今日は受難週の礼拝。イエス・キリストの十字架の苦しみを思い巡らし、その意味を考える礼拝です。今日からの一週間が受難週と言われるのは、ユダヤの都エルサレムに入城してから十字架、復活に至るイエス・キリストの歩みを、日毎に辿ることを、キリスト教会が行ってきたからです。今年は、私たちの教会でも十字架前夜、木曜日の夜に、イエス・キリストが弟子たちと最後の晩餐を守ったことにちなんで、聖餐礼拝を行います。お時間のある方は、ぜひご参加くださればと思います。
ところで、皆様は十字架に神様のさばきを見る派でしょうか。それとも、神様の恵みを見る派でしょうか。一般的に神様のさばきは、私たちが目を向けにくいもの、あまり考えたくないもの。それに対して、恵みは私たちにとって心地よいものです。
しかし、聖書は、十字架における神様のさばきと恵みの両面を、しっかりと見よ、考えよと教えているように思われます。さばきの厳しさを見つめることで、恵みの深さを知れと語っているように感じます。この点を踏まえた上で、今日の箇所、読み進めてゆきたいと思います。
時は紀元30年頃の春、ある金曜日の朝。場所はユダヤの都エルサレム郊外にある、通称ドクロの丘。最後の晩餐、ゲッセマネの園での逮捕、ユダヤ教の裁判、ローマ式の裁判、そして鞭打ち。前夜から、心にも体にも様々な苦しみを受けてこられたイエス様が、ついに十字架の木に釘づけにされます。
15:22,24,25「そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。…それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。」
人類史上最も残酷な刑と言われるのが十字架です。その木につけられたイエス様の体を襲う想像を絶する痛み。それに加えて、両隣の強盗、道行く人々、ユダヤ教指導者など、ありとあらゆる人が浴びせる嘲りのことば。午前9時から12時までの間、イエス様が忍耐していた苦しみは、このふたつです。
しかし、十字架刑による肉体的痛み、人々が浴びせる「他人は救ったが、自分は救えない」という屈辱的なことば。これらはイエス様にとって肉体的、精神的な苦しみ以上の意味を持っていたと考えられます。
聖書全体を読むと、神様の救いの計画を阻止しようと、サタンが様々に活動していることに気がつかれると思います。イエス様の生涯においても、十字架への道を進まぬようにと、サタンが荒野で直接誘惑したことがあります。弟子のペテロを用いて「十字架に死ぬことなど考えないように」勧めると言う出来事も記されています。
何故なら、イエス様が十字架に死ぬことによって、人類の罪を贖うと言う神様の救いの計画は実現するわけで、サタンにしてみれば、これこそ何としても阻止すべき出来事だったのです。
そうした流れの中で見ますと、この場面イエス様は十字架から降りるよう、試みられていたと言えます。十字架刑による肉体的苦痛だけでも、人をしてすぐに十字架から降りたいと思わせるのに十分なことです。また、「お前は、人は救えても自分は救えない哀れな男なのか。本当の救い主なら、十字架から降りてみよ」との嘲りも、イエス様をして十字架から降りる思いへと導く、誘惑のことばとして働いていたと思われます。
出来事の表面を見るなら、イエス様は人々に強いられて十字架につけられた者。苦しめられても、嘲られても、そこから逃れることのできないあわれな男と見えます。しかし、聖書の教えるところはそれとは異なります。聖書は、十字架から降りようと思えばいつでも降りることのできたイエス様が、自由な意志で、十字架の苦しみを受け続けることを選ばれたと言うのです。
Ⅰペテロ2:22~24「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」
ここで注目すべきは「自分から十字架の上で」ということばです。自分から、すなわち、人に強いられてでも、仕方なくでもなく、自ら進んで、自由な意志で、イエス様は十字架の上にとどまり続けたと言うのです。
この場面、イエス様は人々に抵抗せず、言い返してもいません。十字架から降りようともしていません。しかし、それはイエス様が無力だからではありませんでした。イエス様は私たちの罪を贖う為、ご自分の持てる力をフルに使い、全力でまた心から進んで十字架にとどまり続けてくださったのです。見える形では、イエス様は太い釘によって十字架につけられていましたが、本当にイエス様を十字架につけていたもの、それは私たち罪人への愛だったのです。
そして、その様なイエス様が、昼の12時からは、さらなる苦しみを受けることになります。
15:33,34「さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。」
12時になり、突然全地を覆った暗闇。散々嘲っていた人々が、ことばを失うほどの恐怖を感じた暗闇。3時に発せられたイエス様のことばと同時に、ぴたりと晴れた暗闇。この様な不思議で、超自然的な暗闇がただ一度、歴史の中で起こったことを、聖書は記しています。
それは、旧約聖書の時代、大国エジプトで苦しめられていたイスラエルの民が、エジプト脱出の際、神様が行った10の奇跡のうち9番目のもの。それが、エジプト全土を覆う暗闇でした。この時も、人々は恐れのあまり、声を失ったとあります。聖書において、暗闇は神様の直接的なさばきを示すしるしとしての意味を持っていたのです。
ですから、やがて世の終わりの時下る神様の永遠のさばき、地獄、ゲヘナの世界も、「人々は闇の中で泣いて、歯ぎしりする」と言う様に、暗闇と言うことばで象徴的に表現されていました。この時、十字架の立つ丘を中心に襲った暗闇は、神様の永遠さばきだったのです。
そして、その恐るべきさばきをすべて受けとめられたイエス様のことばが、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」でした。この叫びによって、イエス様は、罪を持ったまま生き続ける者が最終的にどのような世界に行き着くのか、身をもって示してくださったのです。
それは、肉体的にも、精神的にも非常に苦しい世界。何よりも、神様に見捨てられた状態、神様の愛を全く感じることのできない世界で永遠に生き続けると言う霊的に苦しい世界でした。
私たちは、ここに私たちの罪に対する神様のさばきがいかに厳しいものかを見ることができますし、見るべきでしょう。ことばを代えて言うなら、私たちの罪は私たちが思う以上に酷いもの、汚れたもの、腐ったものであるかを考える必要があると言うことです。
皆様は、「殺してはならない」と言う戒めの意味について、イエス様が教えられたことばを覚えておられるでしょうか。その戒めを、殺人と言う犯罪の禁止と考え、神様が込められた真の意味を知らずにいた人々に対し、イエス様はこう語っています。
5:21,22「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」
人に向かって腹を立てる者はさばきを受ける。人に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡される。『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれる。ことばは各々異なりますが、強調点は一つ。人に対して自分勝手な怒りを感じたり、人の存在を見下し、否定するようなことばや態度は、どれも神様の永遠のさばきに値すると言うのです。
私の知人の女性は、子どもの頃お母さんの存在が恥ずかしくて仕方がないと感じる時がたびたびあったそうです。それはお母さんの首のあたりにケロイド状に爛れた部分があり、特に暑い夏や銭湯に行く時など、それが人の眼に分かると、とても恥ずかしく、お母さんに自分から離れていてほしい、いなくなればいいと感じることもありました。
その皮膚の傷が幼子の自分が火に近づいた時、身を挺して守ってくれたためにできたものと父親に教えてもらった時も、お母さんに感謝するより、どうしてお母さんはそれを言ってくれなかったのかと腹が立ったのだそうです。
その彼女がこのことばをを知り、自分は毎日心の中で母を殺してきたと告白したのです。自分を愛し、育ててくれた母。その母の存在を身勝手な理由で恥かしく思い、疎ましく感じ、いなくなればいいと考えたりもした。何と自分の罪は酷いものであるか。本当に救いがたい罪人だと思う。そう言われたのです。
私たちには罪を見くびる傾向があります。私たちの内にある古い性質は、「社会の法律に違反しなければ良い」、「周りの人もこの程度の事は思ったり、したりしているじゃないか」と自分の罪を軽く見ようとします。神様の眼に罪がどのようなものかを考えようとしないのです。
罪が本当に酷いもの。私たちは本来神様にさばかれるべき立場にあり、そのさばきはいかにきびしいものであるか。そのことを、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と十字架上で叫ばれたイエス様の姿を通して、私たちいつも心に刻んでおきたいと思います。
最後に、十字架がもたらす恵みについて、三つのことを確認しておきましょう。
15:35~37「そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる。」と言った。すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。」
イエス様が、神様のさばきを受け、忍耐しておられる姿を見ても、全くそれを理解しようとしない不信仰な人々の姿です。彼らは「エロイ、エロイ」、これは「私の神、わが神」と言う意味ですが、このことばを預言者のエリヤと聞き間違えたのか、あるいはことば尻をとらえ、からかおうとしたのか。「こいつがエリヤに助けを求めているなら、本当にエリヤがやって来るか見ることにしよう」と、またも嘲りました。
ところが不思議なことに、さばかれて当然の彼らは死なず、息を引き取ったのはイエス様であったと聖書は伝えているのです。これは、本来さばかれ、滅ぼされて当然の私たち罪人ではなく、イエス様が身代わりにただひとり神様のさばきを受けてくださったことのしるしと考えられるところです。
続いて、二つの驚くべき出来事が起こりました。
15:38,39「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった。」と言った。
神殿の幕とは、神殿の一番奥にある部屋、そこに神様がおられると考えられていた至聖所と手前の聖所と言う部屋を隔てる幕のことです。神様と罪人の親しい交わりを隔てるもののシンボルでした。それが、イエス様の死によって真二つに裂けたのは、神様と私たちの間に親しい交わりが回復したことを示しています。
さらに、驚くべきは、イエス様を十字架につけた男、死刑執行人である、ローマ人の百人隊長の心が、イエス様に捕えられたことです。「この方はまことに神の子であった。」十字架において現されたイエス様の愛は、刑を執行した罪人の心を砕き、その生き方を変えてしまったのです。
以上、私たちが受けるべきさばきは、イエス様がすべてを引き受けてくださったこと、神様と私たちとの間に親しい交わり、安心安全な関係が回復したこと、イエス様の愛はどんなひどい罪人をも赦し、受け入れてやまない愛であること。十字架の恵みを確認することができたと思います。
今日は、私たちは、十字架を神様のさばきと言う視点から考えました。罪を神様のことばから見ようとしない私たちの古い性質、自分の罪を見くびり、軽く見ようとする私たちの高慢さを戒められたいと思います。
また、十字架を神様の恵みと言う視点からも考えました。特に、自分の罪の酷さ、凄まじさに悩む時、私たちは十字架の恵みに憩い、安らう者となりたいのです。
罪を軽く見ることは高慢です。しかし、神様が赦すと言われた罪を、自分は赦せないと考え、悩むことも、形を変えた高慢と言えるかもしれません。罪のどん底にあっても、赦しを求めることのできる恵み。私たちがそうすることを心から願い、そのために十字架にとどまり続けたイエス・キリスト。私たちは、この地上の生涯が続く限り、十字架を見上げ、溢れるばかりの恵みを受け取る者でありたいと思います。
Ⅰヨハネ3:16「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって、私たちに愛がわかったのです。」