礼拝は信仰生活における心臓と言われます。心臓の活動によって血液が巡り、私たちは見たり、聞いたり、考えたり、働いたりと様々な活動ができるように、礼拝で受け取った霊のエネルギーが、私たちの信仰生活の原動力となるのです。
また、礼拝が生ける神様との交わりの場であることも確認してきました。礼拝プログラムは神様からの語りかけ、例えば招きのことばや説教と、私たちの応答、例えば賛美や祈りが交互に組まれています。全体を通して、神様と私たちが交わることができるよう考えられているのです。
しかし、一週間に一度、一年で50回以上行われる礼拝を毎回充実させることは、意外に難しいもの。私たち自身が礼拝に備える姿勢、礼拝に対する心がけをもち、実践してゆく必要があるように思います。
前夜ゆっくり休んで体調を整える。少し早めに礼拝の席に着き、交読文の聖書箇所や讃美歌に目を通し、自分の信仰の告白として読めるよう、歌えるよう準備する。神様がおられることを覚え祈りつつ礼拝に臨む。様々な備えがありますが、今日心がけると良いことのひとつとして皆様にお勧めしたいのは、神様がどのようなお方かを覚えて、神様がこの場にいますことをしっかりと意識して礼拝すると言うことです。
特に今日は、旧約聖書の預言者イザヤの礼拝に目を向け、聖なる神様を覚えて礼拝することの大切さについて考えてみたいと思います。
6:1~4「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。」
ウジヤは52年の長きに渡り南ユダを治めた王様、名君の誉れ高き人物でした。ウジヤ王は外国の攻撃から良く国を守り、政治的にも数々の業績をあげ、ために南ユダは安定した時代を過ごし、繁栄を謳歌することができました。しかし、霊的に言えば、人々の心は神様から離れ、ささげる礼拝は次第に外面的、形式的なものとなり、社会には悪や不正が蔓延っていたのです。
その様な時、イザヤは聖なる神の現れに接したと聖書は語ります。イザヤは主を見たとありますが、人間は誰ひとり肉眼で主なる神を見ることはできないと言うのが聖書の教えるところです。ですから、「そのすそは神殿に満ち」とあるように、イザヤが見たのは主なる神の栄光の一端だったのでしょう。
しかし、セラフィムの飛ぶ姿を見、彼らが呼び交わす声を耳にした時、イザヤはそこにおられるのが主なる神ご自身であることをはっきり理解し、感じたと思われます。
セラフィムは神様に仕える御使いのひとりで、聖書のここにしか登場しません。彼らは六つの翼をもち、上の二つで顔を覆い、下の二つで足を覆い、真ん中の二つの翼で飛んでいたとあります。彼らが顔を覆ったのは、直接神様を見ることを控えたため、足を覆ったのは直接神様に近づくのを差し控えたためと考えられます。つまり、御使いでさえ、これ程に聖なる主、聖なる神を畏れていたということです。
さらに、彼らの賛美が印象的でした。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」聖書において、聖とは神様が世界の創造主であり、いかなる被造物とも比べることができないお方、造られたものとは完全に区別されたお方、一点の罪もないお方であることを意味しています。セラフィムが三度「聖なる」を繰り返し賛美したのは、彼らが神様の聖さに心打たれ、圧倒されたことを示していました。
こうして御使いでさえ畏れた聖なる神様に、イザヤはどう接したのでしょうか。
6:5 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
御使いセラフィムは畏れながらも、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」と、主なる神様を賛美することができました。しかし、イザヤはと言うと、自分の唇即ち口は汚れているため、神様を賛美することはできないと感じたと言うのです。唇は心の思いを表す器官ですから、イザヤが汚れていると感じていたのは自分の心そのものでした。
イザヤがどれ程自分の汚れをどれ程酷いものと思っていたか、いかに自分の罪に絶望していたか。それは、「ああ、私はもうだめだ」と言うことばに表現されています。この「もうだめだ」と言うことばは元々死とか滅びを意味していました。ですから、聖なる神様に接した時、イザヤは自分が霊的には死んでおり、本来滅ぶべき者であることを自覚したのです。
果たして、皆様は自分のことをこの様に感じた事、自覚したことはあるでしょうか。聖なる神様が自分の側にいて、自分のすべてを見ておられることを覚えたことはあるでしょうか。
へブル4:13「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」
ここに「神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています」とありますが、私たちが神様とともに歩むと言うことの一つの側面は、神様の聖なる目を意識しつつ生きるということなのです。
聖書には様々な所に、神様の聖なる目を覚えさせてくれる箇所がありますが、今日取り上げたいのは、イエス様の山上の説教の一部です。
マタイ5:21~24「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」
イエス様の時代、「殺してはならない」という神様の戒めを、人々は実際の殺人を犯さなければ大丈夫と理解していました。自分たちの心が隣人について何を思い、何を感じているのか。それが聖なる神様の眼から見てどう評価されるのか、あまり気にしてはいなかったようなのです。
しかし、イエス様は兄弟に対して腹を立てること、兄弟を軽蔑したり、馬鹿にするような態度を取ること、ことばを吐くこと、思いを抱くこと、そのすべてが心の殺人であり、神様のさばきに価ずると教えました。
さらに、祭壇の上に供え物をささげようとしている時、つまり礼拝をささげようとする時、もし人に恨まれていることを思い出したら、まずその人と仲直りしなさいと命じてもいます。人に恨まれるようなことを自分がしたかどうかは関係がない。人が自分のことで心痛めたり、腹を立てていることに気がついた時、その人の所に行って仲直りしようとしないなら、これもまた神様のさばきに値する罪だと言うのです。
この教えは、最初読んだ時私にとって衝撃的でした。何度読んでも、神様の聖なる目はここまで見ておられるのかと驚き、心揺さぶられます。私たちは生まれた時から、人間社会の基準で罪を考えることに慣れてきました。ですから、実際に悪い行いを犯さなければ自分を善人と考え、安心してきたのです。
しかし、神様の聖なる目から見るなら、悪い行いは勿論のこと、心に抱く悪しき思いや願いも、また積極的に人を愛し、仲直りしようとしない生き方も、さばきに価する、とイエス様は教えています。つまり、私たちの性質そのものが罪に汚れているという、イザヤが聖なる神様に接して感じたことを、イエス様も教えておられたのです。
私たちの教会では、昨年から第二週の礼拝で罪の告白と言うプログラムを入れてきました。礼拝において聖なる神様を覚え、自分の罪を思うこと、もし神様の恵みなくば、滅びるしかない自分であると自覚すること。第二週だけでなく、毎週の礼拝において私たちみながこのような時間を大切にし、持つことができたらと思います。
けれども、聖なる神様がご自身を現されるのは、私たちが罪人であることを自覚するのが最終的な目的ではありません。神様が備えてくださった罪の贖いの恵みを、私たちが信じ、受け取り、そのことを通して私たちが神様との親しい交わりを取り戻すこと、それこそが神様の願いだったのです。
6:6、7「すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
イザヤの唇に触れた燃えさかる炭は、神様が御使いセラフィムを通して与えてくださったものです。それは祭壇の上からとられたとあるように、人々の罪のいけにえとしてささげられた動物を焼いた火でした。後にイエス様が十字架と言う祭壇の上で、ご自分の命を燃やしつくし、その死によって私たちの罪を贖い、赦してくださったことを思い起こさせます。
こうして、燃えさかる炭を通し自分の罪が贖われたことを信じたイザヤ。そのイザヤの神様に対する態度はどう変化したのでしょうか。
6:8「私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
イザヤの神様に対する態度が大きく変わったことに気がつかれたでしょうか。罪の贖いを受け取る前は、聖なる神様の存在に圧倒され、何も答えることのできなかったイザヤ。そのイザヤが今は主の声を聞き、「ここに私がおります」と答えています。罪の赦しを受け取る前は、「私はもうだめだ」と絶望し,蹲っていたイザヤ。そのイザヤが、今は「だれが、われわれのために行くだろう」と言う神様の声を聞くと、「私を遣わしてください」と、神様とともに、神様のために生きたいと願う者へ変えられたのです。
へブル10:19「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。」
イエス様の十字架の血による罪の贖いを信じ、受け取り、神様との親しい交わりを回復すること。これが、神様の心からの願いであり、私たちが礼拝で受け取る最大の恵みでした。
最後に、二つのことを確認し、礼拝に臨む私たちの心がけとしたく思います。
ひとつは、聖なる神様がいますことを覚え、意識して、礼拝をささげたいということです。皆様は、信仰の成長をどのような点から考えるでしょうか。信仰の成長を考える聖書的な一つの視点は、罪の自覚です。その人が本当に神様とともに歩んでいるかどうかは、罪の自覚の深まりによって測ることができるということです。
例えば、パウロの歩みを見ると、年を重ねるほどに罪の自覚が深くなってゆくのが分かります。最初は使徒たちの中で一番小さな者と告白していたパウロが、やがてすべての聖徒、クリスチャンの中で一番小さな者と告白し、晩年には「自分は罪人のかしら」と心から告白する者となる。この様な歩みは、聖なる神様を覚える礼拝を積み重ねた賜物と考えられます。
そして、自分の罪を自覚すればするほど、私たちは神様との親しい交わりを求めるようになるのです。神様との交わりに本当の平安、慰め、満足があるからです。
「神様、あなたは私たちをあなたに向けて造られました。私たちの心は、あなたのうちに憩うまでは安らぎをえません。」アウグスチヌスと言う人の、この有名なことばは、神様との親しい交わりのうちにある時、最も幸せを覚える者として私たち人間は創造されたと言う聖書の教えを確認するものでした。
毎週の礼拝において、私たちが神様との交わりを慕い求める心を抱くことができるように、神様との交わりのうちに平安、慰め、満足を受け取ることができるようにと願います。
ふたつめは、礼拝を通して、私たちの考え方、生き方は神様中心のものに変えられるということです。今日の聖句です。
6:8「私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
聖なる神様に接し、自分の罪を思い、自分が本当に無力な存在であることを感じていたイザヤが、罪の贖いの恵みを受け取ると、感謝をもって「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と答える姿、これを私たち心に刻みたいことばです。
イザヤの如く、礼拝を通して、私たちも神様のもとからこの世に遣わされることを覚えたい。神様とともに、神様のためにこの世で生きる思いを新たにすることができたらと思います。