2013年6月2日日曜日

ヨハネの福音書(19)ヨハネ6:16~35「わたしがいのちのパンです」

 バケット、黒、グラハム、玄米、雑穀、チャパティ、ナン。皆様は何のことか分かるでしょうか。これらは世界の代表的なパンの種類です。
 パンの歴史は非常に古く、小麦やとうもろこしの粉を水で溶いて焼いただけの、平べったいパンは、七千年から八千年前まで遡ることが出来るそうです。
 ちなみに、日本人がパンを知ったのは戦国時代。織田信長はパンが大好物だったとも言われます。また、イエス・キリストの時代、ユダヤ人が普段口にしたのは大麦パン。過越しの祭りでは、お煎餅のように薄い種無しパンが食べられていました。
 先回私たちは、五つのパンと小魚二匹を用いて、イエス様が五千人の大群衆を満腹させたという奇跡をみました。今日は、その群集とイエス様の間に交わされたパン問答となります。
 さて、そのパン問答に入る前のこと。一足先に湖に下り、舟に乗り込み、カペナウムの町へ向かった弟子たちを試練が襲いました。

 6:1618「夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。」

 ガリラヤ湖は海面より低い所にあるせいか、しばしば突風、強風によって海面が荒れました。弟子たちは夜湖で大嵐に遭い、これに苦しんだのです。
 そこへ、イエス様が波の上を歩き、近づいて、彼らを救いました。

 6:1921「こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。」
 
 突如として湖上に荒れ狂った夜の嵐は、人生の縮図です。一寸先は闇。私たちの人生にもいつ、どこで、どんな嵐が押し寄せるか分かりません。その様な時、私たちは不安と恐れで心が潰れそうになるでしょう。
 しかし、そんな試練の中で、「わたしだ。恐れることはない。」と語りかけてくださるイエス様の声に耳傾け、イエス様がともにおられることを覚えるなら、恐れは去り、心は平安に満たされる。この様なメッセージを心に刻みたい場面でした。
 一方、イエス様によって胃袋を満たして頂いたあの群衆はどうしたのか。翌朝目覚めた彼らは、弟子もイエス様もその姿が見えないのを知ると、折良く居合わせた舟に乗り、イエス様を捜しにカペナウムを目指したのです。

 6:2225「その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は、そこには小舟が一隻あっただけで、ほかにはなかったこと、また、その舟にイエスは弟子たちといっしょに乗られないで、弟子たちだけが行ったということに気づいた。
 しかし、主が感謝をささげられてから、人々がパンを食べた場所の近くに、テベリヤから数隻の小舟が来た。群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。『先生。いつここにおいでになりましたか。』」

 余程昨日の奇蹟が心に残ったのでしょうか。イエス様を捜し出そうとする人々の熱狂は凄まじく、湖の向こう岸からカペナウムまで一気に移動したというのです。そして、弟子達より後に出発したはずのイエス様が、いつのまに、どのようにしてカペナウムに移動したのか驚いたのでしょう。「先生。いつここにおいでになりましたか。」と驚嘆の声を上げました。
 しかし、イエス様の方はそんな人々の熱狂ぶりのその奥にあるものを見抜かれると、ずばり指差したのです。

 6:26,27「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。』」

 「あなたがたがわたしを捜しているのは、わたしが救い主であることのしるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからにすぎない。」イエス様は人の本心、本音を見抜かれるお方。イエス様を相手に、誤魔化しは通用しません。
 さらに、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」との勧めは、今の私たちの心をも刺します。
 果して、自分は肉体の必要を満たすことのみを追い求める、食欲人間、物欲人間になってはいなかったか。魂の必要を満たすことに、どれほど努めてきたのか。この世でだけ通用する金銭、評判のために熱心になることはあっても、果して本当に魂を満たしてくれる、聖書を読み、祈り、神様と交わる時間をどれだけとってきたのか。そう問われる所です。
 さすがに、群衆も心刺されたのか。今度は「永遠のいのちを得るためになすべき神のわざとは何か。何をすべきでしょうか。」とへりくだって尋ねました。

 6:28,29「 すると彼らはイエスに言った。『私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。』イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」

 イエス様の答えは、人々にとって意外なものだったでしょう。当時のユダヤ人は、永遠のいのちを得るには、神のわざ、すなわち旧約聖書に記された律法や様々な宗教的伝統を守り、実践する必要があると考えていました。
 これは、何もユダヤ人に限りません。キリスト教以外の宗教は、救いを得るためには人間の側の行いが必要、定められた教えを実行、達成する必要があると教えているからです。
 それに対して、キリスト教はというと、ここで言われた通り、神が遣わした者イエス・キリストを信じることで救われる、永遠のいのちをいただけると教えていました。先ず信仰によって救いを受け、しかる後に善き行いがこれに従うという順序なのです。
 しかし、「わたしを信じることが神のわざ」と言うイエス様のお答は、人々の反感を招いたように見えます。彼らは、「そこまで言うなら、救い主のしるしとして何を見せてくれるのですか」と迫りました。

 6:30,31「そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」

 昔、出エジプトの指導者モーセが神様に願うと、マナと言うパンが天からくだり、荒野でユダヤ人の先祖がそれを食べて満腹するという奇蹟が起こりました。
 人々はこの出来事を思い起こすと、「あなたには、あの偉大なモーセ以上の奇蹟をすることができますか」とイエス様に挑戦したのです。
 何と、人間とはイエス・キリストから受けた恩を忘れやすい者か。何と、人間とは心が盲目な者かと思わされます。彼らが五つのパンと二匹の魚を用いて、一瞬にしてそれを増やし、男だけでも五千人を養うというイエス様の奇蹟を見、その恵みを味わったのは、つい昨日のことだったのではないですか。
 それなのに、もう一度奇跡をして見せろとは、よくも言えたもの。忘恩、盲目な心もここまでとはと情けなくなります。
 しかし、イエス様はどこまでも寛容なお方。忍耐を尽くして、彼らを教えました。

 6:3233「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」

 あなたがたが尊敬してやまないモーセが与えたパンは天からのパンではない。肉体の命を養うパン。しかし、わたしの父、父なる神様が与えるのは、世の人に命、永遠の命を与えるパン。
 そう懇切丁寧にイエス様が教えられたにもかかわらず、人々の心の眼は相変わらず開かれず。鈍感で盲目のままでした。なぜなら、天からのパン、神のパンを、昔先祖たちが食べたパンよりももっと高級なパンと勘違いしたのか、「いつもそのパンを私たちにお与えください」と求める始末だったのです。

 6:34,35「そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

 三十五節のことばは、ヨハネの福音書の中でも最も有名なもののひとつです。不信仰な人々のために発せられたこの一言に、どれほど多くの人が慰められ、励まされ、イエス・キリストに近づいて行ったことか。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」
 ライルと言う人が食用のパンといのちのパンの似た点を挙げて、次のように説明しています。「第一に、パンは栄養に富む。健康の維持に欠かすことのできない食べ物である。第二に、パンはすべての人に適する。子どもも、若者も、老人も、みなともにこれを口にすることができる食べ物。第三に、パンは毎日必要なもの。他の食べ物は時々食べれば足りるけれど、パンは毎日食べるべきもの、毎日食べても飽きないものである。私たちの魂にとって、いのちのパンなるイエス・キリストもこれと同じではないか。」
 以上、今日の箇所を読み終え、皆様とともに確認しておきたいことがふたつあります。
 ひとつは、イエス・キリストを信じること、信頼することの価値です。
 「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」神のわざとは、神様が最も喜ばれるわざと言う意味です。親が自分を頼り、信頼する子どもを喜ぶように、神様はご自身が世に遣わしたイエス・キリストを頼り、信頼する魂を喜ばれる。
 つまり、イエス・キリストを信じること、信頼することこそ、人が神様のためになしうる最上のわざなのです。私たちはこのことをどれほど自覚しているでしょうか。
 私たちは、神様のためになしうる最上のわざは多くの献金、熱心な奉仕や伝道ではないか。そう考えがちです。しかし、イエス・キリストに信頼する心なくなすわざは、神様の眼に虚しいのです。イエス・キリストに頼らずしてなす行いを、神様は喜ばれないのです。
 自分がどんな罪を犯しても、イエス・キリストの十字架の贖いは、罪をおおってくださると信じること。自分がどこにいても、何をしていても、イエス・キリストがともにおられ、助けて下さると信頼すること。これこそ、神様が最も喜ばれるわざ、私たちがなしうる最上のわざであることを覚えたいのです。
 ふたつめは、イエス・キリストをいのちのパン、つまり魂の食物として生きることの幸いです。子どもも、若者も、老人も、強い者も、弱き者も、すべての人が魂の食物とすることのできるイエス・キリスト。魂の健康を維持するために欠かすことのできないパンであるイエス・キリスト。毎日食べる必要があり、毎日食べても飽きることのないパン、イエス・キリスト。
 皆様は、イエス・キリストこそ魂のパン、命の源と告白できるでしょうか。イエス・キリストなくして生きられないと言うほど、親しい交わりを持っているでしょうか。
 今日の聖句、イエス・キリストを魂のパン、命の源として生きていた使徒パウロのことばをご一緒に読んでみたいと思います。

 ピリピ413「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」

 私を強くしてくださる方イエス・キリストをいつも味方として、いつもともにいてくださる救い主として、貧しい時も、富める時も、病の日も、健康の日も、順調な時も、試練にある時も、あらゆる状況から逃げず、心平安の内に対応してゆくことができる。
 私たちみなが、このような歩みができたらと思います。