私たちが読み進めているヨハネの福音書。そのひとつの特徴はイエス様の自己紹介です。「わたしは~です」、そのような言い回しで当時ユダヤの人々にとって身近なものを取り上げ、ご自分がどのようなお方であるか紹介してくださるわけです。
「わたしはいのちのパンです。」「わたしは羊の門です。」「わたしはよみがえりです。いのちです。」等、これらのことばを中心に、関連するイエス様の奇跡や行動、教えがなされる。他の福音書には見られない際立った特徴でした。
今日の箇所もそのひとつ。「わたしは世の光です」とのイエス様の宣言を巡って、宗教指導者たちが喧々諤々。論争を繰り広げるという場面となっています。
8:12~14「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」そこでパリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません。」イエスは答えて、彼らに言われた。「もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です。わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。」
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」イエス様がこう言われた時、都エルサレムは秋の収穫祭、仮庵の祭りで賑わっていました。そして、仮庵の祭りの初日の夜、宮の庭には都の町並みを赤々と照らし出す火柱が立てられると言う慣しがあったのです。出エジプトの昔ユダヤの先祖たちが荒野を旅した時、夜毎神様が宿営に火の柱を通して現れ、旅路を守って下さった恵みを記念し、思い起こす為の儀式です。
この様な背景の中、人々に対して語られたイエス様のことばは、ご自分こそ真の光、朝になると消えてしまう光ではなく永遠に人の心の闇を照らし、闇を払ういのちの光との宣言でした。
しかし、これにパリサイ人は大反発。自分のことを自分で証言する者、つまり自分のことを自分で推薦する人など信用できないというものでした。普通の人相手の議論とすれば筋が通っています。例えば、私が講壇から「私は世の光です」と真顔で言ったとしたら、皆様は「山崎はおかしい。信用できない」と感じても当然です。そう思わないほうがおかしい。
しかし、です。イエス様にこの論理、理屈は通じません。「もしこのわたしが自分のことを証言するなら、それは真実です。」と全く動じることなく答えるイエス様。その姿に改めてイエス様が私たちとは全くレベルの違う存在、神の子であることを思わされるところです。
けれども、妬みと怒りで一杯の宗教指導者にはそれが分からない。自分たちが相手にしているお方が人の姿をとってはいても、天の父なる神のもとから来て、また天の父の所に帰ってゆく神の子であることを知らなかった、いや知ろうとしなかったのです。
そのひとつの原因は、彼らが人を肉によってさばくこと、人を上っ面で判断することと、イエス様は指摘しました。
8:15~18「あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。
しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」
社会的地位の高い人ほど体裁を気にする。人を見る時も出身とか地位とか学歴とか所謂見てくれ、上っ面で判断する。昔から人間と言うのはこういう者だったのです。
それとは対照的に、イエス様は人を肉によってさばかない、決して上っ面で判断しない。もし人をさばくにしても、ご自身のさばきは正しいと断言されました。しかも、イエス様ならそう言い切って終わりで良かったのに、律法を重んじるパリサイ人のレベルに合せ配慮されたのです。即ち、わたしのさばきはわたし一人でなく、わたしを遣わした父のさばきでもある。二人の共同作業、二人の証言だから、あなた方が重んじている律法にも適っているではないかと念を押しています。
しかし、恩を仇で返すとはこのことか。彼らはイエス様の言う父が人の目に見えない神であることを承知の上で、「あなたの言う父とやらが証人だというなら、どこにいるのか。ここに連れてきてみろ」と言い返したのです。イエス様のご配慮に皮肉を返すエリートの厭らしさでした。
8:19,20「すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕えなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。」
「もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」「天の父のことを本当に知りたいと思うなら、わたしを知るようにしなさい。心開いてわたしのことばを聞き、わたしを信じ、わたしと交わりなさい。そうすればあなたがたも天の父を知ることができるのに。」ご自分を捕えようとする敵のために、ことばも心も尽くすイエス様のお姿です。
ところで、皆様は日本を訪れる外国人の多くが食堂やレストランに入る時、何に驚き感動するのか、ご存知でしょうか。食堂やレストランの入り口にあるガラスケースの中に並べられている食品模型だそうです。
ラーメンそっくりのラーメン模型。カレーライスそっくりのカレーライス模型。カツ丼そっくりのカツ丼模型。入り口にある模型をみれば本物が分かる。自分の国には無い、本物そっくりの模型に驚く外国人は、ここまでお客様のために尽くす日本人の親切に感動するのだそうです。
イエス様は地上に現れた神様の模型。イエス様を見れば、イエス様を知れば天の神様を知ることができる。「あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」イエス様を知ればご自身が分かるように、イエス様を地上に届けてくださった神様。この神様の愛、神様の親切に感謝したいところです。
続くは論争の第二段、ご自身を拒む者にイエス様のことばも少しきつめに響きます。
8:21~24「イエスはまた彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「あの人は『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない。』と言うが、自殺するつもりなのか。」
それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」
「わたしは去ってゆく。その時になってわたしを捜しても遅い。今のうちに悔い改めなければ自分の罪の中で死ぬ。わたしが行く天にあなた方は来ることができない。」これは、「わたしの証しを聞いて、わたしを信じて救われる機会はいつまでも続かない。今罪を悔い改め、わたしを信ぜよ。」とのイエス様渾身のメッセージでしょう。
それが証拠に、「あなたがたは下から来た者、この罪の世に属する者、わたしは上から来た者、この罪の世に属する者ではない」と言われたイエス様は、「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」と信じて救われる道を示されたのです。
「わたしのことを信じなければ」ということばは「わたしを神と信じなければ」との意味だと考えられてきました。つまり、イエス様はそれを言ったら死刑になるだろうことばを、ご自分に敵対する人々のために語られたのです。
それなのに、イエス様の心を人は知らない、思わない。「わたしが行く所にあなたがたは来ることができないなんて、こいつはどこかに逃げて自殺でもするつもりか。」そう嘲るのです。それでいながら、「あなたはだれですか」等と、またもことば尻を捕えイエス様を逮捕しようとするユダヤ人。「もう、こんな人々のことは放っておきましょう、イエス様。」と私たちでさえ感じるのに、イエス様は尚も尊い証しを続けられます。
8:25~27「そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれですか。」イエスは言われた。「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです。わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった。」
今まで散々イエス様の教えを聞き、奇跡を見てきたはずのユダヤ人。イエス様は天の父から聞いたことをそのまま語る忠実な神の子であることを何度も目撃してきたはずなのに、この期に及んでなおも天の父のことが分からない頑固な人々。それでも、イエス様の証しは続きます。罪人に仕えるしもべ、イエス様の忍耐は尽きることなしでした。
8:28~30「イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」
イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。」
「あなた方ユダヤ人が人の子であるわたしを十字架の木に上げ、その結果わたしが天に上げられると、あなたがたはわたしが何であるか、つまり神であることを知るようになる。」最後まで、ご自分が神であること、天の父と一心一体の神の子であることを説き続けたイエス様の忍耐はようやく報われたかに見えます。「多くの者がイエスを信じた」とあるからです。
そして、私たちも漸くイエス様が何故ここまで徹底的に忍耐を尽くして、ご自分についての証言、証しを繰り返してきたのか。その理由が分かるような気がします。
それは、イエス様を信じるか否か、従うか否かが私たちの人生に決定的な違いをもたらすことをご存知だったからです。イエス様のことばはご自分を高くするためではなく、罪人であるユダヤ人や私たちの救いのためでした。今日の聖句です。
ヨハネ8:12「・・・わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
聖書において闇は罪の支配する心を表します。光は神様のシンボルですから、いのちの光とは神様の命と言って良いでしょう。イエス・キリストに従う者は、決して罪の中を歩むことなく、平安と愛が支配する神のいのちを持つ。
キリストは私たちにご自分を信じるか否か、従うか否か。二つに一つを迫るお方です。信じること、従うことは神のいのちをもつこと、信じないこと、従わないことは罪の中で死ぬこと。どらでもない中立の立場は無いと言うことです。
先程から信じる事と従う事を同じ意味で使っていますが、これは聖書が本当に救われ、神のいのちを得る信仰とはキリストに従うことと教えられているからです。
例えて言うなら、荒海の中で溺れかけているかなづちの人がいます。そこに救助者が近づいてきて、「さあ、私にすがれ!」と命じます。それでもおぼれてしまう人には二つのタイプがあります。ひとつは、救助者を見ても「この人が私を助けてくれるとは思えない」と考え、すがろうとしない人です。同じ様に、イエス・キリストを神の御子、救い主と認めない人は救われません。
ふたつめは、「この人は私を助けてくれる人だ」と頭では理解していますが、実際にすがろうとしない人です。「私にもプライドがあります。自分で努力してみます。」とか「私のために別の助け手が来るかもしれない。」と思っているうちに彼らも溺れます。
それでは、どういう人が荒海から助かるのか。救助者を信頼しすがりつく人、素直に従う人です。同じ様に、罪の荒海から救われ、神様のいのちをもつのは、イエス・キリストにすがりつき、従う人なのです。
この世には光と輝き私たちを助けてくれるように思われる富、名声、地位、様々な娯楽、快楽などがあります。これらの物自体は悪ではありません。しかし、これらのものを人生の目的としたり、人生の助けとしてすがりつく限り、私たちの心は満たされず、罪の中を歩み続けるのです。そういう意味で、私たちは心から信頼しすがりつくものを間違わないようにしたい。イエス・キリストに従い与えられる神のいのちだけが私たちの心を平安と愛で満たすことのできるものであることを確認したいと思います。
最後にもうひとつ。キリストに従い続けるのは簡単なことではありません。キリストに従わない時、私たち何に従っているのか。自分の思い、自分の願い、自我です。つまり、信仰生活はイエス・キリストに従うか、それとも自分に従うか。日々戦いと言う面があります。
しばしば、私たちにとって自然で心地よく感じられるのは自分に従うことです。イエス・キリストは私たちが人を赦せないと思う時、赦せと命じます。こんな苦しい状況から抜け出したいと願う時、そこで人に仕えることを学べと命じます。感謝することなど見当たらないと感じる時、感謝し喜べと命じます。
自然に自分に従ってしまう私たちがイエス・キリストに従うには、日々神様の愛に憩い、神様と交わり助けられることが必要です。しかし、イエス・キリストに従うことを選び続ける時、私たちの心は神のいのちに満たされてゆく。そのことを覚え、心からキリストに従うものと私たちなりたく思います。