私たちは今、ダビンチの絵で有名な最後の晩餐、その席上でイエス・キリストが弟子たちに対して語られた惜別説教、別れの説教を読み進めています。
今まで頼りにしてきたイエス様がこの世を去りゆくことを悲しみ、不安に揺れる弟子たち。その様な弟子たちのため、「わたしが世を去ることは、あなたがたにとって祝福となり、益となるのだよ」と語るイエス様の姿が描かれる場面です。親が愛する子どものもとを離れる際そうするように、イエス様のことばは優しく、思い遣りに満ちていました。
これまでのところ、ご自分がこの世を去ることは、二つの点で弟子たちの祝福、また益となることをイエス様は教えられました。ひとつは、世を去って天に行くイエス様が彼らのために天に住まいを準備すること。ふたつめは、天に行くイエス様が天の父に願い、もう一人の助け主、聖霊を与えてくださるということでした。
天には、父なる神様とともに永遠に暮らすことのできる住まいを与えられ、この世においては、イエス様の代わりに助け主の聖霊が与えられる。二つの祝福を頂くことができると知った弟子たちはどれ程安心したことかと思われます。
しかし、ここにまたひとりの弟子が声をあげます。イスカリオテではないユダ、イエス様を裏切るため、先程晩餐の席を立っていったあのユダではないもうひとりのユダ。他の福音書では、タダイと呼ばれる弟子でした。
ペテロ、ピリポに続いてもうひとりのユダも発言する。イエス様が、いかに心を騒がす弟子たちの思いを十分聞き、受けとも、丁寧に答えられたか。イエス様にとって彼らがいかに大切な存在であったかが伺われるところです。
14:22 イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」
天に用意される永遠の住まいのこと、もうひとりの助け主聖霊のこと。ユダは、自分たちにはこれ程詳しく、親切に話してくださるイエス様が、何故もっと広く人々の前に姿を現し、ご自分の思いを話そうとしないのか、不思議に感じたのでしょう。
しかし、イエス様はこれまでそのわざと教えを通して、十分ご自分を世の人に示し、現してこられました。それなのに、世の人々がイエス様を救い主として受け入れようとはしなかったと言うのが実情なのです。その原因は、人々が心にご自分への愛を欠いていたことと、イエス様は言われます。
14:23、24 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。
私たちが自分の思いを伝えたい、自分をもっと知ってもらいたいと思う人とは、どのような人でしょうか。自分を愛し、信頼してくれる人、自分に心開いてくれる人ではないでしょうか。逆に、自分に対して心閉ざしている人に対しては、どんなに伝えたいと思っても伝わらない壁、もどかしさを感じてしまいます。
イエス様も同じでした。これまで力を尽くして教え、多くのわざをなしても、ユダヤの宗教指導者、都の人々など、ご自分に対して心閉ざす人々の反応は反発、嘲り、憎しみばかり。イエス様が天の父から世に遣わされた救い主であることを認めようとはしませんでした。
しかし、その様な人々に対して感じておられたであろうもどかしさを、弟子たちには覚えることなく、ご自分の思い、ご自分の死の意味、ご自分の計画など、彼らの益になることを十分語ることができると言われたのです。何故なら、彼らはイエス様を愛しており、イエス様を愛する者は天の父に愛され、天の父とイエス様がその心に住んでくださるからでした。
それにしても、ここでイエス様が、弟子たちのうちに愛ありと認めてくださるとは思いもかけないことです。ご存知のように、この直後イエス様が逮捕されるや弟子たちは逃げ去り、ペテロは大祭司の庭で「イエスなど知らない」と誓う始末。彼らのイエス様への愛は本当に弱いものであることが明らかになります。
イエス様の弟子たちに対する愛の巨大さに比べれば、弟子たちのイエス様に対する愛など吹けば飛ぶような小さなもの。しかし、それをよく知りながら、彼らをご自分を愛する者と信頼し、大切な思いや計画を話してくださったイエス様。このイエス様のお姿は、私たちにとっても慰めではないでしょうか。
山よりも高く海よりも深いイエス様の愛を思う時、イエス様に対する私たちの愛など、愛と呼んでいただく価値が本当にあるのかどうか。それなのに、イエス様ときたら、その様な私たちを信頼し、みことばを通して私たちにご自分を示し、思いを伝えてくださる。私たちの愛がいかに小さくとも、それに目を留め、天の父とともに親しい交わりの相手として接してくださる。私たちも、弟子たちと同じ恵みを受けていることを覚え、イエス様との交わりを充実させてゆきたいと思います。
しかし、イエス様と弟子たち、私たちの交わりがさらに豊かになるためには、どうしても聖霊の助けが必要と、イエス様は繰り返し、語られます。
14:25、26 このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
イエス様がこれまで教えられたことばを弟子たちが思い起こし、その真の意味を理解し、自分のものとするためには聖霊の助けが欠かせないと、イエス様は強調されました。
これは私たちにも当てはまる真理です。果たして、私たちは聖書を読む際、聖霊の助けと導きを願い求めているでしょうか。聖書のことばを天の父やイエス様からの語りかけとして聞くことができるよう助けてくださいと、祈って来たでしょうか。折角、イエス様が願い、天の父が与えてくださった聖霊。聖霊の神様に信頼する歩みをしてゆきたいと思います。
そして、今日の箇所のハイライト。天に用意された永遠の住まい、もうひとりの助け主である聖霊についで、イエス様が私たちに与えてくださる三つ目の祝福です。
14:27~29 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。 『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。
イエス様が「あなたがたに残します」と言われた平安は、ヘブル語でシャローム。平安、平和と言う意味があります。ユダヤ人が「こんにちは」「さようなら」と言いかわす際の、ごく日常的な挨拶のことばともなっています。しかし、もともとは神様の与えてくださる平安、神様との間の平和という宗教的な意味があり、人間が心満たされた状態を指すとも考えられてきました。
イエス様が与えてくださる平安、シャロームは、「わたしの平安」とも「それはこの世が与えるものとはちがう」と言われていますから、普通私たちが考える平安とはちがうもの、イエス様だけが与えることのできる平安ということになります。
それでは、私たちは普通どのような状態を平和と考えるでしょうか。何によって満たされる時平安を感じるでしょうか。国と国との関係で言えば戦争のない状態。人間関係で言えば争いのない状態を平和と考えます。また、急かされる仕事がなく、のんびりと時間を過ごすことができた時、「今日は平和な一日だった」と感じます。
また、体が健康で満たされた状態、物質的豊かさで満たされた状態、努力を重ね、度量句を重ねてあることを成し遂げた結果、人の評価や賞賛で満たされる時、平安を感じると言う人もいることでしょう。あるいは、愛し合う夫婦、気の合う友人同士など、一緒にいるだけで相手の存在に満たされて平安と言う場合もあるかと思います。
どれもこれも良いこと、願わしいことばかりです。しかし、これらの平和、平安の多くは、その状態に達すること自体が難しく、稀であり、仮に実現しても、それは一時的なもの、長くは続かないと言う問題点があります。
また、ある人にとっての平和、平安が他の人にとっては苦しみ,恐れとなったり、平和、平安を追い求めること自体が争いを生むと言うことも稀ではありません。さらに、一旦手にした物質的豊かさや成功、人々の賞賛は、私たちの心に「これをいつ失ってしまうのか」と言う恐れや、「もっとそれが欲しい」と言う焦りを起こさせることがあります。ですから、将来への不安、健康の不安、経済的な不安、仕事を成し遂げられるかどうかと言う不安、人の評価を受けられるかどうかと言う不安など、様々な不安から私たちは逃れることができないと言う状態にあるのです。
人間は、真の平安の与え手である神様にではなく、他のものに平安を求めることで失敗を繰り返してきました。イエス様の眼から見ると、その様な人間が、弟子たちがかわいそうで仕方がない。だからこそ、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」と、約束されたのです。
やがて、ペンテコステで聖霊が下った際、「それが起こった時に、あなたがたがわたしの話したことを信じるために」と言われた通り、弟子たちは、十字架と復活の意味を理解し、イエス・キリストを心から信頼する者に変えられます。彼らの置かれた状況は非常に厳しく、心騒がせること、恐れることがしばしば起こりました。しかし、イエス・キリストの平安を受けとった彼らは心騒がせることはあっても、気落ちしてしまうことも、恐れに捕われてしまうこともなく、前進してゆくことになります。
なお、「父はわたしよりも偉大です。」とあるのは、イエス様が心からの尊敬を天の父に抱いておられたことを示すことばであり、ご自身が天の父と等しい神であることを否定するものではありませんでした。むしろ、イエス様と天の父が強い愛で結ばれていることを教えられるところです。
こうして、改めてご自身の平安を与えることを使命と覚えたイエス様は、目前に迫る十字架の死を思い、それを阻止せんとするこの世の君、サタンとの対決に臨もうとされます。
14:30、31 わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません。しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行なっていることを世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。
「彼はわたしに対して何もすることはできません。」毅然として、十字架への道を進まんとするイエス様の姿が目に浮かびます。この後、イエス様の気持ちを挫くような出来事が次々に起こります。ユダがイエス様を捕えるため、兵士や役人を引き連れてきたこと、弟子たちは離れ去り、ペテロがイエス様との関係を否定したこと、ユダヤ教指導者による偽りの裁判、十字架上のイエス様に向けられた人々の非難や嘲りのことば、そして、天の父なる神様から見捨てられ、さばかれること。
これらすべては、イエス・キリストが人類の罪を贖うことを阻止しようとする、この世の君、サタンの誘惑でした。しかし、その様な最低、最悪の境遇に置かれながら、天の父なる神様との愛の関係に支えられ、イエス様は十字架への道を進みゆこうとされたのです。
最後に、十字架の死と言う尊い犠牲を払ってまで、イエス・キリストが私たちに与えようとされた平安、弟子たちが確かに受け取り、イエス・キリストを信じる者が皆受け取ることのできると約束された平安とはどのようなものなのでしょうか。今日の聖句をご一緒に読んでみたいと思います。
ローマ5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
ここで、聖書は主イエス・キリストによって、私たちは神との平和を持っていると語っていますが、それはどういう意味なのでしょうか。聖書によれば、私たちはみな神様の前に罪人です。しかし、罪人である人間を愛してやまない神様は、いかにして罪人を赦すと同時に、ご自分が義でありつづけることができるか。人間的な表現を使えば、この問題に神様は苦心されたのです。
その答えは、神様がご自分の御子をこの世に遣わし、私たちのすべての罪を御子イエス様の上に置き、罪に対する御怒りをイエス様の上に注ぎだされるということでした。神は、このことによって、私たちの罪を赦し、私たちへの怒りを和らげてくださったのです。その上、なお罪を持つままの私たちを義なる者、神の子として受け入れてくださいました。最早神様の側に御怒りはひとつもなく、100%の愛が存在するだけなのです。
そして、イエス・キリストの死をこの様に理解し、信じる時、私たちの心からも、神様への恐れが消え去り、神様と和らぎ、心から安心することができる。お父さんの胸に抱かれた子どもがそうであるように、私たちも神様を父と仰いで、深い平安を覚えることができるのです。この様な、絶対に壊れることのない安全、安心な関係に置かれることを、聖書は神様との平和と呼んでいました。
私たちが人生の土台とすべき平安はここにあります。私たち人間は自分の努力で、このような平安を作り出すことはできません。ただ、イエス・キリストの十字架の死の意味をみことばに従って理解し、それを信じる時、私たちは神様との平和に導かれ、真の平安を得ることができるのです。
イエス様の弟子たちも、不安に陥り、恐れを覚える時、イエス様の十字架を思って、この神様との関係に帰り、そこで受け取る平安により、厳しい現実に立ち向かってゆきました。人生で何が起ころうとも、世界を創造した神様との間に平和な関係があるなら大丈夫。イエス様が十字架の死を通して与えてくださった尊い平安を土台にして、私たちあらゆることを考え、活動する。日々、その様な歩みができたらと思います。