聖書を読む時、私たちはどのような心構えで読んでいるでしょうか。キリスト教信仰を持っている者は、この世界を創られた神様の言葉として聖書を読みます。聖書は「神のことば」である唯一の本。そのため、この世界を造り支配されている方が、私に何を語られるのかを知るために聖書を読むというのは、大切な心構え。そのような心構え抜きに聖書を読むことは、相応しくないでしょう。
それでは、聖書を一つの本として楽しむことは良くないのでしょうか。そこに記された人間模様や出来事に、読者である私たちが、喜んだり、悲しんだり。興奮したり、ほのぼのとしたり。一つの本として、聖書を楽しむことは、良くないのでしょうか。
仮に、ただの本として聖書を楽しむだけというのならば、それは相応しくないでしょう。しかし、聖書を「神のことば」と心得、その上で聖書を楽しむことは良いこと。奨励されることです。手に汗握り、感動し、時にはがっかりしながら聖書を読むことを楽しみ、同時に神様がどのようなお方か。人間はどのような存在で、私はどのように生きるべきなのか考える。そのような豊な聖書の読み手になりたいと願います。
教会あげて皆でより聖書を読む者になりたいと考えて、断続的に取り組んでいます一書説教。六十六巻からなる聖書、一つの書を丸ごと扱い説教する。これまでに八回行い、今日が九回目となります。毎回お勧めしていることですが、一書説教の時は、説教を聞いた後で、扱われた書をお読み下さい。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。
今日は旧約聖書第九の巻、第一サムエル記となります。聖書の中でも一際面白い書。様々な登場人物が、強烈な個性をもって活躍する。清々しい信仰者の姿を示すこともあれば、欲望の塊のような姿を晒すこともある。家庭的な事柄から、軍事的、政治的、国家的な事柄まで。激しい嫉妬や怒りの姿もあれば、麗しい友情の姿もある。人情味溢れる、浪花節のサムエル記です。ここに記された人物の思いを考え、心情を想像し、息遣いを感じながら、読み進むことが出来るようにと願います。
サムエル記の時代背景は、ヨシュア記、士師記に続くもの。神の民イスラエルが、神様が与えると約束していた地、カナンに入ります。勝利、征服の記録がヨシュア記。しかし、ヨシュアの死後、イスラエルは退廃し、敗北と屈辱の時代となります。傑出した人物、士師が現れた時は、なんとか国として立てなおすが、士師が死ぬと弱体化する。その繰り返しが記録されたのが士師記です。士師記の最後は、次のように閉じられていました。
士師記21章25節
「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」
傑出した人物、士師がリーダーとなる時は、国としてまとまるも、士師がいなくなるとばらばらとなる。王という制度がなく、継承されるものがない。そのような士師の時代から、王制度が導入される時代へ。神の民イスラエルが、王国として新しい時代を迎えるのが、サムエル記となります。
第一サムエル記を概観しますと、登場人物によって大きく三つに分けられます。前半は、書名となった人物、サムエル。主に一章から八章です。中盤は初代イスラエルの王、サウル。主に九章から十五章。後半がダビデ。十六章から三十一章までです。前半サムエル、中盤サウル、後半ダビデ。しかし、サムエルは前半にしか登場しないかというとそうではありません。サムエル自身は、中盤にも後半にも登場するのですが、中心人物はサウル、ダビデになっているという意味です。読み進むにつれ、著者の焦点が、サムエル、サウル、ダビデと少しずつ移動していく印象です。
まずは前半から確認します。士師の時代から王の時代へ。新しい時代を切り開く立役者となるサムエルの記事、一章から八章です。
当時のイスラエルは問題山積の状態でした。近隣のペリシテ人の脅威が続き、指導者であるはずの祭司エリの家族は非常に不信仰(2章)。イスラエルの民も迷信的でした(4章)。困難の最中にある時、神様は優れた指導者を立てて下さるのですが、それは一人の女性の祈りがきっかけとなっています。
Ⅰサムエル記1章11節
「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」
一夫多妻の不幸の中、子どもが与えられたいと願うハンナの祈りです。この女性は、問題山積のイスラエルを何とかしたいと考えていたわけではありません。子どもが与えられたいという個人的な願いを必死に祈ったのです。ただし、神様中心の信仰をもっての祈り。お祈りとは何かを考える上で、ハンナの姿は重要なものです。
この祈りの結果、サムエルが誕生し、宮で仕える者となり、優れた指導者としてイスラエルを導きます。一人の女性の祈りが、神の民が新しい時代へ突入する引き金となった。嬉しい出来事の一つです。信仰者がその生活の中で真剣に神様に向き合うことを、神様は大いに用いて下さる。本人は知らなくとも、歴史の重要な働きに参与していることがあるのです。この事実に励まされて、私たちもそれぞれの生活の中で、真剣に信仰者として生きることをしていきたいと思います。天国に行った時、実はあの時の祈りが、あの時の言葉が、あの時の奉仕が、重要な意味があったと知ることが出来るというのは、私たちの大きな特権の一つでした。
サムエル自身の活躍は様々な側面が記されています。幼少時代、祭司エリを相手に預言をする姿。預言者として広く認められたこと。イスラエルの民を悔い改めに導く姿。ペリシテ人との戦いでは、士師としての凄まじい活躍が記されています。
Ⅰサムエル7章10節
「サムエルが全焼のいけにえをささげていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来たが、主のその日、ペリシテ人の上に、大きな雷鳴をととどかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエル人に打ち負かされた。」
士師記のリーダー達は、腕力で敵と戦う姿が記されていました。優れた腕力、同時にどこか粗野というか、問題を抱えている士師たち。それに対して、サムエルは祈りの人。戦争時においても、祈りにおいて勝利したと記録される士師でした。是非、聖書を読んで、その活躍を確認して頂きたいと思います。
非常に優れた信仰者の姿が記されるサムエルですが、一つ課題があり、それは信仰継承がうまくいかなかったこと。サムエルが年老いた後、その子どもたちは、民の指導者の地位に就きながら、利得を追い求め、わいろを受け取るような者たちとなります。これがきっかけとなり、イスラエルの民が王を求めるという状況になります。
Ⅰサムエル8章5節
「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立てて下さい。」
この件を読みますと、この時イスラエルの民が王を求めたことは、良くないこと。悪いことと記されています。何故、王を求めることが悪いことなのでしょうか。かつてモーセも、王を求める場合は、このようにしなさいと申命記で規定していました(申命記17章)。王を求めること自体が悪ならば、モーセは王を求めてはならないと語ったはず。しかし、そうではなかったのです。それでは、何故、王を求めることが悪として記録されているのでしょうか。それはここで、イスラエルの民が王を求めた動機が課題となっています。この時、イスラエルの民は「他のすべての国民のように」と言いました。「他のすべての国民のようになりたい」と。
神様に特別に導かれ守られてきたことを無視するかのような動機。事実、神様ご自身が、民が王を求めたことを「彼らを治めているこのわたしを退けた」(8章7節)と言われます。それにもかかわらず、この民の願いによって王が立てられます。誤った動機、罪にまみれた動機に基づく願いをも、神様は用いられることがあるのです。
このようにして最初の王が選ばれることになります。初代イスラエル王はサウル。ここからが中盤です。預言者サムエルが王を選ぶことになり、ここでもサムエルの重要な働きを見ることが出来ます。
初代王に選ばれたのは、ベニヤミン部族のサウル。これは、当時の人たちからしても、士師記を読んできた私たちからしても驚きです。ベニヤミン部族と言えば、これより少し前、最悪の事件を起こし、著しく数を減らした部族。サウル自身、「私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン部族ではありませんか。」(9章21節)と言う状況でした。
とはいえ、サウル自身は最も美しく、最も背が高かったと記録されています(9章2節)。その外見は王に適していました。また、九章、十章、十一章と読みますと、サウルの美点に目が留まります。親思いであり、従順、謙遜。敵と戦う時には大胆に。自分に対する反対者には寛容。外見だけでなく、内面も優れていた人物。さすが王に選ばれた器と見えます。
ところが、十三章、十四章、十五章と、サウルの失敗が続きます。非常に残念な場面。最初の失敗は、私たちからすれば可哀想なもの。失敗とは言え、情状酌量を感じるものでした。宿敵ペリシテ人との戦闘が開始され、相手が優勢。多くの敵勢を前にした時、気後れした者たちは、隠れたり避難したりと混乱します。この時、サウルはサムエルの到着を待っていましたが、約束の時になってもサムエルが来ない。仲間が散り散りになりそうなのを見て、サウルはいけにえをささげます。いけにえをささげる。これは、祭司のすることであり、それ以外の者がしてはならないことでした。
このサウルに対してサムエルの宣告が冷たく響きます。
Ⅰサムエル13章13節~14節
「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。・・・今は、あなたの王国は立たない。」
二つ目の失敗は、誓約の問題でした。不用意な誓約をし、それを果たそうとすると民が反対。その結果、誓約を反故にするというもの。一つ目の失敗よりも、二つ目の失敗は、問題が大きい。次第にほころびが大きくなっていく印象です。そして三つ目の失敗は決定的です。アマレク人に対して全てを聖絶するように。人間も家畜も殺すようにと命じられ、戦い勝利するも、良い家畜を惜しみ殺さなかったというものです。聖絶のものを残した。これをサムエルに指摘された時、サウルは抗弁します。従順、謙遜のサウルは隠れ、不従順と傲慢の姿を晒すことになる。
このサウルの姿を、どのように見るでしょうか。断罪するか。私にも似たところがあると見るか。神様への不従順が膨れ上がる前に、立ち返るべきなのだと教えられます。
この決定的な失敗の結果、サムエルはサウルに対してはっきりと宣告します。
Ⅰサムエル15章28節
「サムエルは彼に言った。『主は、きょう、あなたからイスラエル王国を引き裂いて、これをあなたよりすぐれたあなたの友に与えられました。』」
王の地位は、サウルよりも優れた、サウルの友に与えられる。この宣告の結果、サムエルは次の王を選ぶことになり、サウルは自分よりも優れていると思う人物を非常に恐れるようになる。こうして、第一サムエル記の後半、ダビデの登場となります。
サムエルがサウルの次に王として選ぶのは、羊飼いの少年ダビデ。年若く、王としての風格も力も、まだ持ち合わせていなかったでしょう。しかし、「人はうわべを見るが、主は心を見る」と教えられたサムエルは、神様に導かれるまま、ダビデを選びます。
とはいえ、これですぐにダビデが王となるわけではありません。第一サムエル記はここから、ダビデが王として整えられていく記録となります。
ダビデが最初に活躍したのは、ペリシテの歴戦の勇者ゴリアテとの一騎打ちです。イスラエル軍がゴリアテの大音声に震える中、羊飼いの姿で戦いを挑み勝利する。一騎打ちでの前口上は、勇ましい上に信仰的で読む者を興奮させます。
Ⅰサムエル17章45節、47節
「ダビデはペリシテ人に言った。『おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。・・・この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。』」
ゴリアテとの戦いに勝利して、ダビデは多くのものを得ます。一つはサウルの子、王子ヨナタンとの友情。ダビデがゴリアテとの戦いを報告した際、それを聞いた王子ヨナタンはダビデのことを愛したと言います。(18章1節)またイスラエルの民も、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」と言って、サウル王よりも、ダビデの働きを賞賛します。
しかし、ダビデが名声を得たことによって、サウルはダビデを恐れるようになります。
Ⅰサムエル記18章8節~9節
「サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。『ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。』その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。」
これ以降、ダビデが忠実に働き、名声を高めれば高めるほど、サウルはダビデを恐れるようになります。なにしろサムエルの宣告は、「サウルよりも優れた人物に王位が渡される」というもの。ダビデの優秀さが示される度に、サウルは怒り、嫉妬、恐れを抱くことになり、ついにはダビデへの殺意を抱くようになる。当初は、裏工作でダビデを葬ろうとするもうまくいかない。次第に、サムエルの宣言した者はダビデであると確信するようになり、その結果、殺意は増していき、遂にはダビデ討伐の兵まで出すようになる。追われるダビデ。追うサウルという場面が多数出てきます。
片や王子ヨナタンは、サウルと正反対の態度をダビデにとり続けます。ダビデの姿を見るにつけ、神様が次に王に立てるのはダビデだと確信する。本来ならば、次に王となるのはヨナタンでしょう。サウル以上に、ダビデ憎しとなってもおかしくない。ところが、次の王はダビデとしながら、ダビデを愛していきます。
Ⅰサムエル23章17節
「彼(ヨナタン)はダビデに言った。『恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。』」
神様が選ばれているのは、ダビデであると同じように理解しながら、サウルとヨナタンの姿は正反対となる。神様が選んでいる。だから愛するのか。神様が選んでいる。だから殺そうとするのか。神様の思いを最上とするのか。それとも、私の思いこそ最上とするのか。自分がサウルの立場ならどうするか。自分がヨナタンの立場ならどうするのか。考えながら読みたいところです。
サウルに命を狙われるダビデは何度も危機的状況に陥ります。単身で逃げること。狂人のふりをしなければならない場面。イスラエル国内にいることが出来ず、ペリシテ人の領地へ逃げること。サムエルに油注がれ、王になることが約束されながら、それが実現するとは思えない場面を何度も経験します。そのような中で、特に注目すべきは、ダビデのサウルに対する態度です。執拗にサウルに命を狙われても、ダビデ自身はサウルを殺そうとはしない。サウルを殺す、決定的な機会が二度ありますが、それでもダビデは手を出しません。サウルとて、神様に選ばれた王。その王を、自分が殺すわけにはいかないと心得ていたからです。
具体的にダビデはどのような危機に遭遇し、神様はどのように助けて下さったのか。ダビデを追い続けるサウル。逃げるダビデ。友であるヨナタン。それぞれがどうなるのか、ハラハラ、ドキドキしながら読み通したいと思います。
以上、第一サムエル記でした。確認しておきたいこと、面白いと感じる場面は山ほどあるのですが、この説教では僅かしか扱えませんでした。是非、じっくりと第一サムエル記を読んで頂きたいと思います。
最後に一つ、第一サムエル記の中で特に重要と思うテーマを確認して終わりにしたいと思います。サムエル記は、多種多様な人物が登場し、強烈な個性をもって行動します。ある人たちは神様の御心を求めながら、信仰的に生き、ある人たちは自分のやりたいように生きる。しかし、全体としては神様の御心が確かに推し進められていることを見出せます。サムエル記を読み通して強く感じるのは、この世界を支配されている方がいること。結局のところ、私たちにとって最重要なことは、支配者である神様との関係をどのようなものとするのか。神様の願われることを行い、行うべきでないことは避ける。神様の思いよりも、自分の思いを優先させることが、いかに自分を不幸にするのかということです。
このテーマ。神様が世界を支配されていること。この神様に従うべきであることを、サムエル記の冒頭で、ハンナが歌っていました。その箇所を確認して終わりにしたいと思います。
Ⅰサムエル記2章6節~10節
「主は殺し、また生かし、よみに下し、また上げる。主は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くするのです。主は弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます。まことに、地の柱は主のもの、その上に主は世界を据えられました。主は聖徒たちの足を守られます。悪者どもは、やみの中に滅びうせます。まことに人は、おのれの力によっては勝てません。主は、はむかう者を打ち砕き、その者に、天から雷鳴を響かせられます。主の地の果て果てまでさばき、ご自分の王に力を授け、主に油そそがれた者の角を高く上げられます。」
今、神様が私に求めていることは何なのか。聖書と祈りの生活を通して、真剣に考えたいと思います。取り組むべきこと。手放すべきこと。愛すること。赦すこと。ささげること。仕えること。信頼すること。決心することはないか。サムエル記を読みながら、神様の思いに自分を従わせることが、私たちにとって本当に幸せなことなのだと確認し、皆で実践するものでありたいと思います。