することが出来るようにと願っています。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。

 全四十二章に渡るヨブ記、最初と最後に散文がありますが、中心はヨブと友人、あるいは神様の語り言葉。それも詩で記された会話です。戯曲、詩劇構成となっていて、これまで読み進めてきた歴史書と印象が大きく変わります。聖書はどの書も神の言葉。この点で優劣を付けることは出来ませんが、文学作品という視点で見る時、ヨブ記は人類最高の傑作の一つと言われます。果たして自分に、読み解く力があるのかと、怖じ気づきますが、祈りながら、聖霊なる神様に頼りながら、読み進めていきたいのです。

 中心は、詩劇構成となっている登場人物の会話部分ですが、その内容がどのような場面で語られたものなのか。最初の一、二章に記されます。(この一、二章が散文です。)
 ヨブ記1章1節~3節
「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。」

 この書の中心人物、ヨブの人となりが紹介されます。息子七人、娘三人、多数のしもべと家畜たち。子宝も財産も持ち合わせた、東一番の富豪。しかも、潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていたと、その人格、信仰においても落ち度のない傑出した人物。
 このヨブについて、驚くことに神様とサタンの会話がなされるのです。
 ヨブ記1章8節
「主はサタンに仰せられた。『おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。』」

 ここに神様がヨブを「潔白で正しい」と評しています。欠けのない、正しい人。これは、どのような意味でしょうか。間違いのない人間、罪のない人間という意味でしょうか。そうではないはずです。何しろ聖書自体が、全ての人が罪を犯していると言います。それでは、神様がなしているヨブの評価、「潔白で正しい」とはどのような意味でしょうか。それは続くサタンの言葉により、考えることが出来ます。

 ヨブ記1章9節~11節
「サタンは主に答えて言った。『ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。』」

 サタンが言ったことは、「ヨブと言えども、ただで信仰生活を送っているのではないのです。あなたがヨブを祝福し、良い状態にあるから神を恐れる生活をしているのでしょう。ヨブとて、その財産が失われたら、あなたを呪うでしょう。」です。
 これが、「潔白で正しい」と言われたヨブを貶める言葉でした。つまり、「潔白で正しい」という意味は、順調な時だけ神様を信じる信仰ではない。ご利益信仰ではない。神様が神様であるから。主が主であるから信じる信仰の持ち主という意味と考えられます。
 私たちの信仰は、全くのご利益信仰ということはありませんが、同時に、神様が神様であるから信じるという信仰にいつも立てているわけではありません。正しく神様に向き合うことが出来る時もあれば、状況に左右されることもある。この点、ヨブはその時代、他にいないと言われるほど、状況に左右されることなく、正しく神様を恐れる人物でした。

 このヨブに対して、激しい試練が下ることになります。一つ目の試練は、略奪、殺害、自然災害(雷、大風)にて、瞬時のうちに、財産と子どもたちが失われたという出来事。大悲劇です。聖書を読む私たちは、事もなげに数行で読み終える内容ですが、これを実際に味わうとしたら、どれだけのことかと思います。あまりの悲劇の大きさに、想像することも難しい。神様に対する信仰の無い者であれば、この出来事を前にして絶望するでしょう。信仰がある者は、なぜ神はこのようなことを許されるのか。神はいるのか。神は愛なのか、と苦悶するところ。ところが、この出来事に遭遇したヨブは、この中で一際輝く信仰告白をします。実に有名な言葉。

 ヨブ記1章20節~21節
「このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』」

 状況に左右されることなく、正しく神を恐れるヨブの姿に圧倒されます。自分の幸、不幸に関わらず、神様が神様だから信じる。主が主であるから拝するという姿。神中心の信仰。絶対的信仰。いや、これが信仰ということなのかと教えられます。ヨブのこの告白を前にする時に、自分の信仰生活がいかに自分中心だったか。いかに状況に左右されるものだったかと反省させられます。
 ところが、ヨブへの試練はこれで終わりではありませんでした。続けて、ヨブ自身がひどい病になる。全身を悪性の腫物で覆われます。その姿に、ヨブの妻は度を失い、友人たちはそれがヨブだと見分けられない状況。この状況にあっても、ヨブの告白は光ります。
 ヨブ記2章10節
「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」

 これ程の悲劇の中にあっても、その信仰は損なわれなかった。不幸の最中でも神の主権を仰ぎみて、なおも神様を信じるヨブ。神様より「潔白で正しい」と言われたヨブの信仰は、この状況でも変わらなかったのです。
 こうして、先に話されていた神様とサタンのやりとりの中で、ヨブに対する評価は神様の言われていた通り。サタンの評価は間違っていたことが明らかになった。ヨブ記はこれで終わりと言いたいところですが、ここからが本論となるのです。

 悲劇の最中にいるヨブのところに友人が来ます。主だった友人は三人。慰めに、励ましに来たはずの友人が、ヨブの姿を見るとあまりのことに声を失い、七日間誰も声を上げなかったと言います。その後、ヨブが苦しみを口にすると、それを皮切りにヨブと友人との討論が始まります。その討論は詩劇形式、韻文。まずは、ヨブの嘆きの声を確認します。
 ヨブ記2章13節~3章3節
「こうして、彼らは彼とともに七日七夜、地にすわっていたが、だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである。その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。ヨブは声を出して言った。私の生まれた日は滅びうせよ。『男の子が胎に宿った。』と言ったその夜も。」

 痛切極まりない叫び。生まれた日を呪うとは、これ以上ない苦しみの表現です。この冒頭の叫び以降、三章は重苦しいヨブの苦しみの声が響き続けます。
 ところでヨブ記を読む上で、この時のヨブの嘆きの本質は何か、よく理解することが重要と言われます。ヨブにとって、生まれた日を呪う程の苦しみとは何でしょうか。神様が神様だから拝するという信仰の持ち主。子ども、財産を一度に失うも、主は与え、主はとられる、主の御名はほむべきかな、と賛美した信仰者。重大な病の中にあっても、わざわいをも受けなければならない、と告白した人物。このヨブにとって、生まれた日を呪う程の苦しみとは何か。大きな悲劇を味わった時に、なおも神様を賛美していたヨブが、友が来て七日間の沈黙の後、苦しみを吐き出しました。何故なのか。
 この七日間にヨブに何か起こったのでしょうか。何も起こらなかった。この何も無かったことがヨブを苦しめているのだと思います。つまり、神様からの応答が何もなかったのです。悲劇の中で、ヨブは神様を賛美し、その信仰を失わずにいました。ところが、神様から何の応答もない。七日間の沈黙は、ヨブと友人だけのものではなく、神様も沈黙されていた。そのため、神様との関係が失われていると感じたのです。それまで許されていた神様との親しい関係が、失われたと感じたヨブは苦しみの叫び声を上げるのです。
 このヨブの苦しみ。神様からの答えがない。神様との交わりが失われたと感じる悲しみは、ヨブの言葉の色々なところで表現されていますが、例えば次のような言葉があります。
 ヨブ6章8節~10節
「ああ、私の願いがかなえられ、私の望むものを神が与えてくださるとよいのに。私を砕き、御手を伸ばして私を絶つことが神のおぼしめしであるなら、私はなおも、それに慰めを得、容赦ない苦痛の中でも、こおどりして喜ぼう。私は聖なる方のことばを拒んだことがないからだ。」

 神様からの語りかけが、私を砕き、私を絶つというものであっても、それでも神様からの応答があることが嬉しい。語られる内容がどうであろうとも、神様が語って下さることに慰めを得、こおどりして喜ぶ、というのです。ヨブにとって、神様からの答えがないと感じることがどれほど苦しいことなのか。

 このようなヨブの苦しみに対して、友人たちが語りかけます。ヨブ記の本論は、この友人たちとヨブのやりとり。基本的に友人たちは、ヨブの苦しみは、家族や財産、健康を失ったことにあると理解し、それを取り戻すためには、己の罪を認めて、神様を呼び求めるようにとの勧め。
「己の罪を認め、神様を呼び求める。」この勧めはある意味で、とても聖書的です。そのため、ヨブの友人たちの言葉は、聖書的に正しい言葉のように読めるところが多数あります。しかし、ヨブ記の文脈においては、友人たちの言葉は、ヨブの苦しみの本質を理解せずに語りかけていること。更に言うと、失ったものを取り戻すために、罪を告白し神様に呼び求めるというのは、神様が神様だから信じる信仰とは異なると言えます。もし、ヨブがこの友人たちの言葉を聞きいれた上で、罪を告白し、神様を呼び求めるとしたら、失ったものを取り戻すために神様を拝する者となってしまう。
 そのため、部分的には正しく見えるヨブの友人たちの言葉ですが、最終的に神様から、次のように言われています。
 ヨブ記42章7節
「さて、主がこれらのことばをヨブに語られて後、主はテマン人エリファズに仰せられた。『わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。』」

 このようなヨブの嘆きと、友人たちの思いを把握した上で、是非とも、その討論を耳にして下さい。主な友人は三人。エリファズ、ビルダデ、ツォファルの順に語りますが、それぞれにヨブが答えていくので、「エリファズ、ヨブ」「ビルダデ、ヨブ」「ツォファル、ヨブ」と討論が展開し、この順番での討論が三周あります。長い長い討論。(三回目は、ツォファルは語らず。またこの三人との討論の後、エリフという人物が登場し、意見を述べます。ヨブがエリフと討論しないため、エリフの意見だけが記録されています。今回の説教では、エリフについては扱いません。)

 非常に長い討論を経て、ヨブにしろ友人にしろ、その意見が出尽くしたところで、最後に神様からヨブに対する語りかけが記されます。三十八章から四十一章まで、四章に渡る神様からの答え。大きな悲劇の中、それでも信仰を失わず、何よりも神様との交わりが失われたのではないかと戸惑い恐れているヨブに対して、神様は何をどう語られるのか。注目の場面。
何故、ヨブにあの悲劇が起こったのか、その意味を語られるのか。ここまで沈黙していた理由が明らかにされるのか。読者の私たちも、神様がどのように答えられるのか知りたいと思うところ。しかし、ここで神様が語られたのは、誰がこの世界の造り主であり、支配者であるのかということ。それも、質問のかたちをとった言葉です。「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。」(38章4節)とか、「あなたは海の源まで行ったことがあるのか。」(38章16節)とか、「あなたが馬に力を与えるのか。その首にたてがみをつけるのか。」(39章19節)などなど。宇宙、天体、陸、海、氷雪、更には動物。これらを造り支配しているのは誰か、との問いが繰り返し発せられるのです。
 なぜ、あの悲劇の理由を語られなかったのか。なぜ、ここまで沈黙していた理由を明らかにされなかったのか。なぜ、誰が世界の造り主であり、支配者であることを今一度語られたのでしょうか。それは、神が神であるから。主が主であるから信じるという信仰を、神様も求めていたからでしょう。悲劇の理由が語られ、納得出来たら信じるというのではない。起こりくる出来事に納得出来なくても、神様を信じるかどうか。

 ヨブはこの全四章に渡る神様からの語りかけに、次のように応答しています。
 ヨブ記42章1節~6節
「ヨブは主に答えて言った。あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。どうか聞いてください。私が申し上げます。私はあなたにお尋ねします。私にお示しください。私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」

 神様を前にこれ以上ない程、遜るヨブの姿です。自分の身にふりかかった大苦難は、何故だったのか。苦しみの最中にいる時、神様が沈黙されていたのは何故だったのか。その答えはなく、出来事に対する納得はないでしょう。その上、依然として、全てを失い、病の中にいるヨブ。それでも、ここに満ち足りているヨブの姿を見ることが出来ます。ヨブにとって最も大事なことは、苦難でもなく、その理由でもなく、神様との交わりでした。この点で、ヨブにとって神様の語りかけは十分。神様がどのようなお方で、自分がどのような存在なのか、よくよく分かったことで満足するヨブの姿に、潔白で正しいと評された見事さを見る気がします。
 なお、四十二章のこのヨブの言葉までが韻文で、ここから散文に戻り、その後のことが短くまとめられています。神様がヨブを元通りにし、所有物を二倍にされ、ヨブはその後長寿を全うした、とです。大団円、ハッピーエンドで締めくくられます。

 以上、大ヨブ記でした。正直に言いまして、今回ヨブ記の一書説教を取り組むのに、だいぶ苦しみました。調べれば調べる程、ヨブ記の奥深さに圧倒される思いがしました。一回の説教で何とかなるものではないと何度も思いましたし、今の段階でも不十分な気がしますが、これにて一書説教ヨブ記は終わりとなります。後は是非、ヨブ記を読んで頂ければと思います。自分がヨブの立場であれば、神様に対してどのような態度をとったか。ヨブが苦しみの最中にいる時、神様はどのような思いでおられたのか。考えながら読み進めること。そして、神が神であるから信じる。主が主であるから従うという信仰を、神様に求めることに取り組みたいと思います。