2015年1月25日日曜日

マタイの福音書6章12節 「信仰の基本(3)交わり~赦しについて~」

新しい年が明け、早くも一月が過ぎようとしています。今年は何を目標に歩んでゆくのか。学び、仕事、家族、それぞれの分野で皆様の願いがあるのではないかと思います。礼拝では、今月と来月の最初、信仰生活の基本となる事柄を学び、私たちみなが新たな思いで信仰の歩みを進めてゆけたらと思っています。今日は交わりについて考えます。
聖書の最初の書創世記に、神様が「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」と語る場面があります。この時最初の人アダムが存在していました。彼のためにエデンの園という楽園が用意され、人間の生活を支え、豊かにする動物たちもそばにいました。アダムが食べて、寝て、生きると言う意味では十分な環境が整えられていたのです。しかし、神様はアダムと心通わせ、喜び、悲しみ、労苦をともにするパートナーとしてエバを創造しました。神様は最初から人間を交わりの中に生きるように造られたのです。
昨年NHKで、山中慎弥教授が出演する人間の細胞に関する特集番組を見ていて、印章に残ったことの一つは、脳内物質のオキシトシンのことです。このオキシトシンが分泌することで、心のストレスは癒され、気持ちが安定し、人に対する信頼感や親愛の情が増す。つまり、私たちの心に幸福感をもたらしてくれるものなのですが、これがどのような時脳の細胞から最も良く分泌されるのか、分かるでしょうか。
人と一緒に何かをしている時だそうです。一緒に食事をする。一緒に散歩する。一緒に汗を流す。一緒の場所にいてゆっくりする、語り合う、祈り合う。神様は、私たち人間が交わりの中に生きる時幸せを感じる者として創造したということが、科学的にも確認できたわけです。
私は食べることが大好きですが、人間にとって食事は単に食欲を満たすこと以上の意味、霊的な意味を持っていることを感じます。親しい人、大切な人、初めて会った人、久しぶりに会った人。様々人と共に食事をすることで、私たちはお互いを歓迎し、喜び、親しむことができます。同じご馳走も、ひとりよりも交わりの中で食べると美味しく感じることが多いように思います。私たちは交わりの中に生きるよう創造された者であることを覚えさせられます。
しかし、神様に背を向けてから、人間の交わりは歪んでしまったと聖書は教えています。特に、人を赦せないことがどれ程交わりを破壊してきたか。いかに多くの人が赦しの問題で悩み、苦しんできたことかが分かります。
妻に勧められた木の実を食べたのは自分自身であるのに、それを神様に指摘されると、妻の行いを赦せず、責め立てる夫アダム。自分が兄に対してなした行為が赦されるはずはないと思い込み、兄の方は赦しているのに、兄を恐れ、頑なに心開こうとしない弟。父親を赦すことができず、反抗する息子。その息子を愛していたのに、仲直りできず、息子の死後後悔の涙を流す父親。自分が信頼するイエス様に聞き従わない人々に我慢ができず、攻撃しようとして戒められた弟子。昔から人間のやっていることは変わらない。昔も今も、赦しは私たち人間にとって大きな宿題と感じます。
神さまはこの様な世界に本来の交わりを回復するため教会を建てられました。私たちは、皆が赦しに取り組んで愛の交わりを築くため、イエス様によって召され、集められた者なのです。家庭、地域、職場。世界の到る所で人間本来の交わりが歪み、壊れてゆく中、私たちが教会で愛の交わりを回復し、世に広げてゆくこと。それが、私たち教会の使命であることを確認したいと思います。
さて、今日取り上げた主の祈りは、イエス様が弟子たちに教えた祈りとして有名なもの。礼拝でも取り上げられる祈り、日毎口ずさむ祈りとして、お馴染みかと思います。この中で私たちが赦しにどう取り組んだらよいのか、イエス様が教えてくださっていますから、そこに注目したいと思います。

6:12「私たちの負いめをお赦しください。」

負い目と言うことばは元々借金を意味していました。当時のユダヤ人は、神様に対しお返しすべき借金として罪を考えていたようです。それに対して、イエス様は人間は神様に対して罪と言う借金を償い、返済することはできないと教えています。「私たちの負い目、罪をお赦しください」とは、私たちは私たちの罪をとても償いきれませんから、どうか棒引きにしてくださいと神様に願い、祈ることを意味しているからです。
イエス様は当時のユダヤ人が考えるより、今の私たちが考えるより、はるかに罪を深刻なもの、人間の努力ではどうにもできないものと考えていました。当時のユダヤ人は「殺してはいけない」という神様の戒めを実際の殺人の禁止と考え、殺人罪を犯した人はこの世の裁判で裁かれることを定めたルールと考えていたいたようです。
しかし、イエス様はこの神様の戒めは、その様な表面的な意味ではないことを教えています。たとえナイフで人を殺めたことがなくても、心の中で人に腹を立てることは殺人罪。能無し、馬鹿者とことばで人を見下し、否定し、責めることも殺人罪。人が自分のことを良く思っていないことに気がついていながら、自分からその人の所に行き、仲直りしようとしないなら、それもまた殺人罪。みな等しく、神様のさばきに値する酷い罪と教えているのです。
昨日までは、罪人などとは思ってもみなかった人が、この聖なる神様の眼を知る時、自分が日々心の思いにおいて、ことばにおいて、行動において、いかに殺人を繰り返す罪人であるかに気がつくことになります。
また、罪を積極的な罪、つまりしてはいけないことをなすと言う罪と、消極的な罪、なすべきことをしないと言う罪と言う二つに分けて整理することもできます。してはいけないことはしなかった。口にしてはいけないことばも吐かなかった。けれど、果たして自分は正しい思いを抱き、すべきことを十分してきただろうか。私たちはそう自分に問いかけてみる必要があるかもしれません。
ある時、聖書の戒め、教えの中で何が一番大切なものかと質問されたイエス様は、こうお答えになりました。

マタイ22:37~39「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」

心の思いにおける罪、ことばにおける罪、行いおける罪。そして、全身全霊で神様を愛していない罪、自分と同じように人を愛していない罪。私たちは日々償いきれない罪、神様のさばきに値する罪を犯して生きている存在であることを自覚したいと思います。
しかし、イエス様の教えはここにとどまりません。「私たちの負い目をお赦しください」と、私たちの罪を天の父に赦してもらうよう願い、祈ることを勧めていました。神様の罪の赦しの恵みに信頼しなさいとの勧めです。
人を赦す者となるために、私たちがなすべきは、日々自分の罪を思い、その赦しを祈り願うこと、私たちの罪を赦し、神の子として受け入れてくださる、この大きな恵みに感謝する歩みなのです。
罪の赦しだけではありません。健康な体、日々の食物、着る物、住まい、家族や友、兄弟姉妹や神様の造られた自然、心に住んでくださる聖霊に至るまで、自分の罪のひどさを思う時、本当なら受け取るに値しない良いものを、どれほど豊かに私たちは日々受け取って生きていることか、生かされていることか。この神様の恵みを心から感する者として取り組むべきが、人の罪を赦すことと、イエス様は語ります。

6:12「私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」

新改訳聖書の訳は、私たちが人を赦したことが、神様による私たちの罪の赦しの条件と受け取られかねません。実際その様にこの祈りを理解する人々もいます。しかし、詳しい説明は省きますが、私たちが人を赦すことが、神様が私たちを赦してくださる条件と言う考えは、聖書全体の考えと合ってはいません。
ですから、この箇所。皆様に意味を正しく理解してもらうために、「私たちも、私たちに負い目のある人を赦します。」と変えて、話を進めてゆきたいと思います。
神様が私たちの罪を赦してくださったように、私たちも私たちに罪を犯した人を赦します。イエス様は私たちに、天の父に向かって赦しの決意を、祈りと言う形で告白するよう勧めていることになります。「天の父なる神様。あなたが私の罪を赦してくださったように、私も~さんのことばや態度を赦します。」具体的に言えば、この様な祈りをささげることになるでしょうか。
しかし、私たちは本当に弱い者、徹底的に自己中心に感じ、考え、行動する性質をもっていますから、赦すことを簡単には決意できません。決意したとしても実践に移すことが苦痛であったり、実践しても相手から願っているような応答がなくて失望し、また元に戻ってしまうこともしばしばです。
ですから、大切なのは、この様な私たちの罪を良く知り、理解したうえで、私たちを受け入れてくださっている天の父なる神様。この神様との安心できる関係の中で、赦しに取り組み続けることではないかと思います。
私たちが赦しに失敗しても決して責めないお方。私たちを懐に抱き、受け入れて、「わたしがそばについているから、何度でもやって見よ」と励ましてくださる天の父。この様な神様の存在に慰められ、力を得て、私たちは赦しという難しい作業に取り組むことができるのです。
この様な私たちにとって、モデルとなる存在がイエス様でした。聖書には十字架につけられた時、イエス様がいかにこの赦しの問題と取り組まれたのかが示されています。

Ⅰペテロ2:21b~24「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

私たちは人から酷いことばや態度を受けた時、心が傷つきます。私自身の経験からすると、それほど酷いことばや態度ではなくても、自分が相手に期待しているような応答とは違うものが返って来ると、心が傷ついたと感じることが多い気がします。そして、その様な時、私たちのうちから湧き上がってくるのは悔しさや怒りの感情であり、相手を責めることばであり、力で抑えつけようとするような態度です。
それを、私たちは人間として自然な反応、当然の反応と考えてこなかったでしょうか。「こんな態度を取られたら、黙ってはいられない」「ここまで言われたら、一言言い返さないと面子が立たない」。自分のことばや態度を正当化しようとします。しかし、イエス様の考え方、生き方はそうではなかったのです。イエス様は神の子としての自由を用い、相手をののしり、脅すと言う、怒りや悔しさに支配された反応に死に、むしろ彼らのために十字架に死ぬと言う道を選ばれた、と言うのです。心から信頼する天の父との交わりの中で、赦し、愛することを実践したのです。
そして、聖書は、イエス・キリストを信じる者は、イエス様が持っておられたこの神の子としての自由を与えられたと教えています。24節に「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされた」とある通りです。
私たちが足を酷く骨折した場合を想像してください。足の骨折から癒された、回復したと言うのはどのような状態でしょうか。骨折した骨がくっつくこと、そして歩けるようになることでしょう。癒され、回復するとは、私たちがベッドに座り続けることも、歩くことも、どちらも選べる自由を持っていると言うことです。
イエス・キリストの十字架の愛は私たちが心に受けた傷を癒すだけではありません。相手の態度に対する悔しさや怒りに支配されて、やり返す、言い返すと言う行動を選ぶことも、相手のために考え、語り、行動することをも選ぶ自由を与えられているのです。皆様は、このことを自覚しているでしょうか。
「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人を赦します」。日々この祈りをささげ、神様の子どもとしての自由を正しく用いて、人を赦す歩みを進めてゆきたいと思います。
最後に、二つのことをお勧めしたいと思います。ひとつは、人を赦せない自分とゆっくり付き合ってゆくと言うことです。癒され、回復したと言っても、今の私たちはリハビリの状態あると言っても良いかもしれません。骨折から回復してリハビリ中の人が躓いたり、転んだり、リハビリの苦しさに根をあげたり、病人に戻ったかのごとく寝てばかりいたり。
その様に、神の子とされた私たちも、赦しに取り組む中で躓き、転び、苦しさに根をあげ、自分の無力を感じて嫌になったりすることがあると思います。そんな時は、ゆっくりやればよいと自分に声をかければ良いと思います。赦すと言う作業には長い時間がかかるからです。
相手のことばや態度を思い出すと心が痛む。何とか同じ場所にいられる。日常会話ができるようになる。相手を責める思いが薄れてくる。相手の気持ちや事情が分かる。相手のために考え、行動できる。赦しはすぐに達成できると言うより、こうした様々な段階を踏んでゆくもの。自分がどの段階にいるのか、意識しながら一歩先を目指してゆけば良いと思うのです。ある所まで来たと思ったら、また逆戻りなどと言うこともありますが、焦らず急がず、神様が共にいてくださることを確認、安心して、またそこから歩みだせば良いと思います。
二つ目は、ひとりではなくということです。神様と一緒にと言うことは何度か言いましたが、信頼できる兄弟姉妹と一緒にと言うのも本当に助けになると思います。悩みを打ち明けたり、祈り合ったり、励まし合ったり。私たちは安心、信頼できる人間関係の中にある時、自由を正しく用いる力が強められるからです。今日の聖句を読みます。

Ⅰペテロ4:8「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」







2015年1月18日日曜日

ウェルカム礼拝 コリント人への手紙第Ⅱ1章3章~6節 「哀しみがくれるもの」

 今年度、ウェルカム礼拝は三回を予定し、今日が三回目となりました。一回目が「喜び」。二回目が「怒り」。今日、三回目は「哀しみ」がテーマです。「哀しみ」。
 皆さまは「哀しみ」と聞いて、どのようなことが思い浮かぶでしょうか。最近、自分が感じた哀しみはどのようなことでしょうか。これまでの人生で、最も哀しかった出来事はどのようなことでしょうか。
 人生は悲喜交々。喜びもあれば、哀しみもある。喜びだけで毎日を過ごすことが出来ればと願いますが、そうはいかない。私たちは哀しみにどのように向き合えば良いでしょうか。哀しみは私たちに何をもたらすのでしょうか。しばらくの間、皆さまとともに聖書から考えたいと思います。

 一般的に「哀しみ」と言うと避けたいもの。出来るだけ味わいたくないものです。しかし、私たちは経験的に「哀しみ」が大事であることを知っています。特に、比較的容易に乗り越えられることが出来た哀しみは、振り返った時に、自分に必要であったと認めることが出来ます。
健康でいること、富を得ること、合格、昇進が、人を高慢、腐敗、堕落、不敬虔にすることがあり、病気、貧しさ、落第や左遷が、人間らしさを取り戻させ、敬虔を回復することがある。哀しいと感じる経験が、結果的には自分にとって有益であったと思うことは、しばしばあります。

聖書の中にも、積極的に哀しみを味わうように命じている言葉がいくつかあります。
マタイ5章4節
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」

 イエス・キリストが話された説教の中の言葉。有名な言葉です。この言葉が語られた文脈は、罪を哀しむことへの勧めです。この世界を造られた神様の前で、自分はひどい罪人であると気が付き、その罪を哀しむ。自分の悪、罪を哀しむ者は、神様が慰めて下さるとの教え。自分の罪深さは哀しむようにと教えられている。

 あるいは、仲間のために哀しむようにとの言葉もあります。
 ローマ12章15節
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」

 哀しみの最中にあって、最も励まされることの一つは、同じように哀しんでくれる人がいることです。哀しみの中にある人のために、あなたも哀しむようにと教えられる言葉。これも、積極的な哀しみの勧めの言葉です。

 間接的な表現ですが、次のように哀しみを勧める言葉もあります。
 伝道者の書7章2節
「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。」

 喜び楽しむ宴会の場よりも、哀しみの葬儀の場へ行くように。喪中の家に行くように。何故か。生きている者が、人生の意味に心を留めるから、というのです。哀しみの中だからこそ考えることがある。哀しみの中にあってこそ、その厳かさの中でこそ、人生の最重要なことに向き合うことが出来るとの教え。この言葉も積極的な哀しみの勧めの一つとして覚えることが出来ます。

 このように哀しみの中には、自分で意義を見出すことが出来る、重要である、必要であると思えるものがあります。聖書で、積極的に勧められている哀しみもあります。いかがでしょうか。自分の人生を振り返り、あの哀しい経験があったからこそ、今の自分があると思う出来事はあるでしょうか。このような哀しみ、自分でも意味があったと納得出来るものは良いのです。

 問題となるのは、意義を見出すことが出来ない。有益であるとは思えない。納得がいかない哀しみです。
私たちは哀しい出来事に遭遇した時、「何故、このようなことが起こるのか。」答えを求めます。自分で納得の出来る答えがある時は良い。答えが見出せない時、その哀しみは、強いものとなります。答えが見出せない哀しみ、強く深い哀しみを味わう時、私たちはどうしたら良いのでしょうか。

 キリスト教信仰が無かったとしたら。理由の見出せない哀しみに、どのように向き合うのでしょうか。
神などいない。この世界は偶然の積み重ね、進化の果てにあるのだと本気で信じるとしたら。その世界観は「宇宙には基本的に、計画も目的も善も悪もない。先が全く見えず、冷淡さだけがある。」(リチャード・ドーキンス)とか、「私たちは目的もなく生まれ、意味もなく生きている。死ねば、消えてなくなる。」(イングマール・バーグマン)のようになるでしょう。哀しみの原因を探ることなど無意味。哀しむこと自体無意味。いや、生きること自体無意味なこと、という考え方。
キリスト教信仰抜きに、答えの見出せない哀しみに向き会うのは、恐ろしいことだと思います。

 しかし、キリスト教信仰があれば、答えの見出せない哀しみに容易に向き合うことが出来るかと言えば、そうでもありません。
 キリスト教の根本的で中心的な教えの一つに、この世界を造られ、支配されている神様がおられるということがあります。キリスト教信仰を持っている人は、この教えを信じているのですが、悲劇的な出来事に出会うと、この教えによって苦しみが増すことがあります。
 つまり、神様は私が哀しみを味わわないで済むようにすることが出来た。助け出すことが出来た。それにもかかわらず、今私は哀しみの最中にいる。果たして、この世界を支配している神などいるのだろうか。神が世界を支配しているのだとしたら、私を憎んでいるのだろうか。という信仰の葛藤を感じるのです。
 私のクリスチャンの友人の言葉で忘れられないものがあります。その友人が好きだった女性が鬱病にかかり、自死を選んだ後。「世界を造り、支配している神様がいることを信じている。だからこそ、神様がゆるせない。どうして彼女の病を癒して下さらなかったのか。なぜ彼女が死のうとした時、それを止めて下さらなかったのか。神様の存在は信じているが、だからこそ神様が憎い。」との言葉。
 哀しみの原因や、表現は異なりますが、同じような苦しみ、葛藤の言葉はいくつも聞いてきました。頭では神様が私を愛していること、最善へと導いて下さることは理解しているものの、心がついていかないとの声。哀しみの原因となる出来事が起こることをゆるした神への怒り、不信の声。
 皆さまは哀しみの中で信仰の葛藤を覚えたことはあるでしょうか。神様への怒りや不信を抱いたいことはあるでしょうか。

 聖書を開きますと、哀しみの中で、神様への怒りや不信を吐き出す信仰者の言葉を多く見出すことが出来ます。
 例えば、戦いに負けて敵国に蹂躙された経験をしたギデオンの嘆きの声。
 士師記6章13節
「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。」

 財産、家族、健康を失い、哀しみの中で喘ぐヨブの声。
 ヨブ記19章7節
「見よ。私が、『これは暴虐だ。』と叫んでも答えはなく、助けを求めて叫んでも、それは正されない。」

 預言者エレミヤは、より直接的に神様に詰め寄る言葉を残しています。
 エレミヤ14章9節
「なぜ、あなたはあわてふためく人のように、また、人を救うこともできない勇士のように、されるのですか。」

 答えを見出せない哀しみの中にあって、信仰者は神様に向き合います。そして、嘆きの言葉を吐き出します。このように嘆いて良いというところに、神様の恵み深さを覚えますが、それはそれとして、このような嘆きに聖書はどのように答えているでしょうか。殆どの場合、答えがないのです。少なくとも、直接的な答えはないのです。

 イエス・キリストの弟子が、生まれつきの盲人を前に、その理由を質問した場面があります。
 ヨハネ9章1節~3節
「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。』」

 ここでイエス・キリストは、この盲人の哀しみに答えを出しています。「神のわざがこの人に現われるため」であると。しかし、もし私がこの人だったら。知りたい答えは、どのように神のわざが現われるのか。他の人ではなく、なぜ私が苦しまなければならないのか。なぜ哀しみの中にいなければならないのか、という疑問に対する答えです。「神のわざが現われるため」という大きな答え、究極的な答えだけでは、納得がいかないのです。
(実際、イエス様はこの人に対して、「神のわざが現われるため」と言っただけではありませんでした。盲目を癒す奇蹟をなし、更にはこの人がキリストの証人として大きな働きを為すように導かれています。)

 私たちも哀しみに対する大きな答え、究極的な答えは聖書を通して頂いています。
 ローマ8章28節
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

 私が味わっている哀しみは無意味ではない。それには意味があり、神様が益として下さる。この確信は私たちを助け、励ましますが、しかし哀しみの最中にいる時。益になるととても思えない時、私たちはこの御言葉で混乱するのです。この黄金のような御言葉も、ひどい哀しみの中では、虚しく聞こえることになる。

 何故、このようなことが起こるのか。何故、私にこれ程の哀しみがあるのか。答えが見出せない時。究極的な答えは教えられているとしても、それでは納得がいかない時。私たちはどうしたら良いのか。
 思い出したいのは、イエス・キリストの姿です。人々が哀しみの最中にいる時、その原因を語るのではなく、また全ては益になるから哀しみも受け入れるようにと諭すのではなく、その哀しみがなくなるように取り組まれる救い主。「なぜ?」という問いに答えるのではなく、哀しみには慰めを与えようとされる救い主。
 何故、このような哀しみを味わうのか。答えがなく、哀しみに沈む時。私たちは、その理由を探すのを止めて、神様が下さる慰めに心を向けるべきです。

 Ⅱコリント1章3節~6節
「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。」

 聖書の宣言によれば、私たちの神様は慰めの神様。どのような苦しみでも、私たちを慰めることが出来る方。それでは、どのように神様は私たちを慰めて下さるのでしょうか。私たちの神様は全知全能。この世界を造り支配されている方。神様が為すと言えば、どのようなことでも出来る方。
 しかし、ここで示されている神様の慰めの方法は、人間を通してなされるもの。先に慰めを受けた者を通して、今、苦しみの中にいる者が慰められるのだと教えられます。つまり、神様の慰めはどこか遠くにあるものではなく、私たちの想像することの出来ない奇蹟的なことでもなく(奇蹟的な慰めも時にあると思いますが、基本的には)、私たちを通してなされる働きだと教えられるのです。
 私たちはこれまで、教会を通して、どれだけ慰めを受けてきたでしょうか。教会から慰めを受けようと、どれだけ取り組んできたでしょうか。また哀しみの中にある人のために、どれだけ慰める者としての取り組みをしてきたでしょうか。神様の慰めが、神を信じる者を通して与えられるという聖書の教えを、どれだけ真剣に聞いてきたでしょうか。
 深い悲しみに沈んだ時、私たちは勇気を持って、教会の仲間に哀しいことを打ち明けたいと思います。打ち明けられた者は、神様から慰める者としての役割を頂いたことを覚え、ともに哀しみに、ともに悩み、ともに祈ることに取り組みたいと思います。この聖書の言葉が絵空事となるのではなく、私たちの教会の姿となるようにと願うのです。

 以上、私たちは哀しみにどのように向き合えば良いのか。哀しみは私たちに何をもたらすのか。皆さまとともに考えてきました。今日、確認したことをまとめると、次のように言えると思います。
 私たちが哀しみに直面する時、その意義や意味を知りたいと願います。この哀しみにはどのような意味があるのか。また自分にとって、他の人にとって有益な哀しみでありたいと願います。そして、哀しみの意義や意味を見出せるとしたら、それはもう哀しみではなくなっているでしょう。
 問題なのは、理由の見出せない哀しみ。どのような言葉も、教えでも納得出来ない。強い哀しみを抱く時。私たちはどうしたら良いのか。
神様の前で、また教会の仲間の前で、哀しいと告白するのです。哀しみを告白することは勇気がいること。教会の仲間に哀しさを伝えた時、どのように思われるだろうか。更に哀しくなることを言われるのではないか。哀しいと言ったところで何も変わらないのではないか、と恐れが沸いてきます。しかし、そのような恐れを乗り越えて、これこそ神様が慰めて下さる方法と受けとめて、哀しみを告白し合う関係を築き上げたいと思います。
 今、哀しみの最中にいる方には、哀しみを告白する勇気が与えられますように。今、哀しみの最中にいる人を知っている方は、その方とともに哀しみに、支え、祈り合う決意が与えられますように。私たち皆で、哀しみから解かれる経験をしていきたいと思います。

2015年1月11日日曜日

ローマ人への手紙10章11節~15節 「信仰生活の基本(2)~良いことを伝える人~」

 年が明けてから数回の礼拝にて、信仰の基本的事柄をテーマに説教するよう取り組んでいます。先週が礼拝、今週は伝道となります。(次週はウェルカム礼拝のため、信仰の基本的事柄とは別のテーマとなります。)
聖書の福音を伝える。世界の造り主、私たちの救い主を伝える。「伝道」。教会の中で、これまで何度も伝道の重要性は語られてきました。私たちも、キリストを信じる者にとって伝道することがいかに重要であるか知っていますが、それでも今朝、伝道の大切さを再確認します。

 ローマ10章14節~15節
「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。』」

 ある人が主の御名を呼び求めるためには、信じることが必要。主を信じるためには、福音を聞かなければならない。福音を聞くためには、それを宣べ伝える人が必要。宣べ伝える人は、神様から遣わされなければならない。短くまとめると、ある人がキリストを信じるためには、福音が宣べ伝える人が必要である、ということ。
福音を宣べ伝える人がいなければ、信じることが出来ない。言うまでもないこと。当たり前のこと。とはいえ私たちは、この当たり前のことを当たり前として受け取っているでしょうか。
自分の周りにいる人が、キリストを信じるためには、福音を宣べ伝える人が必要。家族、友人、知人、同僚を思い浮かべた時、その人がキリストを信じるためには、福音を宣べ伝える人が必要であり、それは自分の役割だと考えているでしょうか。

 ところで、この当たり前と思えることを著者パウロはイザヤ書を引用して「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」とまとめました。福音を宣べ伝える人の足は美しく、立派である、と。(ここでりっぱと訳されている言葉は美しいと訳すことも出来る言葉です。)
足が美しい。足が立派である。面白い表現。少し違和感があります。良い知らせを伝えるのは、足ではなく口ではないのかと思います。足は伝えることは出来ないはず。
日本語で「足」というと悪いイメージが多いように思います。「足が付く」といえば、悪事がばれること。「足を洗う」と言えば、悪事から抜けること。「足が出る」と言えば予算オーバー。「足が早い」と言えば、腐りやすい。「地に足がついていない」と言えば、考えや行動が落ち着いていない。「馬脚を現す」と言えば悪い本性がばれること。どうも「足」はイメージが良くない。そもそも足は、一番汚れやすいところ。
 しかし、ここで足は称賛の対象となります。良い知らせを告げる口ではなく、野を越え山を越え、汚れた足こそ立派である、と。何故なのか。何故、足なのか。ここで言う「足」とは、良い知らせを運ぶ者の働き、労苦のこと。良い知らせを宣言するのは口でしょう。しかし、宣言するまでのあらゆる働き、その労苦こそ美しく、立派であると言われるのです。

 引用元であるイザヤ書は次のような内容でした。
 イザヤ52章7節
「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる。』とシオンに言う者の足は。」

 これはバビロン捕囚からの解放という良い知らせの預言の箇所。古代において、知らせは電話やメール、テレビやラジオではなく、使者が届けるものでした。知らせを届けることは大変なこと。大変な労力を使い、危険を乗り越えて、使者は知らせを届けます。
バビロン捕囚からの解放。奴隷からの解放という良い知らせを届ける者は、喜び勇んで、何としてでもこの知らせを仲間に届けようと努めたでしょう。重要な良い知らせを届けるという役割につけたことを大いに誇るでしょう。待ちに待った知らせを受け取る者たちは、その使者をねぎらい、その働きは美しい、立派であると称賛するのです。
 考えてみますと、ある人に福音を伝えるという時も、私たちは様々なことに取り組みます。顔を合わせて聖書の話をするだけが福音を伝えることではない。良い知らせを伝える「足」として、あらゆることに取り組む。その働き全てが美しく、立派であるとの励ましです。福音を宣べ伝える働きに携わる時、私たちは重要なこと、美しく、立派な働きをしていると覚えるべきでした。

 それはそれとしまして、イザヤ書の良いことはバビロン捕囚からの解放。それでは、ローマ書にある「良いこと」とは何でしょうか。(この説教の中で、福音とか、イエス様ご自身として話してきましたが、ローマ書がどのように表現しているのか確認します。)それはこの少し前に出てくる内容です。
 ローマ10章11節~13節
「聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』のです。」

 良い知らせの中心は何か。短くまとめるとどうなるのか。それは「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」という知らせです。聖書の中心的なメッセージ。私たち人間にとって最も重要な知らせ。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」この言葉もパウロが引用したもので、預言者ヨエルの言葉。ペンテコステの際、ペテロの説教でも引用されたもので有名です。
「御名」とは、その人ご自身や、その業績を示すもの。主の御名を呼び求めるとは、神様が私たちにして下さったこと、イエス様の贖いの御業が、私のためであったと告白すること。主イエスが私の救い主であると告白すること。そのように、主の御名を呼び求めるだけで、誰でも罪から救われるのです。

 また「主の御名」以外に救いはないことも聖書は教えていました。
 使徒4章12節
「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」との知らせは、積極的な表現ですが、反対の側面もある。つまり、主の御名を呼び求める者は誰でも救われるが、主の御名を呼び求めない者は誰でも滅びるのです。主の御名を呼び求めて滅びる者はいないし、主の御名を呼び求めないで滅びない者もいない。私たち人間の前には二つの道しかない。主の御名を呼び求めて救われる道か、主の御名を呼び求めないで滅びる道か。人はどちらかを選ぶことになる。このように考えると、聖書の教える良い知らせを伝える働きが、本当に重要であることが分かります。この知らせによって一人の人生が変わる。それも永遠の人生が変わるのです。

 ところで、この重要な良い知らせを宣べ伝えるようにと教えられていますが、宣べ伝える者、使者となるのに一つ条件がありました。それは神様から遣わされているということ。「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。」と言われています。遣わされずに、この良い知らせの使者となることは出来ないのです。

 遣わされてもいないのに使者となることの無意味さ、悲惨さを示すエピソードが聖書の中にいくつもあります。
 例えば、ダビデが息子アブシャロムと戦った時のこと。息子の謀反に会ったダビデは戦になるも、アブシャロムの死は願わず、家来たちには、手を出さないようにと命令を出していました。ところが、将軍ヨアブによってアブシャロムは殺されることになる。ダビデにとって、アブシャロを討ち取ったという知らせは、勝利の知らせであり、息子の訃報となる。
この時、アブシャロムを討ち取ったことを報告したいと強く申し出るアヒアマツという人がいます。勝利を報告する使者になり、褒美をもらいたいという願いでしょうか。将軍ヨアブは、止めておくようと言うも、しつこく願った人。

 Ⅱサムエル記18章19節~23節
「ツァドクの子アヒマアツは言った。『私は王のところへ走って行って、主が敵の手から王を救って王のために正しいさばきをされたと知らせたいのですが。』ヨアブは彼に言った。『きょう、あなたは知らせるのではない。ほかの日に知らせなさい。きょうは、知らせないがよい。王子が死んだのだから。』ヨアブはクシュ人に言った。『行って、あなたの見たことを王に告げなさい。』クシュ人はヨアブに礼をして、走り去った。ツァドクの子アヒマアツは再びヨアブに言った。『どんなことがあっても、やはり私もクシュ人のあとを追って走って行きたいのです。』ヨアブは言った。『わが子よ。なぜ、あなたは走って行きたいのか。知らせに対して、何のほうびも得られないのに。』『しかしどんなことがあっても、走って行きたいのです。』ヨアブは『走って行きなさい。』と言った。アヒマアツは低地への道を走って行き、クシュ人を追い越した。」

 止めておいた方が良いという助言を無視して、ともかくダビデのもとに報告に行きたいと走り出したアヒアマツ。ヨアブが送り出した使者、名もなきクシュ人を追い越し、ダビデのもとに到着します。そこでアヒアマツは何と報告したのか。
 Ⅱサムエル記18章29節
「王が、『若者アブシャロムは無事か。』と聞くと、アヒマアツは答えた。『ヨアブが王の家来のこのしもべを遣わすとき、私は、何か大騒ぎの起こるのを見ましたが、何があったのか知りません。』」

 アブシャロムを討ち取ったと報告をするために、ダビデのもとに駆けたはずのアヒアマツ。ところが、ダビデの顔を見て判断したのか、「アブシャロムは無事か」との声を聞いて思ったのか、アブシャロムの死は伝えられず。何かあったようだという何の意味もない情報を口にすることになるのです。残念なことに、遣わされないのに使者となる無意味さで名を残すことになったアヒアマツです。

 また祭司長スケワの息子たちの出来事も思い出されます。パウロが福音を宣べ伝えつつ、イエスの名で様々な奇蹟を行っているのを見た者たちが、パウロの真似をしてみたという事件。
 使徒19章13節~16節
「ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、『パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。』と言ってみた。そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。すると悪霊が答えて、『自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ。』と言った。そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押えつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。」

 興味深い場面。神様に遣わされていない者が使者としての働きをする時に、悲惨なことが起こった場面です。
アヒアマツにしろ、スケワの七人の息子にしろ、その姿から教えられるのは、遣わされてこその使者であり、遣わされずに使者となるのは無意味であり、悲惨を招くことになる。良い知らせも、神様から遣わされた者が宣べ伝えるべきだということです。
 それでは、誰が神様から遣わされた者なのでしょうか。それはキリストを信じた者。私たちキリスト者が、良い知らせを伝えるために神様からこの世界に遣わされた者でした。
 使徒1章8節
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 これはイエス様が弟子たちに語られた言葉。ペンテコステの時に成就した約束。しかし、ペンテコステ以降、キリストを信じる者には聖霊が与えられると約束されています。つまり、クリスチャンは皆、キリストの証人として生きることになる。ある人が主イエスを救い主と信じたということは、神様から福音を宣べ伝える使者として任命されたことを意味するのです。
 皆さまは、神様から遣わされているという意識を持っているでしょうか。職場に、学校に、地域に、あるいは家庭に。キリストを信じる私たちは福音を宣べ伝える使者として遣わされている。この自覚があるかないかで、私たちの生き方は変わると思います。

 このようにキリストを信じる者は皆、神様から遣わされた者。福音を宣べ伝える使者ですが、その上で特に覚えておきたいのは先週確認したイザヤの姿です。聖なる神様の前で、自分の罪深さを強く覚え、さらに罪の赦しの宣言を聞いたイザヤが、何と言ったのか。
 イザヤ6章8節
「私は、『だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『ここに、私がおります。私を遣わしてください。』」

 自分の罪深さと、その罪が赦されることをよく理解した者こそ、良い知らせを伝えるのに最も相応しい者。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」ことを、よくよく味わった者こそ、この福音を宣べ伝えるのに相応しい者です。
 キリストを信じる私たちは皆、良いことを伝える使者。しかし、毎週の礼拝にて、よくよく己の罪深さと、それが赦されている幸いを味わい、私を遣わして下さいと願い出ることを繰り返したいのです。

 以上、ローマ書より伝道することの重要性と、遣わされた者としての心構えを確認しました。
今、自分が信じている聖書の中心的なメッセージ。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」という福音を、知り、信じることが出来ていることは、とても大きな恵みであることを、今日、再確認しましょう。自分が、聖書の福音を信じることが出来たのは、私のもとにこの知らせを届けてくれた立派な「足」があったから。私が福音を信じるために、多くの働きがあったのです。次は私たちの番。良い知らせを告げる美しい「足」となる決意を今日、新たにしましょう。

私たち皆で、遣わされた者として、良いことの知らせを伝える働きに取り組みたいと思います。

2015年1月4日日曜日

イザヤ書6章1節~8節 「信仰生活の基本(1)礼拝~聖なる神を覚えて~」

 今日は新年一月、2015年最初の礼拝となります。今月は礼拝、伝道、交わり、奉仕など信仰生活の基本となる事柄を学び、皆が今年一年新たな思いで信仰の歩みを進めてゆけたらと願っています。今日は第一回で、礼拝について考えます。
礼拝は信仰生活における心臓と言われます。心臓の活動によって血液が巡り、私たちは見たり、聞いたり、考えたり、働いたりと様々な活動ができるように、礼拝で受け取った霊のエネルギーが、私たちの信仰生活の原動力となるのです。
また、礼拝が生ける神様との交わりの場であることも確認してきました。礼拝プログラムは神様からの語りかけ、例えば招きのことばや説教と、私たちの応答、例えば賛美や祈りが交互に組まれています。全体を通して、神様と私たちが交わることができるよう考えられているのです。
しかし、一週間に一度、一年で50回以上行われる礼拝を毎回充実させることは、意外に難しいもの。私たち自身が礼拝に備える姿勢、礼拝に対する心がけをもち、実践してゆく必要があるように思います。
前夜ゆっくり休んで体調を整える。少し早めに礼拝の席に着き、交読文の聖書箇所や讃美歌に目を通し、自分の信仰の告白として読めるよう、歌えるよう準備する。神様がおられることを覚え祈りつつ礼拝に臨む。様々な備えがありますが、今日心がけると良いことのひとつとして皆様にお勧めしたいのは、神様がどのようなお方かを覚えて、神様がこの場にいますことをしっかりと意識して礼拝すると言うことです。
特に今日は、旧約聖書の預言者イザヤの礼拝に目を向け、聖なる神様を覚えて礼拝することの大切さについて考えてみたいと思います。

6:1~4「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。」

ウジヤは52年の長きに渡り南ユダを治めた王様、名君の誉れ高き人物でした。ウジヤ王は外国の攻撃から良く国を守り、政治的にも数々の業績をあげ、ために南ユダは安定した時代を過ごし、繁栄を謳歌することができました。しかし、霊的に言えば、人々の心は神様から離れ、ささげる礼拝は次第に外面的、形式的なものとなり、社会には悪や不正が蔓延っていたのです。
その様な時、イザヤは聖なる神の現れに接したと聖書は語ります。イザヤは主を見たとありますが、人間は誰ひとり肉眼で主なる神を見ることはできないと言うのが聖書の教えるところです。ですから、「そのすそは神殿に満ち」とあるように、イザヤが見たのは主なる神の栄光の一端だったのでしょう。
しかし、セラフィムの飛ぶ姿を見、彼らが呼び交わす声を耳にした時、イザヤはそこにおられるのが主なる神ご自身であることをはっきり理解し、感じたと思われます。
セラフィムは神様に仕える御使いのひとりで、聖書のここにしか登場しません。彼らは六つの翼をもち、上の二つで顔を覆い、下の二つで足を覆い、真ん中の二つの翼で飛んでいたとあります。彼らが顔を覆ったのは、直接神様を見ることを控えたため、足を覆ったのは直接神様に近づくのを差し控えたためと考えられます。つまり、御使いでさえ、これ程に聖なる主、聖なる神を畏れていたということです。
さらに、彼らの賛美が印象的でした。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」聖書において、聖とは神様が世界の創造主であり、いかなる被造物とも比べることができないお方、造られたものとは完全に区別されたお方、一点の罪もないお方であることを意味しています。セラフィムが三度「聖なる」を繰り返し賛美したのは、彼らが神様の聖さに心打たれ、圧倒されたことを示していました。
こうして御使いでさえ畏れた聖なる神様に、イザヤはどう接したのでしょうか。

6:5 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」

御使いセラフィムは畏れながらも、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」と、主なる神様を賛美することができました。しかし、イザヤはと言うと、自分の唇即ち口は汚れているため、神様を賛美することはできないと感じたと言うのです。唇は心の思いを表す器官ですから、イザヤが汚れていると感じていたのは自分の心そのものでした。
イザヤがどれ程自分の汚れをどれ程酷いものと思っていたか、いかに自分の罪に絶望していたか。それは、「ああ、私はもうだめだ」と言うことばに表現されています。この「もうだめだ」と言うことばは元々死とか滅びを意味していました。ですから、聖なる神様に接した時、イザヤは自分が霊的には死んでおり、本来滅ぶべき者であることを自覚したのです。
果たして、皆様は自分のことをこの様に感じた事、自覚したことはあるでしょうか。聖なる神様が自分の側にいて、自分のすべてを見ておられることを覚えたことはあるでしょうか。

へブル4:13「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」

ここに「神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています」とありますが、私たちが神様とともに歩むと言うことの一つの側面は、神様の聖なる目を意識しつつ生きるということなのです。
聖書には様々な所に、神様の聖なる目を覚えさせてくれる箇所がありますが、今日取り上げたいのは、イエス様の山上の説教の一部です。

マタイ5:21~24「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」

イエス様の時代、「殺してはならない」という神様の戒めを、人々は実際の殺人を犯さなければ大丈夫と理解していました。自分たちの心が隣人について何を思い、何を感じているのか。それが聖なる神様の眼から見てどう評価されるのか、あまり気にしてはいなかったようなのです。
しかし、イエス様は兄弟に対して腹を立てること、兄弟を軽蔑したり、馬鹿にするような態度を取ること、ことばを吐くこと、思いを抱くこと、そのすべてが心の殺人であり、神様のさばきに価ずると教えました。
さらに、祭壇の上に供え物をささげようとしている時、つまり礼拝をささげようとする時、もし人に恨まれていることを思い出したら、まずその人と仲直りしなさいと命じてもいます。人に恨まれるようなことを自分がしたかどうかは関係がない。人が自分のことで心痛めたり、腹を立てていることに気がついた時、その人の所に行って仲直りしようとしないなら、これもまた神様のさばきに値する罪だと言うのです。
この教えは、最初読んだ時私にとって衝撃的でした。何度読んでも、神様の聖なる目はここまで見ておられるのかと驚き、心揺さぶられます。私たちは生まれた時から、人間社会の基準で罪を考えることに慣れてきました。ですから、実際に悪い行いを犯さなければ自分を善人と考え、安心してきたのです。
しかし、神様の聖なる目から見るなら、悪い行いは勿論のこと、心に抱く悪しき思いや願いも、また積極的に人を愛し、仲直りしようとしない生き方も、さばきに価する、とイエス様は教えています。つまり、私たちの性質そのものが罪に汚れているという、イザヤが聖なる神様に接して感じたことを、イエス様も教えておられたのです。
私たちの教会では、昨年から第二週の礼拝で罪の告白と言うプログラムを入れてきました。礼拝において聖なる神様を覚え、自分の罪を思うこと、もし神様の恵みなくば、滅びるしかない自分であると自覚すること。第二週だけでなく、毎週の礼拝において私たちみながこのような時間を大切にし、持つことができたらと思います。
けれども、聖なる神様がご自身を現されるのは、私たちが罪人であることを自覚するのが最終的な目的ではありません。神様が備えてくださった罪の贖いの恵みを、私たちが信じ、受け取り、そのことを通して私たちが神様との親しい交わりを取り戻すこと、それこそが神様の願いだったのです。

6:6、7「すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」

イザヤの唇に触れた燃えさかる炭は、神様が御使いセラフィムを通して与えてくださったものです。それは祭壇の上からとられたとあるように、人々の罪のいけにえとしてささげられた動物を焼いた火でした。後にイエス様が十字架と言う祭壇の上で、ご自分の命を燃やしつくし、その死によって私たちの罪を贖い、赦してくださったことを思い起こさせます。
こうして、燃えさかる炭を通し自分の罪が贖われたことを信じたイザヤ。そのイザヤの神様に対する態度はどう変化したのでしょうか。

6:8「私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

イザヤの神様に対する態度が大きく変わったことに気がつかれたでしょうか。罪の贖いを受け取る前は、聖なる神様の存在に圧倒され、何も答えることのできなかったイザヤ。そのイザヤが今は主の声を聞き、「ここに私がおります」と答えています。罪の赦しを受け取る前は、「私はもうだめだ」と絶望し,蹲っていたイザヤ。そのイザヤが、今は「だれが、われわれのために行くだろう」と言う神様の声を聞くと、「私を遣わしてください」と、神様とともに、神様のために生きたいと願う者へ変えられたのです。

へブル10:19「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。」

イエス様の十字架の血による罪の贖いを信じ、受け取り、神様との親しい交わりを回復すること。これが、神様の心からの願いであり、私たちが礼拝で受け取る最大の恵みでした。
最後に、二つのことを確認し、礼拝に臨む私たちの心がけとしたく思います。
ひとつは、聖なる神様がいますことを覚え、意識して、礼拝をささげたいということです。皆様は、信仰の成長をどのような点から考えるでしょうか。信仰の成長を考える聖書的な一つの視点は、罪の自覚です。その人が本当に神様とともに歩んでいるかどうかは、罪の自覚の深まりによって測ることができるということです。
例えば、パウロの歩みを見ると、年を重ねるほどに罪の自覚が深くなってゆくのが分かります。最初は使徒たちの中で一番小さな者と告白していたパウロが、やがてすべての聖徒、クリスチャンの中で一番小さな者と告白し、晩年には「自分は罪人のかしら」と心から告白する者となる。この様な歩みは、聖なる神様を覚える礼拝を積み重ねた賜物と考えられます。
そして、自分の罪を自覚すればするほど、私たちは神様との親しい交わりを求めるようになるのです。神様との交わりに本当の平安、慰め、満足があるからです。
「神様、あなたは私たちをあなたに向けて造られました。私たちの心は、あなたのうちに憩うまでは安らぎをえません。」アウグスチヌスと言う人の、この有名なことばは、神様との親しい交わりのうちにある時、最も幸せを覚える者として私たち人間は創造されたと言う聖書の教えを確認するものでした。
毎週の礼拝において、私たちが神様との交わりを慕い求める心を抱くことができるように、神様との交わりのうちに平安、慰め、満足を受け取ることができるようにと願います。
ふたつめは、礼拝を通して、私たちの考え方、生き方は神様中心のものに変えられるということです。今日の聖句です。

6:8「私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

聖なる神様に接し、自分の罪を思い、自分が本当に無力な存在であることを感じていたイザヤが、罪の贖いの恵みを受け取ると、感謝をもって「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と答える姿、これを私たち心に刻みたいことばです。
イザヤの如く、礼拝を通して、私たちも神様のもとからこの世に遣わされることを覚えたい。神様とともに、神様のためにこの世で生きる思いを新たにすることができたらと思います。

2015年1月1日木曜日

元旦礼拝 ピリピ人への手紙4章6節~7節 「願い事を」

 新年明けましておめでとうございます。皆様とともに礼拝をもって新たな年を迎えることが出来ますこと、大変嬉しく思います。これから始まる私たち一人一人の歩み、四日市キリスト教会の歩み、日本長老教会の歩みが祝福されますよう皆で祈りたいと思います。

 一月一日は元旦と言います。初めの日。実際には日が一日進んだだけ。何かが新しくなったわけではないのですが、この日を機に私たちは新たな歩みを心がけます。日本語としても、初日の出、初稽古、初化粧、若水、若湯など、いつものことでもめでたく呼ぶことで、全てが新しくなったと見立てる知恵があります。元旦は、心機一転、これを良い機会として自分の歩みを整える日。
 皆様はこれから始まる一年、どのように生きたいのか、一年の計画は立てているでしょうか。「一年の計は元旦にあり」「New year's day is the key of the year.」一般的な格言ですが、まさに今、一年の計画を立てるべしと教えるもの。
確かに、目標無しに何かに取り組むことは難しいこと。目標や計画があることで、充実した生き方となります。「今からマラソンをします。ヨーイドン。」と私がここで宣言したとして、ゴールがどこだか分からないと誰も走り出せません。ゴールを見据える、計画を立てて行動することは大切なこと。日々の忙しさで目を回している時ではなく、この初めの日、新たに目標を見据え、計画を立てる。自分の願いは何なのか考えることは良いことです。

聖書の中にも計画を立てることの大切さを示す言葉がありました。
 ルカ14章27節~32節
「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。」

 塔を立てる、戦争をするのに決意や覚悟、計画が必要なのは言うまでもない。当たり前のこと。決意や覚悟、計画無しに行動を起こせば、恥をかく、白旗を挙げて軍門に下らなければならなくなる。そうであれば、自分の十字架を負ってキリストについて行くこと、キリストの弟子となる「大工事」、「大戦争」においてはなおさらでした。主イエスに従うのは、塔を立てる、戦争をすること以上に決意と覚悟、計画が必要なのだと教えられる箇所です。
 主イエスを信じ、祈りと聖書の日々を送り、週に一度礼拝をささげる。それは本当に素晴らしいことですが、無意識、無計画に取り組むことのないように。どのように神様を愛するのか、どのように人を愛するのかを考えながら、キリスト者の歩みをしたいと思うのです。
 一年の初めの日。この一年、どのように神様を礼拝し、仕えるのか。どのように隣人を愛し、キリストを伝えていくのか、皆でよく考えたいと思うのですが、どのような心構えで一年の計画を立てたら良いのか。聖書から確認したいと思います。
さて、もう一度お聞きしますが、皆様は、このように生きたい。このようなことに取り組みたいという願いを持っているでしょうか。聖書によれば、神様は私たち一人一人に志を与えて下さいます。神様が下さる志。聖なる情熱。
 ピリピ2章13節
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」

 キリストを信じる者に神様が下さる恵みは多くありますが、そのうちの一つは志。自己中心の欲望、罪にまみれた情熱ではなく、正しい願望、聖なる願いです。私たち皆、それぞれの状況に応じて、小さなものから大きなものまで、神様が志を与えて下さる。
 聖書に記されている信仰者の姿を見る時、神様から与えられし志に従う時は、いかに困難な状況であろうともそれが最善の道であることが分かります。およそ人間にとって幸いな人生とは、神様が下さる志に従って生きることでしょう。
皆様は、今の自分に神様が与えて下さっている志が何か。考えたことがあるでしょうか。「神様が与えて下さった志は何ですか?」と聞かれた時に、「これだと思います。」と答えることは出来るでしょうか。

 神様が私に与えた志は何か。私のうちにある聖なる願いは何か。これを見極めることは意外と難しいこと。何しろ、私たちのうちにある願いは、神様が下さる志だけでなく、自己中心の欲望、罪にまみれた思いがあるからです。
 ヤコブ4章1節~2節
「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」

 キリストを信じる者。クリスチャン。私たちの中にも、どうしようもない欲望があると告白すべきでしょう。クリスチャンは罪赦された聖人ではない。罪赦された罪人。今は聖化の途上であって、私たちは、己の罪の性質と戦いながら生きているのです。
 一年の計画を立てる、目標を定めると言っても、私のうちにある願いが、罪から出たものなのか。神様が下さる志なのか。よくよく考える必要がある。よくよく見極める必要があるのです。 
明らかに聖書に反することを自分が願っている場合。その思い、その願いは捨てるので良い。問題なのは、自分でも判断がつかない時。一見、聖書的、教会的と思える願いの中にも、自己中心的な願い、自分の欲望を満たす願いが入り込むことがあります。よくよく気を付けないといけないところ。

 また願うもの、願う状況は正しいものでも、願い方が問題となることもあります。
例えば、教会で奉仕をすることを願う。その願い自体は良いもの。しかし、それを願う人が、奉仕をしなければ充実した人生を送れないと考えているとしたら。奉仕が最上の生きがいとなり、それ抜きではどのように生きたら良いか分からないとなっているとしたら。その願い方は大きな問題なのです。
あるいは、家族の平和を願う。その願いは素晴らしいこと。聖書的です。しかし、神様に従うこと以上に家族の平和を求めるとしたら、危機的状況と言えます。
 それ自体は良いものでも、神様より重要だと見なす。あるいは、神様からしか得られないものを、それから得ようとするならば、得られない方が良いということもあります。

 私の願いが神様から与えられた志なのか、それとも自分の欲望からのものなのかを判断する。あるいは、願い自体は良いものでも、願い方は間違っていないか判断する。どちらにしても、判断する力、見極める力、識別力が必要でした。
パウロの祈りが思い出されます。
 ピリピ1章9節~10節
「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。」

 ピリピの教会員のためのパウロの祈り。この祈りを私たちは自分のために、またお互いのために祈るべきでした。見極める力、霊的識別力を祈りながら、自分の願いは何か、一年の計画は何か、考えたいものです。
 識別力が与えられるように祈る。祈り合うことも大事。しかし、もう一つのパウロの勧めに今日は焦点を合わせたいと思います。

 ピリピ4章6節~7節
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

 ここで、あなたの願い事を神に知って頂きなさいと勧められます。面白い表現。祈りの中で、願いを知ってもらうとはどういうことでしょうか。
 元来、私たちが神様に願うのは、その願いを叶えてもらうため。叶えてもらいたく願うのです。ところがパウロは、叶えてもらいなさいというのではなく、知って頂きなさいと言います。それはつまり、その願いが正しいのかどうか、神様に相談しなさいということ。自分の願いを知って頂き、この願いをどうしたら良いか、神様に聞く。そのような親しい交わりを持つようにとの勧めです。
 祈りとは自分の願いを口にすることと考えている人にとっては、衝撃的な勧め。祈りとは、自分の願いが相応しいものか神様に聞くこと。自分の願いを整えること。
 この自分の願いを神様に知って頂き、神様に相談するということは、パウロ自身が経験したことです。

 Ⅱコリント12章7節~9節
「私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」

 「一つのとげ」と言われていますが、パウロには病がありました。目の病気とか、てんかんと推測されています。パウロにとっては嫌なものであり、取り除かれることが願いでした。苦痛からの解放。あるいは、これがなければより伝道が進むと考えたでしょうか。しかしパウロは、その自分の願いに対する神様の考えも受け取り、願いの通りにならないことでも満足しています。自分の願いの通りにならなくても、満足する。これが、神様に願いを知って頂くということです。このような神様との親しい交わりが勧められているのです。果たして私たちは、これ程の神様との親しい交わりを、経験しているでしょうか。味わっているでしょうか。

 私たちの願いを知って頂いた後の神様からの応答。それは、天から直接声が聞こえて来てくるというものではありません。(絶対にそれが起こらないとは言えませんが、多くの場合は別な方法です。)聖書を読む中で、神様の思いを知ること。説教で教えられること。礼拝の交読文や賛美を通して。クリスチャンの交わりの中で。本を通して。あるいは出来事の意味を考える中で。私たちは神様からの応答をどれだけ味わっているでしょうか。新しい一年、より神様との親しい交わりを喜び、楽しむ歩みを送りたいと願います。

 以上、いくつかのことを確認しました。まとめて終わりにいたします。
 新たな年を迎えて、私たちは今一度、自分の願いは何か。どのように生きるのか考える時となりました。
しかし、私たちの願いは、聖なる志もあれば、罪からくる欲望もある。今、自分の持っている願い、計画は良いものなのか。正しいものなのか。見極める必要がありました。その見極める力はどのように身につけたら良いのか。見極める力を下さいと祈ること。そして、今の自分の願いを神様に知って頂くことです。
おそらく、今日は日本で一番多くの人が神社、寺に行き、自分の願いを口にする日でしょう。私たちは教会にて、自分の願いをどうするのか。神様に知って頂くのです。自分の願い通りになることが最上なのではなく、私の願いをどのようにするのが良いのか、神様に聞くのです。このような信仰の姿勢を持って、自分に与えられた志が何かを考えること。この一年の計画を立てることに取り組みたいと思います。
 皆様とともに、自分に与えられた志を確認し、その志に従う歩みをする。その時、どれ程素晴らしいことが起こるのか。大いに期待します。