ここ数回にわたり、私たちはヨハネの福音書の後半、最後の晩餐の場面を読み進めてきました。この場面の冒頭、著者ヨハネが「この世を去る時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」(13:1)と語った通り、最後の晩餐の席にあふれていたのは、弟子たちに対するイエス様の愛でした。
当時、奴隷が主人のためになした、汚れた足を洗うという仕事を弟子たちのため自ら行う。裏切りの決意を固めていた弟子ユダのためにも席を用意し、愛を尽くす。ご自分が天に行くと知って不安を感じる弟子たちのために、「わたしが天に行くのは、あなたがたのため天に永遠の住まいを用意するため、もうひとりの助け主聖霊を与えるため」と語り、安心させようとする。
十字架刑を目前にして、ご自分こそ不安であったでしょうに、イエス様は弟子たちをご自分の大切な者として愛されたのです。やがて、ユダは金銭で裏切ります。ペテロは「イエスなど知らない」と口にします。他の弟子たちも離れ去ってゆきます。その様な酷い状況が待っていることを知りながら、彼らを残るところなく愛されたイエス様。このイエス様の愛が今の私たちにも注がれていることを感じながら、読み進めてゆきたいと思います。
さて、今日の箇所。ご自分が捕えられ、十字架につけられた後、同じように人々が弟子たちを会堂から追放し、殉教の死を遂げる者も現れるとイエス様は言われます。
16:1、2「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。」
会堂は、地方にいるユダヤ人が礼拝を守る場所でした。そこは、聖書を中心とした教育の場であり、地域のコミュニケーションセンター。ですから、会堂追放は、教育、経済、冠婚葬祭など、彼らの日常生活全般に支障をきたすこと、地域社会からの追放となります。
また、同じ天地万物の造り主である神を信じる同胞ユダヤ人が、弟子たちを殺すことで神に奉仕していると考える時が来るとも予告されます。本来、絶対的に正しいのは神お一人のはずなのに、神を信じる自分の考えや立場を絶対的として人を責め、命をも奪う。宗教の恐ろしさです。
次に教えられたのは、今このタイミングで、イエス様が弟子たちに厳しい時代の到来を告げたその理由でした。
16:3、4「彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。」
弟子たちを迫害するユダヤ人は、この世界の造り主である神様を知っていました。しかし、彼らはイエス様が神の子救い主であることを認めず、神様を天の父と呼び親しく交わることもありませんでした。これを指して、イエス様は、人々は父をもわたしをも知らないと言われたのです。こうして、弟子たちは人々の行いが神様から出たものではなく、自分勝手な思い込みからのものであることを知り、安心したことでしょう。
さらに、今までイエス様が、この様なことをはっきりと語られなかったことにも、配慮がありました。今までは、イエス様が一緒にいたので、人々の迫害はイエス様一人に集中し、弟子たちはイエス様の陰に守られていました。しかし、イエス様がこの世を去ったら、残された彼らに憎しみが向けられるので、前もっての予告が必要になったのです。
本当に患者のためを思う医者は、必要なら痛みを伴う手術をすることをためらいません。しかし、その痛みがどのようなものであるか、また、痛みの意味を前もって説明するはずです。同じように、イエス様が厳しい時代が来ることを前もって告げられたのは、弟子たちを怖がらせるためではありませんでした。むしろ、彼らが痛みを忍耐する中でつまづかないため、より豊かな神様の祝福を受け取るためだったのです。
しかし、残念ながら、弟子たちの悲しみ取り去られず、かえって深くなったようです。
16:5、6「しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。」
少し前、「主よ。どこにおいでになるのですか。あなたが行くところに私もついてゆきます」と言ったペテロも、今は口を閉じています。まして、他の弟子たちについては言うまでもない。皆がイエス様が去った後の厳しい時代を思い、悲しみと不安で心は一杯、ことばも出ないと言う有様です。
しかし、この様な弟子たちの弱さを、イエス様はよくご存知でした。ですから、再度ご自分が去ってゆくことは彼らの益になると念を押し、もうひとりの助け主聖霊の到来を告げ、彼らを励まします。弱き者を受け入れ、どこまでも仕える。イエス様の愛です。
そして、先ず聖霊が遣わされることの第一の益は、聖霊がこの世の人々に罪と義とさばきについて教え、それを認める信仰者がおこされることと教えられます。
16:7~11「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」
イエス様が救い主として活動されたのはわずか3年。その活動範囲はユダヤ一国に限定されていました。しかし、イエス様が世を去り、イエス様と同じ働きをするもうひとりの助け主、聖霊が遣われるなら、イエス様の働きは広く時代をこえ、国をこえ、人々が弟子たちと同じ信仰に導かれ、キリスト教会が世界に広がり、前進してゆく時が来ると言うのです。
ところで、聖霊は罪と義とさばきについて、人々にその誤りを認めさせると言われていますが、どういうことでしょうか。
先ず、罪についてです。イエス様が山上の説教で教えられたことばを思い出して頂けたらと思います。例えば、「殺してはならない」という十戒の意味について、当時のユダヤ人はこれを実際の殺人の禁止と理解していました。しかし、イエス様は、私たちが心の中で人を罵ったり、馬鹿にしたりすること、あるいは、心にその様な思いを抱くだけで、聖なる神様の前ではさばきに価する罪であることを教えています。
この世の常識では、その様な思いやことばは、誰でも経験するもの。それをいちいち罪だのさばきだのと言われては堪らないということになるでしょう。つまり、神を知らない人は、神様の眼で自分の思いとことばと行いを見ようとはしませんから、自分を罪人とは考えないのです。こうして、神様の眼から自分の罪のひどさ、罪赦されないままに生きることの悲惨さが分かりませんから、イエス様が罪のために十字架で贖いの死を遂げられたと聞いても、イエス様を信じる思いにはなれません。
しかし、聖霊が人の心に来る時、その間違いに気づかせてくれます。神様の前における自分の罪を心から悲しみ、イエス様による罪の贖いに頼る信仰へと導かれるのです。
次に、義についてです。これについては「わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです」と説明されています。少々わかりにくい気もしますが、後に弟子ペテロが行った説教のことばを参考に見てみたいと思います。
使徒5:30~32「私たちの先祖の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」
当時、ユダヤでは「木にかけられ死ぬ者は神に呪われた者」と言い慣らわされていました。ですから、多くの人が、十字架の木に死なれたイエス様のことを神に呪われた者と考えていたはずです。けれども、そのイエス様を蘇らせ、天に挙げられるという出来事を通して、天の父は世の人々にイエス様が義であり、真の救い主であることを示してくださったとペテロは説いています。つまり、イエス様が復活し天に行くことで、多くの人々が心の眼開かれ、イエス様を信じるようになったのです。
第三に、さばきについて。聖書において「この世を支配する者」と言えば、サタンを指します。サタンは、人々が神様を信頼しないように、むしろ財産、地位、自分自身など、神で無いものを信頼するよう導き、支配する、霊的な力を持った存在です。しかし、イエス様は十字架の死によって、私たちを支配するこの様なサタンを打ち破り、神様を信頼し、従うことができる者へと変えてくださったと聖書は教えています。
果たして、弟子たちはイエス様のことばを聞いてどう感じたでしょうか。今まで頼り切ってきたイエス様が天に去り、地上に残される者の寂しさ、心細さを覚えていた弟子たち。その上、たった今、同胞ユダヤ人による迫害という厳しい時代が来ることを知り、一層不安を感じていたであろう弟子たち。その様な彼らが、聖霊の到来によって、広く国をこえ、時代をこえて、イエス様を信じる仲間、キリスト教会が広がる世界を仰ぎ望むことができたのです。
一人ぼっちではない。この世に同じ信仰の道をゆく仲間がいる、お互いに支え合って同じ道を進む兄弟姉妹がいるという嬉しさ、頼もしさ。どれほど、弟子たちの心は励まされたことでしょうか。
さらに、聖霊がもたらしてくれる益は、これにとどまりません。聖霊は弟子たち自身をすべての真理に導き、イエス様の栄光を現すと教えられます。
16:12~16「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」
聖霊は私たちをすべての真理に導きいれると約束されています。私たちが聖霊によって教えられ聖書的な価値観、考え方、行動を身につけることを指しているのでしょう。また、聖霊は私たちにイエス様の栄光、すばらしさを現すとも約束されています。聖霊こそが、私たちの人格と行いを整えてくださるお方。よりイエス様を知り、よりイエス様を愛し、よりイエス様のように生きたいと言う願いで心を満たしてくださるお方なのです。
最後16節で、イエス様は「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます」と言われました。これは、弟子たちが十字架の三日後、復活のイエス様を見ることとも考えられます。あるいは、弟子たちが聖霊の助けにより、さらに親密なイエス様との交わりに入れられることを指すとも考えられます。ここでは、後者の考え方に立って話を進めてゆきたいと思っています。
皆様は、ある経験を経て、聖書的価値観に気がつき、それを身につけることができたと言うことはないでしょうか。ある時、何度も読んだことのあるみことばを違った角度から理解し、自分の考え方や行動を振り返ることができたと言う経験はないでしょうか。もっとイエス様を知りたい、愛したい、従いたいと言う思いが、心の中で成長しているでしょうか。
様々な方法、経験を用いて、私たちを真理に導き、イエス様の栄光を現してくださる聖霊の存在を意識して、日々歩む者でありたいと思います。
Ⅰコリント12:3「・・・神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」
私たちは聖霊の声を聴くことはできません。目で見ることもできません。そうだとすれば、どのようにして私たちは聖霊の神様が、心に住んでおられることを確かめることができるでしょうか。それは、イエス様と私たちの関係によって確かめることができることを、このみことばが教えています。
もし、心に聖霊が宿っているのなら、イエス様との関係を完全に否定し、イエス・キリストの愛を拒み続けることは、私たちにはできません。あのペテロがそうだったように、一旦はイエス様との関係を否定したもののそれを後悔し、やがてイエス様の愛の眼差しに気がつき、イエス様の所に立ち帰ってゆくことができるはずです。
また、もし、心に聖霊がおられるなら、私たちは兄弟姉妹との交わりを求め、それを喜びとするようになると思います。イエス様をより知りたい、より愛し、従いたいと言う願いが、湧き上がってくると思います。
現在の日本は、イエス様が弟子たちに告げられた様な厳しい時代ではないと思います。しかし、いつそのような時代が来るのか分かりません。また、私たちは弟子たち同様、イエス様への信仰に生きぬくと言う点において本当に弱い者であると感じます。そうであるなら、私たちができること、またすべきことは、あの弟子たちを支えた聖霊が私たちの心をも満たしてくださるよう願い、祈ることではないでしょうか。今日の聖句をともに読みましょう。
エペソ5:17,18「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」