2014年度も半年が過ぎ、あと一歩で10月。本格的な秋の到来です。秋と言えば読書の秋、食欲の秋。皆様は読書派、食欲派、どちらでしょうか。私は断然食欲派ですが、とりわけ秋の果物には目がありません。リンゴに梨、ぶどうに柿、無花果もあります。各々の果物に様々な種類があって楽しめるのも、醍醐味かもしれません。
皆様にもそれぞれひいきの果物があることと思いますが、イエス様が生れた国ユダヤにおいては、何と言ってもぶどうが特産品。貨幣や神殿の門に彫られたりと、国のシンボルともなっていたことをご存じだったでしょうか。
その背景は旧約聖書にありました。旧約聖書において、イスラエルの民は、神様の育てるぶどうの木、ぶどう園に譬えられています。その様な箇所はたくさんあるのですが、代表的なものを取り上げます。「わたしはわがブドウ畑、イスラエルの民を丹精込めて育てたのに、それができそこないの酸いぶどうとなってしまった。」そう神さまが嘆いておられる場面です。
イザヤ5:4「…わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうがなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができてしまったのか。」
この世界を創造した神様にとって、イスラエルの民が特別な存在でした。人間が神を離れ、この世界が罪に満ちた時、神様はイスラエルの民を選んで、神様の存在と、神様がどのようなお方であるかを周りの人々に知らせようとしました。イスラエルの民を教え、彼らの生き方を通して、神様を知り、神様に信頼する生き方がどれ程良いものか、それこそが人間本来の生き方であることを、世界中に示そうとされたのです。この様な意味で、イスラエルは神様のもの、神の民と呼ばれています。
しかし、その神様の願いは実現することはありませんでした。イスラエルの民は、神様に愛され養われたにもかかわらず、神様に背き続け、とうとう出来損ないのぶどうとなってしまったと言うのです。この様な流れの中で、今日の箇所を読む時、「わたしはまことのぶどうの木」とのことばには、イエス様の並々ならぬ思いが込められていたことに気がつきます。
15:1「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」
神様の栄光と人間本来の生き方をこの世界に示すことができなかったイスラエルの民に代わり、わたしとわたしを信じる弟子たち、すなわち教会こそが「まことのぶどうの木」として、これから神の民の使命を果たしてゆくことになる。そのために、わたしはこの世に生まれ、人類の罪を贖うため十字架にいのちをささげるのだ。その様なイエス様の思いを、ここに聞くことができます。
思い返せば、この時イエス様と弟子たちは、所謂最後の晩餐の席についていました。他の福音書では、イエス様がパンとぶどう酒を弟子たちに分け与える場面のみが記録されています。しかし、ヨハネはそれに触れず、イエス様が自分たちのもとを離れて行ってしまうことに動揺し、不安を感じていた弟子たちを思い遣って、イエス様が語られたことば、別れの説教を記していました。他の福音書ではほんの数行。それに対して、ヨハネの福音書では13章から17章まで、たっぷり5章。随分多くのことを、イエス様は弟子たちのためにお話しされたのだなと感じます。
今まで語られたことのポイントは、イエス様がこの世を去って天に行くことは、地上に残る弟子たちにとって祝福となり、益になるということです。どのような点で祝福なのかと言うと、ひとつは、天の父の所に行くイエス様が、弟子たちのための永遠の住まいを天に用意してくださるから。二つ目は、天の父がもうひとりの助け主、聖霊を送ってくださり、聖霊が信じる者の心に住んでくださることにより、弟子たちはこれまで以上に親しくイエス様と交わることができるようになるからでした。
天には永遠の住まい、地上ではもうひとりの助け主聖霊を心に頂くという祝福です。その上、聖霊によって、イエス様とより一層深く結ばれると言うのですから、イエス様が目の前から去ってしまうことを恐れていた弟子たちにとって、どれ程大きな励ましとなったことでしょうか。
そして、今日の箇所。自分たちの様な小さな存在がイスラエルに代わって神の民となること、自分たちの生き方を通して、この世の人々に神様の栄光、神様の素晴らしさを示してゆくことが期待されていることを教えられ、どれ程彼らの心は高鳴ったことかと思わされます。
果たして、今の私たちに、神の民の自覚はあるでしょうか。与えられた命を神様の栄光を表すために使う人生。ただ食べて、飲んで、稼ぐための人生ではない。己の人生にこの様な尊い意味があることを覚え、日々歩む者でありたいと思います。
もちろん、私たちが一人で頑張ると言うのではありません。天の父なる神様が農夫で、イエス様はぶどうの木。つまり、肝心要の部分は全部天の父とイエス様がやってくださるので、私たちは安心してお任せし、一本の枝として、実を結べばよいと言われます。
15:2、3「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」
ぶどうは、良い実を得るために非常に手間のかかる植物だそうです。特に、ぶどうの枝は勢いよく繁茂するので、刈り込みは欠かすことのできない作業です。刈り込みは冬に行われ、一本一本丁寧に枝を調べ、良い芽がついているものだけを残して、余計な枝を切り落とします。どうして冬なのかと言うと、木が冬眠しているので、あまり痛みを覚えないからとも言われます。まさにぶどうの木を命あるものとして労っている、そんな印象を受けます。
さらに春になり、枝が芽を出し、小さな実をつけるころになると、今度は摘粒と言い、房になっている半分ぐらいの実を摘み取ります。これをしないと実が大きくならないそうです。農夫は一本一本枝を調べ、房を手で確かめながら、地道な作業を精魂込めて続けなければなりません。
刈り込みというと、私たちは試練とか訓練の、厳しさの面だけを連想します。しかし、こうしたぶどうの命をいたわる愛情から生まれる一連の作業を考えると、人生における試練や訓練の背後に、本来人間として生きるべき命を私たちのうちに豊かに養い、育てるため、農夫のように仕えてくださる神様の愛を仰ぐことができるのではないでしょうか。
そして、このような試練、訓練が与えられるのは、弟子たちがイエス・キリストを信じて、きよめられたこと、つまり、完全に天の父のもの、父なる神の子どもとされたことの証拠と、イエス様は教えています。「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」は、人生に試練が襲っても、私たちがそれを天の父と子の関係で受けとめ、忍耐するようにと勧めるイエス様の配慮のことばと考えられます。
経済の問題、病の苦しみ、難しい人間関係等。私たちは、これらを天の父が私たちを子として愛するがゆえに与えられた必要な訓練と受けとめ、忍耐し、養われたいと思います。
以上、天の父が愛情を以てなしてくださる人生の訓練について見てきました。次は、私たちがなすべきことは何かです。イエス様は、それをただ一言「わたしにとどまりなさい。」と語りました。
15:4「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」
ぶどうの枝は木について、樹液、栄養分を貰わなければ実を結ぶことはできません。枝にとって木についているかどうかは生命にかかわる重大事なのです。同じく、私たちもイエス様という木にとどまっていなければ、何一つ実を結べないと言われます。
人生には努力してできることと、できないことがあります。例えば、今私は全くピアノを弾けませんが、これから努力を重ねればバッハやベートーベンは無理としても、簡単な曲ならいつかは弾けるようになると思います。
しかし、人に親切にするということはどうでしょう。多くの場合、私たちの親切は義務感からだったり、人の目を気にしてのものだったり、相手からの報いを期待してのものであったりします。「本当に100%相手の幸いを願って行う、心からの親切をあなたは為したことがあるか」と、神様に聞かれたら、全く自信がないと言うのが、神様を知る者の正直な気持ちでしょう。
つまり、神様が求める霊的な実について、私たちは全く無力な存在なのです。皆様はこのことを認めるでしょうか。己の無力を悟る時、私たちは自分が枝であり、本来人間として結ぶべき実を結ぶためには、木であるイエス様にとどまって、十字架の愛と言う栄養分を貰わけければならないと思い定めることができるのです。
しかし、弟子たちも私たちも、自分が実を結ぶことのできない枝であることをなかなか認めることができません。いったん認めても、すぐに忘れ、己に頼り、イエス様にとどまり、頼ることをしなくなるのです。それを知っておられたからでしょう。イエス様は、ご自分にとどまることの必要性を繰り返し、教えられます。
15:5、6「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」
自分の無力を悟り、イエス・キリストにとどまるなら、その人には多くの実を結ぶ人生が待っている。自分の無力を認めず、イエス・キリストにとどまることも、その愛を貰う必要も覚えることのなかった人には、イエス・キリストの愛のない悲惨な人生が待っている。この人生の明と暗とを心に刻んで、神様から見て自分は人間として本来あるべき生き方をしているのかどうかを考え、イエス様にとどまるという正しい選択ができたらと思います。
さらに、ご自分にとどまる者の幸いについて、イエス様は念を押しています。
15:7、8「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
私たちが何でも欲しいものを求める時、私たちのためにそれがかなえられる。何とも驚くべき言葉です。しかし、これには、私たちがイエス様にとどまり、イエス様のことばがわたしたちにとどまるなら、という条件がありました。
みことばに示されたイエス様の私たちに対するみ心と、私たち自身の願いが一つになるなら、つまり、イエス様が願い、喜ばれるような生き方をしたいと私たちが心から願い、欲する時、求めることは必ずかなえられると言うのです。
イエス様にとどまり続けてゆく中で、私たちの祈りが整えられ、私たちの歩みも多くの実を結び、神様の栄光をあらわすものになると教えられます。ところで、普段の私たちの祈りはどのようなものでしょうか。自分の願いだけを祈り、サッサと神様の前から離れてしまう。そんな祈りでしょうか。困った時の神頼み、困った事がなければ祈らない、その様な祈りでしょうか。
イエス様が教えているのは、その様な祈りの生活ではありません。イエス様がみことばにおいて示された私たちとこの世界に関わるみこころを、私たちの願いとして祈ること、私たちが自分の願いや理想を語る前に、もっとイエス様のみ心を知り、その実現を心から祈り続ける生活です。
もちろん、自分の願いがかなうことは、私たちにとって喜びです。しかし、それ以上に、神様のみ心が実現してゆくことの方が大きな喜びと感じられる。いや自分の願いがかなえられても、かなえられなくても、神様のみ心がわたしの人生になることが最大の喜びである。その様な祈りの生活を送れたらと思います。
最後に二つのことを確認したいと思います。ひとつは、私たちが農夫の眼で人生の歩みを見ると言うことです。実を結ぶとは具体的にどういうことなのか、いくつかのことが考えられますが、今日は御霊の実と言うことばで表現されている、人格的な成長について見てみたいと思います。
5:22~24「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」
自然のままであれば、私たちの心には喜びよりも不平不満が、寛容よりも、人をシャットアウトする思いが、親切よりも冷淡な思いが生れがちです。生まれつきの私たちは、善意よりも悪意で人を見ることを、誠実よりも表裏のある行動を、柔和よりも高慢な態度を、自制心よりも気ままに行動することを好む者です。
ですから、私たちは、神様の愛に動かされて、心の畑に喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制心と言った実を育ててゆく必要があるのです。神様の愛に答えて、自分の肉、生まれながらの罪の性質を十字架につけると言う戦いを続けていかなければなりません。
しかし、ぶどうの実を育てるのに時間と忍耐が必要なように、私たちの心の畑に御霊に実が実るのにも、時間が必要です。思うように実を結ばないからと言って、落胆したり、あきらめたりせず、イエス・キリストにとどまり続けるという忍耐が必要なのです。
焦らず、たゆまず、時が来れば必ず神様が実りをもたらしてくださることに信頼する。農夫の眼で自分の歩みを見ることが大切ではないでしょうか。
二つ目は、イエス・キリストにとどまり続けることの大切さです。それは、波立つプールで同じ場所にとどまり続けることに似て、意識してとどまることに取り組まないなら、私たちはこの世の流れに流されてしまうでしょう。
イエス様にとどまり続けることは、ことばを変えて言うな、イエス様との関係を最も大切なものとする、第一とすることです。果たして、私たちは何との関係を大切にしているでしょうか。それについて考え、それと共に過ごす時間の多いもの、それが私たちが実際に大切な関係をもっているものなのです。もし、それがお金やテレビであるなら、私たちは人生で大切な関係を持つべきものの優先順位を考え直す必要があると思います。
誰もが、イエス・キリストとの関係、天の父との関係が最も大切と考えています。しかし、そう考えていることと、実際に大切にしているものとが違うとしたら残念なことです。聖書を読むこと、イエス・キリストと交わること、教会の交わりに身を置くこと、イエス様ならこの場合どのような態度を取り、行動を選択するのか考えながら生きること。日々の生活の中で、実際にイエス・キリストにとどまることを意識しながら、歩む者でありたいと思います。今日の聖句です。
ヨハネ15:5「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」