皆様は「救い」と言うことばを耳にする時、どの様な救いを思い浮かべるでしょうか。病からの救い、経済的貧しさからの救い、政治的圧制からの救い、無知からの救い、精神的苦しみからの救い等等、人が求める救いは多種多様です。
しかし、紀元一世紀イエス・キリストの時代、もしユダヤ人に「あなたにとって救いとは何ですか」と尋ねたら、多くの人が「ローマ帝国の支配からの救い」と答えたと思われます。
ダビデ王、ソロモン王による繁栄は遠い昔。バビロン、ペルシャ、ギリシャにローマと、ユダヤ人は強国、大国の圧政に苦しんできました。そして、長い間苦しみ続けた人々の願いはただ一つ。昔のダビデ王のような強力無敵な王が現れ、ローマの支配を打ち破り、ユダヤ人中心の国を建ててくれることに集約していきました。彼らは神の遣わす救い主を地上の王として待ち焦がれていたのです。
この様な時代、このような国に、イエス・キリストはお生まれになりました。しかし、それは多くの人々の期待とは程遠い、いや全く思ってもみなかったようなお方としての誕生だったのです。
1:18,19「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」
当時のユダヤで結婚適齢期といえば、男性は十代後半から二十歳、女性は十代半ばから後半でした。
私たちは絵画に描かれた姿からマリヤを成熟した女性としてイメージしますが、実際のマリヤは今なら高校生、ヨセフも二十歳ほどの若者であったと思われます。ヤングカップルです。
ところで、理解しておきたいのは結婚を巡る当時の常識です。「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていた」の「妻と決っていた」ということばは、今で言う婚約のこと。しかし、その頃のユダヤ人はこれを既に結婚しているけれども、まだ一緒に住んでいない状態、つまり結婚の第一段階と考えていました。
ですから、聖書も「マリヤはヨセフの妻と決っていた」とか「夫のヨセフは」と言い表していますし、この後現れる主のみ使いもヨセフに「あなたの妻マリヤ」と告げています。
さらに、この関係を解消するには離婚の手続きをとる必要がありましたし、もし女性が他の男性と性的関係を持ったら、それは死刑に値すると定めされていたのです。もちろん、当時実際に死刑が行われることはなかったとされます。しかし、この様に結婚を非常に厳粛に考える社会に生きた若き男女として、マリヤとヨセフのことを想像しないと、私たち彼らの背負った苦しみを理解できないことになります。
ルカの福音書を見ますと、マリヤは主のみ使いから、聖霊によって男の子を身ごもると告知され、神様の御心がこの身になりますようにと祈っています。彼女は、約束の救い主誕生のために自分のような者が用いられることを喜び、神様を賛美しました。
しかし、それは同時に、当時のユダヤ社会の常識からすれば、ふしだらな女と見られ、世間から除け者にされる人生を引き受けることでもあったのです。人々が若く、未熟な女性のことばを、それも聖霊によって身ごもったなどという途方もない証言を受け入れるはずがありませんでした。
そして、夫ヨセフも事の真相をみ使いから告げられるまで知ることができなかったようです。当時は結婚関係にある男女と言えども、一緒に住むまでは滅多に会って話をする機会などなかったと言われます。ですから、ヨセフがマリヤの妊娠を知ったのは、マリヤのお腹が大分目立つようになってからのことだったでしょう。
聖書はヨセフを「正しい人」と紹介しています。これは罪を犯さなかった人という意味ではありません。むしろ、神様の前に自分の罪を覚え、神様が供えてくださった罪の贖いに頼り、その教えに忠実に生きることに務める人のことです。
しかし、ヨセフは聖書の教えを杓子定規にふりかざす人ではありませんでした。「彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」とあるからです。
マリヤの妊娠はどれだけヨセフにとってショックだったでしょうか。裏切られたと言う心の痛みを感じても当然の状況です。
そして、ヨセフには相手の男性を知るため裁判に訴える権利もありましたし、今で言う慰謝料をとることもできました。しかし、それら一切自分のための権利を捨てて、マリヤを世間のさらし者にしないため全力を尽くしたのが、ヨセフという人だったのです。
内密に去らせる。即ち、信頼できる証人を立て、離縁状を書いて相手に渡す。一切事を荒立てない。このようにすれば、マリヤに再婚のチャンスもあるとの規定を知っての配慮です。
まだマリヤのことをそれ程知ることもなかったでしょうに、自分の痛みよりも、相手の痛みを思い遣るヨセフ。自分の権利よりも相手の権利を守る人ヨセフ。ヨセフが本当に優しい人、愛の人であることを印象づけられる場面です。
しかし、愛の人であると同時に、ヨセフは信仰の人でした。ヨセフが辛い決断を下した直後のことだったでしょうか。主のみ使いが現れ、こう語りかけたのです。
1:20、21「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
み使いは「ダビデの子ヨセフ」と呼びかけました。これにより、私たちは1章前半の系図を思います。それは、アブラハムからダビデを経てイエス・キリストにいたる神様の民の系図でした。また、救い主はアブラハムの子孫、ダビデの子孫から生まれるとの預言がイエス・キリストによって実現したこと、イエス・キリスト以外の人間がいかに罪深い者であるかを徹底的に示す系図だったのです。
そして、ヨセフはこの系図に連なるダビデの子孫、ダビデの子として、人間の罪深さを自分のこととして悲しむ人でした。ダビデ王も罪人、その子孫もみな罪人。王様であろうと庶民であろうと、人間には神様の恵み以外に救いはないことを心から感じていたのです。
ですから、み使いのことばはヨセフの心に光を灯しました。聖霊の神様により罪のない人間の命がマリヤの胎に宿ったこと、そのマリヤを妻として自分が迎えることによって、ご自分の民をその罪から救ってくださるお方、真の救い主がこの世に誕生すること。
このみ告げは、当時の多くのユダヤ人がローマの圧制からの救いを願っていたのと違い、罪からの救いを切に願っていたヨセフにとって聞き逃すことのできない大切なものだったのです。
特に、生まれてくる男の子にイエスと名をつけなさいと言う、み使いの命令はヨセフの心を打ったことでしょう。イエスはヘブル語の「イェホシュアー」から来た名で、イスラエルの民を約束の地に導き入れた旧約の英雄ヨシュアの短縮形。この名前には
「主は救い」という意味がありました。
ヨセフはこのみ告げにより、初めてマリヤが身重になったことの真相を知りました。マリヤが受けていた苦しみをより深く思い、他ならぬ自分がこの神様のことばを信じてマリヤを妻として迎えなければ、人を罪から救う真の救い主、ダビデの子が誕生しないことを知ったのです。そして、ヨセフは神様のことばに従いました。
1:24,25「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」
ヨセフの決断と行動は決して容易なことではありませんでした。ふしだらな女性を訴えることもできずに結婚しただらしない男と軽蔑されるか、それとも結婚式をあげる前に不品行を為した夫婦と見下されるか。いずれにしても、世間の風は冷たく、ヨセフは社会的な不名誉を忍耐する覚悟をしなければならなかったのです。
このように前途多難な人生を、ヨセフは何故選んだのでしょうか。何故、困難な家庭生活をあえて選んだのでしょうか。
それは、ヨセフが神様が旧約聖書を通して約束されていた救い主、人間をその罪から救うことのできる罪のない、きよいお方、真の救い主を心から待ち望んでいたからと思われます。
こうして、同じくみ告げを受け、神様のことばを信じてともに歩みだしたヨセフとマリヤ夫婦はその後どうなったのでしょうか。ルカの福音書には、男の子が生まれて八日後都エルサレムに出かけてゆく二人の姿が描かれています。
ルカ2:22,24「さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちた時、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。・・・また、主の律法に「山鳩ひとつがい、または、家鳩のひな二羽と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。」
山鳩家鳩は、羊などを買うことのできない貧しい人々が犠牲の動物として買うことのできたもの。貧しいながらも、同じ神信仰に立ち、神を信じる者の労苦を分かち合いつつ、幼子を大切に育てるヨセフとマリヤの幸せな姿が心に浮かぶ場面です。
さて、今日はマタイの福音書1:18~25節のうち、主に18~21節の部分を扱ってきました。そして、今日の箇所から学ぶべきは、何と言ってもヨセフの信仰です。
ヨセフがマリヤとともに困難な人生を歩むことを決意したのは、自分にとって最も必要な罪からの救い主を本当に約束どおり送ってくださった神様の真実だったと思われます。
ヨセフもその一員であったダビデの子孫の系図、それは罪に満ちた人間の記録でした。兄弟喧嘩、嫁と通じた舅、遊女、姦淫、殺人、偶像礼拝。神の民、アブラハムやダビデ王の子孫と言っても、その実態は罪人だらけ。神様を離れたら、どこまで堕ちてゆくのかと思われる人間のリストでした。神様にさばかれて当然、滅ぼされて当たり前。そんな人間の実態です。
しかし、それにも関わらず、こんな人間のために約束したとおり、罪人を罪から救ってくださるお方をこの世に送り、誕生させてくださった神様。この神様の真実、神様の限りない愛がヨセフの心を動かしたのです。なぜなら、ヨセフ自身、自分が救いようのない罪人であることを認め、この罪こそが人生最大の問題であると考え、心痛めていたからです。
皆様は、ヨセフのように罪が人生最大の問題であると考えているでしょうか。実は、罪こそ人生最大の問題と考えられないところに、罪を神様との関係で考えられないところに多くの人の不幸があると聖書は教えていました。
ある人は経済的貧しさから救われれば人は幸せになれると考え、懸命に働きます。教育を受け、無知から救われれば人は正しく生きられると説く人もいます。政治的圧制から救われれば、良い社会になると思い、戦う人もいます。病から救われること、あらゆる精神的苦しみから救われることこそ、自分にとっての救いと考える人もいるでしょう。
もちろん、どの救いにも大切な意味があると思います。そのための努力も尊いものと思います。
しかし、これらすべての苦しみの奥にある罪があること、罪は神様から離れて生きる時に生まれる思い、ことば、行いであること、罪からの救い主を知って神様との正しい関係を回復しなければ、私たちは人として正しく生きることも、心満ち足りる幸いも味わうことはできないと、聖書は教えているのです。
ここでイエス・キリストを信じる者にもたらされる救いについて確認しておきたいと思います。
第一に、イエス・キリストを信じる者は罪あるままで義と認められる、神様から義しい者と認められるということです。ことばを変えて言えば、私たちは日々思いとことばと行いにおいて罪を犯すにもかかわらず、神様から責められることも、罰せられることもない立場に永遠に置かれたという恵みです。
罪を持ったままの自分が丸ごと神様に受け入れられているという大安心、神様の平安が私たちの心を守ってくれます。
第二に、イエス・キリストを信じる者は、罪の支配から救われているということです。キリストを信じる者の心に、神様の愛を喜ぶがゆえに罪を嫌い、神様のことばに従いたいという思いが成長してくるという恵みです。神様と正しい関係になかった者が、神様と正しく、親しい関係の中で生きられる喜びが私たちの心を満たしてくれます。
第三に、死の力からの救いです。聖書は肉体の死は人間の罪に対するさばきとして神様が与えたものと教えています。しかし、イエス・キリストを信じる者にとって、死はもはやさばきではありません。死は一巻の終わりで恐ろしいものではなく、むしろ、死後神様の愛の中で永遠に生きられる世界への復活に通じ、永遠の命への旅立ちなのです。
ヨセフが覚えた罪からの救いはここまでのものではなかったかもしれません。しかし、私たちはその後イエス・キリストの生涯を通して、キリストが信じる者にもたらす罪からの救いの恵みがどんなにすばらしいものかを理解できる立場にいるのです。
クリスマスの喜びとは、神様が本当に罪を人生最大の問題と考えるヨセフや私たちに、罪からの救い主をくださった喜びであることを覚えて、待降節の日々をすごして行きたいと思います。今日の聖句です。
Ⅰペテロ1:8「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びに踊っています。