2013年6月30日日曜日

ヨハネの福音書(22)ヨハネ7:1~24「自分の栄光を求める者と神の栄光を求める者」

ことわざに「兄弟は他人の始まり」と言います。子供の頃は仲の良かった兄弟も大人となり結婚や利害関係で次第に情が薄くなると、他人の様になってしまう事を言います。
 イエス・キリストも「兄弟は他人の始まり」を経験されました。今までナザレの村で兄弟仲良く暮らしてきたものの、イエス様が本来の使命である神から遣わされた救い主としての活動を始めると、弟達のお兄さんイエスに対する無理解が目立ち始めたのです。
 時は秋。仮庵の祭りが近づいてきたある日のこと。自分たちも都エルサレムに上ろうと考えた弟たちはお兄さんのイエス様を誘いました。

 7:15「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。
さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」

イエス様の兄弟、これはイエス様の弟だけでなく親戚も含まれていたと思われますが、彼らはユダヤ人の宗教指導者がイエス様の命を狙っていた事を知らなかったのでしょう。いかにも暢気に「エルサレムの都にいるあなたの弟子たちも、このガリラヤであなたがしているわざ、奇跡を見ることができるようここを去ってユダヤの都に行ったらどうですか。」と声をかけたのです。
しかも、です。「自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」とは要らぬお節介、余計なお世話でした。
故郷ガリラヤを隠れた所、物の分からない田舎者の集まる所と見下し、「どうせ奇跡を行うならユダヤの都エルサレム、しかももうすぐ都は仮庵の祭りで賑わうという絶好のタイミング。さあ一緒に行こう。」との勧めです。
しかし、イエス様はご自分を世に現わす時、つまり公に都エルサレムに入場する時を既に決めておられたのです。それを「自分を世に現わしなさい。」等と、如何にも親切そうな物言い。
しかし、裏側には「今や奇跡を行う教師、預言者として有名人になった者の家族親戚として、自分たちもその人気名声にあやかりたい。」そんな魂胆が透けて見えます。
自分が世に生まれたのは名を売るためにあらず、人に仕えるため。罪のいけにえとして十字架に死に人々の罪を贖うため。そう確信するイエス様の心を兄弟たちは知らなかった、いや知ろうとさえしなかった。これを指して「兄弟たちもイエスを信じていなかった」と言われたのでしょう。
しかし、イエス様は兄弟たちの無理解をあからさまに責めませんでした。むしろ、やんわりと断りました。

7:69「そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。」

「わたしの時」とは福音書には何度か登場する表現です。イエス・キリストが都エルサレムで十字架に死に、復活するその時を指します。父なる神様に従いこの時を非常に重視していたイエス様は、たとえ身内の者に誘われても決意を変えることはありませんでした。だから重ねて「わたしの時がまだ満ちていない。」と言われたのでしょう。
それにしても、「世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。」とは意味深長なことばでした。「わたしの教えは世の人にその行いが悪いことを示すため、世の人はわたしを憎む。しかし、あなたがたが憎まれることはない。」
同じ家族、同じ親族であっても、神様を信じる者とそうでない者とでは、この世の人の見方が違う。これは今日私たちも心に覚えるべき真理と思われます。
しかし、「わたしはこの祭りにはゆかない。」と兄弟たちに言われたイエス様が彼らとは別に、言わば内密に仮庵の祭りに上られたのです。
当時、人々は家族親族知人友人、ひとつのグループになって祭りに出かけるのが慣わしでした。イエス様は人目を惹くグループ行動を避け、単独で都に向かったようです。

7:1013「しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。ユダヤ人たちは、祭りのとき、「あの方はどこにおられるのか。」と言って、イエスを捜していた。
そして群衆の間には、イエスについて、いろいろとひそひそ話がされていた。「良い人だ。」と言う者もあり、「違う。群衆を惑わしているのだ。」と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった。」

イエス様が何故人目を惹く行動を避けたのか。その理由が良く分かる都エルサレムの状況です。ガリラヤにいた弟子から連絡があったのか、都の弟子たちはイエス様を捜しました。イエス様も彼らと安全に会える場所を捜していたのかもしれません。
他方、群集たちはイエス様の噂でもちきり。「良い人だ」と評価する者もあれば、「群衆を惑わす者ではないか」と不安を感じる人もいる。いずれにしても群集たちはユダヤ教指導者の威光を恐れ、公の場でイエス様について滅多なことは口にできないという有様だったのです。
人々が大勢集まる祭りの場で、イエス・キリストに奇跡など行われたら身も蓋もない。自分たちの権威立場を守るのに必死の指導者は、祭りの間特別警戒網を敷いていたのかもしれません。
そんな状況の中イエス様が満を持したように、神殿に上りました。しかし、そこで行ったのは人気を博すこと間違いない奇跡ではなく、みことばを教えることだったのです。

7:14,15「しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」」

その頃ユダヤ教にはいくつかの学派があり、それぞれに学校を持っていました。人々は、その様な正規の学校で学んだことがないイエス様の教えのすばらしさに感動し、驚いたというのです。
しかし、謙遜なイエス様はまたも人々の眼が自分に向けられたのを感じると、身を低くして「わたしの教えは父なる神様からのもの」と語られたのです。

7:1618「そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」

「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」このイエス様のことばは私たちの心を抉ります。
よく人は言います。「キリスト教について完全に理解できないので、イエス・キリストを信じられない。」しかし、イエス様は言います。「神の御心を行なおうと願う人なら、わたしが神から遣わされた救い主であると分かるはずだ。」と。
イエス・キリストを信じるために必要なのはキリストについての知識か、それとも実際に聖書の教えに従うことか。知識と実際に従うこと。どちらも必要でしょう。
しかし、イエス・キリストについて知ることと、イエス・キリストに従い、知ることの間には大きな隔たりがあるように思います。それは、私たちが結婚以前に相手について知ることと、実際に共に生活をしてみて相手を知ることに違いがあるのと同じです。単なる知識と体験的な知識の違いといったらよいでしょうか。
キリスト教には人間の小さな頭では理解できない教えがあります。信じて受けとめるしかないと言う教えがあります。しかし、本気でイエス・キリストの教えを信じ、これに従う生活を送ることで知るイエス・キリストの素晴しさは、理解できないことへの不安など吹き飛ばして余りあるほどなのです。
さて、自分のためにこの世の栄光を求めてやまないユダヤ人の行動には矛盾があることを、次にイエス様は指摘しました。これも自分の身を守るためというより、人々を父なる神様に導くためのことばと思われます。

7:19,20「モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれています。だれがあなたを殺そうとしているのですか。」」

モーセがユダヤ人に与えた律法とは有名な十戒のこと。その十戒には「殺してはならない。」とはっきり神様の御心が記されていました。それなのに、「あなた方の指導者たちは自分たちの権威と立場を守るため、裁判もなしにわたしを殺そうとしている。これは殺人ではないか」とイエス様はずばり群集に指摘したのです。
しかし、指導者を恐れる都の人々は、「それは被害妄想だ。あなたは悪霊につかれている(気が狂っている)。」と答えて、逃れようとします。そこに、イエス様の第二の矢が放たれました。これも、自分の栄光を求めるユダヤ教指導者の矛盾をつくことばとなっています。

7:2124「イエスは彼らに答えて言われた。「わたしは一つのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています。モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。――ただし、それはモーセから始まったのではなく、先祖たちからです。――それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」」

「わたしが行った一つのわざ」とは以前都エルサレムで、安息日にイエス様が38年もの間病に苦しんでいた男を癒し、立たせ、歩かせたことを指します。何故人々がそれに驚いたのかと言えば、ユダヤ教では病人を癒すことが安息日にしてはならない仕事として固く禁じられていたからです。
事実、群集は驚いただけですが、ユダヤ教指導者は腹を立て、彼らがイエス様を殺そうと考えるきっかけとなった大事件でした。
しかし、ユダヤ人が尊敬してやまないモーセの時代に定められた割礼に関しては、たとえ安息日であっても人々はこれを行っていたのです。「そうだとすれば、割礼よりもはるかに大切であり、安息日にふさわしい癒しのわざを行ったからといって、何故あなたがたの指導者はわたしに腹を立てるのか。」
人々にとってはぐうの音も出ない、いや出せないことばです。そして、最後に「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」と念を押され、最早人々には返すことばはありませんでした。
こうして、読み終えた今日の箇所。私たち我が身を振り返り、考えてみたいことが二つあります。
ひとつは神様の栄光を求めることと自分の栄光を求めること、私たちにとってどちらが大切でしょうか。どちらを大切なものと考えているのかではなく、実際にどちらを求めて、私たちは普段考え、語り、行動しているのでしょうか。
兄弟姉妹と交わっている時、奉仕をしている時、この世で学び、仕事をしている時、私たちの心にはこの身をもって神様の素晴らしさを現わしたいという願いがどれほどあるでしょうか。
とかく私たちの関心は世間の評判を受けることに向き勝ちです。しかし、人々相手の評判病に取り付かれたら、私たちは果てしないストレスに苦しむことになると、聖書は教えています。何をするにも神様の栄光を求める生き方こそが真に私たちを自由にし、生きる喜びを覚えさせるもの。イエス様の生き様から、このことを教えられたいと思います。
ふたつ目は、うわべによって人をさばかず、正しいさばきをする者になることです。勿論イエス様はここで私たちが人の意見や能力、行動について評価することを禁じているのではありません。「うわべによって人をさばかない」とは、ユダヤ教指導者がイエス様に示したような、自分を正しいとし、怒りに駆られて人を非難する態度です。人のあら捜しをし、言葉尻をとらえ、人を責め、傷つける様な態度をとることです。
イエス様は私達がこうした態度を無意識の内に取る者である事を教え、戒めています。

マタイ75「偽善者たち。まず自分の目から梁を取り除けなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」

私たちの中にある人を非難し、あら捜しをする態度、それこそ人の目にあるちり、つまり欠点に比べたら大きな梁、重大な罪であると自覚すること。これが自分の目から梁を取り除くことです。そして、自分の罪を思いつつ、謙遜になり、心からの同情心をもって人に接すること。これが正しいさばきつまり神様が喜ばれる態度でした。
私たちも神様に助けて頂きながら、こうした態度を身につけることができたらと願わされます。














2013年6月23日日曜日

一書説教 Ⅰサムエル記 ―神の思いと私の思いー Ⅰサムエル記2章6節~10節

 聖書を読む時、私たちはどのような心構えで読んでいるでしょうか。キリスト教信仰を持っている者は、この世界を創られた神様の言葉として聖書を読みます。聖書は「神のことば」である唯一の本。そのため、この世界を造り支配されている方が、私に何を語られるのかを知るために聖書を読むというのは、大切な心構え。そのような心構え抜きに聖書を読むことは、相応しくないでしょう。
 それでは、聖書を一つの本として楽しむことは良くないのでしょうか。そこに記された人間模様や出来事に、読者である私たちが、喜んだり、悲しんだり。興奮したり、ほのぼのとしたり。一つの本として、聖書を楽しむことは、良くないのでしょうか。
 仮に、ただの本として聖書を楽しむだけというのならば、それは相応しくないでしょう。しかし、聖書を「神のことば」と心得、その上で聖書を楽しむことは良いこと。奨励されることです。手に汗握り、感動し、時にはがっかりしながら聖書を読むことを楽しみ、同時に神様がどのようなお方か。人間はどのような存在で、私はどのように生きるべきなのか考える。そのような豊な聖書の読み手になりたいと願います。

 教会あげて皆でより聖書を読む者になりたいと考えて、断続的に取り組んでいます一書説教。六十六巻からなる聖書、一つの書を丸ごと扱い説教する。これまでに八回行い、今日が九回目となります。毎回お勧めしていることですが、一書説教の時は、説教を聞いた後で、扱われた書をお読み下さい。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。

 今日は旧約聖書第九の巻、第一サムエル記となります。聖書の中でも一際面白い書。様々な登場人物が、強烈な個性をもって活躍する。清々しい信仰者の姿を示すこともあれば、欲望の塊のような姿を晒すこともある。家庭的な事柄から、軍事的、政治的、国家的な事柄まで。激しい嫉妬や怒りの姿もあれば、麗しい友情の姿もある。人情味溢れる、浪花節のサムエル記です。ここに記された人物の思いを考え、心情を想像し、息遣いを感じながら、読み進むことが出来るようにと願います。

 サムエル記の時代背景は、ヨシュア記、士師記に続くもの。神の民イスラエルが、神様が与えると約束していた地、カナンに入ります。勝利、征服の記録がヨシュア記。しかし、ヨシュアの死後、イスラエルは退廃し、敗北と屈辱の時代となります。傑出した人物、士師が現れた時は、なんとか国として立てなおすが、士師が死ぬと弱体化する。その繰り返しが記録されたのが士師記です。士師記の最後は、次のように閉じられていました。

士師記21章25節
「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」

 傑出した人物、士師がリーダーとなる時は、国としてまとまるも、士師がいなくなるとばらばらとなる。王という制度がなく、継承されるものがない。そのような士師の時代から、王制度が導入される時代へ。神の民イスラエルが、王国として新しい時代を迎えるのが、サムエル記となります。
 第一サムエル記を概観しますと、登場人物によって大きく三つに分けられます。前半は、書名となった人物、サムエル。主に一章から八章です。中盤は初代イスラエルの王、サウル。主に九章から十五章。後半がダビデ。十六章から三十一章までです。前半サムエル、中盤サウル、後半ダビデ。しかし、サムエルは前半にしか登場しないかというとそうではありません。サムエル自身は、中盤にも後半にも登場するのですが、中心人物はサウル、ダビデになっているという意味です。読み進むにつれ、著者の焦点が、サムエル、サウル、ダビデと少しずつ移動していく印象です。

 まずは前半から確認します。士師の時代から王の時代へ。新しい時代を切り開く立役者となるサムエルの記事、一章から八章です。
 当時のイスラエルは問題山積の状態でした。近隣のペリシテ人の脅威が続き、指導者であるはずの祭司エリの家族は非常に不信仰(2章)。イスラエルの民も迷信的でした(4章)。困難の最中にある時、神様は優れた指導者を立てて下さるのですが、それは一人の女性の祈りがきっかけとなっています。

 Ⅰサムエル記1章11節
「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」

一夫多妻の不幸の中、子どもが与えられたいと願うハンナの祈りです。この女性は、問題山積のイスラエルを何とかしたいと考えていたわけではありません。子どもが与えられたいという個人的な願いを必死に祈ったのです。ただし、神様中心の信仰をもっての祈り。お祈りとは何かを考える上で、ハンナの姿は重要なものです。
この祈りの結果、サムエルが誕生し、宮で仕える者となり、優れた指導者としてイスラエルを導きます。一人の女性の祈りが、神の民が新しい時代へ突入する引き金となった。嬉しい出来事の一つです。信仰者がその生活の中で真剣に神様に向き合うことを、神様は大いに用いて下さる。本人は知らなくとも、歴史の重要な働きに参与していることがあるのです。この事実に励まされて、私たちもそれぞれの生活の中で、真剣に信仰者として生きることをしていきたいと思います。天国に行った時、実はあの時の祈りが、あの時の言葉が、あの時の奉仕が、重要な意味があったと知ることが出来るというのは、私たちの大きな特権の一つでした。

 サムエル自身の活躍は様々な側面が記されています。幼少時代、祭司エリを相手に預言をする姿。預言者として広く認められたこと。イスラエルの民を悔い改めに導く姿。ペリシテ人との戦いでは、士師としての凄まじい活躍が記されています。
 Ⅰサムエル7章10節
「サムエルが全焼のいけにえをささげていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来たが、主のその日、ペリシテ人の上に、大きな雷鳴をととどかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエル人に打ち負かされた。」

 士師記のリーダー達は、腕力で敵と戦う姿が記されていました。優れた腕力、同時にどこか粗野というか、問題を抱えている士師たち。それに対して、サムエルは祈りの人。戦争時においても、祈りにおいて勝利したと記録される士師でした。是非、聖書を読んで、その活躍を確認して頂きたいと思います。

非常に優れた信仰者の姿が記されるサムエルですが、一つ課題があり、それは信仰継承がうまくいかなかったこと。サムエルが年老いた後、その子どもたちは、民の指導者の地位に就きながら、利得を追い求め、わいろを受け取るような者たちとなります。これがきっかけとなり、イスラエルの民が王を求めるという状況になります。
Ⅰサムエル8章5節
「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立てて下さい。」

 この件を読みますと、この時イスラエルの民が王を求めたことは、良くないこと。悪いことと記されています。何故、王を求めることが悪いことなのでしょうか。かつてモーセも、王を求める場合は、このようにしなさいと申命記で規定していました(申命記17章)。王を求めること自体が悪ならば、モーセは王を求めてはならないと語ったはず。しかし、そうではなかったのです。それでは、何故、王を求めることが悪として記録されているのでしょうか。それはここで、イスラエルの民が王を求めた動機が課題となっています。この時、イスラエルの民は「他のすべての国民のように」と言いました。「他のすべての国民のようになりたい」と。
 神様に特別に導かれ守られてきたことを無視するかのような動機。事実、神様ご自身が、民が王を求めたことを「彼らを治めているこのわたしを退けた」(8章7節)と言われます。それにもかかわらず、この民の願いによって王が立てられます。誤った動機、罪にまみれた動機に基づく願いをも、神様は用いられることがあるのです。

 このようにして最初の王が選ばれることになります。初代イスラエル王はサウル。ここからが中盤です。預言者サムエルが王を選ぶことになり、ここでもサムエルの重要な働きを見ることが出来ます。
 初代王に選ばれたのは、ベニヤミン部族のサウル。これは、当時の人たちからしても、士師記を読んできた私たちからしても驚きです。ベニヤミン部族と言えば、これより少し前、最悪の事件を起こし、著しく数を減らした部族。サウル自身、「私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン部族ではありませんか。」(9章21節)と言う状況でした。
 とはいえ、サウル自身は最も美しく、最も背が高かったと記録されています(9章2節)。その外見は王に適していました。また、九章、十章、十一章と読みますと、サウルの美点に目が留まります。親思いであり、従順、謙遜。敵と戦う時には大胆に。自分に対する反対者には寛容。外見だけでなく、内面も優れていた人物。さすが王に選ばれた器と見えます。
 ところが、十三章、十四章、十五章と、サウルの失敗が続きます。非常に残念な場面。最初の失敗は、私たちからすれば可哀想なもの。失敗とは言え、情状酌量を感じるものでした。宿敵ペリシテ人との戦闘が開始され、相手が優勢。多くの敵勢を前にした時、気後れした者たちは、隠れたり避難したりと混乱します。この時、サウルはサムエルの到着を待っていましたが、約束の時になってもサムエルが来ない。仲間が散り散りになりそうなのを見て、サウルはいけにえをささげます。いけにえをささげる。これは、祭司のすることであり、それ以外の者がしてはならないことでした。

 このサウルに対してサムエルの宣告が冷たく響きます。
 Ⅰサムエル13章13節~14節
「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。・・・今は、あなたの王国は立たない。」

 二つ目の失敗は、誓約の問題でした。不用意な誓約をし、それを果たそうとすると民が反対。その結果、誓約を反故にするというもの。一つ目の失敗よりも、二つ目の失敗は、問題が大きい。次第にほころびが大きくなっていく印象です。そして三つ目の失敗は決定的です。アマレク人に対して全てを聖絶するように。人間も家畜も殺すようにと命じられ、戦い勝利するも、良い家畜を惜しみ殺さなかったというものです。聖絶のものを残した。これをサムエルに指摘された時、サウルは抗弁します。従順、謙遜のサウルは隠れ、不従順と傲慢の姿を晒すことになる。
このサウルの姿を、どのように見るでしょうか。断罪するか。私にも似たところがあると見るか。神様への不従順が膨れ上がる前に、立ち返るべきなのだと教えられます。

 この決定的な失敗の結果、サムエルはサウルに対してはっきりと宣告します。
 Ⅰサムエル15章28節
「サムエルは彼に言った。『主は、きょう、あなたからイスラエル王国を引き裂いて、これをあなたよりすぐれたあなたの友に与えられました。』」

 王の地位は、サウルよりも優れた、サウルの友に与えられる。この宣告の結果、サムエルは次の王を選ぶことになり、サウルは自分よりも優れていると思う人物を非常に恐れるようになる。こうして、第一サムエル記の後半、ダビデの登場となります。

 サムエルがサウルの次に王として選ぶのは、羊飼いの少年ダビデ。年若く、王としての風格も力も、まだ持ち合わせていなかったでしょう。しかし、「人はうわべを見るが、主は心を見る」と教えられたサムエルは、神様に導かれるまま、ダビデを選びます。
 とはいえ、これですぐにダビデが王となるわけではありません。第一サムエル記はここから、ダビデが王として整えられていく記録となります。

 ダビデが最初に活躍したのは、ペリシテの歴戦の勇者ゴリアテとの一騎打ちです。イスラエル軍がゴリアテの大音声に震える中、羊飼いの姿で戦いを挑み勝利する。一騎打ちでの前口上は、勇ましい上に信仰的で読む者を興奮させます。
 Ⅰサムエル17章45節、47節
「ダビデはペリシテ人に言った。『おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。・・・この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。』」

 ゴリアテとの戦いに勝利して、ダビデは多くのものを得ます。一つはサウルの子、王子ヨナタンとの友情。ダビデがゴリアテとの戦いを報告した際、それを聞いた王子ヨナタンはダビデのことを愛したと言います。(18章1節)またイスラエルの民も、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」と言って、サウル王よりも、ダビデの働きを賞賛します。
 しかし、ダビデが名声を得たことによって、サウルはダビデを恐れるようになります。

 Ⅰサムエル記18章8節~9節
「サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。『ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。』その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。」

 これ以降、ダビデが忠実に働き、名声を高めれば高めるほど、サウルはダビデを恐れるようになります。なにしろサムエルの宣告は、「サウルよりも優れた人物に王位が渡される」というもの。ダビデの優秀さが示される度に、サウルは怒り、嫉妬、恐れを抱くことになり、ついにはダビデへの殺意を抱くようになる。当初は、裏工作でダビデを葬ろうとするもうまくいかない。次第に、サムエルの宣言した者はダビデであると確信するようになり、その結果、殺意は増していき、遂にはダビデ討伐の兵まで出すようになる。追われるダビデ。追うサウルという場面が多数出てきます。
 片や王子ヨナタンは、サウルと正反対の態度をダビデにとり続けます。ダビデの姿を見るにつけ、神様が次に王に立てるのはダビデだと確信する。本来ならば、次に王となるのはヨナタンでしょう。サウル以上に、ダビデ憎しとなってもおかしくない。ところが、次の王はダビデとしながら、ダビデを愛していきます。

 Ⅰサムエル23章17節
「彼(ヨナタン)はダビデに言った。『恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。』」

 神様が選ばれているのは、ダビデであると同じように理解しながら、サウルとヨナタンの姿は正反対となる。神様が選んでいる。だから愛するのか。神様が選んでいる。だから殺そうとするのか。神様の思いを最上とするのか。それとも、私の思いこそ最上とするのか。自分がサウルの立場ならどうするか。自分がヨナタンの立場ならどうするのか。考えながら読みたいところです。

 サウルに命を狙われるダビデは何度も危機的状況に陥ります。単身で逃げること。狂人のふりをしなければならない場面。イスラエル国内にいることが出来ず、ペリシテ人の領地へ逃げること。サムエルに油注がれ、王になることが約束されながら、それが実現するとは思えない場面を何度も経験します。そのような中で、特に注目すべきは、ダビデのサウルに対する態度です。執拗にサウルに命を狙われても、ダビデ自身はサウルを殺そうとはしない。サウルを殺す、決定的な機会が二度ありますが、それでもダビデは手を出しません。サウルとて、神様に選ばれた王。その王を、自分が殺すわけにはいかないと心得ていたからです。
 具体的にダビデはどのような危機に遭遇し、神様はどのように助けて下さったのか。ダビデを追い続けるサウル。逃げるダビデ。友であるヨナタン。それぞれがどうなるのか、ハラハラ、ドキドキしながら読み通したいと思います。


 以上、第一サムエル記でした。確認しておきたいこと、面白いと感じる場面は山ほどあるのですが、この説教では僅かしか扱えませんでした。是非、じっくりと第一サムエル記を読んで頂きたいと思います。
 最後に一つ、第一サムエル記の中で特に重要と思うテーマを確認して終わりにしたいと思います。サムエル記は、多種多様な人物が登場し、強烈な個性をもって行動します。ある人たちは神様の御心を求めながら、信仰的に生き、ある人たちは自分のやりたいように生きる。しかし、全体としては神様の御心が確かに推し進められていることを見出せます。サムエル記を読み通して強く感じるのは、この世界を支配されている方がいること。結局のところ、私たちにとって最重要なことは、支配者である神様との関係をどのようなものとするのか。神様の願われることを行い、行うべきでないことは避ける。神様の思いよりも、自分の思いを優先させることが、いかに自分を不幸にするのかということです。
 このテーマ。神様が世界を支配されていること。この神様に従うべきであることを、サムエル記の冒頭で、ハンナが歌っていました。その箇所を確認して終わりにしたいと思います。

 Ⅰサムエル記2章6節~10節
「主は殺し、また生かし、よみに下し、また上げる。主は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くするのです。主は弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます。まことに、地の柱は主のもの、その上に主は世界を据えられました。主は聖徒たちの足を守られます。悪者どもは、やみの中に滅びうせます。まことに人は、おのれの力によっては勝てません。主は、はむかう者を打ち砕き、その者に、天から雷鳴を響かせられます。主の地の果て果てまでさばき、ご自分の王に力を授け、主に油そそがれた者の角を高く上げられます。」

 今、神様が私に求めていることは何なのか。聖書と祈りの生活を通して、真剣に考えたいと思います。取り組むべきこと。手放すべきこと。愛すること。赦すこと。ささげること。仕えること。信頼すること。決心することはないか。サムエル記を読みながら、神様の思いに自分を従わせることが、私たちにとって本当に幸せなことなのだと確認し、皆で実践するものでありたいと思います。









2013年6月16日日曜日

ヨハネの福音書(21)ヨハネ6:51~71「わたしを食べる者はわたしによって生きる」

 米、麦、トウモロコシに芋。これは、世界の人々が主食としている代表的な食べ物です。稀に肉や魚が主食という地域もありますが、人類は昔から米、麦、トウモロコシなど穀類や芋類を日々口にし、肉体のエネルギーを補給してきたことになります。イエス・キリストの時代ユダヤの人々が主食にしていたのも麦、大麦のパンでした。
 しかし、米、麦、トウモロコシに芋。肉体を養う主食は地域、民族によって様々なれど、「人の魂を養う主食は天から下ってきたパン、世のいのちのための、わたしの肉である」。こう宣言されたのがイエス様です。

 6:51,52「『わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。』すると、ユダヤ人たちは、『この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。』と言って互いに議論し合った。」

 「何人のためのパンではない。わたしは普く世の人のためのパンなのだ。」五つのパンと二匹の魚を増やし、男だけでも五千人の群集を満腹させた大奇跡。続いて場所をカペナウムの町に移してなされたパン問答。そして、ついにイエス様の口から「わたしの肉というパンを食べるなら、その人は永遠に生きる」とのお言葉が発せられた場面です。
 これを聞いて驚いたのは群集でした。彼らは「パンはわたしの肉」を文字通りに受け取り、「この人はどうやって自分の肉を分け、私たちに食べさせることができるのか」と喧々諤々、議論し合ったと言うのです。
 「パン」と聞けば地上のパンを思うばかり。「パンはわたしの肉」と聞けば「人の肉をどうやって食べさせることができるのか」と議論するばかり。彼らの関心は肉体を養うパン、地上のいのちのみ。一向に魂を養うパン、永遠のいのちの問題に向く気配はありませんでした。
 しかし、イエス様は「今ここで食べよ」と勧めたわけではなかったのです。「わたしが与えようとするパン」つまり、「この後来るべき時にわたしが与えるパン」と言われたのです。
 それでは、やがて来るべき時に与えられるパンとは何だったのでしょうか。ずばり、それは、イエス様がご自身の体を罪のいけにえとしてささげ、十字架で死ぬことを指していたと考えられます。ですから、続くことばはイエス様ご自身の肉だけでなく、死に伴い流される血にも及んでいました。

6:5355「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。』」

「人の子の肉を食べ、血を飲まなければいのちはない」。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠のいのちを持つ」。「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物」。何度も繰り返される生々しいことばが強烈です。
果たして、これらのことばに込められたイエス様の思い、真意は何だったのか。「肉を食べ、血を飲む」とは、私たちがイエス・キリストの十字架の死を自分の罪のためと信じること、罪のいけにえとして自ら尊い命を十字架に捨てるほどに私たちを大切に思ってくださった愛を受け取り魂の食物とすることでした。
こうして永遠のいのちを受けた者は「わたしが終わりの日にその人をよみがえらせる、復活させる」とのお約束は、何とも心強く響きます。もはや病に苦しむことも無く、死の恐れに悩むことも無い栄光の体で生きる天の御国での生活が待っている。キリストを信じる者の幸いは、この確実な将来の望みであることを確認したい所です。
さらに、十字架に死にたもうご自分を救い主と信じる者の幸いについて語り継ぐイエス様です。

6:56,57「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者。すなわちわたしを信じる者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまる」。「わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者、つまりわたしの愛を心に受け取る者も、わたしによって生きる」。
私たちとイエス様。イエス様と私たち。まるで親友同士のような親しい交わり、愛し合う夫婦のような親密な交わりがこの地上から始まり、永遠に続くと言うのです。そして、人々に対する駄目押しのことばがこれでした。

6:58,59「『これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。』これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。」

ユダヤ人がイエス様に願っていたのは、荒野で先祖たちが養われた天からのパンの奇跡でした。「しかし、あのパンを食べた者は死んだではないか。わたしを食べる者は永遠に生きるのですよ」。いつまでも地上のパンを求めてやまない人々の心をご自分に向けさせる、永遠の命を願う者へと変える。それがイエス様の思いであったでしょう。
しかし、残念ながらイエス様の思いは通じなかったようです。何と弟子たちの多くが反発したと言うのです。

6:6063「そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。『これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。』しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。『このことであなたがたはつまずくのか。それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。』」

 「ひどいことば」とは絶対に受け入れたくないほどひどいと感じることばと言う意味です。恐らく弟子たちの多くは「わたしの肉を食べ、血を飲む」と言うことばを文字通りに受け取ってしまったのでしょう。彼らはこれに躓きました。
 けれども、こんな弟子たちをイエス様は憐れまれたのです。そして、「やがて人の子であるわたしがもといた所、天に上るのを見たら、あなたがたはわたしが天から下った救い主であることを知り、躓いたことを後悔するでしょう。その時御霊があなたがたのうちに働き、わたしのことばを思い起こして、永遠の命を受けることができるように」と語られました。
 今まで行動をともにしてきたイエス様こそ、弟子に躓かれて悲しいはずなのに、イエス様のほうが霊的に鈍い弟子たちを憐れんでくださる。イエス様の忍耐と寛容は尽きることなしでした。
また、イエス様は残る弟子たちの心をも思い遣ります。

 6:64,65「しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」――イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。――そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』と言ったのです。」

 私たちは周りの人の動きに敏感です。影響を受けます。イエス様を信じ、イエス様の元に残ろうとする弟子たちも、余りにも多くの仲間が躓き、離れ去ってゆこうとする様子を見て、動揺を隠せなかったことでしょう。
 「本当にこのままイエス・キリストを信じていて良いものか。世間に取り残されて良いものか。」と不安を覚える者もいたかもしれません。
 そこに、「父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。」とイエス様の力強い一言です。「あなたがたがこの様な状況の中で、私とともにいるのは父なる神様がそのように決めてくださったからです。」との励ましと聞くことができます。
 そして、この一言に思いを強くしたのか、弟子を代表してシモン・ペテロの信仰の告白がなされました。

 6:6669「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。そこで、イエスは十二弟子に言われた。『まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。』
すると、シモン・ペテロが答えた。『主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。』」

ぞろぞろと多くの者が離れ去ってゆく中、「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」と問われ、「主よ。私たちがあなた以外のだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」と答えたペテロ。
誰もが心細く感じていたであろう状況で、イエス様にお返ししたペテロの信仰告白は光り輝いています。「主よ。私たちがあなた以外のだれのところに行きましょう。」いつもこの様な信仰を告白する弟子の群れ、四日市教会の私たちでありたいと思います。
しかし、です。十二弟子の誰もがペテロと思いを同じくしていたかと言うと、そうではありませんでした。この時、すでにイスカリオテのユダはキリストを裏切る算段をしていたのです。それを知った上でのイエス様のことばです。

 6:70,71「イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた。」

「そのうちのひとりは悪魔」。実に手厳しいことばです。しかし、この場面もしイエス様が単にユダを責め、断罪するつもりだったとしたら、他の弟子たちの前で「ユダ、あなたが悪魔だ」と言えば済んだことでしょう。
何故、そうなさらなかったのか。何故、他の弟子には分からないように、しかしユダには確実に伝わる様に語られたのか。イエス様は重大な罪を実行しようとしているユダを厳しく叱り、ユダが悔い改めて立ち返ることを願っていたのではないかと思われます。
仮に、あからさまにイエス様に責められ、自分の裏切りが他の人に知られたら、その時点でユダはイエス様のもとを離れ去ったことでしょう。そうなれば、もはや悔い改めのチャンスは無い。そう考えたイエス様のこれは愛の配慮でした。
さて、今日の箇所を読み終えて、私たちが特に覚えたいことがふたつあります。
ひとつは、「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物」と繰り返したイエス様のお姿です。皆様はこの強烈なことばをどう感じたでしょうか。
 私はこのことばの背後に、ご自分の十字架の死を無駄にしないで、何としても罪の赦しを受け取って欲しいと願うイエス様を思います。十字架にいのちをかけた尊い愛を心に受け入れてほしいと切に願うイエス様の姿を見ます。
 この様なイエス様を最も悲しませる行為は何でしょうか。「いいえ、私には罪の赦しなど必要ありません。私はあなたの愛が無くとも生きてゆけます。あるいは、またいつかにしましょう」と断ることです。
主食であるパンは一度食べれば良いものでも、時々食べればよいものではありません。主食を食べねば体が弱り果てるように、私たちの魂は日々イエス・キリストというパンで養われなければ、弱り果ててしまう者なのです。この事を自覚して、私たちは日々イエス様と交わり、罪の赦しの恵みと尊い愛とを頂き、魂を養う者でありたいと思います。
二つ目は、裏切りを考えていたユダをさえ愛したイエス様が私たちの救い主であるのを感謝することです。クリスチャン迫害の鬼であった使徒パウロは、イエス・キリストを信じて、こう告白しました。今日の聖句です。

ローマ57,8「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどいません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

ここに言われているのは、私たちにとって人のために死ぬなどと言うことは至難の業、いや不可能に近いということです。正しい人のために死ぬ人はほとんどいない。情け深い人のために死ぬ人ならあるいはいるかもしれない。そうであるなら、自分に敵対する者のために死ぬ人などいるはずが無いのに、イエス様はご自分に敵対する者、罪人のために死んでくださった。
パウロはこの十字架の愛に心動かされ、すべてはキリストのためにと生き抜いた人です。私たちもパウロと同じく、あるいはイスカリオテのユダと同じく敵対する者、罪人でした。しかし、忝い事にイエス様に死んで頂き、罪赦され、神の子とされたのです。そうだとすれば、私たちもパウロと同じく、すべてはイエス・キリストのためにと生き抜く者となりたく思います。







 


2013年6月9日日曜日

ヨハネの福音書(20)ヨハネ6:36~51「ひとりも失うことなく」

 英語で「ザ・ブック」、「本の中の本」と言われ、今でも世界のベストセラーである聖書は、これを読む者に様々な影響を与えてきました。聖書によって、人は慰められ、励まされ、戒められ、また、進むべき道、取るべき態度について教えられてきました。まさに聖書は人生の書。人生全般、あらゆる側面に光を当て、足らざる所なしです。
 しかし、そんな聖書の中で、救いの確信を強く覚えさせてくれる箇所はと問われれば、これにまさる箇所はないとも言われるのが、今日取り上げるヨハネの福音書63540なのです。

 6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

 「わたしは~です。」ということばで、イエス・キリストがご自分を紹介するのは、ヨハネの福音書の特徴の一つでした。「わたしがいのちのパンです。」「わたしは世の光です。」「わたしは羊の門です。」「わたしは良い羊飼いです。」「わたしはよみがえりであり、いのちです。」「わたしは道であり、真理であり、いのちです。」「わたしはまことのぶどうの木です。」
 パン、光、門、羊飼い、命、道、ぶどうの木。人々の生活に身近なものを用いて、合計七つの自己紹介。そのトップバッターが今お読みした635、「わたしがいのちのパンです。」となります。
 この場面、五つのパンと二匹の魚を用いて、男だけでも五千人の大群衆を満腹させるという奇蹟を行ったイエス様を追いかけて、大勢の人々がカペナウムの町に到着。
 イエス様から「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」と言われ、「わたしを救い主と信じろと言うなら、昔出エジプトの指導者モーセが荒野で神に願い、天から降ったマナと言うパンで先祖たちを養った、あの奇蹟以上の奇蹟を見せてくれますか。」と人々が迫った場面です。
 彼らに対し、イエス様は「昔あなたがたの先祖を養った天からのパンは、わたしを指し示すもの」とし、「わたしこそ、人に飢えも渇きも覚えさせることのない、まことのいのちのパン、天からのパン」と宣言されました。
 人間の魂を満たすパンとしてご自身を示されたイエス様に対し、どこまでも肉体を満たすパンを求める群衆。イエス様は地上的な群衆の心を見抜いて、言われました。

 6:3840「しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
 わたしが天から下って来たのは自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」
            
 何度も言いますが、五つのパンと二匹の魚を一瞬で増やし、五千人の大群衆を養った奇蹟が行われたのはつい昨日のこと。群がる人々はその目撃者だったのです。
 昔モーセが神に願って行われた奇蹟にもまさる奇蹟を見、疲れたる者、飢えたる者を見捨ててはおけない愛を体験したのに、イエス様を救い主として信ぜず、奇蹟をもう一度と迫る群衆の心の鈍さ。
 もうこんな人々など放って置けば良いのにと思いますが、そこはやはりイエス様。忍耐を尽くして、ご自分を救い主と信じる者の幸いを諄々と説いていかれたのです。その結果、宝物のように大切な言葉が残されました。
 ここには、私たちに救いの確信をもたらす三つのことが教えられています。第一は、永遠の昔から父なる神様が立てた計画のもと、救いに選ばれた者は、皆イエス様のもとに行き信じること、イエス様はこれを受け入れることでした。
 「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」とは、このことを意味しています。
 聖書によれば、私たち人間は霊的に死んでいる状態にあります。良く知られている譬えとして、神に背いた人間は迷子の羊と言われます。迷子になった羊が自力で羊飼いの元に帰ることができないように、私たちも自力でイエス・キリストを信じることができない存在なのです。
 そこで、父なる神様は私たちの内に働き、私たちが自分を救いがたい罪人と認め、自分にはキリストが必要であるとの思いを起こしてくださる。それで、私たちはキリストを救い主と信じ、頼ることができるのです。
 第二は、「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせること」とあるように、イエス・キリストを信じる者は一人も失われることなく、終わりの日即ち再臨の日に復活することを保証されていることです。
 「わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりをよみがえらせる」。イエス様が私たち一人一人を知り、心に刻み、確実に復活させて下さる。これ程、安心を覚えさせてくれる約束があるでしょうか。
イエス・キリストを信じる者の将来は栄光の体での復活。この様も確かな希望を心に抱くことのできる私たちは、何と幸いな者かと思わされます。
 第三に、キリストを信じた者は、その時から永遠の命の持ち主となったということです。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。」皆様は、今この地上で永遠の命をもっていることを自覚しているでしょうか。
 何よりも神様に愛されていることを喜びとし、神様と親しく交わり、隣人を愛することを喜びとしているでしょうか。今も思いと言葉と行いにおいて罪を犯すとしても、それを悲しみ、むしろ神様に喜ばれる生き方を切に願う心が成長しているでしょうか。
 以上、イエス・キリストを信じているということは、父なる神様が救いに定めてくださったことの証拠、将来必ず復活することの保証、今既に永遠の命にあずかっていることのしるしと確信してよいし、確信すべきと教えられます。
 信仰の歩みは山あり谷ありです。様々なストレスの中、身も心も疲れ果てる時、思わぬ試練に見舞われ悩む時、誘惑に襲われ救いの確信を失いそうな時、私たちこのイエス様の言葉に立ち帰りたいと思います。
 自分の思いや感情はどうであれ、イエス様の語るこの言葉に心の耳傾け、キリストを信じる者がどんなに幸いであるかを思い起こし、平安を頂いて、神様の喜ばれる道を進む者でありたいと思います。
 さて、言葉を尽くし心を尽くして、ご自分を信じることがいかに大切かを語られたイエス様でしたが、残念ながら、人々の反応は芳しいものではありませんでした。
 ユダヤ人たちは、イエス様についてあれこれと批評し、議論するばかり。挙句の果てに、どうしてこいつは「わたしは天から下ってきた」等と偉そうなことをほざくのかと、口にする始末だったのです。

 6:41,42「ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである。」と言われたので、イエスについてつぶやいた。 彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た。』と言うのか。」

 カペナウムはイエス様の故郷ナザレに近い町。お父さんのヨセフ、お母さんのマリヤのことを知っている人々がいたのでしょう。「あの貧しい大工のヨセフの倅風情が、神の遣わした救い主で、いのちのパンだなんて信じられるものか」と言う反発です。
 自分たちが願う奇跡は実現せず、むしろお説教されたと感じたのでしょうか。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください」とお願いした時とは打って変わり、手のひらを返したように不信の念を露わにする群衆の姿でした。
 しかし、イエス様は怯まない、諦めない。議論はやめて、わたしを遣わした父なる神様に教えられよと勧めたのです。
 
 6:4346「イエスは彼らに答えて言われた。「互いにつぶやくのはやめなさい。わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
 預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。」

 「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」。「父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます」。
 イエス様は、人々が本当には父なる神を信じてはいない、父なる神のことばを学んでもいないと考えておられたようです。
 だから、奇蹟を体験しても食欲の満足でとどまり、魂の満足を求めてわたしのところにこない。そればかりか、仕事や家柄など外面的なことにとらわれ、心の眼を曇らせるばかりと叱っているかに見えます。愛の鞭でした。
 そして、ご自分が彼らの魂にとっていかに必要ないのちのパンであるか、再度教えられたのです。

 6:4751「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。
 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」

 「信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。」と語るイエス様は、いのちのパンとしてのご自分の価値を、昔荒野でなされた奇蹟の際与えられたマナと言うパンと比べて教えられました。
 あなたがたの先祖はマナを食べたけれど死んだではないか。しかし、わたしは天から下ってきた生けるパンなので、誰でもこのパンを食べるなら永遠に生きると。
 私たちから見ると、「こんなにも懇切丁寧に教える価値など、この心頑なな人々にはないのではないですか。イエス様」と言いたくなるところです。
なお、最後の「わたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」との言葉が大きな物議を醸すことになるのですが、これについては次回扱いたいと思います。
 さて、今日の箇所から特に心に留めたいことが二つあります。ひとつは、私たちがイエス・キリストを信じ、救いにあずかる、このことが、父なる神様とイエス・キリストとの間で永遠の昔から決められていたのは、大いなる恵みだということです。
 今日の聖句をご一緒に読んでみましょう。
 
 ヨハネ637「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そして、わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」

 これを読むと、私たちがイエス・キリストを信じ、救われたのは、父なる神様とイエス・キリストが決めた事なのか、それとも、私たちの自由な意思によるものなのか。そんな疑問が湧いてきます。
 実は、この言葉も含め聖書には、私たちの救いは神様の決めたものであり、私たちの意思によるものでもあるとして、両方の面が言われています。これは、人間の理解力を超える事柄でしょう。
 しかし、もし、私たちの救いが神様の決めたことがすべてであるとしたら、救われるか救われないかは運命であり、私たちが神さまによって人格的存在として創造されたことには何の意味もなくなってしまいます。
 一方、もし救いが私たちの意思だけで決まるとしたら、どうでしょう。今日登場したユダヤ人のように、奇蹟を体験してイエス・キリストを求めるかと思えば、自分の願いを叶えてくれない救い主など簡単に否定する。人間の意思など状況に左右されやすい、弱く、不安定なもの。とてもとても、生涯イエス・キリストを信じ続けるなど不可能なことと思えます。
 そこで、神様は私たちの自由な意思を邪魔せぬように、しかし、様々な経験を用いて私たちの内にイエス・キリストを必要とする思いを起こし、確実に救いへ導いてくださるのです。
このような神様の愛の導きの中に自分の信仰があり、人生がある。この様な確信程、魂に平安をもたらすものはない。このことを神様に感謝したいと思うのです。
 ふたつめは、イエス・キリストは私たち以上に私たちの救いに熱心なお方であるということです。
 今日登場したユダヤ人の浅はかさ、霊的な事柄に対する鈍さ、頑なな心は、決して他人事ではありません。しかし、そんな人間を愛してやまないイエス・キリストの熱心は限りなしでした。
 忍耐を尽くして、ご自分を信じることの幸いを説く。あざけられても、罵られても、ご自分がいのちのパンであることの意味を教える。振り返ってみれば、自分の様なものが救われたのは、このイエス・キリストの熱心があったからこそ。今も神の子として生かされているのは、このイエス・キリストの忍耐と寛容があるからこそ。そう思わされるところです。
 この熱心な愛の神様が私たちにはついている。いつも、どこにいても、私たちとともに歩んでくださる。このことを喜びつつ、日々歩む者となりたく思います。









2013年6月2日日曜日

ヨハネの福音書(19)ヨハネ6:16~35「わたしがいのちのパンです」

 バケット、黒、グラハム、玄米、雑穀、チャパティ、ナン。皆様は何のことか分かるでしょうか。これらは世界の代表的なパンの種類です。
 パンの歴史は非常に古く、小麦やとうもろこしの粉を水で溶いて焼いただけの、平べったいパンは、七千年から八千年前まで遡ることが出来るそうです。
 ちなみに、日本人がパンを知ったのは戦国時代。織田信長はパンが大好物だったとも言われます。また、イエス・キリストの時代、ユダヤ人が普段口にしたのは大麦パン。過越しの祭りでは、お煎餅のように薄い種無しパンが食べられていました。
 先回私たちは、五つのパンと小魚二匹を用いて、イエス様が五千人の大群衆を満腹させたという奇跡をみました。今日は、その群集とイエス様の間に交わされたパン問答となります。
 さて、そのパン問答に入る前のこと。一足先に湖に下り、舟に乗り込み、カペナウムの町へ向かった弟子たちを試練が襲いました。

 6:1618「夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。」

 ガリラヤ湖は海面より低い所にあるせいか、しばしば突風、強風によって海面が荒れました。弟子たちは夜湖で大嵐に遭い、これに苦しんだのです。
 そこへ、イエス様が波の上を歩き、近づいて、彼らを救いました。

 6:1921「こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。」
 
 突如として湖上に荒れ狂った夜の嵐は、人生の縮図です。一寸先は闇。私たちの人生にもいつ、どこで、どんな嵐が押し寄せるか分かりません。その様な時、私たちは不安と恐れで心が潰れそうになるでしょう。
 しかし、そんな試練の中で、「わたしだ。恐れることはない。」と語りかけてくださるイエス様の声に耳傾け、イエス様がともにおられることを覚えるなら、恐れは去り、心は平安に満たされる。この様なメッセージを心に刻みたい場面でした。
 一方、イエス様によって胃袋を満たして頂いたあの群衆はどうしたのか。翌朝目覚めた彼らは、弟子もイエス様もその姿が見えないのを知ると、折良く居合わせた舟に乗り、イエス様を捜しにカペナウムを目指したのです。

 6:2225「その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は、そこには小舟が一隻あっただけで、ほかにはなかったこと、また、その舟にイエスは弟子たちといっしょに乗られないで、弟子たちだけが行ったということに気づいた。
 しかし、主が感謝をささげられてから、人々がパンを食べた場所の近くに、テベリヤから数隻の小舟が来た。群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。『先生。いつここにおいでになりましたか。』」

 余程昨日の奇蹟が心に残ったのでしょうか。イエス様を捜し出そうとする人々の熱狂は凄まじく、湖の向こう岸からカペナウムまで一気に移動したというのです。そして、弟子達より後に出発したはずのイエス様が、いつのまに、どのようにしてカペナウムに移動したのか驚いたのでしょう。「先生。いつここにおいでになりましたか。」と驚嘆の声を上げました。
 しかし、イエス様の方はそんな人々の熱狂ぶりのその奥にあるものを見抜かれると、ずばり指差したのです。

 6:26,27「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。』」

 「あなたがたがわたしを捜しているのは、わたしが救い主であることのしるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからにすぎない。」イエス様は人の本心、本音を見抜かれるお方。イエス様を相手に、誤魔化しは通用しません。
 さらに、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」との勧めは、今の私たちの心をも刺します。
 果して、自分は肉体の必要を満たすことのみを追い求める、食欲人間、物欲人間になってはいなかったか。魂の必要を満たすことに、どれほど努めてきたのか。この世でだけ通用する金銭、評判のために熱心になることはあっても、果して本当に魂を満たしてくれる、聖書を読み、祈り、神様と交わる時間をどれだけとってきたのか。そう問われる所です。
 さすがに、群衆も心刺されたのか。今度は「永遠のいのちを得るためになすべき神のわざとは何か。何をすべきでしょうか。」とへりくだって尋ねました。

 6:28,29「 すると彼らはイエスに言った。『私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。』イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」

 イエス様の答えは、人々にとって意外なものだったでしょう。当時のユダヤ人は、永遠のいのちを得るには、神のわざ、すなわち旧約聖書に記された律法や様々な宗教的伝統を守り、実践する必要があると考えていました。
 これは、何もユダヤ人に限りません。キリスト教以外の宗教は、救いを得るためには人間の側の行いが必要、定められた教えを実行、達成する必要があると教えているからです。
 それに対して、キリスト教はというと、ここで言われた通り、神が遣わした者イエス・キリストを信じることで救われる、永遠のいのちをいただけると教えていました。先ず信仰によって救いを受け、しかる後に善き行いがこれに従うという順序なのです。
 しかし、「わたしを信じることが神のわざ」と言うイエス様のお答は、人々の反感を招いたように見えます。彼らは、「そこまで言うなら、救い主のしるしとして何を見せてくれるのですか」と迫りました。

 6:30,31「そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」

 昔、出エジプトの指導者モーセが神様に願うと、マナと言うパンが天からくだり、荒野でユダヤ人の先祖がそれを食べて満腹するという奇蹟が起こりました。
 人々はこの出来事を思い起こすと、「あなたには、あの偉大なモーセ以上の奇蹟をすることができますか」とイエス様に挑戦したのです。
 何と、人間とはイエス・キリストから受けた恩を忘れやすい者か。何と、人間とは心が盲目な者かと思わされます。彼らが五つのパンと二匹の魚を用いて、一瞬にしてそれを増やし、男だけでも五千人を養うというイエス様の奇蹟を見、その恵みを味わったのは、つい昨日のことだったのではないですか。
 それなのに、もう一度奇跡をして見せろとは、よくも言えたもの。忘恩、盲目な心もここまでとはと情けなくなります。
 しかし、イエス様はどこまでも寛容なお方。忍耐を尽くして、彼らを教えました。

 6:3233「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」

 あなたがたが尊敬してやまないモーセが与えたパンは天からのパンではない。肉体の命を養うパン。しかし、わたしの父、父なる神様が与えるのは、世の人に命、永遠の命を与えるパン。
 そう懇切丁寧にイエス様が教えられたにもかかわらず、人々の心の眼は相変わらず開かれず。鈍感で盲目のままでした。なぜなら、天からのパン、神のパンを、昔先祖たちが食べたパンよりももっと高級なパンと勘違いしたのか、「いつもそのパンを私たちにお与えください」と求める始末だったのです。

 6:34,35「そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

 三十五節のことばは、ヨハネの福音書の中でも最も有名なもののひとつです。不信仰な人々のために発せられたこの一言に、どれほど多くの人が慰められ、励まされ、イエス・キリストに近づいて行ったことか。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」
 ライルと言う人が食用のパンといのちのパンの似た点を挙げて、次のように説明しています。「第一に、パンは栄養に富む。健康の維持に欠かすことのできない食べ物である。第二に、パンはすべての人に適する。子どもも、若者も、老人も、みなともにこれを口にすることができる食べ物。第三に、パンは毎日必要なもの。他の食べ物は時々食べれば足りるけれど、パンは毎日食べるべきもの、毎日食べても飽きないものである。私たちの魂にとって、いのちのパンなるイエス・キリストもこれと同じではないか。」
 以上、今日の箇所を読み終え、皆様とともに確認しておきたいことがふたつあります。
 ひとつは、イエス・キリストを信じること、信頼することの価値です。
 「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」神のわざとは、神様が最も喜ばれるわざと言う意味です。親が自分を頼り、信頼する子どもを喜ぶように、神様はご自身が世に遣わしたイエス・キリストを頼り、信頼する魂を喜ばれる。
 つまり、イエス・キリストを信じること、信頼することこそ、人が神様のためになしうる最上のわざなのです。私たちはこのことをどれほど自覚しているでしょうか。
 私たちは、神様のためになしうる最上のわざは多くの献金、熱心な奉仕や伝道ではないか。そう考えがちです。しかし、イエス・キリストに信頼する心なくなすわざは、神様の眼に虚しいのです。イエス・キリストに頼らずしてなす行いを、神様は喜ばれないのです。
 自分がどんな罪を犯しても、イエス・キリストの十字架の贖いは、罪をおおってくださると信じること。自分がどこにいても、何をしていても、イエス・キリストがともにおられ、助けて下さると信頼すること。これこそ、神様が最も喜ばれるわざ、私たちがなしうる最上のわざであることを覚えたいのです。
 ふたつめは、イエス・キリストをいのちのパン、つまり魂の食物として生きることの幸いです。子どもも、若者も、老人も、強い者も、弱き者も、すべての人が魂の食物とすることのできるイエス・キリスト。魂の健康を維持するために欠かすことのできないパンであるイエス・キリスト。毎日食べる必要があり、毎日食べても飽きることのないパン、イエス・キリスト。
 皆様は、イエス・キリストこそ魂のパン、命の源と告白できるでしょうか。イエス・キリストなくして生きられないと言うほど、親しい交わりを持っているでしょうか。
 今日の聖句、イエス・キリストを魂のパン、命の源として生きていた使徒パウロのことばをご一緒に読んでみたいと思います。

 ピリピ413「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」

 私を強くしてくださる方イエス・キリストをいつも味方として、いつもともにいてくださる救い主として、貧しい時も、富める時も、病の日も、健康の日も、順調な時も、試練にある時も、あらゆる状況から逃げず、心平安の内に対応してゆくことができる。
 私たちみなが、このような歩みができたらと思います。