今日は待降節の礼拝第三週目。前々回前回に続いて、マタイの福音書から救い主誕生について学び、クリスマスの意味を味わいたいと思います。
イスラエル民族の先祖アブラハムからダビデ王を経てその子孫ヨセフの妻マリヤからイエス・キリストがお生まれになったことを記す系図から始まったマタイの福音書。これは、イエス・キリストが旧約聖書において預言された真の救い主であることを示すものでした。
次は、どの様にしてイエス様が、ダビデ王の子孫であるヨセフの子になったのかが描かれます。ヨセフとマリヤの結婚、出産、赤ん坊がヨセフの子となること。その経緯は決して普通のものではなく、若い二人にとって非常に厳しい道だったのです。
その頃、ヨセフとマリヤは今で言う婚約関係にありました。しかし、今と違い当時のユダヤ社会では、この状態がまだ一緒に住むことは許されないけれども、正式な結婚と同じと考えられていたのです。
ですから、どちらかが他の異性と性的な関係を持ったことが分かれば死刑と律法に定められていました。実際には当時死刑までは行われていませんでしたが、結婚と性的きよさを重んじる点において今とは格段の差があったことは間違いありません。
このような時代、このような社会で、マリヤはヨセフと一緒に暮らす前に、聖霊によって身重になったのです。このことは、主の使いによってマリヤには知らされていましたが、ヨセフには知らされていませんでした。
それで、神様と神様の律法を尊ぶという意味で「正しい人」であったヨセフは、マリヤと別れる他はないと考えたのです。マリヤが身重になったことの真相を知る由もないヨセフにとってみれば、マリヤが他の男性との間に子をもうけたと思うしかなく、そのショックは計り知れないものがあったことでしょう。
しかし、彼は当然の権利であった裁判に訴えて相手を追及することも、慰謝料を求めることもせず、証人をたてて正式な離縁状を作り、それをマリヤに渡して去らせることを決めました。自分の権利よりも、マリヤを世間のさらし者にしたくはないという相手への配慮を優先した愛の人ヨセフの決断です。
そして、ヨセフがこの決断をした時、主のみ使いが夢に現れ、マリヤが身重になったことの真相を明らかにします。
1:20,21「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
「ダビデの子ヨセフ」ということばは、ヨセフが貧しい大工であっても正しくダビデ王の血を引く子孫であることを示しています。また、「その胎に宿っているのものは聖霊による」とは、聖霊の神様により生まれてくる男の子が私たちと同じ人間の性質を持つこと、ただし、それは罪に汚れていない本来の人間の性質であることを教えています。
当時多くの人々が、ローマ帝国の支配を打ち破り、ユダヤ人中心の国を建ててくれる地上の王を救い主として求めていたのに対し、ヨセフはご自分の民をその罪から救ってくださるお方を待ち望んでいました。
ヨセフは、この世には憎しみや争い、病や死など様々な苦しみがあることを承知していたでしょう。
そして、ダビデの子孫と言っても、王様も庶民も、男も女も、人間はみな自らを救いようのない罪人ばかり。自分も罪人の一人であることを悲しむヨセフは、この世におけるすべての苦しみの源は人間自身の中に宿る罪であることを悟っていました。その罪が赦され、人間が罪の力から解放されない限り、この世界に真の救いはないと分かっていたのです。
聖霊の神様によってマリヤから生まれる男の子が私たち人間と同じ性質を持つとともに、罪に汚れていない、きよい命の持ち主であることを知ったヨセフ。しかも、その名をイエス、「主は救い」という意味の名をつけよと主のみ使いに命じられたヨセフ。彼は、この神様のことばによって、離婚を決意したマリヤが生む男の子こそ真の救い主と信じることができたと思われます。
この様な出来事を聞いて福音書を書いたマタイは、旧約聖書に預言されていたことがイエス・キリストにおいて完全に成就したことに心打たれ、こう記しました。
1:22「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。」
神の民イスラエルと言っても、中身は罪人。神様に背き、己の欲望のままに生きたり、己の知恵や行いを誇る高慢に陥ったりする罪人ばかり。神からの救い主を求めたとしても、自分たちに都合の良い地上の王という有様。
それにもかかわらず、神様は預言どおり、約束どおり、人間を罪から救うことのできるお方を与えてくださったという感動です。
さらに、その感動は続く節に旧約聖書イザヤ書の預言、有名なインマヌエル預言が記されていることから、よりはっきりと伝わってきます。
1:23「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
イザヤは、キリスト誕生のおよそ700年前、ユダの国で活躍した預言者、神様のことばをそのまま人々に語る働きをした人です。イザヤの時代、ユダの王となった者の一人がアハズ王。この預言はその時代に与えられました。
アハズ王は民を守り導いてきた神様を捨て、異教の神々を拝む者でした。そのような王に対して神様が罰として与えたのが、隣国イスラエルとアラム連合軍による侵略です。このような危機が迫っていることを感じると、アハズ王は神様に立ち帰らず、異教の神モレクに自分の長男を全焼のいけにえとしてささげるというひどい行いを為します。
それにも関らず、神様は預言者を通して、イスラエルとアラムの攻撃は成功せず、ユダは守られることを告げ、恐れることなくご自分に信頼するようにと語りかけました。
このような状況の中で語られたことばのなかにインマヌエル預言があります。
イザヤ7:10~12「【主】は再び、アハズに告げてこう仰せられた。「あなたの神、【主】から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」するとアハズは言った。「私は求めません。【主】を試みません。」
これは、神様のことばを告げられても耳を傾けず、神様に立ち帰ろうとしないアハズ王のため、もう一度神様が語りかけるところです。
その際、神様みずからアハズ王に「しるしを求めよ」と命じました。「よみの深み、あるいは、上の高いところから」とは、神様のことばが確かであることを信じるためなら、どのようなしるしでもよいから求めてみよという意味です。
しかし、アハズは断りました。「しるしを求めません。主を試みません」と言うと、表向きは信仰的なことばと聞こえます。しかし、実はアハズ王はこの時すでにアッシリヤという大国に頼ることを決めていました。だから、神様の招きを拒否した。これは、始めから神様を信頼することなど考えていないアハズの不信仰を示すことばだったのです。
このように、神様の忍耐を踏みにじり、神様を捨て去ってしまったアハズですが、それでも神様はなおもしるしを与えられました。それが、インマヌエルと名づけられる男の子の誕生です。
7:13~17「そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。それは、まだその子が、悪を退け、善を選ぶことも知らないうちに、あなたが恐れているふたりの王の土地は、捨てられるからだ。【主】は、あなたとあなたの民とあなたの父の家に、エフライムがユダから離れた日以来、まだ来たこともない日を来させる。それは、アッシリヤの王だ。」
「ダビデの家」とは、アハズ王と家臣たちを指します。「人々を煩わす」は、ユダの国に少数ながらもアハズ王が神様に立ち帰ることを期待していた人々がおり、その期待をアハズが裏切ったことを示しているのでしょう。
そして、神様もアハズに対して愛と忍耐を持って接してきたことが「私の神をも煩わすのか」ということばから伺えます。煩わすのかは非難というより、悲しみ、嘆きの思いを表すことば。神様はアハズのような罪人を心から悲しむほど深く愛しておられたということです。
「インマヌエル」とは、マタイの福音書にあるとおり、「神が私たちとともにおられる」という意味です。事実、この後アハズ王が恐れたイスラエル・アラム連合軍はユダを略奪することはできませんでした。さらに時が過ぎ、今度はアハズ王が頼りにしたアッシリヤがユダに攻めこみますが、神様はヒゼキヤという王の祈りに応え、一夜にしてアッシリヤの陣営を壊滅させ、ユダを守られました
この歴史的な勝利により、神様がご自分の民とともにいること、本当にインマヌエルの神様であることが示されたのです。
アハズ王は現実の厳しさと、それに対する恐れのために、預言者を通して語られた神様のことばを信じることができませんでした。危機が迫った時動揺して、間違ったものに信頼してしまいました。神様が愛をもって招いてくださっているのに、心は不安で一杯。神様を信頼して心静めることのできなかった人です。
このようなアハブは決して他人ではありません。その姿、その行動の中に見られる自分自身を私たち忘れてはならないと思います。インマヌエル預言は、アハズのように神様に信頼しようとしない人間、現実の厳しさの中で恐れに負け、間違ったものにより頼む人間、神様の招きのことばに真剣に耳を傾けようとしない人間、つまり私たちに対する神様の愛のしるしなのです。
マタイの福音書は、イエス・キリストの誕生において、このような私たち人間と神様がともにいてくださるという途方もない恵みが現実となったことを教えています。ことばを変えれば、イエス・キリストこそ喜んでこんな私たちともにいてくださる神様、私たちとともに歩む親しい友である神様なのです。
ヘブル4:15「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」
私たちの大祭司とはもちろんイエス・キリストのことです。イエス様は罪を他にして、すべての点で私たちと同じように試みに会われたので、私たちの弱さに同情できるお方と言われます。
同情とは、イエス様が私たちの弱さをよく理解できるだけでなく、それを我がことのように感じ、ともに悲しみ、苦しんでくださることです。飢え、渇き、働く者の労苦。世間から冷たい目で見られる辛さ、愛する者に裏切られる痛み、故のないことで非難され、罵られる屈辱。世の現実の厳しさを自ら身をもって経験してくださったイエス・キリストがともにいてくださるとは、何たる恵みと思わされます。
クリスマスは、いつも私たちともにいてくださる神様であり、真の友であるイエス・キリストがこの世に誕生したことを私たちが信じ、喜ぶことです。今日の聖句です。
マタイ28:20b「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
待降節。私たちもイエス様を殊更身近に、親しく感じながら過ごせたらと思います。
最後に、注目したいのはやはりヨセフの信仰です。
1:24,25「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」
ここには、ヨセフの行動が淡々と描かれています。ヨセフが心の葛藤や信仰を口にすることなく、黙々と行動するタイプの人だったからでしょうか。
しかし、マリヤを妻として迎え入れること、ともに生活することには相当な覚悟が必要だったと思われます。世間は不貞を働いた女性を訴えることも、離婚することもせず、妻として受け入れた男として冷たい目を向けられたに違いないからです。
子どもが生まれるまで彼女を知ることがなかったという行動は、自制心が強いとともに、聖霊の神様が自分の妻を用いて救い主のいのちを生み出してくださることに信頼していたヨセフの姿を示しています。
さらに、子どもの名をイエスとつけたことは、血筋としては自分の子ではない子どもと法的な意味で、正式に父と子の関係に入ったことを世間に示すという意味がありました。これも、これまで正しい人として歩んできた自分の評判を地に落とすもの、不名誉な行いと指差されることを承知の上での行いと思われます。
ならば、何故ヨセフはこのような犠牲を払っても、神様のことばを信じ、従ったのでしょうか。
それは、神様に背き続ける人間、神様でないものを信頼し、神様に信頼しようとしない罪人のために、預言どおり、神様が真実をもって罪からの救い主、インマヌエルなるお方を与えてくださったその愛に応えたから、心から応えたかったからと思われます。
私たちはどうかと問われます。私たち皆が神様の真実な愛に心動かれ、どんな犠牲を払っても、神様に信頼し、従う道を歩んで行けたらと思うのです。