2014年11月9日日曜日

マルコ4の福音書8章35節~35節 「いのちを感謝する」

 「世の中には二種類の人間がいる。〇〇な人間と、〇〇な人間だ。」という言い回しを聞いたことはあるでしょうか。「世の中には二種類の人間がいる。勇気のある人間と、勇気のない人間だ」とか、「世の中には二種類の人間がいる。音楽の分かる人間と、分からない人間だ」とか、「世の中には二種類の人間がいる。中日ファンか、そうでないかだ」とか。大したことは言っていないのですが、「世の中には二種類の人間がいる」という言葉で、次にどのような言葉が来るのか注目させる言い回しです。
この言い回しをもとにした小噺というかジョークもあります。「世の中には二種類の人間がいる。人間を二種類に分ける人間と、そうでない人間だ」。(世の中には二種類の人間がいるという言い回しを使いながら、自らその言い回しを皮肉る面白さ。)あるいはもう少し捻ったもので「世の中には三種類の人間がいる。数を数えられる人間と、数えられない人間だ。」というのもあります。(数を数えられる人間と、数えられない人間の二種類しかいないのに、それを三種類と言っているというのは、この発言をしている人が、数を数えられない人間という面白さです。)

 今日の聖書箇所、「世の中には二種類の人間がいる」という表現は出て来ませんが、内容としては、人間はどちらかに分かれるのだと教えるもの。敢えてこの表現で言うならば、「世の中には二種類の人間がいる。いのちを救おうとしてそれを失う者と、いのちを失いながらもそれを救う者。」でしょうか。
 いのちを救おうとしてそれを失う者か、いのちを失いながらそれを救う者か。どちらかしかない。私たちは、そのどちらの者となるのか。どちらの生き方をしたいのか。決めないといけない。二千年前、イエス・キリストが語られた言葉に今日は集中したいと思います。

 マルコ8章35節~36節
「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」

逆説的で難解な言葉。よく考えてみないと意味の分からない言葉。いや、よく考えても、意味が分からない言葉と言えるでしょうか。果たして、これはどのような意味か。皆様はどのように考えるでしょうか。
実はこの言葉。マルコの福音書に沿って言えば、有名な場面で語られた言葉となっています。
 マルコ8章27節~29節
「それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。『人々はわたしをだれだと言っていますか。』彼らは答えて言った。『バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。』するとイエスは、彼らに尋ねられた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロが答えてイエスに言った。『あなたは、キリストです。』」

 イエス・キリストの公生涯、救い主としての歩みをされたのは約三年半。その救い主の歩みの中で、このピリポ・カイザリアの出来事は、重要な転換期の場面となります。
これまで様々な奇跡を行い、多くの説教をなしてきた。この頃には、主イエスに対する世間の反響を聞くに十分な下地が出来た。頃合いや良しと見て、イエス様は弟子たちに聞きます。「人々は私のことを誰だと言っているのか。」
 「イエスを誰とするのか。」これは非常に重要な問いです。人間はこの問いを前に、どのように答えるのかで、その人生が決まる。私たちも、「イエスとは誰か」との問いには、心して答えるべきでしょう。
それはそれとしまして、当時の群集はどのように思っていたのか。これまでの活動からすれば、優れた教師、偉大な説教家、病人を癒す名医、あるいはローマの支配から解放してくれる王などなど、色々な答えが出て来そうなところ。弟子たちも、あの人がこう言っていた、この人がこう言っていたと思い出しながら、バプテスマのヨハネという声があります。エリヤだという人もいました。預言者ではなかろうかとの噂もあります、と答えていきます。
 当時の群集は、イエスを普通の人ではないと思っていた。イエスのところに押し寄せ、耳を傾け、熱狂する。しかし、昔の預言者の再来か、殉教したバプテスマのヨハネの力があるのか、新たな預言者なのかはともかく、預言者という理解が精一杯。イエス様を指して約束の救い主とする声は聞こえていなかった。

 そこでもう一つの問いが発せられるのです。「では、あなたがたはわたしをだれだと言うのか。」「群集は良いとして、私とともに過ごしているあなたがたは、わたしを誰だと言うのですか。」弟子たちは何と言うのか、緊張の場面。
この問いに答えたのは、一番弟子とも言えるペテロで「あなたはキリストです。」と告白します。福音書の中には、主イエスの弟子として、ふがいなく見える姿がいくつも出てくるペテロですが、ここにこれ以上ない神聖な告白をします。あなたは預言者ではありません。約束の救い主、キリストです、との告白。
 イエス様はこの告白をどれ程喜ばれたでしょうか。この告白を聞くために、救い主としての歩みをされてきたのです。これまでの経験を経て、ペテロを始め弟子たちはイエスを「キリスト」、約束の救い主であるということは理解した、信じるに至った。大変感謝なことでした。
 イエスがキリストなのは良い。しかし、キリストとは何か。約束の救い主とは何か。イエスがキリストであるとするならば、この後、どのような歩みを送ることになるのか。ここにきて、イエス様がはっきりと言われるのです。

 マルコ8章31節
「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」

 キリストとは何か。約束の救い主の歩みとは何か。多くの苦しみを受け、宗教的指導者から捨てられ、殺される。その後、三日後によみがえる。これがキリストの歩みであると明確に教えられた場面。「あなたがたの言う通り、わたしは神のキリストです。そのキリストであるわたしは、苦しめられ、捨てられ、殺されなければならない。」弟子たちが、この方こそキリストと理解したからこその説明でした。(これ以降、十字架での死へと向かっていくという点で、このピリポ・カイザリアの出来事はイエス様の生涯の中でも転換期となるのです。)
 すると、驚くべきことが起こります。直前で「あなたはキリストです。」と大告白をしたペテロが、イエス様をいさめたというのです。

 マルコ8章32節
「しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。」

 ペテロは、イエス様が約束の救い主であるという信仰は持っていました。しかし、その約束の救い主が苦しみの中で死ななければならないということは理解していなかった。「あなたはキリストでしょう。それが苦しめられるとか、捨てられるとか、そんな不吉なことを。しかも、殺されるなんて。めったなことを言うものではありませんよ」との声。
目の前にいるのがキリストであれば、その言葉がどのようなものであっても、受けとめるべきでしょう。しかし、それが出来なかった。直前に「あなたはキリストです」と告白しながら、その直後にキリストをいさめ始めた。ペテロらしいと言えば、ペテロらしいのですが残念な姿です。
 ところで、この時のペテロは、信仰を失っていたわけではありません。むしろ、善意というか、熱意というか、イエス様を思ってこそ、「苦しみ、捨てられ、死ななければならない」との言葉に、「そんなことはない」と声を上げたのでしょう。

 ところが、このペテロに対して、イエス様より痛烈な言葉が響くのです。
 マルコ8章33節
「しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。『下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」

「下がれ、サタン」とこれ以上ない程、強烈な言葉。「あなたはキリストです。」と神聖な告白をしたペテロが、その直後に「下がれ、サタン」と言われる。ピリポ・カイザリアにおける大事件です。
 ペテロの思い、イエス様を思ってこその発言ということは、誰よりイエス様がご存知だったはずです。それを「下がれ、サタン」と非常に強い叱責の言葉。何故イエス様は、これ程強い言葉で、ペテロを叱責したのでしょうか。
イエス様はここで、救い主である自分は死ぬと宣言されました。それはつまり、罪人の身代わりに死ぬことを意味しています。ペテロは、悪意の自覚はなかったにしても、そのように宣言されたイエス様に対して、そんなことはないといさめたことになります。
 罪人の身代わりとして死ぬと宣言された救い主に対して、そんなことはないといさめた。仮にペテロの言う通り、キリストが殺されることがなかったとしたら。ペテロ自身は自分の罪のために裁きを受ける存在となる。キリストが殺されなければ、ペテロは永遠の苦しみを味わうことになるのです。そのつもりはなかったと思いますが、この時ペテロは、自分の滅びを願っていたことになります。
 そのペテロに対して「下がれ、サタン」と言われたイエス様。それはつまり、わたしはあなたのために死ななければならない。あなたのために死ぬ覚悟をしている。その邪魔をするな、という意味です。「下がれ、サタン」という強烈な叱責の言葉は、どうしてもあなたを救いたいのだという強烈な愛の言葉でもあったわけです。

 ペテロの「あなたはキリストです。」との告白を受け、キリストとは罪人のために死ぬものだと話しを進め、本当にそのためにいのちを捨てようとされるイエス様。このようなやりとりの後に語られたのが、今日の聖書の言葉となります。
 マルコ8章35節~36節
「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」

 「いのちを救おうとする者はそれを失い」「いのちを失うものはそれを救う」。これは何も一般論、一般的な格言として語られたわけではありません。
(一般論として、この聖句と似た言葉を言ったとされる人で、ギリシャ人クセノフォンがいます。その意味は、戦において、何としてでも生きようとする者は大抵は死ぬことになり、ひたすら見事な最後を遂げようと志す者は、何故かむしろ長寿に恵まれるというもの。決死の覚悟で戦に臨めという意味です。主イエスはこのような意味で、この言葉を語ったわけではありません。)
聖書は、いのちは尊いものであり、私たちも自分のいのちを守るように教えられています。いのちを危険に晒すことは避けるべきであり、心も体も健康であるように、自分の出来ることに取り組むのは聖書的です。自分のいのちを大切にするという意味で「いのちを救おう」とすることは、正しいこと。このイエス様の言葉をもって、自分のいのちを守る努力はすべきでないと考えるのは間違いでしょう。
では、どのような意味なのか。イエス様はまず、ご自身の歩まれる道を提示しました。それはまさに、自分のいのちを救う道ではなく、福音のためにいのちを失う道。それが、救い主の歩む道でした。続けて、目の前の弟子たち、そして私たちキリストを信じる者の歩むべき道を示された。それが、今日の言葉です。
「わたしはキリストとして、罪人のために、あなたがたのためにいのちを捨てます。しかし、それはわたしだけの生き方ではない。わたしに従うあなたがたも、同じ様に生きるように。自分のいのちは、自分のものではないこと。その所有権は神様にあること。自分で自分のいのちを支えているのではないこと。神様が守って下さっていることを忘れないように。そして、自分のために生きるのではなく、福音のためにいのちを用いるように。」との言葉なのです。
このイエス様の願い、勧めに私たちはどのように応じるでしょうか。

 今日は久しぶりの成長感謝礼拝となりました。今一度、神様からいのちが与えられていることを感謝したいと思います。実によく出来ている私たちの体も、この世界を楽しむことが出来る心も、生きていくのに必要なものも、全て神様が下さったもの。毎日の生活の中で、自分にいのちがあることがいつの間にか当たり前となり、感謝することも、信頼することもなくなる私たちですが、今日、この成長感謝礼拝で今一度、いのちが与えられていることを感謝したいと思います。
 しかし、肉体のいのちが与えられていることを感謝して終わるのではない。罪赦されたいのち、永遠のいのち、キリストのいのちを頂いたことも感謝したいのです。
 いのちをかけて私たちを愛する道を選ばれたイエス様。最愛のペテロに対して、「下がれ、サタン」と言ってまで、いのちを捨てて私たちを愛する道を選ばれた救い主。この救い主のいのちを頂いたのが私たちです。全世界、あらゆるものに勝るいのちを頂いたことを覚えて、今日、また新たに感謝する時をもちたいのです。
 キリストのいのちを頂いた者として、イエス様が歩まれたように生きること。自分の栄華を求めて生きるのではなく、主イエスのために、福音のためにいのちを用いていく決心を、今日新たにして、礼拝を続けていきたいと思います。