2013年12月22日日曜日

マタイの福音書2章1-12節 「降誕~東方の博士たちが~」

フランスのシャモニー、イタリアのミラノ大聖堂、カナダのバンフ国立公園、エクアドルのガラパゴス諸島、ナミビアの砂漠、オーストラリアのグレートバリアリーフ。中国の万里の長城。皆様はこれが何だか分かるでしょうか。
死ぬまでに一度は行ってみたいと思っている世界の絶景として、日本人に人気の場所だそうです。個人的には一度も言ったことのない国であり、場所ばかりですが、写真などを見ますと、一度行けたらなあと感じさせる場所ばかり。美しい景色や歴史的な建物は、確かに私たちを旅へと向かわせる魅力があります。
また、そこにどうしても会いたい人がいるということも、人を旅へと駆り立てるものかもしれません。私の知人は、初孫の誕生を聞いて是非一目見たいとブラジルのサンパウロに出かけて行きました。飛行機を乗り継いでも片道二日近くかかる地球の裏側です。
しかし、紀元一世紀ユダヤの国に、当時の常識からすれば理解しがたい、不思議な旅をしてきた人々がいました。東方の博士と呼ばれる人々です。

2:1「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来た。」

当時の世界でユダヤの国に関心を持ち、旅をしたいと思う人は殆どいなかったと思われます。その頃ユダヤはローマ帝国に支配される弱小国。そんなユダヤに遥々旅をしてきたのが東方の博士たちでした。
政治と経済の中心ローマに旅をすると言うのなら分かる。景色の良い地中海の島に旅をすると言うのも分かる。しかし、政治的にも経済的にも弱い国ユダヤ。有名な観光地もないユダヤに、彼らはどうして遥々旅をしてきたのでしょうか。博士たちの言うところを聞いてみたいと思います。

2:2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

彼らは東の方、つまり自分たちの国で、その方、ユダヤ人の王として生まれた方の星を見たと言っています。
この星について、よく言われるのは、地球から見て土星と木星が重なって見える時に見られる特別な光ではないかと言うことです。天文学の計算では紀元前7年頃に、この現象が起こったとされ、キリスト誕生の時と合致します。
そして、日本語で博士と訳されたことばは星の研究をしていたが学者、賢者を意味していました。ですから、彼らはユダヤから見て東の国、こうした学者が重要な仕事をしていたとされるバビロンかペルシャの人で、旧約聖書が教える神様を信じ、そこに記された救い主の預言をある程度知り、信じ、待ち望んでいた人たちと考えられます。
じっさい、29,10を見ますとこうあります。

 2:9,10「彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」

 この星は博士たちの長い旅の先にたって導き、幼子のイエス様のいるところまで進み、その上でとまったと言うのですから、普通の星、普通の光ではありませんでした。聖書ははっきり書いていませんが、明らかにこの世界を創造した神様がこの星を用いて、彼らの旅を守り、導いたものと考えられます。
博士たちもそう信じていたからこそ、星を見て喜んだのでしょう。もし、この星の導きがなかったら、ベツレヘムにもイエス様と同じ頃に生まれた赤ん坊は多くいたはずですから、赤ん坊のいる家を一軒一軒訪ねなければならず、どの子が救い主であるか迷ってしまったことでしょう。
当時の状況を考えると、東方の博士たちの旅は大変な旅であったに違いありません。準備だけでも困難の連続だったでしょう。
博士とは星の観測、研究をして政治家の顧問などを務める重要な仕事。旅に出るためには長期の休暇が必要であり、その願いが簡単に認められたとは考えられません。また、長い旅を続けるための物資の準備や、盗賊から黄金、乳香、没薬という高価な贈物を守るためのガードマンを雇う必要もあったでしょう。
このような準備のためには、大変な時間と費用がかかったはずです。これ程の時間、労力、費用をかけて、危険を承知で東の国から遥々ユダヤまで旅をしてきた博士たち。彼らの心を動かしていたものは一体何だったのでしょうか。
この旅によって、彼らが経済的利益を得ることはありません。むしろ、失うものの方が多かったでしょう。また、政治的利益もありませんでした。博士たちがユダヤと言う弱小国と交流する価値は特に考えられません。さらに、宗教的な利益もなかったはずです。 博士たちはイエス様を神の遣わした救い主と信じていましたが、相手はまだ幼子。遥々旅をしてきた彼らのことを覚えていることなど期待できませんでした。
しかも、です。神様の預言のことばを与えられていた、いわば本家本元のユダヤ人たちは救い主誕生を知らず、王様へロデは幼子をライバルと思い、抹殺しようとしたと言うのです。

2:38「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」」
 
 宗教の専門家は救い主の預言について知識はあっても、救い主誕生を信じていない。ヘロデ王が博士たちに「幼子のことが分かったら知らせて欲しい。私も行って拝むから」と語ったのは真っ赤な嘘で、本心は幼子の抹殺。本当にひどい有様でした。博士たちは、神の民ユダヤ人のこのような姿にどれ程がっかりしたことことか。
 しかし、それでも彼らの心は挫けることなく旅を続け、救い主をその目で見、心からの礼拝をささげることができたのです。念願の礼拝をささげ、喜びに輝くその姿を見てみましょう。

 2:11,12「そして、その家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈物としてささげた。それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。」

現在の私たちはこの幼子がイエス・キリストであり、何をしたお方かを知っていますから、遠くから礼拝しに来る人がいたとしても当然ではないかと考えます。しかし、当時の状況を思えば、これは本当に考えれば考えるほど常識を超えた旅、不思議な旅としか言いようがありません。
しかし、この点にこそ、マタイの福音書が東方の博士たちの旅を記録した意味があったのです。何度も言いますが、この旅の目的は約束の救い主を礼拝する、ただそれだけでした。「私たちは、ユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝みに、つまり礼拝しに来ました。」彼ら自身が語ったとおりです。
この世の常識から言えば何の利益もない旅。多くの時間と費用をかけ、危険を覚悟の上でなければ出来ない旅。その目的はただひとつ、幼子イエス・キリストを礼拝することのみ。それ以外の目的はなしでした。
しかも、これだけの時間、労力、費用を費やしてなしたことは、ただ一度イエス・キリストをひれ伏して礼拝し、感謝のささげものとして黄金、乳香、没薬をささげることだったのです。
 博士たちの為した犠牲と献身。これぞ礼拝。これを真の神礼拝と言わずして、他に何と言うのでしょうか。博士たちにとって、神様を礼拝することはこれ程の犠牲を払ったとしても、行う価値のあること。この世の富、地位、名声を守ることより、はるかに価値あることだったのです。
 現在の私たちよりもはるかに少ない神様のことばに基づいて救い主の誕生を知り、信じ、目に見える姿はユダヤの大工の幼子でしかなかったお方に、ただ一度の礼拝をささげるため、この様な犠牲を払った博士たちの礼拝。
それに比べると、彼らよりもイエス・キリストについてよく知ることのできる恵みを受けている私たちの礼拝は果たしてどうでしょうか。人生における最高に価値あるものとして礼拝を考えてきたでしょうか。いつのまにか、真実と熱心にかけるおざなりの礼拝を繰り返してはいなかったでしょうか。
私たちは、神様を礼拝するために旅をする必要はなくなりました。イエス・キリストが十字架に死に、復活をして、いつも私たちとともにいてくださるようになったからです。ですから、私たちはいつでもどこでも神様に近づき、礼拝することができるようになったのです。
これは、東方の博士たちに比べ大きな恵み、うらやましいほどの恵みです。しかし、そのような恵みの中にあるために、かえって礼拝が形式的で、心の真実に欠けるものとなってしまうことを覚え、彼らの礼拝からいつも教えられたいと思いますし、教えられる必要があると思います。
何故なら、聖書は、私たち人間は最初神様を礼拝するために造られたと教えています。と同時に、神様を離れた人間が神様ではないもので心満たそうとする者となったことを教えています。
お金、名声、快楽など、人によって心満たそうとするものは異なっても、心満たそうとするものに心奪われ、その奴隷になるという生き方は共通しています。
また、いわゆる神や仏を信じても、神仏からのご利益を求めて礼拝するということもあるでしょう。礼拝がご利益を得る手段としてしまうという姿です。
つまり、この世界を創造した神様、真の神様に背を向けた人間は、ただ神様を礼拝するだけでは、喜びや満足を覚えることができない存在となってしまったのです。
皆様はどうでしょうか。このことに同意されるでしょうか。自分の中にもその様な弱さがあることを認められるでしょうか。
実は、イエス・キリストがこの世界に生まれられたのは、そのような私たちを造りかえるためだったのです。神様を礼拝することを、この世の何よりも価値あるものと考え、生きる者、神様を礼拝することひとつで、人として最高の喜びで心満たされる者へと造りかえるためです。
博士たちが礼拝した幼子が、やがて私たちの身代わりに罪を背負い十字架に死なれたこと、三日目に復活したこと、そしていつも私たちとともにおられることを、聖書は事実としてそれを伝えてきましたし、今も伝えています。
今日の聖句です。

ヨハネ114「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

私たちはイエス・キリストのなかに、神様による罪の赦しとその力からの解放と言う恵みを見ることができます。何度神様を離れ、そむいても、変わることなく私たちを愛し、ともにいて、私たちをあるべき生き方へ助け、導いてくださる神様のまこと、真実を見ることができるのです。

クリスマスは、このイエス・キリストの誕生を喜ぶ時です。この日を、いやこの日だけでなく人生のあらゆる日を、働くときも、食べるときも、病めるときも、健やかなときも、神様を礼拝する者、ともにいてくださる神様を喜ぶ者として生きてゆけたらと思います。