今、私たちはヨハネの福音書の後半、最後の晩餐の場面を読み進めています。この場面の冒頭13章1節で、著者ヨハネが「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」と語った通り、この席にあふれていたのは、弟子たちに対するイエス様の愛でした。
当時、奴隷が主人のためになした、汚れた足を洗うという仕事で弟子たちに仕える。裏切りを決めていた弟子ユダのためにも席を用意し、愛を尽くす。ご自分が天に行くと知って不安を感じる弟子たちのために、「わたしが天に行くのは、あなたがたのため天に永遠の住まいを用意するため、もうひとりの助け主聖霊を与えるため」と語り、安心させる。十字架刑を目前にして、ご自分こそ苦しい状況であったでしょうに、イエス様は弟子たちをご自分の大切な者として愛されたのです。
さて、今日の箇所は先回の続きとなります。ご自分が捕えられ、十字架につけられた後、同胞ユダヤ人が弟子たちを会堂から追放し、迫害すると予告したイエス様は、その厳しい時代に躓かぬよう、弟子たちに心の備えを教えられたのです。
ご自分がこの世を去って天の父のもとへ行くことは、一旦は弟子たちを悲しませることになる。けれども、もうひとりの助け主、聖霊が来ることによって彼らの心の眼が開かれ、ご自分の栄光を見ることになると説いてこられたイエス様。そのイエス様が、今度は弟子たちの悲しみは喜びに変わる。しかも、それは決して奪い去られることのない喜びであると教えられるのが、今日の箇所です。
16:17、18「そこで、弟子たちのうちのある者は互いに言った。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』また『わたしは父のもとに行くからだ。』と主が言われるのは、どういうことなのだろう。」そこで、彼らは「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることがわからない。」と言った。
「しばらくするとあなたがたはわたしを見なくなる。しかし、また、しばらくするとわたしをみる。」「わたしは父のもとに行くからだ。」このことばを巡って、弟子たちは互いに論じ合っていたようです。確かに、イエス様の復活を知り、その後の聖霊降臨を知る私たちには理解できても、この時の弟子たちにとっては不思議なことば。よく理解できなかったとしても無理はありません。
しかし、イエス様の口から、十字架の死という忌まわしい出来事が語られるのを恐れたからでしょうか。彼らは直接尋ねようとはしませんでした。そこで、イエス様の方から切り出されたのが続くことばです。
16:19~21「イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。」
イエス様の十字架の死を巡って、全く対照的な二つの反応が起きます。弟子たちの悲しみと、この世の喜びです。弟子たちは、神の子、救い主と信じていたイエス様を失い、自分たちの夢が破れたことに失望、落胆。涙します。それに対しイエス様を十字架に追いやった人々は、自称神の子を倒し、偽の救い主を死に至らしめましたから、正しいことを実行したと言う満足、喜びに浸るのです。しかし、弟子たちの悲しみは喜びに変わる。それも、前に味わった悲しみを忘れてしまう程の深い喜びに変わると言われます。
私も何人かの姉妹から聞いたことがあります。確かに出産の際の陣痛の苦しみは嫌だけれど、生まれたての我が子を抱いた時の喜びは言い尽くしがたいと。その時は、耐え難く思われる苦しみ、悲しみが、やがてそれを忘れさせるほどの喜びに変わる。そうイエス様は語ります。
それでは、この世における最高の喜びに譬えられた喜びを、弟子たちはいつ経験することができるのかと言うと、イエス様がもう一度会いに来られる時でした。
16:22,23a「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。」
イエス様がもう一度弟子たちに会いに来られ、彼らの心が喜びに満たされる時とは、いつのことなのでしょう。初代教会では、これが世の終わりにおけるキリストの再臨を指すと考える人が多く、彼らはなかなか再臨が実現しないためにじりじりとしていた。その様な人々のイエス様の真意を教えるため、この箇所は書かれたとも考えられるところです。
イエス様がもう一度弟子たちに会いに来られ、彼らの心が喜びに満たされる時。それは十字架の三日後イエス様が復活した日だと考える人がいます。しかし、ヨハネの福音書を全体的に読んでみると、このことばは、イエス様が天に行き、天の父に願い送っていただいた聖霊、もうひとりの助け主によって、私たちが信仰の眼でイエス様に出会い、イエス様を見ることを教えているとも考えられます。
聖霊が私たちとともにおられることは、肉体をもったイエス様がともにおられることにまさって大いなる祝福ではないでしょうか。何故なら、肉体をもったイエス様はユダヤと言う小さな国で、少数の人々相手にするしかありませんでしたが、聖霊は国をこえ、時をこえ、世界中の人々に働きかけ、イエス様の救いをもたらすことができるからです。
「御霊はわたしの栄光を現します。わたしのもの(救い)を受けて、あなた方に知らせるからです」(16:14)とイエス様が言われたように、聖霊のおかげで、ユダヤから遠く離れ、イエス様の時代から隔てられた時代に生きる私たちも、信仰の眼をもって、天で私たちのためにとりなしの祈りをささげるイエス様を見上げ、心におられるイエス様と日々会うことができるのです。
そして、「その日は、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません」とある通り、聖霊を心に受ける時、弟子たちは何も尋ねる必要ないほど、イエス様の救いについて確信することができるようになります。聖霊を受け変えられた弟子たちの姿を見てみたいと思います。
使徒5:29~32「ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。私たちの先祖の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」
イエス様の十字架の死にあれ程失望し、同胞ユダヤ人の迫害を恐れ、家の中に閉じこもっていた弟子たちが、これ程変えられるとはと驚かされる姿です。彼らは、キリスト教を迫害する人々の前に立って堂々と証言する弟子に変えられたのです。イエス様の死が敗北ではなく、自分たちの罪の贖いのためであり、復活によって天の父がイエス様こそ真の救い主であることを示されたことを、彼らは心の底から確信していたのです。さらに、弟子たちの変化はその喜ぶ姿からも伺うことができます。
使徒5:41「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。」
イエスをキリストと信じるがゆえに苦しめられることを恐れていた者が、それを喜ぶ者に。イエス様の救いを喜び、イエス様と一つにされたことを喜ぶ。弟子たちはこの喜びのゆえに、厳しい時代を忍耐し、福音を世界に携え行くことができたことを、私たちも心に留めたいと思います。なお、彼らを支えていた喜びが、「奪い去られることのない喜び」と呼ばれている意味については、最後に皆様と共に考えてみたいと思います。
さらに、イエスを救い主と信じる弟子たちにもたらされる祝福、それは、天の父なる神様との直接的で、親しい関係でした。
16:23b,24「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」
罪ある私たちには、直接天の父なる神様に求める資格はない。しかし、十字架の死に至るまで忠実に従われたイエス様を信頼し、イエス様の名によって求めるなら、天の父は何でも私たちに与えてくださると教えられます。
子どもが小さい頃、鈴鹿サーキットに出かけた時のことです。ジェットコースターだったでしょうか、身長120センチ以下の子どもは乗れないと言う乗り物がありました。しかし、看板の説明には、親が一緒なら120センチ以下の子どもでも大丈夫と書いてあったのです。つまり、本来ならジェットコースターに乗る資格のない子どもも、親のゆえに資格のある者として扱われると言う特別待遇です。
これと同じく、罪人の私たちも、イエス様が完全に父なる神様に従ってくださったので、そのイエス様の資格において、天の父から求めるものをいただくことができるようになったということです。イエス様にその資格があることは、復活を通して、天の父が示されたと聖書は教えています。
ピリピ2:6~9「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」
皆様は、イエス様に信頼し、イエス様の名によって祈り求めることが、どれほど天の父の心を動かすものであるか理解しているでしょうか。これが、本来私たちが受けるに価しない権利、ただイエス様のゆえに与えられた物凄い特権であるか、自覚しているでしょうか。日々、イエスのみ名によって、天の父にあらゆることを求めてゆきたいと思います。と同時に、物質的なものであっても、霊的なものであっても、良いものはすべて、イエス様が十字架で苦しんだ末に与えてくださったものであることを覚え、イエス様の素晴らしさを表すため活用してゆけたらと思います。
16:25~28「これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」
「わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません」とは、もはやイエス様が私たちのために執成しの祈りをなさらないというのではなく、その必要がなくなるほど、私たちと天の父との関係が直接的で、親しいものになると言う、イエス様の励ましです。
ことばを代えるなら、天の父は、イエス様を信じる私たちをイエス様と等しく愛してくださり、イエス様と等しく祝福してくださると言うのです。皆様はこのことを信じているでしょうか。
私たちは、イエスを救い主と信じた時から、神の子であることを自覚し、天の父から子として愛されていると信じています。しかし、神の子の中でも自分の様な出来の悪い子どもが、まさか完全なイエス様と等しく愛され、等しく祝福を受け取ることができるなどとは、とうてい信じられない思いがします。しかし、ここでイエス様は、私がそう言うのですから信じなさいと仰るのです。これを幼子のように素直に受け入れ、イエス様と等しく天の父なる神様から愛されている者として生きてゆきたいと思います。
最後に、皆様と考え、確認したいのは、イエス様が言われた奪い去られることのない喜びとは何かということです。参考にしたいのは、伝道旅行を終え、喜び勇んで帰ってきた弟子たちにイエス様が語られたことば、命令です。
ルカ10:17,20「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。・・・「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」
この時、弟子たちの伝道旅行は大成功だったようです。「あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従しました」と言うことばからは、大きな達成感、喜びが感じられます。しかし、イエス様は、何故か、その様な成功を喜んではいけない。ただあなたがたの名が天に記されていることを喜べと命じています。何故でしょうか。
普段、私たちが何を喜びとしているかを考えると、多くの場合、仕事や学業の成功であったり、病気からの回復であったり、或いは思い通り、願い通りに物事が運んだ時ではないかと思います。それは自然な喜びであり、否定しなくてもよいように思えます。
しかし、この自然に湧き上がってくる喜びは出来事に左右されるもの、失われやすいものではないでしょうか。成功すれば喜び、失敗すれば悲しみ。物事がうまくゆけば喜び、行かなければ落胆。弟子たちがイエス様の十字架の死によって感じた悲しみも、自分たちの願いが実現せず失望したと言う面がありました。
しかし、彼らは聖霊によって、周りの出来事に左右されない、決して奪い去られることのない喜びを知ることができ、それを受け取ったのです。イエス・キリストの十字架の死によって、自分たちの罪がすべて赦された喜び、神の子とされた喜び、自分の名が天に記されていること、即ち天の父からイエス・キリストと等しく愛され、等しく祝福され、永遠に生きられるという喜びです。
けれども、私たちの心がこの喜びに向けられること、いかに少ないか。皆様は気がついているでしょうか。周りに起こる出来事に左右されるまま、喜んだり、悲しんだりする歩みに終始していないでしょうか。失われやすい喜びを追いかけるような生活ではないでしょうか。
イエス様は、この様な私たちの弱さ、私たちが味わいうる最高の喜び、喜ぶべき喜びに心を向けられない弱さをご存知であるからこそ、成功を喜ばず、神様に愛され、救われていることを喜べと命じたのでしょう。心をいつも喜ぶべきものへと向ける時、私たちの心は神様に守られ、厳しい時代をイエス・キリストの弟子として生き抜くことができるのです。
ルカ10:20「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」