2013年6月16日日曜日

ヨハネの福音書(21)ヨハネ6:51~71「わたしを食べる者はわたしによって生きる」

 米、麦、トウモロコシに芋。これは、世界の人々が主食としている代表的な食べ物です。稀に肉や魚が主食という地域もありますが、人類は昔から米、麦、トウモロコシなど穀類や芋類を日々口にし、肉体のエネルギーを補給してきたことになります。イエス・キリストの時代ユダヤの人々が主食にしていたのも麦、大麦のパンでした。
 しかし、米、麦、トウモロコシに芋。肉体を養う主食は地域、民族によって様々なれど、「人の魂を養う主食は天から下ってきたパン、世のいのちのための、わたしの肉である」。こう宣言されたのがイエス様です。

 6:51,52「『わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。』すると、ユダヤ人たちは、『この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。』と言って互いに議論し合った。」

 「何人のためのパンではない。わたしは普く世の人のためのパンなのだ。」五つのパンと二匹の魚を増やし、男だけでも五千人の群集を満腹させた大奇跡。続いて場所をカペナウムの町に移してなされたパン問答。そして、ついにイエス様の口から「わたしの肉というパンを食べるなら、その人は永遠に生きる」とのお言葉が発せられた場面です。
 これを聞いて驚いたのは群集でした。彼らは「パンはわたしの肉」を文字通りに受け取り、「この人はどうやって自分の肉を分け、私たちに食べさせることができるのか」と喧々諤々、議論し合ったと言うのです。
 「パン」と聞けば地上のパンを思うばかり。「パンはわたしの肉」と聞けば「人の肉をどうやって食べさせることができるのか」と議論するばかり。彼らの関心は肉体を養うパン、地上のいのちのみ。一向に魂を養うパン、永遠のいのちの問題に向く気配はありませんでした。
 しかし、イエス様は「今ここで食べよ」と勧めたわけではなかったのです。「わたしが与えようとするパン」つまり、「この後来るべき時にわたしが与えるパン」と言われたのです。
 それでは、やがて来るべき時に与えられるパンとは何だったのでしょうか。ずばり、それは、イエス様がご自身の体を罪のいけにえとしてささげ、十字架で死ぬことを指していたと考えられます。ですから、続くことばはイエス様ご自身の肉だけでなく、死に伴い流される血にも及んでいました。

6:5355「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。』」

「人の子の肉を食べ、血を飲まなければいのちはない」。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠のいのちを持つ」。「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物」。何度も繰り返される生々しいことばが強烈です。
果たして、これらのことばに込められたイエス様の思い、真意は何だったのか。「肉を食べ、血を飲む」とは、私たちがイエス・キリストの十字架の死を自分の罪のためと信じること、罪のいけにえとして自ら尊い命を十字架に捨てるほどに私たちを大切に思ってくださった愛を受け取り魂の食物とすることでした。
こうして永遠のいのちを受けた者は「わたしが終わりの日にその人をよみがえらせる、復活させる」とのお約束は、何とも心強く響きます。もはや病に苦しむことも無く、死の恐れに悩むことも無い栄光の体で生きる天の御国での生活が待っている。キリストを信じる者の幸いは、この確実な将来の望みであることを確認したい所です。
さらに、十字架に死にたもうご自分を救い主と信じる者の幸いについて語り継ぐイエス様です。

6:56,57「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者。すなわちわたしを信じる者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまる」。「わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者、つまりわたしの愛を心に受け取る者も、わたしによって生きる」。
私たちとイエス様。イエス様と私たち。まるで親友同士のような親しい交わり、愛し合う夫婦のような親密な交わりがこの地上から始まり、永遠に続くと言うのです。そして、人々に対する駄目押しのことばがこれでした。

6:58,59「『これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。』これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。」

ユダヤ人がイエス様に願っていたのは、荒野で先祖たちが養われた天からのパンの奇跡でした。「しかし、あのパンを食べた者は死んだではないか。わたしを食べる者は永遠に生きるのですよ」。いつまでも地上のパンを求めてやまない人々の心をご自分に向けさせる、永遠の命を願う者へと変える。それがイエス様の思いであったでしょう。
しかし、残念ながらイエス様の思いは通じなかったようです。何と弟子たちの多くが反発したと言うのです。

6:6063「そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。『これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。』しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。『このことであなたがたはつまずくのか。それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。』」

 「ひどいことば」とは絶対に受け入れたくないほどひどいと感じることばと言う意味です。恐らく弟子たちの多くは「わたしの肉を食べ、血を飲む」と言うことばを文字通りに受け取ってしまったのでしょう。彼らはこれに躓きました。
 けれども、こんな弟子たちをイエス様は憐れまれたのです。そして、「やがて人の子であるわたしがもといた所、天に上るのを見たら、あなたがたはわたしが天から下った救い主であることを知り、躓いたことを後悔するでしょう。その時御霊があなたがたのうちに働き、わたしのことばを思い起こして、永遠の命を受けることができるように」と語られました。
 今まで行動をともにしてきたイエス様こそ、弟子に躓かれて悲しいはずなのに、イエス様のほうが霊的に鈍い弟子たちを憐れんでくださる。イエス様の忍耐と寛容は尽きることなしでした。
また、イエス様は残る弟子たちの心をも思い遣ります。

 6:64,65「しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」――イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。――そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』と言ったのです。」

 私たちは周りの人の動きに敏感です。影響を受けます。イエス様を信じ、イエス様の元に残ろうとする弟子たちも、余りにも多くの仲間が躓き、離れ去ってゆこうとする様子を見て、動揺を隠せなかったことでしょう。
 「本当にこのままイエス・キリストを信じていて良いものか。世間に取り残されて良いものか。」と不安を覚える者もいたかもしれません。
 そこに、「父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。」とイエス様の力強い一言です。「あなたがたがこの様な状況の中で、私とともにいるのは父なる神様がそのように決めてくださったからです。」との励ましと聞くことができます。
 そして、この一言に思いを強くしたのか、弟子を代表してシモン・ペテロの信仰の告白がなされました。

 6:6669「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。そこで、イエスは十二弟子に言われた。『まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。』
すると、シモン・ペテロが答えた。『主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。』」

ぞろぞろと多くの者が離れ去ってゆく中、「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」と問われ、「主よ。私たちがあなた以外のだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」と答えたペテロ。
誰もが心細く感じていたであろう状況で、イエス様にお返ししたペテロの信仰告白は光り輝いています。「主よ。私たちがあなた以外のだれのところに行きましょう。」いつもこの様な信仰を告白する弟子の群れ、四日市教会の私たちでありたいと思います。
しかし、です。十二弟子の誰もがペテロと思いを同じくしていたかと言うと、そうではありませんでした。この時、すでにイスカリオテのユダはキリストを裏切る算段をしていたのです。それを知った上でのイエス様のことばです。

 6:70,71「イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた。」

「そのうちのひとりは悪魔」。実に手厳しいことばです。しかし、この場面もしイエス様が単にユダを責め、断罪するつもりだったとしたら、他の弟子たちの前で「ユダ、あなたが悪魔だ」と言えば済んだことでしょう。
何故、そうなさらなかったのか。何故、他の弟子には分からないように、しかしユダには確実に伝わる様に語られたのか。イエス様は重大な罪を実行しようとしているユダを厳しく叱り、ユダが悔い改めて立ち返ることを願っていたのではないかと思われます。
仮に、あからさまにイエス様に責められ、自分の裏切りが他の人に知られたら、その時点でユダはイエス様のもとを離れ去ったことでしょう。そうなれば、もはや悔い改めのチャンスは無い。そう考えたイエス様のこれは愛の配慮でした。
さて、今日の箇所を読み終えて、私たちが特に覚えたいことがふたつあります。
ひとつは、「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物」と繰り返したイエス様のお姿です。皆様はこの強烈なことばをどう感じたでしょうか。
 私はこのことばの背後に、ご自分の十字架の死を無駄にしないで、何としても罪の赦しを受け取って欲しいと願うイエス様を思います。十字架にいのちをかけた尊い愛を心に受け入れてほしいと切に願うイエス様の姿を見ます。
 この様なイエス様を最も悲しませる行為は何でしょうか。「いいえ、私には罪の赦しなど必要ありません。私はあなたの愛が無くとも生きてゆけます。あるいは、またいつかにしましょう」と断ることです。
主食であるパンは一度食べれば良いものでも、時々食べればよいものではありません。主食を食べねば体が弱り果てるように、私たちの魂は日々イエス・キリストというパンで養われなければ、弱り果ててしまう者なのです。この事を自覚して、私たちは日々イエス様と交わり、罪の赦しの恵みと尊い愛とを頂き、魂を養う者でありたいと思います。
二つ目は、裏切りを考えていたユダをさえ愛したイエス様が私たちの救い主であるのを感謝することです。クリスチャン迫害の鬼であった使徒パウロは、イエス・キリストを信じて、こう告白しました。今日の聖句です。

ローマ57,8「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどいません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

ここに言われているのは、私たちにとって人のために死ぬなどと言うことは至難の業、いや不可能に近いということです。正しい人のために死ぬ人はほとんどいない。情け深い人のために死ぬ人ならあるいはいるかもしれない。そうであるなら、自分に敵対する者のために死ぬ人などいるはずが無いのに、イエス様はご自分に敵対する者、罪人のために死んでくださった。
パウロはこの十字架の愛に心動かされ、すべてはキリストのためにと生き抜いた人です。私たちもパウロと同じく、あるいはイスカリオテのユダと同じく敵対する者、罪人でした。しかし、忝い事にイエス様に死んで頂き、罪赦され、神の子とされたのです。そうだとすれば、私たちもパウロと同じく、すべてはイエス・キリストのためにと生き抜く者となりたく思います。