2013年12月29日日曜日

マタイの福音書7章7節~12節 「求めるべきものを」

2013年が終わろうとしています。この一年はどのような年になったでしょうか。「どのような一年だったか、三分にまとめて話して下さい。」と言われたら、皆さまはどのようにまとめるでしょうか。喜び、楽しみの印象が強いでしょうか。悲しみ、困難が心に残っているでしょうか。皆様が味わいました人生の労苦に対して、神様のねぎらいや励まし、支えがあり、必要な力や満たしを得て、新年を迎えることが出来るようにと心からお祈りしています。
 ところで、一年を振り返ると言っても、様々な切り口があります。仕事のことか。学びのことか。趣味のことか。家族のことか。生活に大きな変化が起こったことか。信仰生活、教会生活のことか。振り返り方によって、その年の印象は変わると思います。
 それでは「何を求めてきたのか」という視点で、この一年を振り返るとどうなるでしょうか。この一年間、皆さまは何を求めてきたでしょうか。この一年間、継続的に神様に祈ったのは、どのようなことでしょうか。
一般的に「何を求めるのかで、その人の本性が分かる」と言われます。そうだとすれば、「何を求めてきたのか」という視点で一年を振り返るというのは、この一年、自分を何者として生きてきたのかを確認することになります。もう一度お聞きします。皆様は、この一年間、何を求めて生きてきたでしょうか。そして続く一年、何を求めて生きるでしょうか。
「山上の説教」と呼ばれるイエス様の有名な説教。神様に求めることをテーマにした箇所から、私たちは何を求めるべきなのか。考えていきたいと思います。
(約一年前の元旦礼拝にて、私たちは何を求めて生きるべきなのか。今日の並行箇所のルカ11章より考えました。今日は同じテーマを、マタイの箇所から考えることにします。)

 マタイ7章7節~8節
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」

 私たちはある意味で「求める」ことに関しては天才的です。生まれながらにして、求めることを知っています。祈りにおいても、「願い」が中心となりやすい。神様、こうして下さい。ああして下さいと祈る。
本来は、神様がどのような方か考え、聖書から教えられ、祈りの中でもっと、神様を賛美すべきではないか。与えられた恵みを覚え、もっと感謝すべきではないか。自分の歩みを振り返り、罪を告白すべきではないか。頭では分かっているのですが、実際には、最初に少し神様を褒め称え、少し感謝を述べ、少し罪を告白し、後は延々と願う。願い続ける。お願いばかりの祈りということがあります。
 今日の箇所で、イエス様は私たちに「求めなさい」と勧めていますが、「では、あれが欲しいです。これが欲しいです。」と言う前に、何を求めるべきなのか。本当に求めるべきものは何なのか。私たちは、よくよく考えるべきでした。
聖書は一方で、貪ることを禁じます。しかし、もう一方で、求めることを勧める。貪るのではなく、求めること。この違いは重要です。私たちは本当に求めるべきことを知り、信仰をもって求めているのか。問われるのです。

 ところで、マタイの福音書では、この「求めなさい」という言葉が、もう一つ、有名な言葉と合わせて記録されていました。「求めなさい」と勧められる一つ前の節です。
マタイ7章6節
「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」

「聖なるものを犬に」「豚に真珠」。どちらも同じ意味と考えられます。「豚に真珠」は日本でも諺として定着しています。その価値を知らないものに、高価なものを与えないように。もし与えたら、踏みにじられる、台無しにされてしまうから。
それでは、聖なるものとは何でしょうか。聖書の中には、聖なるものと呼ばれるものが多数出てきます。神殿の供え物、聖餐のパンとぶどう酒、救い、天国・・・。真珠とは、マタイ13章45節で、「天の御国」の比喩として使われています。聖なるものにしても、真珠にしても、神を信じる者にとって、最も大切なものの比喩です。
つまり、その価値が分からないものに、聖書が教えている最も大切なものを自由にさせてはならない。聖なることを尊ばない者に、聖なるものを差し出して、それを冒涜させてはならない、という戒めです。

 この言葉は与える側への注意として、「聖なるものを犬に与えるな」「豚に真珠を与えるな」とありますが、私たちがまず考えるべきは、受け手としてのことです。自分は、ここで言われている犬や豚のような者になっていないか。神様が与えて下さるもの。その価値を知らずに、足で踏みにじるようなことをしていないか。
 少なくとも、かつての私たちは、ここで言われている犬や豚でした。神様が下さるものに相応しい者ではなかった。神様が与えて下さるもの。その価値すら分からない者でした。私たちはもともと、ここで言われている犬であり豚であり、神様に求める権利などない存在であること。当然のように求めるのではなく、そもそも、天の父に求める資格などない者であったことを忘れてはいけません。
この「豚に真珠」という辛辣な言葉を経て、「求めなさい」との言葉が続くのです。

 マタイ7章7節~8節
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」

 もともとは、求める資格も、能力もない者に対して、「求めよ」との勧め。7節を、忠実に訳すなら、「求め続けよ。そうすれば与えられる。捜し続けよ。そうすれば見つかる。叩き続けよ。そうすれば開かれる。」と、執拗に食い下がる、うるさいほどに求めることの勧めです。8節は、念押しの約束です。「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれる。」
 私たちには、そもそも神に願う資格などない。神様はそれに答える義務などない。それでも、「求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれる」と教えられるのです。凄い約束。

 このように、「求めよ、さらば与えられん。」という御言葉を、直前の「豚に真珠」と合わせて受け取る時、私たちが神様に求める前に考えるべきことがあると教えられます。本来、私たちは求めるのに相応しくない者だということ。求めるべきものを知らず、神様が下さるものを足蹴にするような存在。この自覚の上に、「求める」ことが勧められているのです。
この自覚無しに求めようものなら、私たちの求める物は、私利私欲を満たすものばかり。自分では良いと思っても、有害なものばかり求めてしまう。私はもともと、何を求めたら良いのかも知らない。分からない者だった。何を求めたら良いのか、教えて頂かないといけない。その思いに立って、「求める者」となりたいと思います。

 それでは私たちは何を求めたら良いのか。その答えが、「求めなさい」との勧めの直後に出てくるように思います。
マタイ7章12節
「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり、預言者です。」

 これも非常に有名な教え。黄金律、ゴールデン・ルールと呼ばれるものです。この黄金律、聖書の重要な教えが、「求めなさい」との言葉と同じ文脈で出てくるのです。
(「求めなさい」という勧めと、黄金律が同じ文脈で語られるということが、並行箇所のルカ11章にはない、マタイならではの特徴と言えます。)

 聖書の中には様々な命令、戒めが出てきます。それらを集約するとどうなるのか。それを一つにまとめたらどうなるのか。私たちが生きるべき姿を、最も簡潔に表現したらどうなるのか。それがこの「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」という戒めです。何しろ、イエス様がまとめて下さった。
 この戒めが、「律法であり、預言者です」と言われていますが、「律法であり預言者」というのは、聖書のこと。(正確に言えば、キリストの時代には、まだ新約聖書はなかったので、旧約聖書を指します。)つまり「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにする。これが聖書の中心メッセージです。」という意味。「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようする。」これが、私たちのあるべき姿を示す大切な教えでした。

 私たちは自分にしてもらいたいことを考えることは、容易いこと。妻に何をしてもらいたいか。夫に何をしてもらいたいか。親に何をしてもらいたいか。子どもに何をしてもらいたいか。教会の仲間に何をしてもらいたいのか。上司に、部下に、同僚に、友人、知人、恋人に、近所の人に、何をしてもらいたいか。自分が何をしてもらいたいかを考えるならば、いくらでも出てくるでしょう。
 話しを聞いてもらいたい。理解して欲しい。ねぎらいの言葉、励ましの言葉がほしい。自分を評価してほしい。信頼してほしい。時間をとってほしい。などなど、いくらでも出てくる。簡単にまとめると、愛が欲しいとなるでしょうか。それも具体的な行動をもって、愛してほしいということ。

 自分がしてもらいたいことを考えるのは簡単。問題なのはその次です。「それと同じように、他の人にする」ということ。具体的な行動をもって、自分から愛すること。これが問題。いかがでしょうか。真実に、この黄金律に沿って生きることは、自分に出来ることでしょうか。
 果たして、この戒めに従って生きることが出来るのかと問われると、私たちは、困惑します。それが出来ないからです。自分はしてもらいたい。でも自分はしたくない。そのような思いが自分の中にあることを認めることになるのです。
 罪というのは、自分中心に生きること。いや、自己中心にしか生きられないこと。私たちは、罪赦された罪人。まだまだ自分の中に、自己中心的な思いがあり、自分にしてもらいたいことを、他の人にもするということが、非常に難しい。いや、出来ない、不可能といえます。

それでは、どうしたら良いのか。人間として、どのように生きたら良いのか。聖書で示されても、それが出来ない。私たちはどうしたら良いのか。思い出すべきは、この戒めは、この言葉だけ語られたのではないこと。「それで」という言葉でつなげられています。その前の言葉が「求めよ、さらば与えられん」でした。

 マタイ7章7節~11節
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子どもがパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してもると、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者に良いものを下さらないことがありましょう。」

 黄金律の前提になっている言葉は、私たちが求めること。求め続ける者であること。また、私たちの求めに応えて下さる天の父がいるということです。
 イエス様は「求め続ける者であれ」と勧めます。なぜなら、天の父は、求める者に良いものを下さらないわけがないから。それも印象的な言葉をもって、励まして下さっています。子どもがパンを求めているのに、石を与える親はいない。魚を求めているのに、蛇を与える親はいない。悪い者ですらそうならば、天の父は、良いものを下さるに決まっているではないかとの言葉。

 つまり、私たちは「自分にしてもらいたいことを、他の人にする」ことなど、出来ない。そのようなことはそもそも不可能。そのような力は自分にはない。しかし、自分には不可能なことを求めることは出来る。そして、天の父はそれに答えて下さる方だと教えられるのです。
 このように読んでいくことで、私たちな何を求めるべきなのか、分かってくるように思います。私たちは、自分の欲しいもの、自分勝手な願いを、求め続けるように勧められているわけではない。求めさえすれば、何でも与えられるわけではない。私たちにとって最高の人生、あるべき私たちの姿、黄金律に沿って生きる人生。それを求めること。そのような生き方が出来るように求め続けることが勧められているのです。この点について、「求めなさい。そうすれば与えられます。」との約束があるのだと教えられます。

 この一年間、私たちはどのような願いをもって生きてきたでしょうか。神様にどのようなことを求めて生きてきたでしょうか。私たちの口から出た願い、祈り、求めの中に、自分のしてもらいたいように、他の人に仕えさせて下さいというものは、どれだけあったでしょうか。

 今日の箇所に合わせて言うならば、キリストの贖いの御業は、求めるべきものが何かも分からない者が、正しく神様に求めることが出来るようにするもの。私たちが罪から離れ、この黄金律に沿って生きることが出来るようにしてくれるものでした。キリストを信じる者に与えられる聖霊も、求めるべきものが何かも分からない者が、正しく神様に求めることが出来るように助け手下さる方。私たちが、黄金律に沿って生きるように助けて下さる助け主でした。
 キリストの弟子。クリスチャンとは、どのような存在か。色々な答えがありますが、そのうちの一つの答えは、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにする。」という教えに沿って生きられるように、真剣に神に求める者と言えるでしょう。
 果たして、私たちはこのキリストの命令。「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにする。」という命令に真剣に取り組んできたでしょうか。この命令に心から従いたい。従う人生でありたいと考えてきたでしょうか。
 一年の最後の聖日。求めるべきものを教えられた者として、聖書の教えに従っていけるよう祈り求め続ける歩みをする決意をして、新たな年を迎えたいと思います。

 今日の聖句を皆で読みたいと思います。
 マタイ6章33節

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものは全て与えられます。」

2013年12月22日日曜日

マタイの福音書2章1-12節 「降誕~東方の博士たちが~」

フランスのシャモニー、イタリアのミラノ大聖堂、カナダのバンフ国立公園、エクアドルのガラパゴス諸島、ナミビアの砂漠、オーストラリアのグレートバリアリーフ。中国の万里の長城。皆様はこれが何だか分かるでしょうか。
死ぬまでに一度は行ってみたいと思っている世界の絶景として、日本人に人気の場所だそうです。個人的には一度も言ったことのない国であり、場所ばかりですが、写真などを見ますと、一度行けたらなあと感じさせる場所ばかり。美しい景色や歴史的な建物は、確かに私たちを旅へと向かわせる魅力があります。
また、そこにどうしても会いたい人がいるということも、人を旅へと駆り立てるものかもしれません。私の知人は、初孫の誕生を聞いて是非一目見たいとブラジルのサンパウロに出かけて行きました。飛行機を乗り継いでも片道二日近くかかる地球の裏側です。
しかし、紀元一世紀ユダヤの国に、当時の常識からすれば理解しがたい、不思議な旅をしてきた人々がいました。東方の博士と呼ばれる人々です。

2:1「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来た。」

当時の世界でユダヤの国に関心を持ち、旅をしたいと思う人は殆どいなかったと思われます。その頃ユダヤはローマ帝国に支配される弱小国。そんなユダヤに遥々旅をしてきたのが東方の博士たちでした。
政治と経済の中心ローマに旅をすると言うのなら分かる。景色の良い地中海の島に旅をすると言うのも分かる。しかし、政治的にも経済的にも弱い国ユダヤ。有名な観光地もないユダヤに、彼らはどうして遥々旅をしてきたのでしょうか。博士たちの言うところを聞いてみたいと思います。

2:2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

彼らは東の方、つまり自分たちの国で、その方、ユダヤ人の王として生まれた方の星を見たと言っています。
この星について、よく言われるのは、地球から見て土星と木星が重なって見える時に見られる特別な光ではないかと言うことです。天文学の計算では紀元前7年頃に、この現象が起こったとされ、キリスト誕生の時と合致します。
そして、日本語で博士と訳されたことばは星の研究をしていたが学者、賢者を意味していました。ですから、彼らはユダヤから見て東の国、こうした学者が重要な仕事をしていたとされるバビロンかペルシャの人で、旧約聖書が教える神様を信じ、そこに記された救い主の預言をある程度知り、信じ、待ち望んでいた人たちと考えられます。
じっさい、29,10を見ますとこうあります。

 2:9,10「彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」

 この星は博士たちの長い旅の先にたって導き、幼子のイエス様のいるところまで進み、その上でとまったと言うのですから、普通の星、普通の光ではありませんでした。聖書ははっきり書いていませんが、明らかにこの世界を創造した神様がこの星を用いて、彼らの旅を守り、導いたものと考えられます。
博士たちもそう信じていたからこそ、星を見て喜んだのでしょう。もし、この星の導きがなかったら、ベツレヘムにもイエス様と同じ頃に生まれた赤ん坊は多くいたはずですから、赤ん坊のいる家を一軒一軒訪ねなければならず、どの子が救い主であるか迷ってしまったことでしょう。
当時の状況を考えると、東方の博士たちの旅は大変な旅であったに違いありません。準備だけでも困難の連続だったでしょう。
博士とは星の観測、研究をして政治家の顧問などを務める重要な仕事。旅に出るためには長期の休暇が必要であり、その願いが簡単に認められたとは考えられません。また、長い旅を続けるための物資の準備や、盗賊から黄金、乳香、没薬という高価な贈物を守るためのガードマンを雇う必要もあったでしょう。
このような準備のためには、大変な時間と費用がかかったはずです。これ程の時間、労力、費用をかけて、危険を承知で東の国から遥々ユダヤまで旅をしてきた博士たち。彼らの心を動かしていたものは一体何だったのでしょうか。
この旅によって、彼らが経済的利益を得ることはありません。むしろ、失うものの方が多かったでしょう。また、政治的利益もありませんでした。博士たちがユダヤと言う弱小国と交流する価値は特に考えられません。さらに、宗教的な利益もなかったはずです。 博士たちはイエス様を神の遣わした救い主と信じていましたが、相手はまだ幼子。遥々旅をしてきた彼らのことを覚えていることなど期待できませんでした。
しかも、です。神様の預言のことばを与えられていた、いわば本家本元のユダヤ人たちは救い主誕生を知らず、王様へロデは幼子をライバルと思い、抹殺しようとしたと言うのです。

2:38「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」」
 
 宗教の専門家は救い主の預言について知識はあっても、救い主誕生を信じていない。ヘロデ王が博士たちに「幼子のことが分かったら知らせて欲しい。私も行って拝むから」と語ったのは真っ赤な嘘で、本心は幼子の抹殺。本当にひどい有様でした。博士たちは、神の民ユダヤ人のこのような姿にどれ程がっかりしたことことか。
 しかし、それでも彼らの心は挫けることなく旅を続け、救い主をその目で見、心からの礼拝をささげることができたのです。念願の礼拝をささげ、喜びに輝くその姿を見てみましょう。

 2:11,12「そして、その家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈物としてささげた。それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。」

現在の私たちはこの幼子がイエス・キリストであり、何をしたお方かを知っていますから、遠くから礼拝しに来る人がいたとしても当然ではないかと考えます。しかし、当時の状況を思えば、これは本当に考えれば考えるほど常識を超えた旅、不思議な旅としか言いようがありません。
しかし、この点にこそ、マタイの福音書が東方の博士たちの旅を記録した意味があったのです。何度も言いますが、この旅の目的は約束の救い主を礼拝する、ただそれだけでした。「私たちは、ユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝みに、つまり礼拝しに来ました。」彼ら自身が語ったとおりです。
この世の常識から言えば何の利益もない旅。多くの時間と費用をかけ、危険を覚悟の上でなければ出来ない旅。その目的はただひとつ、幼子イエス・キリストを礼拝することのみ。それ以外の目的はなしでした。
しかも、これだけの時間、労力、費用を費やしてなしたことは、ただ一度イエス・キリストをひれ伏して礼拝し、感謝のささげものとして黄金、乳香、没薬をささげることだったのです。
 博士たちの為した犠牲と献身。これぞ礼拝。これを真の神礼拝と言わずして、他に何と言うのでしょうか。博士たちにとって、神様を礼拝することはこれ程の犠牲を払ったとしても、行う価値のあること。この世の富、地位、名声を守ることより、はるかに価値あることだったのです。
 現在の私たちよりもはるかに少ない神様のことばに基づいて救い主の誕生を知り、信じ、目に見える姿はユダヤの大工の幼子でしかなかったお方に、ただ一度の礼拝をささげるため、この様な犠牲を払った博士たちの礼拝。
それに比べると、彼らよりもイエス・キリストについてよく知ることのできる恵みを受けている私たちの礼拝は果たしてどうでしょうか。人生における最高に価値あるものとして礼拝を考えてきたでしょうか。いつのまにか、真実と熱心にかけるおざなりの礼拝を繰り返してはいなかったでしょうか。
私たちは、神様を礼拝するために旅をする必要はなくなりました。イエス・キリストが十字架に死に、復活をして、いつも私たちとともにいてくださるようになったからです。ですから、私たちはいつでもどこでも神様に近づき、礼拝することができるようになったのです。
これは、東方の博士たちに比べ大きな恵み、うらやましいほどの恵みです。しかし、そのような恵みの中にあるために、かえって礼拝が形式的で、心の真実に欠けるものとなってしまうことを覚え、彼らの礼拝からいつも教えられたいと思いますし、教えられる必要があると思います。
何故なら、聖書は、私たち人間は最初神様を礼拝するために造られたと教えています。と同時に、神様を離れた人間が神様ではないもので心満たそうとする者となったことを教えています。
お金、名声、快楽など、人によって心満たそうとするものは異なっても、心満たそうとするものに心奪われ、その奴隷になるという生き方は共通しています。
また、いわゆる神や仏を信じても、神仏からのご利益を求めて礼拝するということもあるでしょう。礼拝がご利益を得る手段としてしまうという姿です。
つまり、この世界を創造した神様、真の神様に背を向けた人間は、ただ神様を礼拝するだけでは、喜びや満足を覚えることができない存在となってしまったのです。
皆様はどうでしょうか。このことに同意されるでしょうか。自分の中にもその様な弱さがあることを認められるでしょうか。
実は、イエス・キリストがこの世界に生まれられたのは、そのような私たちを造りかえるためだったのです。神様を礼拝することを、この世の何よりも価値あるものと考え、生きる者、神様を礼拝することひとつで、人として最高の喜びで心満たされる者へと造りかえるためです。
博士たちが礼拝した幼子が、やがて私たちの身代わりに罪を背負い十字架に死なれたこと、三日目に復活したこと、そしていつも私たちとともにおられることを、聖書は事実としてそれを伝えてきましたし、今も伝えています。
今日の聖句です。

ヨハネ114「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

私たちはイエス・キリストのなかに、神様による罪の赦しとその力からの解放と言う恵みを見ることができます。何度神様を離れ、そむいても、変わることなく私たちを愛し、ともにいて、私たちをあるべき生き方へ助け、導いてくださる神様のまこと、真実を見ることができるのです。

クリスマスは、このイエス・キリストの誕生を喜ぶ時です。この日を、いやこの日だけでなく人生のあらゆる日を、働くときも、食べるときも、病めるときも、健やかなときも、神様を礼拝する者、ともにいてくださる神様を喜ぶ者として生きてゆけたらと思います。

2013年12月15日日曜日

マタイの福音書1章18~25節 「待降節(3)~その名をインマヌエルと~」

今日は待降節の礼拝第三週目。前々回前回に続いて、マタイの福音書から救い主誕生について学び、クリスマスの意味を味わいたいと思います。
イスラエル民族の先祖アブラハムからダビデ王を経てその子孫ヨセフの妻マリヤからイエス・キリストがお生まれになったことを記す系図から始まったマタイの福音書。これは、イエス・キリストが旧約聖書において預言された真の救い主であることを示すものでした。
次は、どの様にしてイエス様が、ダビデ王の子孫であるヨセフの子になったのかが描かれます。ヨセフとマリヤの結婚、出産、赤ん坊がヨセフの子となること。その経緯は決して普通のものではなく、若い二人にとって非常に厳しい道だったのです。
その頃、ヨセフとマリヤは今で言う婚約関係にありました。しかし、今と違い当時のユダヤ社会では、この状態がまだ一緒に住むことは許されないけれども、正式な結婚と同じと考えられていたのです。
ですから、どちらかが他の異性と性的な関係を持ったことが分かれば死刑と律法に定められていました。実際には当時死刑までは行われていませんでしたが、結婚と性的きよさを重んじる点において今とは格段の差があったことは間違いありません。
このような時代、このような社会で、マリヤはヨセフと一緒に暮らす前に、聖霊によって身重になったのです。このことは、主の使いによってマリヤには知らされていましたが、ヨセフには知らされていませんでした。
それで、神様と神様の律法を尊ぶという意味で「正しい人」であったヨセフは、マリヤと別れる他はないと考えたのです。マリヤが身重になったことの真相を知る由もないヨセフにとってみれば、マリヤが他の男性との間に子をもうけたと思うしかなく、そのショックは計り知れないものがあったことでしょう。
しかし、彼は当然の権利であった裁判に訴えて相手を追及することも、慰謝料を求めることもせず、証人をたてて正式な離縁状を作り、それをマリヤに渡して去らせることを決めました。自分の権利よりも、マリヤを世間のさらし者にしたくはないという相手への配慮を優先した愛の人ヨセフの決断です。
そして、ヨセフがこの決断をした時、主のみ使いが夢に現れ、マリヤが身重になったことの真相を明らかにします。

1:20,21「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

「ダビデの子ヨセフ」ということばは、ヨセフが貧しい大工であっても正しくダビデ王の血を引く子孫であることを示しています。また、「その胎に宿っているのものは聖霊による」とは、聖霊の神様により生まれてくる男の子が私たちと同じ人間の性質を持つこと、ただし、それは罪に汚れていない本来の人間の性質であることを教えています。
当時多くの人々が、ローマ帝国の支配を打ち破り、ユダヤ人中心の国を建ててくれる地上の王を救い主として求めていたのに対し、ヨセフはご自分の民をその罪から救ってくださるお方を待ち望んでいました。
ヨセフは、この世には憎しみや争い、病や死など様々な苦しみがあることを承知していたでしょう。
そして、ダビデの子孫と言っても、王様も庶民も、男も女も、人間はみな自らを救いようのない罪人ばかり。自分も罪人の一人であることを悲しむヨセフは、この世におけるすべての苦しみの源は人間自身の中に宿る罪であることを悟っていました。その罪が赦され、人間が罪の力から解放されない限り、この世界に真の救いはないと分かっていたのです。
聖霊の神様によってマリヤから生まれる男の子が私たち人間と同じ性質を持つとともに、罪に汚れていない、きよい命の持ち主であることを知ったヨセフ。しかも、その名をイエス、「主は救い」という意味の名をつけよと主のみ使いに命じられたヨセフ。彼は、この神様のことばによって、離婚を決意したマリヤが生む男の子こそ真の救い主と信じることができたと思われます。
この様な出来事を聞いて福音書を書いたマタイは、旧約聖書に預言されていたことがイエス・キリストにおいて完全に成就したことに心打たれ、こう記しました。

1:22「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。」

神の民イスラエルと言っても、中身は罪人。神様に背き、己の欲望のままに生きたり、己の知恵や行いを誇る高慢に陥ったりする罪人ばかり。神からの救い主を求めたとしても、自分たちに都合の良い地上の王という有様。
それにもかかわらず、神様は預言どおり、約束どおり、人間を罪から救うことのできるお方を与えてくださったという感動です。
さらに、その感動は続く節に旧約聖書イザヤ書の預言、有名なインマヌエル預言が記されていることから、よりはっきりと伝わってきます。

1:23「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

イザヤは、キリスト誕生のおよそ700年前、ユダの国で活躍した預言者、神様のことばをそのまま人々に語る働きをした人です。イザヤの時代、ユダの王となった者の一人がアハズ王。この預言はその時代に与えられました。
アハズ王は民を守り導いてきた神様を捨て、異教の神々を拝む者でした。そのような王に対して神様が罰として与えたのが、隣国イスラエルとアラム連合軍による侵略です。このような危機が迫っていることを感じると、アハズ王は神様に立ち帰らず、異教の神モレクに自分の長男を全焼のいけにえとしてささげるというひどい行いを為します。
それにも関らず、神様は預言者を通して、イスラエルとアラムの攻撃は成功せず、ユダは守られることを告げ、恐れることなくご自分に信頼するようにと語りかけました。
このような状況の中で語られたことばのなかにインマヌエル預言があります。

イザヤ7:1012「【主】は再び、アハズに告げてこう仰せられた。「あなたの神、【主】から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」するとアハズは言った。「私は求めません。【主】を試みません。」

これは、神様のことばを告げられても耳を傾けず、神様に立ち帰ろうとしないアハズ王のため、もう一度神様が語りかけるところです。
その際、神様みずからアハズ王に「しるしを求めよ」と命じました。「よみの深み、あるいは、上の高いところから」とは、神様のことばが確かであることを信じるためなら、どのようなしるしでもよいから求めてみよという意味です。
しかし、アハズは断りました。「しるしを求めません。主を試みません」と言うと、表向きは信仰的なことばと聞こえます。しかし、実はアハズ王はこの時すでにアッシリヤという大国に頼ることを決めていました。だから、神様の招きを拒否した。これは、始めから神様を信頼することなど考えていないアハズの不信仰を示すことばだったのです。
このように、神様の忍耐を踏みにじり、神様を捨て去ってしまったアハズですが、それでも神様はなおもしるしを与えられました。それが、インマヌエルと名づけられる男の子の誕生です。

71317「そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。それは、まだその子が、悪を退け、善を選ぶことも知らないうちに、あなたが恐れているふたりの王の土地は、捨てられるからだ。【主】は、あなたとあなたの民とあなたの父の家に、エフライムがユダから離れた日以来、まだ来たこともない日を来させる。それは、アッシリヤの王だ。

「ダビデの家」とは、アハズ王と家臣たちを指します。「人々を煩わす」は、ユダの国に少数ながらもアハズ王が神様に立ち帰ることを期待していた人々がおり、その期待をアハズが裏切ったことを示しているのでしょう。
そして、神様もアハズに対して愛と忍耐を持って接してきたことが「私の神をも煩わすのか」ということばから伺えます。煩わすのかは非難というより、悲しみ、嘆きの思いを表すことば。神様はアハズのような罪人を心から悲しむほど深く愛しておられたということです。
「インマヌエル」とは、マタイの福音書にあるとおり、「神が私たちとともにおられる」という意味です。事実、この後アハズ王が恐れたイスラエル・アラム連合軍はユダを略奪することはできませんでした。さらに時が過ぎ、今度はアハズ王が頼りにしたアッシリヤがユダに攻めこみますが、神様はヒゼキヤという王の祈りに応え、一夜にしてアッシリヤの陣営を壊滅させ、ユダを守られました
この歴史的な勝利により、神様がご自分の民とともにいること、本当にインマヌエルの神様であることが示されたのです。
アハズ王は現実の厳しさと、それに対する恐れのために、預言者を通して語られた神様のことばを信じることができませんでした。危機が迫った時動揺して、間違ったものに信頼してしまいました。神様が愛をもって招いてくださっているのに、心は不安で一杯。神様を信頼して心静めることのできなかった人です。
このようなアハブは決して他人ではありません。その姿、その行動の中に見られる自分自身を私たち忘れてはならないと思います。インマヌエル預言は、アハズのように神様に信頼しようとしない人間、現実の厳しさの中で恐れに負け、間違ったものにより頼む人間、神様の招きのことばに真剣に耳を傾けようとしない人間、つまり私たちに対する神様の愛のしるしなのです。
マタイの福音書は、イエス・キリストの誕生において、このような私たち人間と神様がともにいてくださるという途方もない恵みが現実となったことを教えています。ことばを変えれば、イエス・キリストこそ喜んでこんな私たちともにいてくださる神様、私たちとともに歩む親しい友である神様なのです。

ヘブル4:15「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

私たちの大祭司とはもちろんイエス・キリストのことです。イエス様は罪を他にして、すべての点で私たちと同じように試みに会われたので、私たちの弱さに同情できるお方と言われます。
同情とは、イエス様が私たちの弱さをよく理解できるだけでなく、それを我がことのように感じ、ともに悲しみ、苦しんでくださることです。飢え、渇き、働く者の労苦。世間から冷たい目で見られる辛さ、愛する者に裏切られる痛み、故のないことで非難され、罵られる屈辱。世の現実の厳しさを自ら身をもって経験してくださったイエス・キリストがともにいてくださるとは、何たる恵みと思わされます。
クリスマスは、いつも私たちともにいてくださる神様であり、真の友であるイエス・キリストがこの世に誕生したことを私たちが信じ、喜ぶことです。今日の聖句です。

マタイ2820b「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

待降節。私たちもイエス様を殊更身近に、親しく感じながら過ごせたらと思います。
最後に、注目したいのはやはりヨセフの信仰です。

1:24,25「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」

ここには、ヨセフの行動が淡々と描かれています。ヨセフが心の葛藤や信仰を口にすることなく、黙々と行動するタイプの人だったからでしょうか。
しかし、マリヤを妻として迎え入れること、ともに生活することには相当な覚悟が必要だったと思われます。世間は不貞を働いた女性を訴えることも、離婚することもせず、妻として受け入れた男として冷たい目を向けられたに違いないからです。
子どもが生まれるまで彼女を知ることがなかったという行動は、自制心が強いとともに、聖霊の神様が自分の妻を用いて救い主のいのちを生み出してくださることに信頼していたヨセフの姿を示しています。
さらに、子どもの名をイエスとつけたことは、血筋としては自分の子ではない子どもと法的な意味で、正式に父と子の関係に入ったことを世間に示すという意味がありました。これも、これまで正しい人として歩んできた自分の評判を地に落とすもの、不名誉な行いと指差されることを承知の上での行いと思われます。
ならば、何故ヨセフはこのような犠牲を払っても、神様のことばを信じ、従ったのでしょうか。
それは、神様に背き続ける人間、神様でないものを信頼し、神様に信頼しようとしない罪人のために、預言どおり、神様が真実をもって罪からの救い主、インマヌエルなるお方を与えてくださったその愛に応えたから、心から応えたかったからと思われます。

私たちはどうかと問われます。私たち皆が神様の真実な愛に心動かれ、どんな犠牲を払っても、神様に信頼し、従う道を歩んで行けたらと思うのです。

2013年12月8日日曜日

マタイの福音書1章18~25節 「待降節(2)~その名をイエスと~」

皆様は「救い」と言うことばを耳にする時、どの様な救いを思い浮かべるでしょうか。病からの救い、経済的貧しさからの救い、政治的圧制からの救い、無知からの救い、精神的苦しみからの救い等等、人が求める救いは多種多様です。
しかし、紀元一世紀イエス・キリストの時代、もしユダヤ人に「あなたにとって救いとは何ですか」と尋ねたら、多くの人が「ローマ帝国の支配からの救い」と答えたと思われます。
ダビデ王、ソロモン王による繁栄は遠い昔。バビロン、ペルシャ、ギリシャにローマと、ユダヤ人は強国、大国の圧政に苦しんできました。そして、長い間苦しみ続けた人々の願いはただ一つ。昔のダビデ王のような強力無敵な王が現れ、ローマの支配を打ち破り、ユダヤ人中心の国を建ててくれることに集約していきました。彼らは神の遣わす救い主を地上の王として待ち焦がれていたのです。
この様な時代、このような国に、イエス・キリストはお生まれになりました。しかし、それは多くの人々の期待とは程遠い、いや全く思ってもみなかったようなお方としての誕生だったのです。

1:18,19「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」

当時のユダヤで結婚適齢期といえば、男性は十代後半から二十歳、女性は十代半ばから後半でした。
私たちは絵画に描かれた姿からマリヤを成熟した女性としてイメージしますが、実際のマリヤは今なら高校生、ヨセフも二十歳ほどの若者であったと思われます。ヤングカップルです。
ところで、理解しておきたいのは結婚を巡る当時の常識です。「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていた」の「妻と決っていた」ということばは、今で言う婚約のこと。しかし、その頃のユダヤ人はこれを既に結婚しているけれども、まだ一緒に住んでいない状態、つまり結婚の第一段階と考えていました。
ですから、聖書も「マリヤはヨセフの妻と決っていた」とか「夫のヨセフは」と言い表していますし、この後現れる主のみ使いもヨセフに「あなたの妻マリヤ」と告げています。
さらに、この関係を解消するには離婚の手続きをとる必要がありましたし、もし女性が他の男性と性的関係を持ったら、それは死刑に値すると定めされていたのです。もちろん、当時実際に死刑が行われることはなかったとされます。しかし、この様に結婚を非常に厳粛に考える社会に生きた若き男女として、マリヤとヨセフのことを想像しないと、私たち彼らの背負った苦しみを理解できないことになります。
ルカの福音書を見ますと、マリヤは主のみ使いから、聖霊によって男の子を身ごもると告知され、神様の御心がこの身になりますようにと祈っています。彼女は、約束の救い主誕生のために自分のような者が用いられることを喜び、神様を賛美しました。
しかし、それは同時に、当時のユダヤ社会の常識からすれば、ふしだらな女と見られ、世間から除け者にされる人生を引き受けることでもあったのです。人々が若く、未熟な女性のことばを、それも聖霊によって身ごもったなどという途方もない証言を受け入れるはずがありませんでした。
そして、夫ヨセフも事の真相をみ使いから告げられるまで知ることができなかったようです。当時は結婚関係にある男女と言えども、一緒に住むまでは滅多に会って話をする機会などなかったと言われます。ですから、ヨセフがマリヤの妊娠を知ったのは、マリヤのお腹が大分目立つようになってからのことだったでしょう。
聖書はヨセフを「正しい人」と紹介しています。これは罪を犯さなかった人という意味ではありません。むしろ、神様の前に自分の罪を覚え、神様が供えてくださった罪の贖いに頼り、その教えに忠実に生きることに務める人のことです。
しかし、ヨセフは聖書の教えを杓子定規にふりかざす人ではありませんでした。「彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」とあるからです。
マリヤの妊娠はどれだけヨセフにとってショックだったでしょうか。裏切られたと言う心の痛みを感じても当然の状況です。
そして、ヨセフには相手の男性を知るため裁判に訴える権利もありましたし、今で言う慰謝料をとることもできました。しかし、それら一切自分のための権利を捨てて、マリヤを世間のさらし者にしないため全力を尽くしたのが、ヨセフという人だったのです。
内密に去らせる。即ち、信頼できる証人を立て、離縁状を書いて相手に渡す。一切事を荒立てない。このようにすれば、マリヤに再婚のチャンスもあるとの規定を知っての配慮です。
まだマリヤのことをそれ程知ることもなかったでしょうに、自分の痛みよりも、相手の痛みを思い遣るヨセフ。自分の権利よりも相手の権利を守る人ヨセフ。ヨセフが本当に優しい人、愛の人であることを印象づけられる場面です。
しかし、愛の人であると同時に、ヨセフは信仰の人でした。ヨセフが辛い決断を下した直後のことだったでしょうか。主のみ使いが現れ、こう語りかけたのです。

1:2021「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

み使いは「ダビデの子ヨセフ」と呼びかけました。これにより、私たちは1章前半の系図を思います。それは、アブラハムからダビデを経てイエス・キリストにいたる神様の民の系図でした。また、救い主はアブラハムの子孫、ダビデの子孫から生まれるとの預言がイエス・キリストによって実現したこと、イエス・キリスト以外の人間がいかに罪深い者であるかを徹底的に示す系図だったのです。
そして、ヨセフはこの系図に連なるダビデの子孫、ダビデの子として、人間の罪深さを自分のこととして悲しむ人でした。ダビデ王も罪人、その子孫もみな罪人。王様であろうと庶民であろうと、人間には神様の恵み以外に救いはないことを心から感じていたのです。
ですから、み使いのことばはヨセフの心に光を灯しました。聖霊の神様により罪のない人間の命がマリヤの胎に宿ったこと、そのマリヤを妻として自分が迎えることによって、ご自分の民をその罪から救ってくださるお方、真の救い主がこの世に誕生すること。
このみ告げは、当時の多くのユダヤ人がローマの圧制からの救いを願っていたのと違い、罪からの救いを切に願っていたヨセフにとって聞き逃すことのできない大切なものだったのです。
特に、生まれてくる男の子にイエスと名をつけなさいと言う、み使いの命令はヨセフの心を打ったことでしょう。イエスはヘブル語の「イェホシュアー」から来た名で、イスラエルの民を約束の地に導き入れた旧約の英雄ヨシュアの短縮形。この名前には
「主は救い」という意味がありました。
ヨセフはこのみ告げにより、初めてマリヤが身重になったことの真相を知りました。マリヤが受けていた苦しみをより深く思い、他ならぬ自分がこの神様のことばを信じてマリヤを妻として迎えなければ、人を罪から救う真の救い主、ダビデの子が誕生しないことを知ったのです。そして、ヨセフは神様のことばに従いました。

1:24,25「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」

 ヨセフの決断と行動は決して容易なことではありませんでした。ふしだらな女性を訴えることもできずに結婚しただらしない男と軽蔑されるか、それとも結婚式をあげる前に不品行を為した夫婦と見下されるか。いずれにしても、世間の風は冷たく、ヨセフは社会的な不名誉を忍耐する覚悟をしなければならなかったのです。
 このように前途多難な人生を、ヨセフは何故選んだのでしょうか。何故、困難な家庭生活をあえて選んだのでしょうか。
 それは、ヨセフが神様が旧約聖書を通して約束されていた救い主、人間をその罪から救うことのできる罪のない、きよいお方、真の救い主を心から待ち望んでいたからと思われます。
 こうして、同じくみ告げを受け、神様のことばを信じてともに歩みだしたヨセフとマリヤ夫婦はその後どうなったのでしょうか。ルカの福音書には、男の子が生まれて八日後都エルサレムに出かけてゆく二人の姿が描かれています。

 ルカ222,24「さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちた時、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。・・・また、主の律法に「山鳩ひとつがい、または、家鳩のひな二羽と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。」

 山鳩家鳩は、羊などを買うことのできない貧しい人々が犠牲の動物として買うことのできたもの。貧しいながらも、同じ神信仰に立ち、神を信じる者の労苦を分かち合いつつ、幼子を大切に育てるヨセフとマリヤの幸せな姿が心に浮かぶ場面です。
 さて、今日はマタイの福音書11825節のうち、主に1821節の部分を扱ってきました。そして、今日の箇所から学ぶべきは、何と言ってもヨセフの信仰です。
 ヨセフがマリヤとともに困難な人生を歩むことを決意したのは、自分にとって最も必要な罪からの救い主を本当に約束どおり送ってくださった神様の真実だったと思われます。
 ヨセフもその一員であったダビデの子孫の系図、それは罪に満ちた人間の記録でした。兄弟喧嘩、嫁と通じた舅、遊女、姦淫、殺人、偶像礼拝。神の民、アブラハムやダビデ王の子孫と言っても、その実態は罪人だらけ。神様を離れたら、どこまで堕ちてゆくのかと思われる人間のリストでした。神様にさばかれて当然、滅ぼされて当たり前。そんな人間の実態です。
 しかし、それにも関わらず、こんな人間のために約束したとおり、罪人を罪から救ってくださるお方をこの世に送り、誕生させてくださった神様。この神様の真実、神様の限りない愛がヨセフの心を動かしたのです。なぜなら、ヨセフ自身、自分が救いようのない罪人であることを認め、この罪こそが人生最大の問題であると考え、心痛めていたからです。
 皆様は、ヨセフのように罪が人生最大の問題であると考えているでしょうか。実は、罪こそ人生最大の問題と考えられないところに、罪を神様との関係で考えられないところに多くの人の不幸があると聖書は教えていました。
 ある人は経済的貧しさから救われれば人は幸せになれると考え、懸命に働きます。教育を受け、無知から救われれば人は正しく生きられると説く人もいます。政治的圧制から救われれば、良い社会になると思い、戦う人もいます。病から救われること、あらゆる精神的苦しみから救われることこそ、自分にとっての救いと考える人もいるでしょう。
 もちろん、どの救いにも大切な意味があると思います。そのための努力も尊いものと思います。
しかし、これらすべての苦しみの奥にある罪があること、罪は神様から離れて生きる時に生まれる思い、ことば、行いであること、罪からの救い主を知って神様との正しい関係を回復しなければ、私たちは人として正しく生きることも、心満ち足りる幸いも味わうことはできないと、聖書は教えているのです。
 ここでイエス・キリストを信じる者にもたらされる救いについて確認しておきたいと思います。
 第一に、イエス・キリストを信じる者は罪あるままで義と認められる、神様から義しい者と認められるということです。ことばを変えて言えば、私たちは日々思いとことばと行いにおいて罪を犯すにもかかわらず、神様から責められることも、罰せられることもない立場に永遠に置かれたという恵みです。
 罪を持ったままの自分が丸ごと神様に受け入れられているという大安心、神様の平安が私たちの心を守ってくれます。
 第二に、イエス・キリストを信じる者は、罪の支配から救われているということです。キリストを信じる者の心に、神様の愛を喜ぶがゆえに罪を嫌い、神様のことばに従いたいという思いが成長してくるという恵みです。神様と正しい関係になかった者が、神様と正しく、親しい関係の中で生きられる喜びが私たちの心を満たしてくれます。
 第三に、死の力からの救いです。聖書は肉体の死は人間の罪に対するさばきとして神様が与えたものと教えています。しかし、イエス・キリストを信じる者にとって、死はもはやさばきではありません。死は一巻の終わりで恐ろしいものではなく、むしろ、死後神様の愛の中で永遠に生きられる世界への復活に通じ、永遠の命への旅立ちなのです。
 ヨセフが覚えた罪からの救いはここまでのものではなかったかもしれません。しかし、私たちはその後イエス・キリストの生涯を通して、キリストが信じる者にもたらす罪からの救いの恵みがどんなにすばらしいものかを理解できる立場にいるのです。
 クリスマスの喜びとは、神様が本当に罪を人生最大の問題と考えるヨセフや私たちに、罪からの救い主をくださった喜びであることを覚えて、待降節の日々をすごして行きたいと思います。今日の聖句です。

 Ⅰペテロ18「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びに踊っています。



2013年12月1日日曜日

マタイの福音書1章1~17節 「待降節(1)~約束の通りに~」

 12月になり、今日から待降節に入ります。「待降節」「アドベント」。クリスマスまでのこの時期、私たちは救い主の到来を覚えます。聖書の中、イエス様の到来について記されている箇所はいくつもありますが、今年の待降節では、主にマタイの福音書を読み進めたいと考えています。私たちの救い主は二度来られる。一度目は二千年前のクリスマス。もう一度は、これから。二千年前に救い主が来たことの意味、意義を覚えつつ、もう一度キリストは来られることに思いを馳せる。そのようにしてクリスマスを迎えたいと思います。
二千年前。キリストの弟子の中でも中心的な人物の一人。マタイという弟子が書いた聖書。マタイの福音書です。この福音書は主にユダヤ人に向けて書いたと考えられます。ユダヤ人にイエス・キリストを紹介したい。そう考えたマタイの文書を読み進めていきます。

 マタイの福音書1章1節
「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」

 新約聖書の第一ページ。マタイの福音書の冒頭は系図です。マタイはイエス・キリストを紹介するにあたり、まずは系図から記しました。なぜ系図から記したのか。
 聖書に興味を持った方が聖書を手に取る。最初から読もうとして、開いてみると、まずは系図から。聞いたことない名前の羅列に飽き飽きして、聖書を閉じた。よく聞く話です。興味をひく話から書いてくれれば良かったのに。そう思うところ。しかし、私たちがそのように感じるのは日本人だからです。マタイが主に意識をして書いたユダヤ人にとりまして、この系図には大きな意味がありました。

 ユダヤ人と私たち。どのような違いがあるのか。大きな違いの一つは、旧約聖書を知っているか、知らないかの違いです。ユダヤ人は旧約聖書に精通した民族。
 では、旧約聖書に精通しているとは、どのような意味があるのか。旧約聖書には、神様が世界を創られたこと。人間が罪を犯し、人間も世界も堕落したこと。堕落した人間も世界も救う救い主が送られることが記されています。つまりユダヤ人は、神が約束した救い主の到来を待っている民族です。

 ところで、人間が罪を犯し堕落した後、救い主が送られるとの約束はいつ与えられたでしょうか。どの段階で、救い主の到来が約束されたでしょうか。それは、罪を犯し堕落した直後のことでした。
 創世記3章15節
「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

 蛇と呼ばれるサタンの頭を踏み砕く者が、アダムとエバの子孫から生まれるという約束でした。また罪の結果、裸であることを恥ずかしいと感じたアダムとエバに対して、神様が用意した物がありました。
 創世記3章21節
「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」

 罪の結果の恥じを覆う物として、「皮の衣」が与えられました。植物で出来た服ではなく、「皮の衣」であったというのは、動物の犠牲があったこと。罪の結果を覆うためには、犠牲が必要であることも教えられていました。

 このような歴史と神様の約束を知っているユダヤ人。神様から救い主が送られることを知っている者たちに宛てて記されたのが、マタイの福音書です。
 ところで、救い主とは誰なのか。どのような人物なのか。ユダヤ人は知っておく必要がありました。いざ救い主が来た時、その人が本当に約束の救い主か判断するためです。そこで旧約聖書には、やがて来る救い主がどのような人物なのか、記されていました。救い主に関する預言、メシヤ預言です。
 キリストについての預言は、主なもので50、60あると言われます。中でも重要なのは、救い主はアブラハムの子孫であること。アブラハムの子孫の中から更にダビデの子孫であること。これが旧約聖書で教えられていました。
 つまりユダヤ人は、神様が約束したもう救い主が来ることを知り、その救い主はアブラハムの子孫、ダビデの子孫から生まれることを知っていた民族です。そのユダヤ人にとって、マタイの福音書の冒頭は何を意味しているでしょうか。

 マタイの福音書1章1節
「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」

 マタイが主張したいことが分かると思いますが、いかがでしょうか。アブラハムの子孫、ダビデの子孫、つまりあの約束の救い主、イエスという救い主を紹介したい。ユダヤ人を念頭に置きながら、この福音書を書き始めたマタイ。そのマタイが、真っ先に言いたかったことは、このイエス・キリスト、イエスという救い主は、あの旧約聖書で預言されていた救い主ですよ、ということ。神様が、約束通り救い主を送って下さった。その救い主が、このイエスです。このイエスを知ってもらいたい。この救い主を信じてもらいたいということです。
 ある本に、ユダヤ人の青年がイエス様を信じた証が書いてありました。ユダヤ人として、教育を受けている時は、イエス・キリストのことは聞かなかったそうです。ところが、自分で旧約聖書から救い主の預言を読み、いざマタイの福音書を読み始めると、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と出てくる。マタイの意図がよく分かったそうです。イエス・キリストが旧約聖書に出てくる預言の対象であること。預言されていた救い主であるということが、よく分かったそうです。

 マタイが、イエス様を紹介するにあたって、真っ先に言いたいこと。それは、この方こそ、旧約聖書が約束していた人物、約束の救い主であるということ。
 しかし、マタイの言いたいことはそれだけではありませんでした。系図の中にも、重要なメッセージを込めていました。

 マタイの福音書1章2節~6節
「アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが 生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、」

 ユダヤ人の系図には、いくつか特徴があります。一つは、系図の途中を抜かしても、おかしいことではないこと。例えば、私の父は海二で、私の祖父は大三と言います。ですので、系図にして言うならば、大三に海二が生まれ、海二に護が生まれ、となります。しかし、もし私がユダヤ人であるならば、大三に護が生まれと記しても、おかしくないということ。もう一つ、ユダヤ人の系図の特徴は、女性の名前は記さないということです。
 
ではマタイが記した系図はどうだったでしょうか。旧約聖書に出てくる系図と見比べてみますと、確かにマタイが記した系図には抜けている名前があります。わざと記さなかった人たちがいるわけです。それなのに、です。わざわざ系図から省いた名前があったのに、普通ならば記さないはずの女性の名前が出てくる。
 今お読みしたところだけでも、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻と四名の女性。ユダヤ人の系図に女性の名前が出てくるのは、異常なこと。しかも、わざわざ選ばれたこれらの女性は、皆、曰くつきの人物でした。
 3節のタマルは、義理の父ユダと関係を持ち、双子を産みました。それも、タマルは遊女の格好をしてユダと関係を持った。5節のラハブは遊女。ルツは、異邦人。主の集会に加わってはならないと言われたモアブの女でした。6節のウリヤの妻とは、バテ・シェバのことですが、ダビデと不倫の関係となります。
つまりマタイは本来ならば記されないはずの女性の名前をあえて記し、それにより、恥と汚れ、罪の歴史をこの系図の中に盛り込んだのです。アブラハムの子孫、神の民と言いながら、自堕落、破廉恥、罪にまみれた歴史であったことが、炙り出していくのです。

 続くダビデからバビロン移住までの歴史にも、人間の罪深さが色濃く出てきます。
 マタイ1章6節b~11節
「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、ソロモンにレハベアムが生まれ、レハベアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。」

 ダビデの時代より、イスラエルは王制度を持ちます。ダビデはイスラエルの二代目の王。ダビデ以降、この系図に出てくるのは、王の系図でもあります。次々に挙げられる王の名前は、神への背信と国の衰退を思い起こさせるもの。ダビデ、ソロモンの時代に大繁栄したイスラエルですが、ソロモンの子レハベアムの時代には、国が分裂。神への不信の歩みをし、国が衰退する。ところどころ、神に従う王が現れ、その時には盛り返すのですが、王が変わるとまた背く。神に従う、神に背く、これを繰り返す歴史。結果、次第に国は衰え、最後には裁きとして、バビロンに滅ぼされ、奴隷として連れ去られる。バビロン捕囚となった。残念無念の歴史です。

 続く系図は、バビロン捕囚からキリストの時代までのもの。
 マタイ1章12節~16節
「バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、ゾロバベルにアビウデが生まれ、アビウデにエリヤキムが生まれ、エリヤキムにアゾルが生まれ、アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。」

 ここに記されるゾロバベルという人は、有名な人物。バビロンへ捕囚された民を、ユダの地に連れ戻し、神殿を再建させた人物。エズラ記などでは総督ゼルバベルと書かれています。しかしそれ以降、この系図に出てくる人物も、旧約聖書に記されない人物が中心となります。アブラハムから二千年。ダビデからも千年。神に背信を続けた人間の歴史。しかし神様は約束した通り、「キリストと呼ばれるイエス、救い主イエス」が到来したのだと記されます。

この系図全体が、人間の不真実さを表すものでした。神様の選びの民としての歴史と思いきや、次々に罪を犯し、裁きとしてのバビロン捕囚への歴史。マタイがこの系図を通して言いたかったこと。それは人間がいかに不真実だったかということしょう。不真実の限りを尽くした人間。けれども、ついに約束の救い主、キリストが来られたという系図です。

 最後に、マタイは、この系図が14代に分けることが出来ると記します。
 マタイの福音書1章17節
「それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。」

 先に言いましたように、ユダヤ人の系図は、途中で人を抜かしても間違いではありませんでした。そしてマタイが記した系図は、人が省かれているものです。ただ、人を省いて記したというのも、マタイの意図があってのことでした。それは、アブラハムからダビデまで、ダビデからバビロン移住まで、バビロン移住からキリストまでが、14代になるようにしていた、ということです。(第3グル-プは数えますと13代しか書かれていませんが、これは最初のエコニヤを再度1代目として数えて14代になるととります。)
 なぜマタイは、14代になるように、系図を作ったのでしょうか。(あるいは、14代となっている系図を採用したのでせようか。)

いくつか説がありますが、最も良いと思うものは、ユダヤ人にとって14という数が特別な数であると解釈するもの。ユダヤ人は、7が完全を表す数とされていました。その2倍で14。つまり、マタイは、アブラハムからダビデまで、ダビデからバビロン移住まで、バビロン移住からキリストまで、完全であったと言いたかったのだと思います。それも、完全を倍にするほど完全。完全に完全であったということです。何が完全なのでしょうか。神様の約束が、神様のご計画が、神様の恵みが完全に完全だというのです。
 アブラハム、ダビデに表された約束。この世界に救い主を送るという約束が、完全であったということ。人間がいかに不真実であっても、人間の目から見えればバビロン捕囚という望みが絶えたような時であっても、神様の計画は完全でした。神の目からは、それぞれの時代が、確かに完全にご計画の通りになっていたということです。
 考えてみますと、系図に見る神様の導きは不思議なものです。ユダにタマルによってパレスが生まれましたが、ユダには正妻との間にシェラという子がいました。しかしシェラではなく、パレスがキリストの祖先となる。ダビデの子は多数いましたが、あのバテ・シェバの子、ソロモンがキリストの祖先となる。シェラではなく、あえてパレス。他の子ではなく、あえてソロモンという導き。ユダの罪、ダビデの罪を覆う神様の恵みが映し出されているのです。

 イエス・キリストを紹介するに当たって、まず系図から記したマタイ。そのマタイが何を言いたかったのか。
一つは、イエス・キリストは、旧約聖書が約束していた救い主であるということ。もう一つは、人間がいかに不真実でも、罪にまみれていても、神を神としない歩みをしていても、それでも、神様は真実を尽くして下さった。ユダとタマルの事件があっても、ダビデとウリヤの妻による罪がおかされても、背信の限りを尽くしバビロンに滅ぼされても、それでも、神様の約束は貫かれたのでした。人間がどんなに罪にまみれていても、真実な神様は、確かに、約束の救い主を送って下さったということ。いや、罪にまみれているからこそ、その罪から贖う救い主を、神様は送って下さったのです。

 そして不真実であったのに、神様は真実であること。罪にまみれているのに、救い主が送られたことは、ユダヤ人だけに当てはまるのではなく、私たちも同様でした。この系図を見る時に、本気で自問自答すべきです。私の人生は、私の今日の歩みは、どのようなものなのか。
 自分の歴史も、罪にまみれたもの。神を神と思わず、人を人と思っていないのではなかったか。自分の心の中に、自堕落な思い、破廉恥な思いはないか。姦淫、殺人の思いはないか。自分の人生は、神への背信の連続ではなかったか。そう確認したいと思います。
 そして、自分は本当に不真実だった。本当に罪にまみれた人生を送ってきたと本気で思う人にとって、今日の箇所は福音です。なぜなら、そのような私たちのために、キリストは人として生まれて下さった。そのような私たちのために、神様は真実をつくして下さってことを教えられるからです。

  今日の聖句です。自分の思いとして、告白していきたいと思います。
 哀歌3章22節~24節
「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。」


 この待降節の時期。自分の罪深さを覚え、それでも神様は救い主を送って下さった。この恵みを覚えながらクリスマスを迎えていきたいと思います。

2013年11月24日日曜日

Ⅰ歴代誌22章6~13節 「一書説教 第一歴代誌 ~礼拝する者として~」

「私は~~です。」と言うとしたら、何と表現するでしょうか。自分をどのような存在だと思うでしょうか。
 私は会社員です。私は学生です。など、社会的立場を思い浮かべるでしょうか。私は身体が大きいです。私は英語が得意です。など、他の人と比べて特徴的なことが、思い浮かぶでしょうか。私は運動が好きです。私は音楽鑑賞が趣味です。など、自分の好きなことが思い浮かぶでしょうか。私は大きな仕事に取り組みたいです。私は家族が大事です。など、自分の目指す生き方が思い浮かぶでしょうか。
 答えは一つではなく、複数のことが思い浮かぶと思います。「私は会社員で、英語が得意、運動が好きで、大きな仕事に取り組みたい・・・。」などなど、一つの答えではなく複合的に出てくると思います。
 「私は~~です。」と言う時、色々な表現が出てくると思うのですが、その中から、最も中心的なこと。最も自分らしい答えを一つ挙げるとしたら、それは何でしょうか。自分のアイデンティティの中心にあるのは、何でしょうか。
自分を何者とするのか考えることは重要なこと。私たちの人生に大きな影響を与えます。もう一度聞きます。皆様は、自分を何者と考えて生きているでしょうか。
 私は誰なのか。自分は何者なのかを考える時、私たちクリスチャンは、聖書の中から答えを見つけるのが最上です。自分は何者なのか、自分で決めるのではなく、神様が何と言っているのか。自分がどのような存在なのか、聖書を通して見出す。神様との関係で見出すことが出来ればと願うところです。

私の説教の際、断続的に一書説教に取り組んでいます。今日は十三回目。旧約聖書、第十三の巻、第一歴代誌を扱うことになります。第一歴代誌を読む時にも、神様はどのようなお方で、その方の前で自分はどのような存在なのか、意識しながら読むことが出来るように。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。

 さて、前回扱いました第二列王記の最後を覚えているでしょうか。イスラエル王国が南北に分裂した後、北イスラエルはアッシリアに敗北、南ユダはバビロンに敗北する記録でした。
アッシリアに負けた北イスラエルは、民族としてのアイデンティティを失い消滅します。残念無念。片や南ユダの住民は、バビロンに奴隷として連れて行かれるも、アイデンティティは失われることなく、やがて約束の地カナンに戻ることになる。バビロン捕囚から帰還します。(第二列王記に記されていたのは、バビロンに連れて行かれたところまでで、バビロン捕囚からの帰還については、歴代誌の後、エズラ記に記されることになります。)
 神の民として歩んできたイスラエル王国。その王国が二つに分かれ、一つの王国は失われてしまった。残った南ユダの民にしても、しばらくの間、バビロンで奴隷として生きてきた後、今一度、約束の地カナンに戻ってきた。ここでもう一度、国を建て上げなければならないという状況。これはつまり、自分たちが何者なのか考える状況なのですが、この時に記されたのが、歴代誌です。
 想像出来ますでしょうか。大きな悲劇を味わい、国を再建しないといけない時。言葉によって、国の再建を目指す時。改めて自分たちは何者なのか、強く意識する時。自分が文章を記す者だとしたら、どのような内容を記すでしょうか。

 国の再建のために記された書。自分たちが何者なのか再確認する書。一体何が記されるのかと思い、聖書を開きますと、驚くべき内容となっています。
 第一歴代誌1章1節~4節
「アダム、セツ、エノシュ、ケナン、マハラルエル、エレデ、エノク、メトシェラ、レメク、ノア、セム、ハム、それにヤペテ。」

 国を再建する。自分たちが何者なのか意識する。そのための文章が、アダムから始まる名前の羅列でした。聖書の中には時々、名前の羅列、系図が記されますが、歴代誌の冒頭に記された系図は聖書中最長。何と九章までが系図。第一歴代誌の約三分の一がこの系図に割かれることになるのです。一体、これは何でしょうか。なぜ国の再建のため、自分たちが何者なのか考える際に、この人名の羅列なのか。皆様は、何を意味すると考えるでしょうか。
 アダムから始まる系図。人類の歴史、人類の祖先の系図。しかし、アダムの次はカインではなく、セツとなっていて、この系図が神様を信じ、神様を礼拝する者たちの歴史の確認であることが汲み取れます。
 つまり、歴代誌の著者の意図は、神様を礼拝する者の歴史の延長に自分たちがいることを思いおこさせること。自分たちが、世界の始めから続いている、神様を礼拝する者の系譜に連なる者であることを意識させることにあると思います。国を再建する上で、最も重要なこと。それは、世界の始まりからこれまでの間、礼拝する民を守られてきた神様の思いを知ること。自分たちが何者なのか。神様を礼拝する者なのだという主張です。

 世界の始めから、神様は礼拝する者を守られてきた。その礼拝の民に、自分も加えられている。この歴代誌の視点は、バビロンから帰ってきた南ユダの人々にも必要でしたが、私たちにも必要な視点です。
 偶像に満ち溢れた国。世界の創り主を礼拝する者が、非常に少ない日本。信仰の歴史と言っても、三代目、四代目のクリスチャンは稀。神様を礼拝するということが、特殊なことのように感じられます。しかし、果たして本当に、神様を礼拝する者として生きることは、特殊なことなのか。そうではないのです。歴史を貫いて、神様を礼拝する者がおこされてきた。日本の一地方にある教会の礼拝。その礼拝は神様が守り、導かれている大切な礼拝の一つであり、今日もその礼拝に導かれたことに私たちは大いに胸を張りたい。大いに喜びたいと思うのです。第一歴代誌の前半。名前の羅列の記事を、単調なものとして読むのではなく、歴史の重みを感じ、スケールの大きさに圧倒されながら、読むことが出来たらと思います。そして、歴代誌の視点を身に付けることが出来るようにと願います。

 九章まで系図が記された後、第一歴代誌の記録は、主にダビデ王の時代の記録。既に読みました、サムエル記の内容と重なります。
 サムエル記は主に出来事に焦点が当てられていました。戦いの場面が多く、困難の中にありながら、神様に従う(失敗も多くありましたが)ダビデの姿が中心でした。歴代誌の記録は、サムエル記と比べて、戦いの場面は少なく、出来事の記録も多くない。代わりに、その時代活躍した様々な人の記録が多くあります。戦士、勇士の記録。政治家の記録。契約の箱に仕える者たち、門衛や聖歌隊の記録など。十章以降にも、多くの人名が出てきます。
 あちらこちらに、活躍した人の記録が出てくるので、あえて一つを選ぶのは難しいのですが、例えば次のような記録があります。

 第一歴代誌12章8節~14節
「また、ガド人から離れて、荒野の要害をさしてダビデのもとに来た人々は、勇士であって戦いのために従軍している人であり、大盾と槍の備えのある者であった。彼らの顔は獅子の顔で、早く走ることは、山のかもしかのようであった。そのかしらはエゼル。第二はオバデヤ。第三はエリアブ。第四はミシュマナ。第五はエレミヤ。第六はアタイ。第七はエリエル。第八はヨハナン。第九はエルザバデ。第十はエレミヤ。第十一はマクバナイ。これらはガド族から出た軍のかしらたちで、その最も小さい者もひとりが百人に匹敵し、最も大いなる者は千人に匹敵した。」

アダムから始まる系図を、九章までまとめ挙げた著者が、今度は一つの時代に焦点を当てて、あの人もいた、この人もいたと記録していくのです。ダビデのような傑出した人物にのみ、神様の視点は注がれているのかと言えば、そうではない。一人一人に、神様の目は注がれているのです。長い歴史の中にいる自分という視点が大事であると同時に、一つの時代にいる一人一人に神様の視点が注がれているという視点も大事でした。
 それにしても、ここに記された人たちの紹介文は、面白いもの。その強さを表すのに、顔は獅子、足はかもしか。最も弱い者でも百人力。最も強い者は一騎当千であったと。どれ程凄かったのか。一体、どのような人たちだったのか。天国で会ってみたいと思うのです。

 歴代誌に記された出来事は多くはないのですが、重要なこととして、二つの事件が記されています。一つは契約の箱に関するウザ事件。もう一つは、ダビデが人口を数えた結果、裁きが下るという事件です。
 まずはウザ事件について確認します。ダビデより少し前の時代。神様のご臨在をあらわす契約の箱が、ペリシテ人に奪われるという事件がありました。その後、契約の箱はイスラエルのもとに戻ってくるのですが、特に大事にされていなかった。ダビデは、自分が全イスラエルの王になった時、この契約の箱を都エルサレムに運び込もうとします。その時に起こった事件。
 第一歴代誌13章7節~10節
「そこで彼らはアビナダブの家から神の箱を新しい車に載せた。ウザとアフヨがその車を御していた。ダビデと全イスラエルは、歌を歌い、立琴、十弦の琴、タンバリン、シンバル、ラッパを鳴らして、神の前で力の限り喜び踊った。こうして彼らがキドンの打ち場まで来たとき、ウザは手を伸ばして、箱を押えた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼を打った。彼が手を箱に伸べたからである。彼はその場で神の前に死んだ。」

 契約の箱を運び上るとき、牛がひっくり返しそうになった時、その御者のウザが箱に触れると、死んだという事件。ウザ事件です。一体何が起こったのか。何が問題だったのか。
そもそも、契約の箱はレビ人が担いで運ぶと定められていました。聖別された者にのみ与えられた役割だったのです。それを、牛に運ばせていた。そのためにおこった裁きの場面。このことに気付いたダビデは、次のように言い、再度、契約の箱をエルサレムに運ぶ作業に取り掛かります。

 第一歴代誌15章2節~3節
「そのとき、ダビデは言った。『レビ人でなければ、神の箱をかついではならない。主は、主の箱をかつがせ、とこしえまでも、ご自身に仕えさせるために、彼らを選ばれたからである。』ダビデは全イスラエルをエルサレムに呼び出して、主の箱を定めておいた場所へ運び上らせようとした。」

 この結果、契約の箱はエルサレムに運ばれることになりました。これが、歴代誌の著者が、敢えて選んだ、ダビデの時代のエピソードの一つです。

もう一つ重要な出来事として記されているのが、ダビデが人口を数えた結果、裁きが下るという事件です。
第一歴代誌21章1節、7節
「ここに、サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。・・・この命令で、王は神のみこころをそこなった。神はイスラエルを打たれた。」

 サタンの誘惑にあってダビデが人口調査をしたという記事。少し不思議に感じるところです。サタンの誘惑にあって、人妻を犯し、その夫を殺したというのならば分かります。ところが、ここに記されたのは、サタンの誘惑で人口調査をした。聖書の中には、その名も民数記という書で、神様の命令によって人口調査がされる記録がありました。サムエル記からすると、この時の人口調査は、飢饉の後の人口調査のため、国の状態の確認や税制度の立て直しなど、人口調査をする正当な理由があったと思われます。ところが、人口調査をしたことが、神様のみこころをそこなったと言う。何が問題だったのでしょうか。
 おそらく動機が問われたのだと思います。己の力を誇示するためのものか。税に頼る思い、富に頼る思いの表れか。多くの恵みを頂き、高い地位につくダビデだからこそ、特に厳しく糾弾されたのか。
 このダビデの人口調査の結果、預言者を通して裁きが下されることを宣告されるのですが、その内容はダビデが選ぶようにと言われます。三年間の飢饉、三ヶ月の剣、三日間の疫病。どれも恐ろしいものですがダビデは、三日間の疫病を選択。その結果、七万人もの人が疫病で倒れます。この自体にダビデは深く悔い改め、同時に神様に訴えました。

 第一歴代誌21章17節~18節
「ダビデは神に言った。『民を数えよと命じたのは私ではありませんか。罪を犯したのは、はなはだしい悪を行なったのは、この私です。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。わが神、主よ。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。あなたの民は、疫病に渡さないでください。』すると、主の使いはガドに、ダビデに言うようにと言った。『ダビデは上って行って、エブス人オルナンの打ち場に、主のために祭壇を築かなければならない。』」

 裁きの途中でのダビデの訴えに、祭壇を作り、いけにえをささげるようにとの命令。ダビデは、オルナンという人から土地を買い、祭壇を作り、いけにえがささげられ、それにより裁きが終わるという出来事。
ところで、この祭壇の場所は、後にソロモンが神殿を建てる場所となります。ダビデの悔い改めの場所が、後の神礼拝の場所となる。悔い改めの上に、礼拝があることを教える出来事と見ることも出来るでしょうか。何にしろ、これが歴代誌の著者が敢えて記した出来事の二つ目です。

 なぜ歴代誌の著者は、ウザ事件と、ダビデの人口調査の事件、敢えてこの二つを重要なこととして記したのでしょうか。もうお分かりだと思います。この二つとも、礼拝に関係のある事柄でした。ウザ事件の後に、契約の箱はエルサレムに運びこまれる。ダビデの人口調査事件の後に、オルナンの打ち場の祭壇が築かれ、そこが神殿の場所となる。
 ダビデの次の世代、ソロモンの時代には神殿での礼拝が行われるようになります。それは、息を飲むほどの荘厳な礼拝。しかし、そのような整った礼拝となるまでには、様々な事件を経ていたこと。先人たちの様々な苦労。あるいは失敗と悔い改めがあって、礼拝が整っていったことが教えられるのです。あるべき礼拝、より整えられた礼拝へ導かれていく歴史を確認することが、当時の南ユダの人々に大切なことだったのでしょう。そして、それは私たちも同様です。今、私たちにも素晴らしい礼拝堂が与えられ、様々な奉仕者によって、整えられた礼拝が出来ている。今、このような礼拝が出来るために、これまで、どれだけ多くの祈りと奉仕、ささげものがあったのか。そのことに目が開かれ、感謝をしながら、礼拝をする者でありたいと思います。

 以上、第一歴代誌を概観しました。教えられたことをまとめて、終わりにしたいと思います。確認しましたように、歴代誌は歴史を振り返ることを通して、礼拝者を整える目的がありました。それが国を再建する上で最重要なことと考えたのです。
世界の始めの時から、神様は礼拝する者をおこされ、守られてきたこと。神様は、その一人一人に注目していること。人間の歩みは紆余曲折ありながらも、神様はより整えられた礼拝へと導かれること。歴代誌を読み、この歴史の延長に自分たちがいること。この神様に導かれて自分たちがいることを、覚えたいと思います。
 私は誰なのかと言えば、神様を礼拝する者。礼拝者として生きることを皆で目指したいと思います。そして礼拝者であるというのは、日曜日の一時間、教会にいることだけを意味するのではありません。礼拝者として生きるというのは、生活の全てで、神様のために生きることなのだと教えるパウロの言葉を読み、終わりにしたいと思います。

今日の聖句です。ローマ人への手紙12章1節

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」