2014年11月30日日曜日

マタイの福音書24勝45節~51節 「アドベント(1)~待つ者として~」

 聖書の神を信じる者。神の民の生き方はどのようなものか。答えの一つに、「救い主を待つ」という生き方があります。神を信じる者は、救い主を待つ者。
旧約の時代、神の民は、約束の救い主が来ることを待ち望むようにと教えられました。旧約聖書最後のマラキ書は「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」というキリストの到来の預言で閉じられています。主イエスが来られた新約の時代、神の民は、もう一度来ると約束されたイエス様の再臨を待ち望むように教えられました。新約聖書最後のヨハネの黙示録は「これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり。わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来て下さい。」という再臨の預言と、それに応じる祈りで閉じられています。聖書は、信じる者に対して、救い主が来られるのを待つ者として生きるようにと教えているのです。

 裏返しますと、救い主の到来を待たない。救い主の到来などないとする生き方は、悪として聖書は評しています。いくつも例を挙げることが出来ますが、例えば
 Ⅱペテロ3章3節~4節
「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』」

 信仰を持つ者は、キリストの到来などないとは考えないでしょう。しかし、どれだけキリストの到来を意識して生きているでしょうか。皆様は、救い主が来られるのを待つ者として生きているでしょうか。未来のことで絶対に実現すると言いうる事は、多くありませんが、イエス様がもう一度来られるということは絶対に実現します。再臨は必ず起こる。何しろ、主イエスの約束ですから、これは絶対実現します。この再臨の約束を持つ者として、いつイエス様が来られても良いように生きる。「主イエスよ、来て下さい。」と祈りながら生きる。救い主の到来を意識して生きる者でありたいと願います。

 このように、信仰を持つ私たちは、いつでも救い主の到来を意識して生きるのが良いと言えます。ただ、クリスマスを前にしたアドベント、待降節を迎えた今は、特に救い主の到来を覚える時期。「アドベント」とは「到来」「来る」という意味。私たちは特にこの時期、主イエスが二千年前に来られたこと。そして、もう一度来られることを覚えつつ、クリスマスへと歩みを進めていく。礼拝の説教もアドベントに合わせたものとなります。
一般的にアドベントでの説教は、イエス様が来られた時の箇所か、もう一度来られる時、つまり再臨を扱った箇所が選ばれます。これまで四日市キリスト教会のアドベントでは、イエス様が来られた時の箇所を扱うことが殆どでしたので、今日は再臨をテーマにした箇所を扱います。有名なマタイの二十四章。主イエスによる終末預言。イエスの黙示録と呼ばれる箇所を皆で読みたいと思います。

 マタイ二十四章は一章まるごと使ったキリストの預言の言葉。これを語られたのは、イエス様が十字架にかかる数日前。弟子たちとともに都エルサレムに来ている時のことです。
 マタイ24章1節
「イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。」

 これは十字架にかかる三日前、火曜日のことと考えられます。この日のイエス様の働きは聖書に詳細に出て来ます。マタイの福音書に沿って確認すると、二十一章二十三節で「イエスが宮に入って、教えておられる」とあり、それ以降、宗教家との激しい論争が続きます。権威について(21章23節~)、税金について(22章15節~)、復活について(22章23節~)、最も大切な戒めについて(22章34節~)、ダビデの主についての議論(22章41節~)が記録されています。身分、政治、神学、聖書解釈と広範囲な論争。当時の宗教家たちは、何とかイエスの主張に欠点を見つけようと攻撃しますが、イエス様は論駁を続け、最後には「誰もイエスに一言も答えることが出来なかった。」という状況。多忙な一日でした。

 おそくらは神殿に入って、一日中、議論と教えに時間を使ったでしょう。夕方になり、神殿を出て行く時のこと。春の夕日に照らされた神殿を見た弟子たちは、その荘厳さに息を飲み、指をさすのです。
 神殿と言えば、ダビデが志、そのソロモンが建てた第一神殿。バビロンにより破壊された神殿を総督ゾロバベルと祭司ヨシュアが再建した第二神殿。さらに、その第二神殿を大幅に増改修したヘロデ大王の建てた神殿がありました。この時、イエス様と弟子たちが目にしたのは、ヘロデが計画し着工した神殿。ヘロデと言えば、権力欲の怪物、キリストを殺そうと企んだ悪名ですが、当時の世界では建築で有名な人物でした。華美好みのヘロデが増改修した神殿は、その見事さ故に、信仰を持たない者も集まったと言われています。
 あまりの見事な建造物。それも神殿と言えば、都エルサレムの誇り、民族の象徴、歴史的記念碑。この時、歓声を上げた弟子たちの言葉が、マルコの福音書には記録されていました。
 マルコ13章1節
「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」

神殿内での激論を終え、外に出た時、ふと見上げた神殿の姿がとても美しかったのでしょう。「師よ。見給へ。これらの石、これらの建造物、いかにさかんならずや。」との歓声。そう言われると、私たちも見てみたくなる。どれ程の迫力があったのか。しかし、この弟子たちの声に対するイエス様の言葉は、弟子たちをして驚きの言葉。神殿破壊の予告でした。
 マタイ24章2節
「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。『このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。』」

 建物の凄さに目を奪われていた弟子たちに対して、おそるべき宣告でした。事実、この宣告の四十年後、ローマ軍により神殿は完全に破壊されます。建物しか見ることのない弟子たちの目。心を見通し、未来を見通す主イエスの目。信仰の世界において、目に見えるものよりも、見えないものが大事であることが思い起こされます。
 それはそれとして、神殿が崩れると聞いた弟子たちは気が気ではなく、それはいつ起こるのかとイエス様に質問します。
 マタイ24章3節
「イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。『お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。』」

 神殿が破壊される。この不吉な話題は、人前で聞くことがはばかられたのでしょうか。弟子たちはひそかにイエス様に確認します。それはいつ起こるのですか。どのような前兆があるのですか、と。
 この問いに対する答えとして語られたのが、キリストの終末預言、イエスの黙示録の言葉です。弟子たちの問いは、神殿が破壊されるのはいつなのか。その前兆はどのようなものかという問いでしたが、イエス様の答えは神殿破壊に関することだけでなく、再臨についての教えも出てきます。十字架直前のイエス様。弟子たちのもとを去ることを間近にして、将来に備えるよう教えるキリスト。是非ともイエス様の熱い息吹を感じながら、マタイ二十四章を読みたいところです。
 本来ならば、二十四章全部を扱いたいのですが、一回の説教で扱うのは無理がありますので、今日は最後の段落。救い主の到来を待つ者、再臨を待つ者のあるべき姿が語られている箇所に集中します。

 マタイ24章45節~51節
「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」

 救い主の到来、キリストの再臨を待ち望む者のあるべき姿が、賢いしもべと、悪いしもべの姿を通して教えられています。
賢いしもべとは、主人がいない間、与えられた役割を忠実になしている者。主人が帰ってきた際に、その忠実さを主人が認めるような者。片や悪いしもべとは、どうせまだ主人は帰ってこないとして、与えられた役割を放棄し、むしろ与えられた力を自分のために使う者。与えられた役割を忠実にこなしながら主人の帰りを待つしもべは、主人から絶大の信頼を得る。片や、主人が帰ってくることを忘れたかのように振る舞った悪いしもべは、厳しい罰を受ける。簡単明瞭なたとえ話です。

 想像してみて下さい。もし自分が家の管理を任された者だとしたら。賢いしもべとして生きることが出来るでしょうか。悪いしもべとして生きてしまうでしょうか。
主人に家の管理を任され、最初のうちは意気揚々と働きます。その働きに就けることを栄誉に思い、忠実に働きたいと願います。しかし、待てども待てども主人は帰ってこない。そもそも、いつ帰ってくるのか教えてもらっていない。次第に気持ちは緩み、どうせまだ帰ってこないのだからと、さぼり始める。それが続くと、まるで自分が主のように振る舞い始め、他のしもべを打ちたたき、飲めや歌えの宴会を始める・・・。
 このたとえ話を自分に当てはめて真剣に想像してみますと、重要なことに気付きます。それは、主人が帰って来たのは、出かけてからどれ位経ったのか、語られていないということです。
自分が家の管理を任されたしもべだとして、一週間なら賢いしもべとして過ごせるかもしれません。一ヶ月でも大丈夫かもしれない。しかし、五年、十年、いやそれ以上となったらどうでしょうか。真剣に想像してみますと、いつ帰ってくるか教えてもらってない状況で、忠実に働きを続けることは容易なことではありません。
 主人がいつ帰って来るか分からない中、それでもいつ帰って来ても良いように働くしもべ。この賢いしもべのような生き方が、主を待ち望む者の生き方。キリストの再臨を覚えて生きる者の姿と教えられます。

 主人がいつ帰ってくるのか分からない。キリストの到来、再臨もまさにその通りで、このたとえの少し前でイエス様が宣言しています。
 マタイ24章36節
「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」

 キリストの再臨はいつのことなのか。その日、その時は誰にも知られていない。大真面目な話として、今日かもしれないのです。何故、神様はその日を教えて下さらないのか。
 ウェストミンスター信仰告白では、最後の最後でこのテーマを扱います。神様は、キリストの再臨とそれに続く審判の日があることを知らせるが、それがいつなのかは知らせない。「それは、彼らがいつ主がこられるかを知らないから、一切の肉的な安心を振り捨て、常に目をさまし、いつも備えして、『来たりませ、主イエスよ。すみやかに来たりませ。』と言うためである。」とまとめています。
 なるほど。確かに再臨が五十年先、百年先と知れば、私たちの生き方は、再臨に備えるものとはならないでしょう。キリストの再臨がいつなのか分からないからこそ、常に目を覚まし、常に忠実であることが出来る。その日、その時を知らせないという神様の知恵でした。

 このように考えていきますと、主の到来を待つ、再臨を待ち望むというのは、いつかイエス様が来られることを信じているというだけではありません。神様から与えられたと思う役割を忠実になしながら、いつイエス様の再臨があっても良いように生きること。私たちが主の到来を待つというのは、ただ待つだけでなく、備える信仰と言えるでしょうか。
 仮に、今晩、イエス様の再臨があるとします。想像して下さい。その時、私たちの過ごす一日はどうなるでしょうか。その想像した生き方が、私たちの毎日の歩みとなるように。常に目を覚ましている。主の到来を待つ信仰とは、今、イエス様が来ても良いとして生きることでした。

 今日、イエス様の再臨があるものとして日々を生きようと志す時、英国の信仰者、マックチェインの祈りが思い出されます。マックチェインは朝になると「主よ。今日でしょうか。備えております。」と祈り、一日の終わりには「主よ。今日ではありませんでしたね。明日でしょうか。」と祈ったそうです。
「主よ。今日でしょうか。備えております。」
「主よ。今日ではありませんでしたね。明日でしょうか。」
再臨に備える生き方の具体的な生き方の一つは、このような祈りを日々ささげながら生きることでした。

 以上、第一アドベントの聖日、キリストの到来に備えることの重要性を確認してきました。聖書は、信仰者に対して、救い主を待つようにと教えています。キリストを信じる私たちは、救い主を待つ者として生きるのです。
 救い主を待つというのは、いつかはイエス様の再臨があると信じることではありません。神様から与えられた役割を覚え、それに取り組み、今日イエス様が来られても良いとして生きることでした。

 皆様は神様から与えられた役割とは何か、考えているでしょうか。
祈るように導かれていることはないでしょうか。愛を示したい人、励ましたい人、福音を伝えたい人はいないでしょうか。賜物や情熱を用いて労したいと願っていなでしょうか。ささげようと思いが与えられていないでしょうか。私たち一人一人、異なる役割、使命が与えられていますが、それが何かよく考え、忠実に取り組むことをしているでしょうか。クリスマスへと向かうアドベントの時期。祈り、聖書を読みながら、自分に与えられた役割、使命を見出すこと。そして、その働きに取り組むこと。そのようにして、キリストの到来を待ち望む者の歩みを全うしたいのです。
 主イエスとお会いする時、「イエス様、祈りと御言葉のうちに、私に与えられた役割はこれだと考え、取り組みました。」と言うことの出来る幸いを、皆で味わいたいと思います。