2015年1月25日日曜日

マタイの福音書6章12節 「信仰の基本(3)交わり~赦しについて~」

新しい年が明け、早くも一月が過ぎようとしています。今年は何を目標に歩んでゆくのか。学び、仕事、家族、それぞれの分野で皆様の願いがあるのではないかと思います。礼拝では、今月と来月の最初、信仰生活の基本となる事柄を学び、私たちみなが新たな思いで信仰の歩みを進めてゆけたらと思っています。今日は交わりについて考えます。
聖書の最初の書創世記に、神様が「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」と語る場面があります。この時最初の人アダムが存在していました。彼のためにエデンの園という楽園が用意され、人間の生活を支え、豊かにする動物たちもそばにいました。アダムが食べて、寝て、生きると言う意味では十分な環境が整えられていたのです。しかし、神様はアダムと心通わせ、喜び、悲しみ、労苦をともにするパートナーとしてエバを創造しました。神様は最初から人間を交わりの中に生きるように造られたのです。
昨年NHKで、山中慎弥教授が出演する人間の細胞に関する特集番組を見ていて、印章に残ったことの一つは、脳内物質のオキシトシンのことです。このオキシトシンが分泌することで、心のストレスは癒され、気持ちが安定し、人に対する信頼感や親愛の情が増す。つまり、私たちの心に幸福感をもたらしてくれるものなのですが、これがどのような時脳の細胞から最も良く分泌されるのか、分かるでしょうか。
人と一緒に何かをしている時だそうです。一緒に食事をする。一緒に散歩する。一緒に汗を流す。一緒の場所にいてゆっくりする、語り合う、祈り合う。神様は、私たち人間が交わりの中に生きる時幸せを感じる者として創造したということが、科学的にも確認できたわけです。
私は食べることが大好きですが、人間にとって食事は単に食欲を満たすこと以上の意味、霊的な意味を持っていることを感じます。親しい人、大切な人、初めて会った人、久しぶりに会った人。様々人と共に食事をすることで、私たちはお互いを歓迎し、喜び、親しむことができます。同じご馳走も、ひとりよりも交わりの中で食べると美味しく感じることが多いように思います。私たちは交わりの中に生きるよう創造された者であることを覚えさせられます。
しかし、神様に背を向けてから、人間の交わりは歪んでしまったと聖書は教えています。特に、人を赦せないことがどれ程交わりを破壊してきたか。いかに多くの人が赦しの問題で悩み、苦しんできたことかが分かります。
妻に勧められた木の実を食べたのは自分自身であるのに、それを神様に指摘されると、妻の行いを赦せず、責め立てる夫アダム。自分が兄に対してなした行為が赦されるはずはないと思い込み、兄の方は赦しているのに、兄を恐れ、頑なに心開こうとしない弟。父親を赦すことができず、反抗する息子。その息子を愛していたのに、仲直りできず、息子の死後後悔の涙を流す父親。自分が信頼するイエス様に聞き従わない人々に我慢ができず、攻撃しようとして戒められた弟子。昔から人間のやっていることは変わらない。昔も今も、赦しは私たち人間にとって大きな宿題と感じます。
神さまはこの様な世界に本来の交わりを回復するため教会を建てられました。私たちは、皆が赦しに取り組んで愛の交わりを築くため、イエス様によって召され、集められた者なのです。家庭、地域、職場。世界の到る所で人間本来の交わりが歪み、壊れてゆく中、私たちが教会で愛の交わりを回復し、世に広げてゆくこと。それが、私たち教会の使命であることを確認したいと思います。
さて、今日取り上げた主の祈りは、イエス様が弟子たちに教えた祈りとして有名なもの。礼拝でも取り上げられる祈り、日毎口ずさむ祈りとして、お馴染みかと思います。この中で私たちが赦しにどう取り組んだらよいのか、イエス様が教えてくださっていますから、そこに注目したいと思います。

6:12「私たちの負いめをお赦しください。」

負い目と言うことばは元々借金を意味していました。当時のユダヤ人は、神様に対しお返しすべき借金として罪を考えていたようです。それに対して、イエス様は人間は神様に対して罪と言う借金を償い、返済することはできないと教えています。「私たちの負い目、罪をお赦しください」とは、私たちは私たちの罪をとても償いきれませんから、どうか棒引きにしてくださいと神様に願い、祈ることを意味しているからです。
イエス様は当時のユダヤ人が考えるより、今の私たちが考えるより、はるかに罪を深刻なもの、人間の努力ではどうにもできないものと考えていました。当時のユダヤ人は「殺してはいけない」という神様の戒めを実際の殺人の禁止と考え、殺人罪を犯した人はこの世の裁判で裁かれることを定めたルールと考えていたいたようです。
しかし、イエス様はこの神様の戒めは、その様な表面的な意味ではないことを教えています。たとえナイフで人を殺めたことがなくても、心の中で人に腹を立てることは殺人罪。能無し、馬鹿者とことばで人を見下し、否定し、責めることも殺人罪。人が自分のことを良く思っていないことに気がついていながら、自分からその人の所に行き、仲直りしようとしないなら、それもまた殺人罪。みな等しく、神様のさばきに値する酷い罪と教えているのです。
昨日までは、罪人などとは思ってもみなかった人が、この聖なる神様の眼を知る時、自分が日々心の思いにおいて、ことばにおいて、行動において、いかに殺人を繰り返す罪人であるかに気がつくことになります。
また、罪を積極的な罪、つまりしてはいけないことをなすと言う罪と、消極的な罪、なすべきことをしないと言う罪と言う二つに分けて整理することもできます。してはいけないことはしなかった。口にしてはいけないことばも吐かなかった。けれど、果たして自分は正しい思いを抱き、すべきことを十分してきただろうか。私たちはそう自分に問いかけてみる必要があるかもしれません。
ある時、聖書の戒め、教えの中で何が一番大切なものかと質問されたイエス様は、こうお答えになりました。

マタイ22:37~39「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」

心の思いにおける罪、ことばにおける罪、行いおける罪。そして、全身全霊で神様を愛していない罪、自分と同じように人を愛していない罪。私たちは日々償いきれない罪、神様のさばきに値する罪を犯して生きている存在であることを自覚したいと思います。
しかし、イエス様の教えはここにとどまりません。「私たちの負い目をお赦しください」と、私たちの罪を天の父に赦してもらうよう願い、祈ることを勧めていました。神様の罪の赦しの恵みに信頼しなさいとの勧めです。
人を赦す者となるために、私たちがなすべきは、日々自分の罪を思い、その赦しを祈り願うこと、私たちの罪を赦し、神の子として受け入れてくださる、この大きな恵みに感謝する歩みなのです。
罪の赦しだけではありません。健康な体、日々の食物、着る物、住まい、家族や友、兄弟姉妹や神様の造られた自然、心に住んでくださる聖霊に至るまで、自分の罪のひどさを思う時、本当なら受け取るに値しない良いものを、どれほど豊かに私たちは日々受け取って生きていることか、生かされていることか。この神様の恵みを心から感する者として取り組むべきが、人の罪を赦すことと、イエス様は語ります。

6:12「私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」

新改訳聖書の訳は、私たちが人を赦したことが、神様による私たちの罪の赦しの条件と受け取られかねません。実際その様にこの祈りを理解する人々もいます。しかし、詳しい説明は省きますが、私たちが人を赦すことが、神様が私たちを赦してくださる条件と言う考えは、聖書全体の考えと合ってはいません。
ですから、この箇所。皆様に意味を正しく理解してもらうために、「私たちも、私たちに負い目のある人を赦します。」と変えて、話を進めてゆきたいと思います。
神様が私たちの罪を赦してくださったように、私たちも私たちに罪を犯した人を赦します。イエス様は私たちに、天の父に向かって赦しの決意を、祈りと言う形で告白するよう勧めていることになります。「天の父なる神様。あなたが私の罪を赦してくださったように、私も~さんのことばや態度を赦します。」具体的に言えば、この様な祈りをささげることになるでしょうか。
しかし、私たちは本当に弱い者、徹底的に自己中心に感じ、考え、行動する性質をもっていますから、赦すことを簡単には決意できません。決意したとしても実践に移すことが苦痛であったり、実践しても相手から願っているような応答がなくて失望し、また元に戻ってしまうこともしばしばです。
ですから、大切なのは、この様な私たちの罪を良く知り、理解したうえで、私たちを受け入れてくださっている天の父なる神様。この神様との安心できる関係の中で、赦しに取り組み続けることではないかと思います。
私たちが赦しに失敗しても決して責めないお方。私たちを懐に抱き、受け入れて、「わたしがそばについているから、何度でもやって見よ」と励ましてくださる天の父。この様な神様の存在に慰められ、力を得て、私たちは赦しという難しい作業に取り組むことができるのです。
この様な私たちにとって、モデルとなる存在がイエス様でした。聖書には十字架につけられた時、イエス様がいかにこの赦しの問題と取り組まれたのかが示されています。

Ⅰペテロ2:21b~24「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

私たちは人から酷いことばや態度を受けた時、心が傷つきます。私自身の経験からすると、それほど酷いことばや態度ではなくても、自分が相手に期待しているような応答とは違うものが返って来ると、心が傷ついたと感じることが多い気がします。そして、その様な時、私たちのうちから湧き上がってくるのは悔しさや怒りの感情であり、相手を責めることばであり、力で抑えつけようとするような態度です。
それを、私たちは人間として自然な反応、当然の反応と考えてこなかったでしょうか。「こんな態度を取られたら、黙ってはいられない」「ここまで言われたら、一言言い返さないと面子が立たない」。自分のことばや態度を正当化しようとします。しかし、イエス様の考え方、生き方はそうではなかったのです。イエス様は神の子としての自由を用い、相手をののしり、脅すと言う、怒りや悔しさに支配された反応に死に、むしろ彼らのために十字架に死ぬと言う道を選ばれた、と言うのです。心から信頼する天の父との交わりの中で、赦し、愛することを実践したのです。
そして、聖書は、イエス・キリストを信じる者は、イエス様が持っておられたこの神の子としての自由を与えられたと教えています。24節に「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされた」とある通りです。
私たちが足を酷く骨折した場合を想像してください。足の骨折から癒された、回復したと言うのはどのような状態でしょうか。骨折した骨がくっつくこと、そして歩けるようになることでしょう。癒され、回復するとは、私たちがベッドに座り続けることも、歩くことも、どちらも選べる自由を持っていると言うことです。
イエス・キリストの十字架の愛は私たちが心に受けた傷を癒すだけではありません。相手の態度に対する悔しさや怒りに支配されて、やり返す、言い返すと言う行動を選ぶことも、相手のために考え、語り、行動することをも選ぶ自由を与えられているのです。皆様は、このことを自覚しているでしょうか。
「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人を赦します」。日々この祈りをささげ、神様の子どもとしての自由を正しく用いて、人を赦す歩みを進めてゆきたいと思います。
最後に、二つのことをお勧めしたいと思います。ひとつは、人を赦せない自分とゆっくり付き合ってゆくと言うことです。癒され、回復したと言っても、今の私たちはリハビリの状態あると言っても良いかもしれません。骨折から回復してリハビリ中の人が躓いたり、転んだり、リハビリの苦しさに根をあげたり、病人に戻ったかのごとく寝てばかりいたり。
その様に、神の子とされた私たちも、赦しに取り組む中で躓き、転び、苦しさに根をあげ、自分の無力を感じて嫌になったりすることがあると思います。そんな時は、ゆっくりやればよいと自分に声をかければ良いと思います。赦すと言う作業には長い時間がかかるからです。
相手のことばや態度を思い出すと心が痛む。何とか同じ場所にいられる。日常会話ができるようになる。相手を責める思いが薄れてくる。相手の気持ちや事情が分かる。相手のために考え、行動できる。赦しはすぐに達成できると言うより、こうした様々な段階を踏んでゆくもの。自分がどの段階にいるのか、意識しながら一歩先を目指してゆけば良いと思うのです。ある所まで来たと思ったら、また逆戻りなどと言うこともありますが、焦らず急がず、神様が共にいてくださることを確認、安心して、またそこから歩みだせば良いと思います。
二つ目は、ひとりではなくということです。神様と一緒にと言うことは何度か言いましたが、信頼できる兄弟姉妹と一緒にと言うのも本当に助けになると思います。悩みを打ち明けたり、祈り合ったり、励まし合ったり。私たちは安心、信頼できる人間関係の中にある時、自由を正しく用いる力が強められるからです。今日の聖句を読みます。

Ⅰペテロ4:8「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」