皆さまは「哀しみ」と聞いて、どのようなことが思い浮かぶでしょうか。最近、自分が感じた哀しみはどのようなことでしょうか。これまでの人生で、最も哀しかった出来事はどのようなことでしょうか。
人生は悲喜交々。喜びもあれば、哀しみもある。喜びだけで毎日を過ごすことが出来ればと願いますが、そうはいかない。私たちは哀しみにどのように向き合えば良いでしょうか。哀しみは私たちに何をもたらすのでしょうか。しばらくの間、皆さまとともに聖書から考えたいと思います。
一般的に「哀しみ」と言うと避けたいもの。出来るだけ味わいたくないものです。しかし、私たちは経験的に「哀しみ」が大事であることを知っています。特に、比較的容易に乗り越えられることが出来た哀しみは、振り返った時に、自分に必要であったと認めることが出来ます。
健康でいること、富を得ること、合格、昇進が、人を高慢、腐敗、堕落、不敬虔にすることがあり、病気、貧しさ、落第や左遷が、人間らしさを取り戻させ、敬虔を回復することがある。哀しいと感じる経験が、結果的には自分にとって有益であったと思うことは、しばしばあります。
聖書の中にも、積極的に哀しみを味わうように命じている言葉がいくつかあります。
マタイ5章4節
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」
イエス・キリストが話された説教の中の言葉。有名な言葉です。この言葉が語られた文脈は、罪を哀しむことへの勧めです。この世界を造られた神様の前で、自分はひどい罪人であると気が付き、その罪を哀しむ。自分の悪、罪を哀しむ者は、神様が慰めて下さるとの教え。自分の罪深さは哀しむようにと教えられている。
あるいは、仲間のために哀しむようにとの言葉もあります。
ローマ12章15節
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」
哀しみの最中にあって、最も励まされることの一つは、同じように哀しんでくれる人がいることです。哀しみの中にある人のために、あなたも哀しむようにと教えられる言葉。これも、積極的な哀しみの勧めの言葉です。
間接的な表現ですが、次のように哀しみを勧める言葉もあります。
伝道者の書7章2節
「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。」
喜び楽しむ宴会の場よりも、哀しみの葬儀の場へ行くように。喪中の家に行くように。何故か。生きている者が、人生の意味に心を留めるから、というのです。哀しみの中だからこそ考えることがある。哀しみの中にあってこそ、その厳かさの中でこそ、人生の最重要なことに向き合うことが出来るとの教え。この言葉も積極的な哀しみの勧めの一つとして覚えることが出来ます。
このように哀しみの中には、自分で意義を見出すことが出来る、重要である、必要であると思えるものがあります。聖書で、積極的に勧められている哀しみもあります。いかがでしょうか。自分の人生を振り返り、あの哀しい経験があったからこそ、今の自分があると思う出来事はあるでしょうか。このような哀しみ、自分でも意味があったと納得出来るものは良いのです。
問題となるのは、意義を見出すことが出来ない。有益であるとは思えない。納得がいかない哀しみです。
私たちは哀しい出来事に遭遇した時、「何故、このようなことが起こるのか。」答えを求めます。自分で納得の出来る答えがある時は良い。答えが見出せない時、その哀しみは、強いものとなります。答えが見出せない哀しみ、強く深い哀しみを味わう時、私たちはどうしたら良いのでしょうか。
キリスト教信仰が無かったとしたら。理由の見出せない哀しみに、どのように向き合うのでしょうか。
神などいない。この世界は偶然の積み重ね、進化の果てにあるのだと本気で信じるとしたら。その世界観は「宇宙には基本的に、計画も目的も善も悪もない。先が全く見えず、冷淡さだけがある。」(リチャード・ドーキンス)とか、「私たちは目的もなく生まれ、意味もなく生きている。死ねば、消えてなくなる。」(イングマール・バーグマン)のようになるでしょう。哀しみの原因を探ることなど無意味。哀しむこと自体無意味。いや、生きること自体無意味なこと、という考え方。
キリスト教信仰抜きに、答えの見出せない哀しみに向き会うのは、恐ろしいことだと思います。
しかし、キリスト教信仰があれば、答えの見出せない哀しみに容易に向き合うことが出来るかと言えば、そうでもありません。
キリスト教の根本的で中心的な教えの一つに、この世界を造られ、支配されている神様がおられるということがあります。キリスト教信仰を持っている人は、この教えを信じているのですが、悲劇的な出来事に出会うと、この教えによって苦しみが増すことがあります。
つまり、神様は私が哀しみを味わわないで済むようにすることが出来た。助け出すことが出来た。それにもかかわらず、今私は哀しみの最中にいる。果たして、この世界を支配している神などいるのだろうか。神が世界を支配しているのだとしたら、私を憎んでいるのだろうか。という信仰の葛藤を感じるのです。
私のクリスチャンの友人の言葉で忘れられないものがあります。その友人が好きだった女性が鬱病にかかり、自死を選んだ後。「世界を造り、支配している神様がいることを信じている。だからこそ、神様がゆるせない。どうして彼女の病を癒して下さらなかったのか。なぜ彼女が死のうとした時、それを止めて下さらなかったのか。神様の存在は信じているが、だからこそ神様が憎い。」との言葉。
哀しみの原因や、表現は異なりますが、同じような苦しみ、葛藤の言葉はいくつも聞いてきました。頭では神様が私を愛していること、最善へと導いて下さることは理解しているものの、心がついていかないとの声。哀しみの原因となる出来事が起こることをゆるした神への怒り、不信の声。
皆さまは哀しみの中で信仰の葛藤を覚えたことはあるでしょうか。神様への怒りや不信を抱いたいことはあるでしょうか。
聖書を開きますと、哀しみの中で、神様への怒りや不信を吐き出す信仰者の言葉を多く見出すことが出来ます。
例えば、戦いに負けて敵国に蹂躙された経験をしたギデオンの嘆きの声。
士師記6章13節
「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。」
財産、家族、健康を失い、哀しみの中で喘ぐヨブの声。
ヨブ記19章7節
「見よ。私が、『これは暴虐だ。』と叫んでも答えはなく、助けを求めて叫んでも、それは正されない。」
預言者エレミヤは、より直接的に神様に詰め寄る言葉を残しています。
エレミヤ14章9節
「なぜ、あなたはあわてふためく人のように、また、人を救うこともできない勇士のように、されるのですか。」
答えを見出せない哀しみの中にあって、信仰者は神様に向き合います。そして、嘆きの言葉を吐き出します。このように嘆いて良いというところに、神様の恵み深さを覚えますが、それはそれとして、このような嘆きに聖書はどのように答えているでしょうか。殆どの場合、答えがないのです。少なくとも、直接的な答えはないのです。
イエス・キリストの弟子が、生まれつきの盲人を前に、その理由を質問した場面があります。
ヨハネ9章1節~3節
「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。』」
ここでイエス・キリストは、この盲人の哀しみに答えを出しています。「神のわざがこの人に現われるため」であると。しかし、もし私がこの人だったら。知りたい答えは、どのように神のわざが現われるのか。他の人ではなく、なぜ私が苦しまなければならないのか。なぜ哀しみの中にいなければならないのか、という疑問に対する答えです。「神のわざが現われるため」という大きな答え、究極的な答えだけでは、納得がいかないのです。
(実際、イエス様はこの人に対して、「神のわざが現われるため」と言っただけではありませんでした。盲目を癒す奇蹟をなし、更にはこの人がキリストの証人として大きな働きを為すように導かれています。)
私たちも哀しみに対する大きな答え、究極的な答えは聖書を通して頂いています。
ローマ8章28節
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
私が味わっている哀しみは無意味ではない。それには意味があり、神様が益として下さる。この確信は私たちを助け、励ましますが、しかし哀しみの最中にいる時。益になるととても思えない時、私たちはこの御言葉で混乱するのです。この黄金のような御言葉も、ひどい哀しみの中では、虚しく聞こえることになる。
何故、このようなことが起こるのか。何故、私にこれ程の哀しみがあるのか。答えが見出せない時。究極的な答えは教えられているとしても、それでは納得がいかない時。私たちはどうしたら良いのか。
思い出したいのは、イエス・キリストの姿です。人々が哀しみの最中にいる時、その原因を語るのではなく、また全ては益になるから哀しみも受け入れるようにと諭すのではなく、その哀しみがなくなるように取り組まれる救い主。「なぜ?」という問いに答えるのではなく、哀しみには慰めを与えようとされる救い主。
何故、このような哀しみを味わうのか。答えがなく、哀しみに沈む時。私たちは、その理由を探すのを止めて、神様が下さる慰めに心を向けるべきです。
Ⅱコリント1章3節~6節
「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。」
聖書の宣言によれば、私たちの神様は慰めの神様。どのような苦しみでも、私たちを慰めることが出来る方。それでは、どのように神様は私たちを慰めて下さるのでしょうか。私たちの神様は全知全能。この世界を造り支配されている方。神様が為すと言えば、どのようなことでも出来る方。
しかし、ここで示されている神様の慰めの方法は、人間を通してなされるもの。先に慰めを受けた者を通して、今、苦しみの中にいる者が慰められるのだと教えられます。つまり、神様の慰めはどこか遠くにあるものではなく、私たちの想像することの出来ない奇蹟的なことでもなく(奇蹟的な慰めも時にあると思いますが、基本的には)、私たちを通してなされる働きだと教えられるのです。
私たちはこれまで、教会を通して、どれだけ慰めを受けてきたでしょうか。教会から慰めを受けようと、どれだけ取り組んできたでしょうか。また哀しみの中にある人のために、どれだけ慰める者としての取り組みをしてきたでしょうか。神様の慰めが、神を信じる者を通して与えられるという聖書の教えを、どれだけ真剣に聞いてきたでしょうか。
深い悲しみに沈んだ時、私たちは勇気を持って、教会の仲間に哀しいことを打ち明けたいと思います。打ち明けられた者は、神様から慰める者としての役割を頂いたことを覚え、ともに哀しみに、ともに悩み、ともに祈ることに取り組みたいと思います。この聖書の言葉が絵空事となるのではなく、私たちの教会の姿となるようにと願うのです。
以上、私たちは哀しみにどのように向き合えば良いのか。哀しみは私たちに何をもたらすのか。皆さまとともに考えてきました。今日、確認したことをまとめると、次のように言えると思います。
私たちが哀しみに直面する時、その意義や意味を知りたいと願います。この哀しみにはどのような意味があるのか。また自分にとって、他の人にとって有益な哀しみでありたいと願います。そして、哀しみの意義や意味を見出せるとしたら、それはもう哀しみではなくなっているでしょう。
問題なのは、理由の見出せない哀しみ。どのような言葉も、教えでも納得出来ない。強い哀しみを抱く時。私たちはどうしたら良いのか。
神様の前で、また教会の仲間の前で、哀しいと告白するのです。哀しみを告白することは勇気がいること。教会の仲間に哀しさを伝えた時、どのように思われるだろうか。更に哀しくなることを言われるのではないか。哀しいと言ったところで何も変わらないのではないか、と恐れが沸いてきます。しかし、そのような恐れを乗り越えて、これこそ神様が慰めて下さる方法と受けとめて、哀しみを告白し合う関係を築き上げたいと思います。
今、哀しみの最中にいる方には、哀しみを告白する勇気が与えられますように。今、哀しみの最中にいる人を知っている方は、その方とともに哀しみに、支え、祈り合う決意が与えられますように。私たち皆で、哀しみから解かれる経験をしていきたいと思います。