2013年6月9日日曜日

ヨハネの福音書(20)ヨハネ6:36~51「ひとりも失うことなく」

 英語で「ザ・ブック」、「本の中の本」と言われ、今でも世界のベストセラーである聖書は、これを読む者に様々な影響を与えてきました。聖書によって、人は慰められ、励まされ、戒められ、また、進むべき道、取るべき態度について教えられてきました。まさに聖書は人生の書。人生全般、あらゆる側面に光を当て、足らざる所なしです。
 しかし、そんな聖書の中で、救いの確信を強く覚えさせてくれる箇所はと問われれば、これにまさる箇所はないとも言われるのが、今日取り上げるヨハネの福音書63540なのです。

 6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

 「わたしは~です。」ということばで、イエス・キリストがご自分を紹介するのは、ヨハネの福音書の特徴の一つでした。「わたしがいのちのパンです。」「わたしは世の光です。」「わたしは羊の門です。」「わたしは良い羊飼いです。」「わたしはよみがえりであり、いのちです。」「わたしは道であり、真理であり、いのちです。」「わたしはまことのぶどうの木です。」
 パン、光、門、羊飼い、命、道、ぶどうの木。人々の生活に身近なものを用いて、合計七つの自己紹介。そのトップバッターが今お読みした635、「わたしがいのちのパンです。」となります。
 この場面、五つのパンと二匹の魚を用いて、男だけでも五千人の大群衆を満腹させるという奇蹟を行ったイエス様を追いかけて、大勢の人々がカペナウムの町に到着。
 イエス様から「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」と言われ、「わたしを救い主と信じろと言うなら、昔出エジプトの指導者モーセが荒野で神に願い、天から降ったマナと言うパンで先祖たちを養った、あの奇蹟以上の奇蹟を見せてくれますか。」と人々が迫った場面です。
 彼らに対し、イエス様は「昔あなたがたの先祖を養った天からのパンは、わたしを指し示すもの」とし、「わたしこそ、人に飢えも渇きも覚えさせることのない、まことのいのちのパン、天からのパン」と宣言されました。
 人間の魂を満たすパンとしてご自身を示されたイエス様に対し、どこまでも肉体を満たすパンを求める群衆。イエス様は地上的な群衆の心を見抜いて、言われました。

 6:3840「しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
 わたしが天から下って来たのは自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」
            
 何度も言いますが、五つのパンと二匹の魚を一瞬で増やし、五千人の大群衆を養った奇蹟が行われたのはつい昨日のこと。群がる人々はその目撃者だったのです。
 昔モーセが神に願って行われた奇蹟にもまさる奇蹟を見、疲れたる者、飢えたる者を見捨ててはおけない愛を体験したのに、イエス様を救い主として信ぜず、奇蹟をもう一度と迫る群衆の心の鈍さ。
 もうこんな人々など放って置けば良いのにと思いますが、そこはやはりイエス様。忍耐を尽くして、ご自分を救い主と信じる者の幸いを諄々と説いていかれたのです。その結果、宝物のように大切な言葉が残されました。
 ここには、私たちに救いの確信をもたらす三つのことが教えられています。第一は、永遠の昔から父なる神様が立てた計画のもと、救いに選ばれた者は、皆イエス様のもとに行き信じること、イエス様はこれを受け入れることでした。
 「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」とは、このことを意味しています。
 聖書によれば、私たち人間は霊的に死んでいる状態にあります。良く知られている譬えとして、神に背いた人間は迷子の羊と言われます。迷子になった羊が自力で羊飼いの元に帰ることができないように、私たちも自力でイエス・キリストを信じることができない存在なのです。
 そこで、父なる神様は私たちの内に働き、私たちが自分を救いがたい罪人と認め、自分にはキリストが必要であるとの思いを起こしてくださる。それで、私たちはキリストを救い主と信じ、頼ることができるのです。
 第二は、「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせること」とあるように、イエス・キリストを信じる者は一人も失われることなく、終わりの日即ち再臨の日に復活することを保証されていることです。
 「わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりをよみがえらせる」。イエス様が私たち一人一人を知り、心に刻み、確実に復活させて下さる。これ程、安心を覚えさせてくれる約束があるでしょうか。
イエス・キリストを信じる者の将来は栄光の体での復活。この様も確かな希望を心に抱くことのできる私たちは、何と幸いな者かと思わされます。
 第三に、キリストを信じた者は、その時から永遠の命の持ち主となったということです。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。」皆様は、今この地上で永遠の命をもっていることを自覚しているでしょうか。
 何よりも神様に愛されていることを喜びとし、神様と親しく交わり、隣人を愛することを喜びとしているでしょうか。今も思いと言葉と行いにおいて罪を犯すとしても、それを悲しみ、むしろ神様に喜ばれる生き方を切に願う心が成長しているでしょうか。
 以上、イエス・キリストを信じているということは、父なる神様が救いに定めてくださったことの証拠、将来必ず復活することの保証、今既に永遠の命にあずかっていることのしるしと確信してよいし、確信すべきと教えられます。
 信仰の歩みは山あり谷ありです。様々なストレスの中、身も心も疲れ果てる時、思わぬ試練に見舞われ悩む時、誘惑に襲われ救いの確信を失いそうな時、私たちこのイエス様の言葉に立ち帰りたいと思います。
 自分の思いや感情はどうであれ、イエス様の語るこの言葉に心の耳傾け、キリストを信じる者がどんなに幸いであるかを思い起こし、平安を頂いて、神様の喜ばれる道を進む者でありたいと思います。
 さて、言葉を尽くし心を尽くして、ご自分を信じることがいかに大切かを語られたイエス様でしたが、残念ながら、人々の反応は芳しいものではありませんでした。
 ユダヤ人たちは、イエス様についてあれこれと批評し、議論するばかり。挙句の果てに、どうしてこいつは「わたしは天から下ってきた」等と偉そうなことをほざくのかと、口にする始末だったのです。

 6:41,42「ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである。」と言われたので、イエスについてつぶやいた。 彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た。』と言うのか。」

 カペナウムはイエス様の故郷ナザレに近い町。お父さんのヨセフ、お母さんのマリヤのことを知っている人々がいたのでしょう。「あの貧しい大工のヨセフの倅風情が、神の遣わした救い主で、いのちのパンだなんて信じられるものか」と言う反発です。
 自分たちが願う奇跡は実現せず、むしろお説教されたと感じたのでしょうか。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください」とお願いした時とは打って変わり、手のひらを返したように不信の念を露わにする群衆の姿でした。
 しかし、イエス様は怯まない、諦めない。議論はやめて、わたしを遣わした父なる神様に教えられよと勧めたのです。
 
 6:4346「イエスは彼らに答えて言われた。「互いにつぶやくのはやめなさい。わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
 預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。」

 「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」。「父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます」。
 イエス様は、人々が本当には父なる神を信じてはいない、父なる神のことばを学んでもいないと考えておられたようです。
 だから、奇蹟を体験しても食欲の満足でとどまり、魂の満足を求めてわたしのところにこない。そればかりか、仕事や家柄など外面的なことにとらわれ、心の眼を曇らせるばかりと叱っているかに見えます。愛の鞭でした。
 そして、ご自分が彼らの魂にとっていかに必要ないのちのパンであるか、再度教えられたのです。

 6:4751「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。
 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」

 「信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。」と語るイエス様は、いのちのパンとしてのご自分の価値を、昔荒野でなされた奇蹟の際与えられたマナと言うパンと比べて教えられました。
 あなたがたの先祖はマナを食べたけれど死んだではないか。しかし、わたしは天から下ってきた生けるパンなので、誰でもこのパンを食べるなら永遠に生きると。
 私たちから見ると、「こんなにも懇切丁寧に教える価値など、この心頑なな人々にはないのではないですか。イエス様」と言いたくなるところです。
なお、最後の「わたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」との言葉が大きな物議を醸すことになるのですが、これについては次回扱いたいと思います。
 さて、今日の箇所から特に心に留めたいことが二つあります。ひとつは、私たちがイエス・キリストを信じ、救いにあずかる、このことが、父なる神様とイエス・キリストとの間で永遠の昔から決められていたのは、大いなる恵みだということです。
 今日の聖句をご一緒に読んでみましょう。
 
 ヨハネ637「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そして、わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」

 これを読むと、私たちがイエス・キリストを信じ、救われたのは、父なる神様とイエス・キリストが決めた事なのか、それとも、私たちの自由な意思によるものなのか。そんな疑問が湧いてきます。
 実は、この言葉も含め聖書には、私たちの救いは神様の決めたものであり、私たちの意思によるものでもあるとして、両方の面が言われています。これは、人間の理解力を超える事柄でしょう。
 しかし、もし、私たちの救いが神様の決めたことがすべてであるとしたら、救われるか救われないかは運命であり、私たちが神さまによって人格的存在として創造されたことには何の意味もなくなってしまいます。
 一方、もし救いが私たちの意思だけで決まるとしたら、どうでしょう。今日登場したユダヤ人のように、奇蹟を体験してイエス・キリストを求めるかと思えば、自分の願いを叶えてくれない救い主など簡単に否定する。人間の意思など状況に左右されやすい、弱く、不安定なもの。とてもとても、生涯イエス・キリストを信じ続けるなど不可能なことと思えます。
 そこで、神様は私たちの自由な意思を邪魔せぬように、しかし、様々な経験を用いて私たちの内にイエス・キリストを必要とする思いを起こし、確実に救いへ導いてくださるのです。
このような神様の愛の導きの中に自分の信仰があり、人生がある。この様な確信程、魂に平安をもたらすものはない。このことを神様に感謝したいと思うのです。
 ふたつめは、イエス・キリストは私たち以上に私たちの救いに熱心なお方であるということです。
 今日登場したユダヤ人の浅はかさ、霊的な事柄に対する鈍さ、頑なな心は、決して他人事ではありません。しかし、そんな人間を愛してやまないイエス・キリストの熱心は限りなしでした。
 忍耐を尽くして、ご自分を信じることの幸いを説く。あざけられても、罵られても、ご自分がいのちのパンであることの意味を教える。振り返ってみれば、自分の様なものが救われたのは、このイエス・キリストの熱心があったからこそ。今も神の子として生かされているのは、このイエス・キリストの忍耐と寛容があるからこそ。そう思わされるところです。
 この熱心な愛の神様が私たちにはついている。いつも、どこにいても、私たちとともに歩んでくださる。このことを喜びつつ、日々歩む者となりたく思います。