2014年11月30日日曜日

マタイの福音書24勝45節~51節 「アドベント(1)~待つ者として~」

 聖書の神を信じる者。神の民の生き方はどのようなものか。答えの一つに、「救い主を待つ」という生き方があります。神を信じる者は、救い主を待つ者。
旧約の時代、神の民は、約束の救い主が来ることを待ち望むようにと教えられました。旧約聖書最後のマラキ書は「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」というキリストの到来の預言で閉じられています。主イエスが来られた新約の時代、神の民は、もう一度来ると約束されたイエス様の再臨を待ち望むように教えられました。新約聖書最後のヨハネの黙示録は「これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり。わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来て下さい。」という再臨の預言と、それに応じる祈りで閉じられています。聖書は、信じる者に対して、救い主が来られるのを待つ者として生きるようにと教えているのです。

 裏返しますと、救い主の到来を待たない。救い主の到来などないとする生き方は、悪として聖書は評しています。いくつも例を挙げることが出来ますが、例えば
 Ⅱペテロ3章3節~4節
「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』」

 信仰を持つ者は、キリストの到来などないとは考えないでしょう。しかし、どれだけキリストの到来を意識して生きているでしょうか。皆様は、救い主が来られるのを待つ者として生きているでしょうか。未来のことで絶対に実現すると言いうる事は、多くありませんが、イエス様がもう一度来られるということは絶対に実現します。再臨は必ず起こる。何しろ、主イエスの約束ですから、これは絶対実現します。この再臨の約束を持つ者として、いつイエス様が来られても良いように生きる。「主イエスよ、来て下さい。」と祈りながら生きる。救い主の到来を意識して生きる者でありたいと願います。

 このように、信仰を持つ私たちは、いつでも救い主の到来を意識して生きるのが良いと言えます。ただ、クリスマスを前にしたアドベント、待降節を迎えた今は、特に救い主の到来を覚える時期。「アドベント」とは「到来」「来る」という意味。私たちは特にこの時期、主イエスが二千年前に来られたこと。そして、もう一度来られることを覚えつつ、クリスマスへと歩みを進めていく。礼拝の説教もアドベントに合わせたものとなります。
一般的にアドベントでの説教は、イエス様が来られた時の箇所か、もう一度来られる時、つまり再臨を扱った箇所が選ばれます。これまで四日市キリスト教会のアドベントでは、イエス様が来られた時の箇所を扱うことが殆どでしたので、今日は再臨をテーマにした箇所を扱います。有名なマタイの二十四章。主イエスによる終末預言。イエスの黙示録と呼ばれる箇所を皆で読みたいと思います。

 マタイ二十四章は一章まるごと使ったキリストの預言の言葉。これを語られたのは、イエス様が十字架にかかる数日前。弟子たちとともに都エルサレムに来ている時のことです。
 マタイ24章1節
「イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。」

 これは十字架にかかる三日前、火曜日のことと考えられます。この日のイエス様の働きは聖書に詳細に出て来ます。マタイの福音書に沿って確認すると、二十一章二十三節で「イエスが宮に入って、教えておられる」とあり、それ以降、宗教家との激しい論争が続きます。権威について(21章23節~)、税金について(22章15節~)、復活について(22章23節~)、最も大切な戒めについて(22章34節~)、ダビデの主についての議論(22章41節~)が記録されています。身分、政治、神学、聖書解釈と広範囲な論争。当時の宗教家たちは、何とかイエスの主張に欠点を見つけようと攻撃しますが、イエス様は論駁を続け、最後には「誰もイエスに一言も答えることが出来なかった。」という状況。多忙な一日でした。

 おそくらは神殿に入って、一日中、議論と教えに時間を使ったでしょう。夕方になり、神殿を出て行く時のこと。春の夕日に照らされた神殿を見た弟子たちは、その荘厳さに息を飲み、指をさすのです。
 神殿と言えば、ダビデが志、そのソロモンが建てた第一神殿。バビロンにより破壊された神殿を総督ゾロバベルと祭司ヨシュアが再建した第二神殿。さらに、その第二神殿を大幅に増改修したヘロデ大王の建てた神殿がありました。この時、イエス様と弟子たちが目にしたのは、ヘロデが計画し着工した神殿。ヘロデと言えば、権力欲の怪物、キリストを殺そうと企んだ悪名ですが、当時の世界では建築で有名な人物でした。華美好みのヘロデが増改修した神殿は、その見事さ故に、信仰を持たない者も集まったと言われています。
 あまりの見事な建造物。それも神殿と言えば、都エルサレムの誇り、民族の象徴、歴史的記念碑。この時、歓声を上げた弟子たちの言葉が、マルコの福音書には記録されていました。
 マルコ13章1節
「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」

神殿内での激論を終え、外に出た時、ふと見上げた神殿の姿がとても美しかったのでしょう。「師よ。見給へ。これらの石、これらの建造物、いかにさかんならずや。」との歓声。そう言われると、私たちも見てみたくなる。どれ程の迫力があったのか。しかし、この弟子たちの声に対するイエス様の言葉は、弟子たちをして驚きの言葉。神殿破壊の予告でした。
 マタイ24章2節
「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。『このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。』」

 建物の凄さに目を奪われていた弟子たちに対して、おそるべき宣告でした。事実、この宣告の四十年後、ローマ軍により神殿は完全に破壊されます。建物しか見ることのない弟子たちの目。心を見通し、未来を見通す主イエスの目。信仰の世界において、目に見えるものよりも、見えないものが大事であることが思い起こされます。
 それはそれとして、神殿が崩れると聞いた弟子たちは気が気ではなく、それはいつ起こるのかとイエス様に質問します。
 マタイ24章3節
「イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。『お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。』」

 神殿が破壊される。この不吉な話題は、人前で聞くことがはばかられたのでしょうか。弟子たちはひそかにイエス様に確認します。それはいつ起こるのですか。どのような前兆があるのですか、と。
 この問いに対する答えとして語られたのが、キリストの終末預言、イエスの黙示録の言葉です。弟子たちの問いは、神殿が破壊されるのはいつなのか。その前兆はどのようなものかという問いでしたが、イエス様の答えは神殿破壊に関することだけでなく、再臨についての教えも出てきます。十字架直前のイエス様。弟子たちのもとを去ることを間近にして、将来に備えるよう教えるキリスト。是非ともイエス様の熱い息吹を感じながら、マタイ二十四章を読みたいところです。
 本来ならば、二十四章全部を扱いたいのですが、一回の説教で扱うのは無理がありますので、今日は最後の段落。救い主の到来を待つ者、再臨を待つ者のあるべき姿が語られている箇所に集中します。

 マタイ24章45節~51節
「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」

 救い主の到来、キリストの再臨を待ち望む者のあるべき姿が、賢いしもべと、悪いしもべの姿を通して教えられています。
賢いしもべとは、主人がいない間、与えられた役割を忠実になしている者。主人が帰ってきた際に、その忠実さを主人が認めるような者。片や悪いしもべとは、どうせまだ主人は帰ってこないとして、与えられた役割を放棄し、むしろ与えられた力を自分のために使う者。与えられた役割を忠実にこなしながら主人の帰りを待つしもべは、主人から絶大の信頼を得る。片や、主人が帰ってくることを忘れたかのように振る舞った悪いしもべは、厳しい罰を受ける。簡単明瞭なたとえ話です。

 想像してみて下さい。もし自分が家の管理を任された者だとしたら。賢いしもべとして生きることが出来るでしょうか。悪いしもべとして生きてしまうでしょうか。
主人に家の管理を任され、最初のうちは意気揚々と働きます。その働きに就けることを栄誉に思い、忠実に働きたいと願います。しかし、待てども待てども主人は帰ってこない。そもそも、いつ帰ってくるのか教えてもらっていない。次第に気持ちは緩み、どうせまだ帰ってこないのだからと、さぼり始める。それが続くと、まるで自分が主のように振る舞い始め、他のしもべを打ちたたき、飲めや歌えの宴会を始める・・・。
 このたとえ話を自分に当てはめて真剣に想像してみますと、重要なことに気付きます。それは、主人が帰って来たのは、出かけてからどれ位経ったのか、語られていないということです。
自分が家の管理を任されたしもべだとして、一週間なら賢いしもべとして過ごせるかもしれません。一ヶ月でも大丈夫かもしれない。しかし、五年、十年、いやそれ以上となったらどうでしょうか。真剣に想像してみますと、いつ帰ってくるか教えてもらってない状況で、忠実に働きを続けることは容易なことではありません。
 主人がいつ帰って来るか分からない中、それでもいつ帰って来ても良いように働くしもべ。この賢いしもべのような生き方が、主を待ち望む者の生き方。キリストの再臨を覚えて生きる者の姿と教えられます。

 主人がいつ帰ってくるのか分からない。キリストの到来、再臨もまさにその通りで、このたとえの少し前でイエス様が宣言しています。
 マタイ24章36節
「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」

 キリストの再臨はいつのことなのか。その日、その時は誰にも知られていない。大真面目な話として、今日かもしれないのです。何故、神様はその日を教えて下さらないのか。
 ウェストミンスター信仰告白では、最後の最後でこのテーマを扱います。神様は、キリストの再臨とそれに続く審判の日があることを知らせるが、それがいつなのかは知らせない。「それは、彼らがいつ主がこられるかを知らないから、一切の肉的な安心を振り捨て、常に目をさまし、いつも備えして、『来たりませ、主イエスよ。すみやかに来たりませ。』と言うためである。」とまとめています。
 なるほど。確かに再臨が五十年先、百年先と知れば、私たちの生き方は、再臨に備えるものとはならないでしょう。キリストの再臨がいつなのか分からないからこそ、常に目を覚まし、常に忠実であることが出来る。その日、その時を知らせないという神様の知恵でした。

 このように考えていきますと、主の到来を待つ、再臨を待ち望むというのは、いつかイエス様が来られることを信じているというだけではありません。神様から与えられたと思う役割を忠実になしながら、いつイエス様の再臨があっても良いように生きること。私たちが主の到来を待つというのは、ただ待つだけでなく、備える信仰と言えるでしょうか。
 仮に、今晩、イエス様の再臨があるとします。想像して下さい。その時、私たちの過ごす一日はどうなるでしょうか。その想像した生き方が、私たちの毎日の歩みとなるように。常に目を覚ましている。主の到来を待つ信仰とは、今、イエス様が来ても良いとして生きることでした。

 今日、イエス様の再臨があるものとして日々を生きようと志す時、英国の信仰者、マックチェインの祈りが思い出されます。マックチェインは朝になると「主よ。今日でしょうか。備えております。」と祈り、一日の終わりには「主よ。今日ではありませんでしたね。明日でしょうか。」と祈ったそうです。
「主よ。今日でしょうか。備えております。」
「主よ。今日ではありませんでしたね。明日でしょうか。」
再臨に備える生き方の具体的な生き方の一つは、このような祈りを日々ささげながら生きることでした。

 以上、第一アドベントの聖日、キリストの到来に備えることの重要性を確認してきました。聖書は、信仰者に対して、救い主を待つようにと教えています。キリストを信じる私たちは、救い主を待つ者として生きるのです。
 救い主を待つというのは、いつかはイエス様の再臨があると信じることではありません。神様から与えられた役割を覚え、それに取り組み、今日イエス様が来られても良いとして生きることでした。

 皆様は神様から与えられた役割とは何か、考えているでしょうか。
祈るように導かれていることはないでしょうか。愛を示したい人、励ましたい人、福音を伝えたい人はいないでしょうか。賜物や情熱を用いて労したいと願っていなでしょうか。ささげようと思いが与えられていないでしょうか。私たち一人一人、異なる役割、使命が与えられていますが、それが何かよく考え、忠実に取り組むことをしているでしょうか。クリスマスへと向かうアドベントの時期。祈り、聖書を読みながら、自分に与えられた役割、使命を見出すこと。そして、その働きに取り組むこと。そのようにして、キリストの到来を待ち望む者の歩みを全うしたいのです。
 主イエスとお会いする時、「イエス様、祈りと御言葉のうちに、私に与えられた役割はこれだと考え、取り組みました。」と言うことの出来る幸いを、皆で味わいたいと思います。

2014年11月23日日曜日

ヨハネの福音書16章17節~28節 「奪い去られることのない喜び」

 今、私たちはヨハネの福音書の後半、最後の晩餐の場面を読み進めています。この場面の冒頭13章1節で、著者ヨハネが「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」と語った通り、この席にあふれていたのは、弟子たちに対するイエス様の愛でした。
当時、奴隷が主人のためになした、汚れた足を洗うという仕事で弟子たちに仕える。裏切りを決めていた弟子ユダのためにも席を用意し、愛を尽くす。ご自分が天に行くと知って不安を感じる弟子たちのために、「わたしが天に行くのは、あなたがたのため天に永遠の住まいを用意するため、もうひとりの助け主聖霊を与えるため」と語り、安心させる。十字架刑を目前にして、ご自分こそ苦しい状況であったでしょうに、イエス様は弟子たちをご自分の大切な者として愛されたのです。
さて、今日の箇所は先回の続きとなります。ご自分が捕えられ、十字架につけられた後、同胞ユダヤ人が弟子たちを会堂から追放し、迫害すると予告したイエス様は、その厳しい時代に躓かぬよう、弟子たちに心の備えを教えられたのです。
ご自分がこの世を去って天の父のもとへ行くことは、一旦は弟子たちを悲しませることになる。けれども、もうひとりの助け主、聖霊が来ることによって彼らの心の眼が開かれ、ご自分の栄光を見ることになると説いてこられたイエス様。そのイエス様が、今度は弟子たちの悲しみは喜びに変わる。しかも、それは決して奪い去られることのない喜びであると教えられるのが、今日の箇所です。

 16:17、18「そこで、弟子たちのうちのある者は互いに言った。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』また『わたしは父のもとに行くからだ。』と主が言われるのは、どういうことなのだろう。」そこで、彼らは「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることがわからない。」と言った。

  「しばらくするとあなたがたはわたしを見なくなる。しかし、また、しばらくするとわたしをみる。」「わたしは父のもとに行くからだ。」このことばを巡って、弟子たちは互いに論じ合っていたようです。確かに、イエス様の復活を知り、その後の聖霊降臨を知る私たちには理解できても、この時の弟子たちにとっては不思議なことば。よく理解できなかったとしても無理はありません。
 しかし、イエス様の口から、十字架の死という忌まわしい出来事が語られるのを恐れたからでしょうか。彼らは直接尋ねようとはしませんでした。そこで、イエス様の方から切り出されたのが続くことばです。
 
16:19~21「イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。」

イエス様の十字架の死を巡って、全く対照的な二つの反応が起きます。弟子たちの悲しみと、この世の喜びです。弟子たちは、神の子、救い主と信じていたイエス様を失い、自分たちの夢が破れたことに失望、落胆。涙します。それに対しイエス様を十字架に追いやった人々は、自称神の子を倒し、偽の救い主を死に至らしめましたから、正しいことを実行したと言う満足、喜びに浸るのです。しかし、弟子たちの悲しみは喜びに変わる。それも、前に味わった悲しみを忘れてしまう程の深い喜びに変わると言われます。
私も何人かの姉妹から聞いたことがあります。確かに出産の際の陣痛の苦しみは嫌だけれど、生まれたての我が子を抱いた時の喜びは言い尽くしがたいと。その時は、耐え難く思われる苦しみ、悲しみが、やがてそれを忘れさせるほどの喜びに変わる。そうイエス様は語ります。
それでは、この世における最高の喜びに譬えられた喜びを、弟子たちはいつ経験することができるのかと言うと、イエス様がもう一度会いに来られる時でした。

16:22,23a「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。」

イエス様がもう一度弟子たちに会いに来られ、彼らの心が喜びに満たされる時とは、いつのことなのでしょう。初代教会では、これが世の終わりにおけるキリストの再臨を指すと考える人が多く、彼らはなかなか再臨が実現しないためにじりじりとしていた。その様な人々のイエス様の真意を教えるため、この箇所は書かれたとも考えられるところです。
イエス様がもう一度弟子たちに会いに来られ、彼らの心が喜びに満たされる時。それは十字架の三日後イエス様が復活した日だと考える人がいます。しかし、ヨハネの福音書を全体的に読んでみると、このことばは、イエス様が天に行き、天の父に願い送っていただいた聖霊、もうひとりの助け主によって、私たちが信仰の眼でイエス様に出会い、イエス様を見ることを教えているとも考えられます。
聖霊が私たちとともにおられることは、肉体をもったイエス様がともにおられることにまさって大いなる祝福ではないでしょうか。何故なら、肉体をもったイエス様はユダヤと言う小さな国で、少数の人々相手にするしかありませんでしたが、聖霊は国をこえ、時をこえ、世界中の人々に働きかけ、イエス様の救いをもたらすことができるからです。
「御霊はわたしの栄光を現します。わたしのもの(救い)を受けて、あなた方に知らせるからです」(16:14)とイエス様が言われたように、聖霊のおかげで、ユダヤから遠く離れ、イエス様の時代から隔てられた時代に生きる私たちも、信仰の眼をもって、天で私たちのためにとりなしの祈りをささげるイエス様を見上げ、心におられるイエス様と日々会うことができるのです。
そして、「その日は、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません」とある通り、聖霊を心に受ける時、弟子たちは何も尋ねる必要ないほど、イエス様の救いについて確信することができるようになります。聖霊を受け変えられた弟子たちの姿を見てみたいと思います。

使徒5:29~32「ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。私たちの先祖の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」

イエス様の十字架の死にあれ程失望し、同胞ユダヤ人の迫害を恐れ、家の中に閉じこもっていた弟子たちが、これ程変えられるとはと驚かされる姿です。彼らは、キリスト教を迫害する人々の前に立って堂々と証言する弟子に変えられたのです。イエス様の死が敗北ではなく、自分たちの罪の贖いのためであり、復活によって天の父がイエス様こそ真の救い主であることを示されたことを、彼らは心の底から確信していたのです。さらに、弟子たちの変化はその喜ぶ姿からも伺うことができます。

使徒5:41「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。」

イエスをキリストと信じるがゆえに苦しめられることを恐れていた者が、それを喜ぶ者に。イエス様の救いを喜び、イエス様と一つにされたことを喜ぶ。弟子たちはこの喜びのゆえに、厳しい時代を忍耐し、福音を世界に携え行くことができたことを、私たちも心に留めたいと思います。なお、彼らを支えていた喜びが、「奪い去られることのない喜び」と呼ばれている意味については、最後に皆様と共に考えてみたいと思います。
さらに、イエスを救い主と信じる弟子たちにもたらされる祝福、それは、天の父なる神様との直接的で、親しい関係でした。

16:23b,24「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」

罪ある私たちには、直接天の父なる神様に求める資格はない。しかし、十字架の死に至るまで忠実に従われたイエス様を信頼し、イエス様の名によって求めるなら、天の父は何でも私たちに与えてくださると教えられます。
子どもが小さい頃、鈴鹿サーキットに出かけた時のことです。ジェットコースターだったでしょうか、身長120センチ以下の子どもは乗れないと言う乗り物がありました。しかし、看板の説明には、親が一緒なら120センチ以下の子どもでも大丈夫と書いてあったのです。つまり、本来ならジェットコースターに乗る資格のない子どもも、親のゆえに資格のある者として扱われると言う特別待遇です。
これと同じく、罪人の私たちも、イエス様が完全に父なる神様に従ってくださったので、そのイエス様の資格において、天の父から求めるものをいただくことができるようになったということです。イエス様にその資格があることは、復活を通して、天の父が示されたと聖書は教えています。

ピリピ2:6~9「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」

皆様は、イエス様に信頼し、イエス様の名によって祈り求めることが、どれほど天の父の心を動かすものであるか理解しているでしょうか。これが、本来私たちが受けるに価しない権利、ただイエス様のゆえに与えられた物凄い特権であるか、自覚しているでしょうか。日々、イエスのみ名によって、天の父にあらゆることを求めてゆきたいと思います。と同時に、物質的なものであっても、霊的なものであっても、良いものはすべて、イエス様が十字架で苦しんだ末に与えてくださったものであることを覚え、イエス様の素晴らしさを表すため活用してゆけたらと思います。

16:25~28「これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」

「わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません」とは、もはやイエス様が私たちのために執成しの祈りをなさらないというのではなく、その必要がなくなるほど、私たちと天の父との関係が直接的で、親しいものになると言う、イエス様の励ましです。
ことばを代えるなら、天の父は、イエス様を信じる私たちをイエス様と等しく愛してくださり、イエス様と等しく祝福してくださると言うのです。皆様はこのことを信じているでしょうか。
私たちは、イエスを救い主と信じた時から、神の子であることを自覚し、天の父から子として愛されていると信じています。しかし、神の子の中でも自分の様な出来の悪い子どもが、まさか完全なイエス様と等しく愛され、等しく祝福を受け取ることができるなどとは、とうてい信じられない思いがします。しかし、ここでイエス様は、私がそう言うのですから信じなさいと仰るのです。これを幼子のように素直に受け入れ、イエス様と等しく天の父なる神様から愛されている者として生きてゆきたいと思います。
最後に、皆様と考え、確認したいのは、イエス様が言われた奪い去られることのない喜びとは何かということです。参考にしたいのは、伝道旅行を終え、喜び勇んで帰ってきた弟子たちにイエス様が語られたことば、命令です。

ルカ10:17,20「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。・・・「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」

この時、弟子たちの伝道旅行は大成功だったようです。「あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従しました」と言うことばからは、大きな達成感、喜びが感じられます。しかし、イエス様は、何故か、その様な成功を喜んではいけない。ただあなたがたの名が天に記されていることを喜べと命じています。何故でしょうか。
普段、私たちが何を喜びとしているかを考えると、多くの場合、仕事や学業の成功であったり、病気からの回復であったり、或いは思い通り、願い通りに物事が運んだ時ではないかと思います。それは自然な喜びであり、否定しなくてもよいように思えます。
しかし、この自然に湧き上がってくる喜びは出来事に左右されるもの、失われやすいものではないでしょうか。成功すれば喜び、失敗すれば悲しみ。物事がうまくゆけば喜び、行かなければ落胆。弟子たちがイエス様の十字架の死によって感じた悲しみも、自分たちの願いが実現せず失望したと言う面がありました。
しかし、彼らは聖霊によって、周りの出来事に左右されない、決して奪い去られることのない喜びを知ることができ、それを受け取ったのです。イエス・キリストの十字架の死によって、自分たちの罪がすべて赦された喜び、神の子とされた喜び、自分の名が天に記されていること、即ち天の父からイエス・キリストと等しく愛され、等しく祝福され、永遠に生きられるという喜びです。
けれども、私たちの心がこの喜びに向けられること、いかに少ないか。皆様は気がついているでしょうか。周りに起こる出来事に左右されるまま、喜んだり、悲しんだりする歩みに終始していないでしょうか。失われやすい喜びを追いかけるような生活ではないでしょうか。
イエス様は、この様な私たちの弱さ、私たちが味わいうる最高の喜び、喜ぶべき喜びに心を向けられない弱さをご存知であるからこそ、成功を喜ばず、神様に愛され、救われていることを喜べと命じたのでしょう。心をいつも喜ぶべきものへと向ける時、私たちの心は神様に守られ、厳しい時代をイエス・キリストの弟子として生き抜くことができるのです。

ルカ10:20「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」

2014年11月9日日曜日

マルコ4の福音書8章35節~35節 「いのちを感謝する」

 「世の中には二種類の人間がいる。〇〇な人間と、〇〇な人間だ。」という言い回しを聞いたことはあるでしょうか。「世の中には二種類の人間がいる。勇気のある人間と、勇気のない人間だ」とか、「世の中には二種類の人間がいる。音楽の分かる人間と、分からない人間だ」とか、「世の中には二種類の人間がいる。中日ファンか、そうでないかだ」とか。大したことは言っていないのですが、「世の中には二種類の人間がいる」という言葉で、次にどのような言葉が来るのか注目させる言い回しです。
この言い回しをもとにした小噺というかジョークもあります。「世の中には二種類の人間がいる。人間を二種類に分ける人間と、そうでない人間だ」。(世の中には二種類の人間がいるという言い回しを使いながら、自らその言い回しを皮肉る面白さ。)あるいはもう少し捻ったもので「世の中には三種類の人間がいる。数を数えられる人間と、数えられない人間だ。」というのもあります。(数を数えられる人間と、数えられない人間の二種類しかいないのに、それを三種類と言っているというのは、この発言をしている人が、数を数えられない人間という面白さです。)

 今日の聖書箇所、「世の中には二種類の人間がいる」という表現は出て来ませんが、内容としては、人間はどちらかに分かれるのだと教えるもの。敢えてこの表現で言うならば、「世の中には二種類の人間がいる。いのちを救おうとしてそれを失う者と、いのちを失いながらもそれを救う者。」でしょうか。
 いのちを救おうとしてそれを失う者か、いのちを失いながらそれを救う者か。どちらかしかない。私たちは、そのどちらの者となるのか。どちらの生き方をしたいのか。決めないといけない。二千年前、イエス・キリストが語られた言葉に今日は集中したいと思います。

 マルコ8章35節~36節
「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」

逆説的で難解な言葉。よく考えてみないと意味の分からない言葉。いや、よく考えても、意味が分からない言葉と言えるでしょうか。果たして、これはどのような意味か。皆様はどのように考えるでしょうか。
実はこの言葉。マルコの福音書に沿って言えば、有名な場面で語られた言葉となっています。
 マルコ8章27節~29節
「それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。『人々はわたしをだれだと言っていますか。』彼らは答えて言った。『バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。』するとイエスは、彼らに尋ねられた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロが答えてイエスに言った。『あなたは、キリストです。』」

 イエス・キリストの公生涯、救い主としての歩みをされたのは約三年半。その救い主の歩みの中で、このピリポ・カイザリアの出来事は、重要な転換期の場面となります。
これまで様々な奇跡を行い、多くの説教をなしてきた。この頃には、主イエスに対する世間の反響を聞くに十分な下地が出来た。頃合いや良しと見て、イエス様は弟子たちに聞きます。「人々は私のことを誰だと言っているのか。」
 「イエスを誰とするのか。」これは非常に重要な問いです。人間はこの問いを前に、どのように答えるのかで、その人生が決まる。私たちも、「イエスとは誰か」との問いには、心して答えるべきでしょう。
それはそれとしまして、当時の群集はどのように思っていたのか。これまでの活動からすれば、優れた教師、偉大な説教家、病人を癒す名医、あるいはローマの支配から解放してくれる王などなど、色々な答えが出て来そうなところ。弟子たちも、あの人がこう言っていた、この人がこう言っていたと思い出しながら、バプテスマのヨハネという声があります。エリヤだという人もいました。預言者ではなかろうかとの噂もあります、と答えていきます。
 当時の群集は、イエスを普通の人ではないと思っていた。イエスのところに押し寄せ、耳を傾け、熱狂する。しかし、昔の預言者の再来か、殉教したバプテスマのヨハネの力があるのか、新たな預言者なのかはともかく、預言者という理解が精一杯。イエス様を指して約束の救い主とする声は聞こえていなかった。

 そこでもう一つの問いが発せられるのです。「では、あなたがたはわたしをだれだと言うのか。」「群集は良いとして、私とともに過ごしているあなたがたは、わたしを誰だと言うのですか。」弟子たちは何と言うのか、緊張の場面。
この問いに答えたのは、一番弟子とも言えるペテロで「あなたはキリストです。」と告白します。福音書の中には、主イエスの弟子として、ふがいなく見える姿がいくつも出てくるペテロですが、ここにこれ以上ない神聖な告白をします。あなたは預言者ではありません。約束の救い主、キリストです、との告白。
 イエス様はこの告白をどれ程喜ばれたでしょうか。この告白を聞くために、救い主としての歩みをされてきたのです。これまでの経験を経て、ペテロを始め弟子たちはイエスを「キリスト」、約束の救い主であるということは理解した、信じるに至った。大変感謝なことでした。
 イエスがキリストなのは良い。しかし、キリストとは何か。約束の救い主とは何か。イエスがキリストであるとするならば、この後、どのような歩みを送ることになるのか。ここにきて、イエス様がはっきりと言われるのです。

 マルコ8章31節
「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」

 キリストとは何か。約束の救い主の歩みとは何か。多くの苦しみを受け、宗教的指導者から捨てられ、殺される。その後、三日後によみがえる。これがキリストの歩みであると明確に教えられた場面。「あなたがたの言う通り、わたしは神のキリストです。そのキリストであるわたしは、苦しめられ、捨てられ、殺されなければならない。」弟子たちが、この方こそキリストと理解したからこその説明でした。(これ以降、十字架での死へと向かっていくという点で、このピリポ・カイザリアの出来事はイエス様の生涯の中でも転換期となるのです。)
 すると、驚くべきことが起こります。直前で「あなたはキリストです。」と大告白をしたペテロが、イエス様をいさめたというのです。

 マルコ8章32節
「しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。」

 ペテロは、イエス様が約束の救い主であるという信仰は持っていました。しかし、その約束の救い主が苦しみの中で死ななければならないということは理解していなかった。「あなたはキリストでしょう。それが苦しめられるとか、捨てられるとか、そんな不吉なことを。しかも、殺されるなんて。めったなことを言うものではありませんよ」との声。
目の前にいるのがキリストであれば、その言葉がどのようなものであっても、受けとめるべきでしょう。しかし、それが出来なかった。直前に「あなたはキリストです」と告白しながら、その直後にキリストをいさめ始めた。ペテロらしいと言えば、ペテロらしいのですが残念な姿です。
 ところで、この時のペテロは、信仰を失っていたわけではありません。むしろ、善意というか、熱意というか、イエス様を思ってこそ、「苦しみ、捨てられ、死ななければならない」との言葉に、「そんなことはない」と声を上げたのでしょう。

 ところが、このペテロに対して、イエス様より痛烈な言葉が響くのです。
 マルコ8章33節
「しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。『下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」

「下がれ、サタン」とこれ以上ない程、強烈な言葉。「あなたはキリストです。」と神聖な告白をしたペテロが、その直後に「下がれ、サタン」と言われる。ピリポ・カイザリアにおける大事件です。
 ペテロの思い、イエス様を思ってこその発言ということは、誰よりイエス様がご存知だったはずです。それを「下がれ、サタン」と非常に強い叱責の言葉。何故イエス様は、これ程強い言葉で、ペテロを叱責したのでしょうか。
イエス様はここで、救い主である自分は死ぬと宣言されました。それはつまり、罪人の身代わりに死ぬことを意味しています。ペテロは、悪意の自覚はなかったにしても、そのように宣言されたイエス様に対して、そんなことはないといさめたことになります。
 罪人の身代わりとして死ぬと宣言された救い主に対して、そんなことはないといさめた。仮にペテロの言う通り、キリストが殺されることがなかったとしたら。ペテロ自身は自分の罪のために裁きを受ける存在となる。キリストが殺されなければ、ペテロは永遠の苦しみを味わうことになるのです。そのつもりはなかったと思いますが、この時ペテロは、自分の滅びを願っていたことになります。
 そのペテロに対して「下がれ、サタン」と言われたイエス様。それはつまり、わたしはあなたのために死ななければならない。あなたのために死ぬ覚悟をしている。その邪魔をするな、という意味です。「下がれ、サタン」という強烈な叱責の言葉は、どうしてもあなたを救いたいのだという強烈な愛の言葉でもあったわけです。

 ペテロの「あなたはキリストです。」との告白を受け、キリストとは罪人のために死ぬものだと話しを進め、本当にそのためにいのちを捨てようとされるイエス様。このようなやりとりの後に語られたのが、今日の聖書の言葉となります。
 マルコ8章35節~36節
「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」

 「いのちを救おうとする者はそれを失い」「いのちを失うものはそれを救う」。これは何も一般論、一般的な格言として語られたわけではありません。
(一般論として、この聖句と似た言葉を言ったとされる人で、ギリシャ人クセノフォンがいます。その意味は、戦において、何としてでも生きようとする者は大抵は死ぬことになり、ひたすら見事な最後を遂げようと志す者は、何故かむしろ長寿に恵まれるというもの。決死の覚悟で戦に臨めという意味です。主イエスはこのような意味で、この言葉を語ったわけではありません。)
聖書は、いのちは尊いものであり、私たちも自分のいのちを守るように教えられています。いのちを危険に晒すことは避けるべきであり、心も体も健康であるように、自分の出来ることに取り組むのは聖書的です。自分のいのちを大切にするという意味で「いのちを救おう」とすることは、正しいこと。このイエス様の言葉をもって、自分のいのちを守る努力はすべきでないと考えるのは間違いでしょう。
では、どのような意味なのか。イエス様はまず、ご自身の歩まれる道を提示しました。それはまさに、自分のいのちを救う道ではなく、福音のためにいのちを失う道。それが、救い主の歩む道でした。続けて、目の前の弟子たち、そして私たちキリストを信じる者の歩むべき道を示された。それが、今日の言葉です。
「わたしはキリストとして、罪人のために、あなたがたのためにいのちを捨てます。しかし、それはわたしだけの生き方ではない。わたしに従うあなたがたも、同じ様に生きるように。自分のいのちは、自分のものではないこと。その所有権は神様にあること。自分で自分のいのちを支えているのではないこと。神様が守って下さっていることを忘れないように。そして、自分のために生きるのではなく、福音のためにいのちを用いるように。」との言葉なのです。
このイエス様の願い、勧めに私たちはどのように応じるでしょうか。

 今日は久しぶりの成長感謝礼拝となりました。今一度、神様からいのちが与えられていることを感謝したいと思います。実によく出来ている私たちの体も、この世界を楽しむことが出来る心も、生きていくのに必要なものも、全て神様が下さったもの。毎日の生活の中で、自分にいのちがあることがいつの間にか当たり前となり、感謝することも、信頼することもなくなる私たちですが、今日、この成長感謝礼拝で今一度、いのちが与えられていることを感謝したいと思います。
 しかし、肉体のいのちが与えられていることを感謝して終わるのではない。罪赦されたいのち、永遠のいのち、キリストのいのちを頂いたことも感謝したいのです。
 いのちをかけて私たちを愛する道を選ばれたイエス様。最愛のペテロに対して、「下がれ、サタン」と言ってまで、いのちを捨てて私たちを愛する道を選ばれた救い主。この救い主のいのちを頂いたのが私たちです。全世界、あらゆるものに勝るいのちを頂いたことを覚えて、今日、また新たに感謝する時をもちたいのです。
 キリストのいのちを頂いた者として、イエス様が歩まれたように生きること。自分の栄華を求めて生きるのではなく、主イエスのために、福音のためにいのちを用いていく決心を、今日新たにして、礼拝を続けていきたいと思います。

2014年11月2日日曜日

ヨハネの福音書16章1節~16節 「つまずくことがないように」

 皆様は、レオナルド・ダビンチの名画「最後の晩餐」をご存知のことと思います。十字架前夜、イエス・キリストが弟子たちと最後の食事を囲む場面を描いたものです。イエス様の時代、ユダヤの人々は床に横になり食事をしたと言われますから、テーブルについた人々を描くダビンチの絵とは、随分雰囲気が違ったかもしれません。
ここ数回にわたり、私たちはヨハネの福音書の後半、最後の晩餐の場面を読み進めてきました。この場面の冒頭、著者ヨハネが「この世を去る時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」(13:1)と語った通り、最後の晩餐の席にあふれていたのは、弟子たちに対するイエス様の愛でした。
当時、奴隷が主人のためになした、汚れた足を洗うという仕事を弟子たちのため自ら行う。裏切りの決意を固めていた弟子ユダのためにも席を用意し、愛を尽くす。ご自分が天に行くと知って不安を感じる弟子たちのために、「わたしが天に行くのは、あなたがたのため天に永遠の住まいを用意するため、もうひとりの助け主聖霊を与えるため」と語り、安心させようとする。
十字架刑を目前にして、ご自分こそ不安であったでしょうに、イエス様は弟子たちをご自分の大切な者として愛されたのです。やがて、ユダは金銭で裏切ります。ペテロは「イエスなど知らない」と口にします。他の弟子たちも離れ去ってゆきます。その様な酷い状況が待っていることを知りながら、彼らを残るところなく愛されたイエス様。このイエス様の愛が今の私たちにも注がれていることを感じながら、読み進めてゆきたいと思います。
さて、今日の箇所。ご自分が捕えられ、十字架につけられた後、同じように人々が弟子たちを会堂から追放し、殉教の死を遂げる者も現れるとイエス様は言われます。

16:1、2「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。」

会堂は、地方にいるユダヤ人が礼拝を守る場所でした。そこは、聖書を中心とした教育の場であり、地域のコミュニケーションセンター。ですから、会堂追放は、教育、経済、冠婚葬祭など、彼らの日常生活全般に支障をきたすこと、地域社会からの追放となります。
また、同じ天地万物の造り主である神を信じる同胞ユダヤ人が、弟子たちを殺すことで神に奉仕していると考える時が来るとも予告されます。本来、絶対的に正しいのは神お一人のはずなのに、神を信じる自分の考えや立場を絶対的として人を責め、命をも奪う。宗教の恐ろしさです。
次に教えられたのは、今このタイミングで、イエス様が弟子たちに厳しい時代の到来を告げたその理由でした。

16:3、4「彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。」

弟子たちを迫害するユダヤ人は、この世界の造り主である神様を知っていました。しかし、彼らはイエス様が神の子救い主であることを認めず、神様を天の父と呼び親しく交わることもありませんでした。これを指して、イエス様は、人々は父をもわたしをも知らないと言われたのです。こうして、弟子たちは人々の行いが神様から出たものではなく、自分勝手な思い込みからのものであることを知り、安心したことでしょう。
さらに、今までイエス様が、この様なことをはっきりと語られなかったことにも、配慮がありました。今までは、イエス様が一緒にいたので、人々の迫害はイエス様一人に集中し、弟子たちはイエス様の陰に守られていました。しかし、イエス様がこの世を去ったら、残された彼らに憎しみが向けられるので、前もっての予告が必要になったのです。
本当に患者のためを思う医者は、必要なら痛みを伴う手術をすることをためらいません。しかし、その痛みがどのようなものであるか、また、痛みの意味を前もって説明するはずです。同じように、イエス様が厳しい時代が来ることを前もって告げられたのは、弟子たちを怖がらせるためではありませんでした。むしろ、彼らが痛みを忍耐する中でつまづかないため、より豊かな神様の祝福を受け取るためだったのです。
しかし、残念ながら、弟子たちの悲しみ取り去られず、かえって深くなったようです。

16:5、6「しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。」

少し前、「主よ。どこにおいでになるのですか。あなたが行くところに私もついてゆきます」と言ったペテロも、今は口を閉じています。まして、他の弟子たちについては言うまでもない。皆がイエス様が去った後の厳しい時代を思い、悲しみと不安で心は一杯、ことばも出ないと言う有様です。
しかし、この様な弟子たちの弱さを、イエス様はよくご存知でした。ですから、再度ご自分が去ってゆくことは彼らの益になると念を押し、もうひとりの助け主聖霊の到来を告げ、彼らを励まします。弱き者を受け入れ、どこまでも仕える。イエス様の愛です。
そして、先ず聖霊が遣わされることの第一の益は、聖霊がこの世の人々に罪と義とさばきについて教え、それを認める信仰者がおこされることと教えられます。

16:7~11「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」

イエス様が救い主として活動されたのはわずか3年。その活動範囲はユダヤ一国に限定されていました。しかし、イエス様が世を去り、イエス様と同じ働きをするもうひとりの助け主、聖霊が遣われるなら、イエス様の働きは広く時代をこえ、国をこえ、人々が弟子たちと同じ信仰に導かれ、キリスト教会が世界に広がり、前進してゆく時が来ると言うのです。
ところで、聖霊は罪と義とさばきについて、人々にその誤りを認めさせると言われていますが、どういうことでしょうか。
先ず、罪についてです。イエス様が山上の説教で教えられたことばを思い出して頂けたらと思います。例えば、「殺してはならない」という十戒の意味について、当時のユダヤ人はこれを実際の殺人の禁止と理解していました。しかし、イエス様は、私たちが心の中で人を罵ったり、馬鹿にしたりすること、あるいは、心にその様な思いを抱くだけで、聖なる神様の前ではさばきに価する罪であることを教えています。
この世の常識では、その様な思いやことばは、誰でも経験するもの。それをいちいち罪だのさばきだのと言われては堪らないということになるでしょう。つまり、神を知らない人は、神様の眼で自分の思いとことばと行いを見ようとはしませんから、自分を罪人とは考えないのです。こうして、神様の眼から自分の罪のひどさ、罪赦されないままに生きることの悲惨さが分かりませんから、イエス様が罪のために十字架で贖いの死を遂げられたと聞いても、イエス様を信じる思いにはなれません。
しかし、聖霊が人の心に来る時、その間違いに気づかせてくれます。神様の前における自分の罪を心から悲しみ、イエス様による罪の贖いに頼る信仰へと導かれるのです。
次に、義についてです。これについては「わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです」と説明されています。少々わかりにくい気もしますが、後に弟子ペテロが行った説教のことばを参考に見てみたいと思います。

使徒5:30~32「私たちの先祖の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」

当時、ユダヤでは「木にかけられ死ぬ者は神に呪われた者」と言い慣らわされていました。ですから、多くの人が、十字架の木に死なれたイエス様のことを神に呪われた者と考えていたはずです。けれども、そのイエス様を蘇らせ、天に挙げられるという出来事を通して、天の父は世の人々にイエス様が義であり、真の救い主であることを示してくださったとペテロは説いています。つまり、イエス様が復活し天に行くことで、多くの人々が心の眼開かれ、イエス様を信じるようになったのです。
第三に、さばきについて。聖書において「この世を支配する者」と言えば、サタンを指します。サタンは、人々が神様を信頼しないように、むしろ財産、地位、自分自身など、神で無いものを信頼するよう導き、支配する、霊的な力を持った存在です。しかし、イエス様は十字架の死によって、私たちを支配するこの様なサタンを打ち破り、神様を信頼し、従うことができる者へと変えてくださったと聖書は教えています。
果たして、弟子たちはイエス様のことばを聞いてどう感じたでしょうか。今まで頼り切ってきたイエス様が天に去り、地上に残される者の寂しさ、心細さを覚えていた弟子たち。その上、たった今、同胞ユダヤ人による迫害という厳しい時代が来ることを知り、一層不安を感じていたであろう弟子たち。その様な彼らが、聖霊の到来によって、広く国をこえ、時代をこえて、イエス様を信じる仲間、キリスト教会が広がる世界を仰ぎ望むことができたのです。
一人ぼっちではない。この世に同じ信仰の道をゆく仲間がいる、お互いに支え合って同じ道を進む兄弟姉妹がいるという嬉しさ、頼もしさ。どれほど、弟子たちの心は励まされたことでしょうか。
さらに、聖霊がもたらしてくれる益は、これにとどまりません。聖霊は弟子たち自身をすべての真理に導き、イエス様の栄光を現すと教えられます。

16:12~16「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」

聖霊は私たちをすべての真理に導きいれると約束されています。私たちが聖霊によって教えられ聖書的な価値観、考え方、行動を身につけることを指しているのでしょう。また、聖霊は私たちにイエス様の栄光、すばらしさを現すとも約束されています。聖霊こそが、私たちの人格と行いを整えてくださるお方。よりイエス様を知り、よりイエス様を愛し、よりイエス様のように生きたいと言う願いで心を満たしてくださるお方なのです。
最後16節で、イエス様は「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます」と言われました。これは、弟子たちが十字架の三日後、復活のイエス様を見ることとも考えられます。あるいは、弟子たちが聖霊の助けにより、さらに親密なイエス様との交わりに入れられることを指すとも考えられます。ここでは、後者の考え方に立って話を進めてゆきたいと思っています。
皆様は、ある経験を経て、聖書的価値観に気がつき、それを身につけることができたと言うことはないでしょうか。ある時、何度も読んだことのあるみことばを違った角度から理解し、自分の考え方や行動を振り返ることができたと言う経験はないでしょうか。もっとイエス様を知りたい、愛したい、従いたいと言う思いが、心の中で成長しているでしょうか。
様々な方法、経験を用いて、私たちを真理に導き、イエス様の栄光を現してくださる聖霊の存在を意識して、日々歩む者でありたいと思います。

Ⅰコリント12:3「・・・神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」

私たちは聖霊の声を聴くことはできません。目で見ることもできません。そうだとすれば、どのようにして私たちは聖霊の神様が、心に住んでおられることを確かめることができるでしょうか。それは、イエス様と私たちの関係によって確かめることができることを、このみことばが教えています。
もし、心に聖霊が宿っているのなら、イエス様との関係を完全に否定し、イエス・キリストの愛を拒み続けることは、私たちにはできません。あのペテロがそうだったように、一旦はイエス様との関係を否定したもののそれを後悔し、やがてイエス様の愛の眼差しに気がつき、イエス様の所に立ち帰ってゆくことができるはずです。
また、もし、心に聖霊がおられるなら、私たちは兄弟姉妹との交わりを求め、それを喜びとするようになると思います。イエス様をより知りたい、より愛し、従いたいと言う願いが、湧き上がってくると思います。
現在の日本は、イエス様が弟子たちに告げられた様な厳しい時代ではないと思います。しかし、いつそのような時代が来るのか分かりません。また、私たちは弟子たち同様、イエス様への信仰に生きぬくと言う点において本当に弱い者であると感じます。そうであるなら、私たちができること、またすべきことは、あの弟子たちを支えた聖霊が私たちの心をも満たしてくださるよう願い、祈ることではないでしょうか。今日の聖句をともに読みましょう。

エペソ5:17,18「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」