12月になり、今日から待降節に入ります。「待降節」「アドベント」。クリスマスまでのこの時期、私たちは救い主の到来を覚えます。聖書の中、イエス様の到来について記されている箇所はいくつもありますが、今年の待降節では、主にマタイの福音書を読み進めたいと考えています。私たちの救い主は二度来られる。一度目は二千年前のクリスマス。もう一度は、これから。二千年前に救い主が来たことの意味、意義を覚えつつ、もう一度キリストは来られることに思いを馳せる。そのようにしてクリスマスを迎えたいと思います。
二千年前。キリストの弟子の中でも中心的な人物の一人。マタイという弟子が書いた聖書。マタイの福音書です。この福音書は主にユダヤ人に向けて書いたと考えられます。ユダヤ人にイエス・キリストを紹介したい。そう考えたマタイの文書を読み進めていきます。
マタイの福音書1章1節
「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」
新約聖書の第一ページ。マタイの福音書の冒頭は系図です。マタイはイエス・キリストを紹介するにあたり、まずは系図から記しました。なぜ系図から記したのか。
聖書に興味を持った方が聖書を手に取る。最初から読もうとして、開いてみると、まずは系図から。聞いたことない名前の羅列に飽き飽きして、聖書を閉じた。よく聞く話です。興味をひく話から書いてくれれば良かったのに。そう思うところ。しかし、私たちがそのように感じるのは日本人だからです。マタイが主に意識をして書いたユダヤ人にとりまして、この系図には大きな意味がありました。
ユダヤ人と私たち。どのような違いがあるのか。大きな違いの一つは、旧約聖書を知っているか、知らないかの違いです。ユダヤ人は旧約聖書に精通した民族。
では、旧約聖書に精通しているとは、どのような意味があるのか。旧約聖書には、神様が世界を創られたこと。人間が罪を犯し、人間も世界も堕落したこと。堕落した人間も世界も救う救い主が送られることが記されています。つまりユダヤ人は、神が約束した救い主の到来を待っている民族です。
ところで、人間が罪を犯し堕落した後、救い主が送られるとの約束はいつ与えられたでしょうか。どの段階で、救い主の到来が約束されたでしょうか。それは、罪を犯し堕落した直後のことでした。
創世記3章15節
「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
蛇と呼ばれるサタンの頭を踏み砕く者が、アダムとエバの子孫から生まれるという約束でした。また罪の結果、裸であることを恥ずかしいと感じたアダムとエバに対して、神様が用意した物がありました。
創世記3章21節
「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」
罪の結果の恥じを覆う物として、「皮の衣」が与えられました。植物で出来た服ではなく、「皮の衣」であったというのは、動物の犠牲があったこと。罪の結果を覆うためには、犠牲が必要であることも教えられていました。
このような歴史と神様の約束を知っているユダヤ人。神様から救い主が送られることを知っている者たちに宛てて記されたのが、マタイの福音書です。
ところで、救い主とは誰なのか。どのような人物なのか。ユダヤ人は知っておく必要がありました。いざ救い主が来た時、その人が本当に約束の救い主か判断するためです。そこで旧約聖書には、やがて来る救い主がどのような人物なのか、記されていました。救い主に関する預言、メシヤ預言です。
キリストについての預言は、主なもので50、60あると言われます。中でも重要なのは、救い主はアブラハムの子孫であること。アブラハムの子孫の中から更にダビデの子孫であること。これが旧約聖書で教えられていました。
つまりユダヤ人は、神様が約束したもう救い主が来ることを知り、その救い主はアブラハムの子孫、ダビデの子孫から生まれることを知っていた民族です。そのユダヤ人にとって、マタイの福音書の冒頭は何を意味しているでしょうか。
マタイの福音書1章1節
「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」
マタイが主張したいことが分かると思いますが、いかがでしょうか。アブラハムの子孫、ダビデの子孫、つまりあの約束の救い主、イエスという救い主を紹介したい。ユダヤ人を念頭に置きながら、この福音書を書き始めたマタイ。そのマタイが、真っ先に言いたかったことは、このイエス・キリスト、イエスという救い主は、あの旧約聖書で預言されていた救い主ですよ、ということ。神様が、約束通り救い主を送って下さった。その救い主が、このイエスです。このイエスを知ってもらいたい。この救い主を信じてもらいたいということです。
ある本に、ユダヤ人の青年がイエス様を信じた証が書いてありました。ユダヤ人として、教育を受けている時は、イエス・キリストのことは聞かなかったそうです。ところが、自分で旧約聖書から救い主の預言を読み、いざマタイの福音書を読み始めると、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と出てくる。マタイの意図がよく分かったそうです。イエス・キリストが旧約聖書に出てくる預言の対象であること。預言されていた救い主であるということが、よく分かったそうです。
マタイが、イエス様を紹介するにあたって、真っ先に言いたいこと。それは、この方こそ、旧約聖書が約束していた人物、約束の救い主であるということ。
しかし、マタイの言いたいことはそれだけではありませんでした。系図の中にも、重要なメッセージを込めていました。
マタイの福音書1章2節~6節
「アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが
生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、」
ユダヤ人の系図には、いくつか特徴があります。一つは、系図の途中を抜かしても、おかしいことではないこと。例えば、私の父は海二で、私の祖父は大三と言います。ですので、系図にして言うならば、大三に海二が生まれ、海二に護が生まれ、となります。しかし、もし私がユダヤ人であるならば、大三に護が生まれと記しても、おかしくないということ。もう一つ、ユダヤ人の系図の特徴は、女性の名前は記さないということです。
ではマタイが記した系図はどうだったでしょうか。旧約聖書に出てくる系図と見比べてみますと、確かにマタイが記した系図には抜けている名前があります。わざと記さなかった人たちがいるわけです。それなのに、です。わざわざ系図から省いた名前があったのに、普通ならば記さないはずの女性の名前が出てくる。
今お読みしたところだけでも、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻と四名の女性。ユダヤ人の系図に女性の名前が出てくるのは、異常なこと。しかも、わざわざ選ばれたこれらの女性は、皆、曰くつきの人物でした。
3節のタマルは、義理の父ユダと関係を持ち、双子を産みました。それも、タマルは遊女の格好をしてユダと関係を持った。5節のラハブは遊女。ルツは、異邦人。主の集会に加わってはならないと言われたモアブの女でした。6節のウリヤの妻とは、バテ・シェバのことですが、ダビデと不倫の関係となります。
つまりマタイは本来ならば記されないはずの女性の名前をあえて記し、それにより、恥と汚れ、罪の歴史をこの系図の中に盛り込んだのです。アブラハムの子孫、神の民と言いながら、自堕落、破廉恥、罪にまみれた歴史であったことが、炙り出していくのです。
続くダビデからバビロン移住までの歴史にも、人間の罪深さが色濃く出てきます。
マタイ1章6節b~11節
「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、ソロモンにレハベアムが生まれ、レハベアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。」
ダビデの時代より、イスラエルは王制度を持ちます。ダビデはイスラエルの二代目の王。ダビデ以降、この系図に出てくるのは、王の系図でもあります。次々に挙げられる王の名前は、神への背信と国の衰退を思い起こさせるもの。ダビデ、ソロモンの時代に大繁栄したイスラエルですが、ソロモンの子レハベアムの時代には、国が分裂。神への不信の歩みをし、国が衰退する。ところどころ、神に従う王が現れ、その時には盛り返すのですが、王が変わるとまた背く。神に従う、神に背く、これを繰り返す歴史。結果、次第に国は衰え、最後には裁きとして、バビロンに滅ぼされ、奴隷として連れ去られる。バビロン捕囚となった。残念無念の歴史です。
続く系図は、バビロン捕囚からキリストの時代までのもの。
マタイ1章12節~16節
「バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、ゾロバベルにアビウデが生まれ、アビウデにエリヤキムが生まれ、エリヤキムにアゾルが生まれ、アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。」
ここに記されるゾロバベルという人は、有名な人物。バビロンへ捕囚された民を、ユダの地に連れ戻し、神殿を再建させた人物。エズラ記などでは総督ゼルバベルと書かれています。しかしそれ以降、この系図に出てくる人物も、旧約聖書に記されない人物が中心となります。アブラハムから二千年。ダビデからも千年。神に背信を続けた人間の歴史。しかし神様は約束した通り、「キリストと呼ばれるイエス、救い主イエス」が到来したのだと記されます。
この系図全体が、人間の不真実さを表すものでした。神様の選びの民としての歴史と思いきや、次々に罪を犯し、裁きとしてのバビロン捕囚への歴史。マタイがこの系図を通して言いたかったこと。それは人間がいかに不真実だったかということしょう。不真実の限りを尽くした人間。けれども、ついに約束の救い主、キリストが来られたという系図です。
最後に、マタイは、この系図が14代に分けることが出来ると記します。
マタイの福音書1章17節
「それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。」
先に言いましたように、ユダヤ人の系図は、途中で人を抜かしても間違いではありませんでした。そしてマタイが記した系図は、人が省かれているものです。ただ、人を省いて記したというのも、マタイの意図があってのことでした。それは、アブラハムからダビデまで、ダビデからバビロン移住まで、バビロン移住からキリストまでが、14代になるようにしていた、ということです。(第3グル-プは数えますと13代しか書かれていませんが、これは最初のエコニヤを再度1代目として数えて14代になるととります。)
なぜマタイは、14代になるように、系図を作ったのでしょうか。(あるいは、14代となっている系図を採用したのでせようか。)
いくつか説がありますが、最も良いと思うものは、ユダヤ人にとって14という数が特別な数であると解釈するもの。ユダヤ人は、7が完全を表す数とされていました。その2倍で14。つまり、マタイは、アブラハムからダビデまで、ダビデからバビロン移住まで、バビロン移住からキリストまで、完全であったと言いたかったのだと思います。それも、完全を倍にするほど完全。完全に完全であったということです。何が完全なのでしょうか。神様の約束が、神様のご計画が、神様の恵みが完全に完全だというのです。
アブラハム、ダビデに表された約束。この世界に救い主を送るという約束が、完全であったということ。人間がいかに不真実であっても、人間の目から見えればバビロン捕囚という望みが絶えたような時であっても、神様の計画は完全でした。神の目からは、それぞれの時代が、確かに完全にご計画の通りになっていたということです。
考えてみますと、系図に見る神様の導きは不思議なものです。ユダにタマルによってパレスが生まれましたが、ユダには正妻との間にシェラという子がいました。しかしシェラではなく、パレスがキリストの祖先となる。ダビデの子は多数いましたが、あのバテ・シェバの子、ソロモンがキリストの祖先となる。シェラではなく、あえてパレス。他の子ではなく、あえてソロモンという導き。ユダの罪、ダビデの罪を覆う神様の恵みが映し出されているのです。
イエス・キリストを紹介するに当たって、まず系図から記したマタイ。そのマタイが何を言いたかったのか。
一つは、イエス・キリストは、旧約聖書が約束していた救い主であるということ。もう一つは、人間がいかに不真実でも、罪にまみれていても、神を神としない歩みをしていても、それでも、神様は真実を尽くして下さった。ユダとタマルの事件があっても、ダビデとウリヤの妻による罪がおかされても、背信の限りを尽くしバビロンに滅ぼされても、それでも、神様の約束は貫かれたのでした。人間がどんなに罪にまみれていても、真実な神様は、確かに、約束の救い主を送って下さったということ。いや、罪にまみれているからこそ、その罪から贖う救い主を、神様は送って下さったのです。
そして不真実であったのに、神様は真実であること。罪にまみれているのに、救い主が送られたことは、ユダヤ人だけに当てはまるのではなく、私たちも同様でした。この系図を見る時に、本気で自問自答すべきです。私の人生は、私の今日の歩みは、どのようなものなのか。
自分の歴史も、罪にまみれたもの。神を神と思わず、人を人と思っていないのではなかったか。自分の心の中に、自堕落な思い、破廉恥な思いはないか。姦淫、殺人の思いはないか。自分の人生は、神への背信の連続ではなかったか。そう確認したいと思います。
そして、自分は本当に不真実だった。本当に罪にまみれた人生を送ってきたと本気で思う人にとって、今日の箇所は福音です。なぜなら、そのような私たちのために、キリストは人として生まれて下さった。そのような私たちのために、神様は真実をつくして下さってことを教えられるからです。
今日の聖句です。自分の思いとして、告白していきたいと思います。
哀歌3章22節~24節
「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。」
この待降節の時期。自分の罪深さを覚え、それでも神様は救い主を送って下さった。この恵みを覚えながらクリスマスを迎えていきたいと思います。