2013年9月29日日曜日

「分からずとも」 創世記37:12~28

 私の説教の際、断続的に一書説教を行っています。六十六巻ある聖書のうち、一つの書をまるごと扱う説教。そして説教を聞いた後は、是非扱われた箇所をお読み下さいとお伝えしてきました。
先週が第一列王記。いかがでしょうか。第一列王記を読むことに取り組まれていますでしょうか。先週の説教の後、ある方が「これまでさぼってきたので、まだ列王記に到達していません。このままでは、どんどん遅れそうです。」と声をかけて下さいました。その方に申し上げたのは、「これまでのことは置いておき、とりあえず第一列王記を読むことをお勧めいたします。」ということです。説教を聞いた後で、その記憶があるうちに実際にその箇所を読むと、より理解が深まると思います。まだ取り組まれていない方は、どうぞ第一列王記を読むことをお勧めいたします。
ところで、第一列王記以外にも皆さまに読んでもらいたい箇所があります。それは週報とともに配布しております祈祷表にある聖書通読の箇所です。一書説教の度に、聖書を読むことが勧められるのに、それとは別の箇所が祈祷表に載っている。これでは、どちらを読んだら良いのか。混乱されている方がいらっしゃるでしょうか。お勧めしたいのは、どちらも読むことです。一書説教の際には、扱われた書を。それと同時に祈祷表の箇所も。どちらも読むことをお勧めいたします。「礼拝説教であの牧師は聖書を読むことばかり勧めてくる。」と言われそうですが、その通り。そればかり勧めているのです。愛する四日市キリスト教会が、聖書を読むという点でも強き教会になることを強く願っているところです。
 このようなことを考えまして、今日の説教で扱いますのは、祈祷表に載っている昨日の聖書箇所、創世記三十七章としました。祈祷表に従って聖書を読んでいる方には、同じ箇所から私がどのようなことを考えたのか分かち合うことになります。読んでおられない方は、これを機に、続く章から読み進めて頂ければと思います。

 創世記三十七章はヨセフが兄弟たちに奴隷として売られる記録。創世記はアブラハム、イサク、ヤコブと人物に焦点を合わせて記事が進められていますが、ヤコブの子どものうち、主にヨセフに焦点が当てられるところ。
 ヤコブの子どもは、男子で十二人いましたが、なぜヨセフは兄弟に嫌われ、奴隷として売られることになったのか。その原因は、父ヤコブが子どもたちの中でも、特にヨセフを愛し、特別な扱いをしたからでした。またヨセフはヨセフで、そのことを鼻にかけていた節があります。兄弟たちは父の寵愛を受けているヨセフが気にくわなかった。ある意味で、その嫉妬、怒りは当然のことでした。
ヨセフはエジプトに奴隷として売られ、その後、冤罪で囚人となる。ところがその後でエジプトの大臣となる。おそらくは聖書中、最も劇的な人生を送ることになる人。「事実は小説より奇なり」という言葉を地でいく人。このヨセフの生涯は、創世記後半の山場となりますが、今日はそのヨセフの劇的な人生の幕開けとなる記事となります。

 創世記37章12節~14節
「その後、兄たちはシェケムで父の羊の群れを飼うために出かけて行った。それで、イスラエルはヨセフに言った。『おまえの兄さんたちはシェケムで群れを飼っている。さあ、あの人たちのところに使いに行ってもらいたい。』すると答えた。『はい。まいります。』また言った。『さあ、行って兄さんたちや、羊の群れが無事であるかを見て、そのことを私に知らせに帰って来ておくれ。』こうして彼をヘブロンの谷から使いにやった。それで彼はシェケムに行った。」

 ことの発端はヨセフの兄たちが羊の放牧から、なかなか帰ってこなかったことです。父ヤコブは、子どもたちが帰ってこなかったことを心配します。何しろ、行き先はシェケム。シェケムと言えば、先に問題が起こり(三十四章)、危険があるためにその場所には住めないと考えた土地です。子どもたちに何かあったのではないか。心配したヤコブが、様子を見てきてほしいと、ヨセフを使いに出すのです。ヨセフは「行きます。」と答えて、シェケムに向かいました。
(考えてみますと、兄たちは羊飼いの仕事をし、ヨセフは父のもとにいた。これも、ヨセフが特別扱いを受けていた一つのことと見ることが出来ます。)

 すると何が起こったのか。
創世記37章15節~17節
「彼が野をさまよっていると、ひとりの人が彼に出会った。その人は尋ねて言った。『何を捜しているのですか。』ヨセフは言った。『私は兄たちを捜しているところです。どこで群れを飼っているか教えてください。』するとその人は言った。『ここから、もう立って行ったはずです。あの人たちが、『ドタンのほうに行こうではないか。』と言っているのを私が聞いたからです。』そこでヨセフは兄たちのあとを追って行き、ドタンで彼らを見つけた。」

 ヘブロンからシェケムまでは約八十キロ。頑張って一日。普通なら二日の道のりでしょうか。ところがシェケムに行ったヨセフは、兄たちを見つけることが出来ず、その地をさまよいました。すると見知らぬ人に声をかけられ、兄たちはドタンの方に行ったと聞く。ドタンは北に約三十キロ。そこでドタンへ向かい、もう一日分歩いて、兄たちに会ったという記録。何の変哲もない。普通の記録。しかし、この記録は少しおかしくないでしょうか。気にならないでしょうか。
 通常、記録というのは出来事の全てを記すことはしません。重要なことだけを記します。実際このヨセフの記録でも、シェケムの状況とか、この時の天候とか、ヨセフに声をかけた人の名前など、記録されていません。創世記の著者が、それらは重要ではないと判断したからでしょう。
 しかし、重要かどうかという視点で言うならば、この十五節から十七節全部が、重要でないように感じます。「ヨセフはシェケムに行ったがそこに兄たちはいなく、ドタンで兄たちに会った。」と記せば十分。それが、ヨセフがさまよったことや、見知らぬ人との会話が記録されるのです。何故でしょうか。皆様が映画監督で、創世記三十七章を撮るとしたら、わざわざ、このシェケムの場面を撮影するでしょうか。この十五節から十七節に重要な意味があるのでしょうか。

 更に言いますと、十四節の終わりの「彼(ヨセフ)はシェケムに行った」とある「行った」という言葉は、次の場面へ焦点を合わせる言葉が使われています。ヘブロンの谷から、次はシェケムに場面が変わるということを、読者は意識することになるのです。
かつて事件があったシェケム。そこにヨセフが行った。ハラハラ、ドキドキ。何が起こるのか。緊張の場面かと思いきや、何も起こらない。ヨセフはシェケムでさまよっただけ。すぐにドタンへと場面が移る。肩すかしのような記事です。何故、この記録が記されているのか。皆様は、ここに何か重要な意味を見出すでしょうか。後ほど、考えたいと思います。

 ともかくヨセフはドタンへ行き、そこで兄たちに会います。
 創世記37章18節~24節
「彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ。彼らは互いに言った。『見ろ。あの夢見る者がやって来る。さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。』しかし、ルベンはこれを聞き、彼らの手から彼を救い出そうとして、『あの子のいのちを打ってはならない。』と言った。ルベンはさらに言った。『血を流してはならない。彼を荒野のこの穴に投げ込みなさい。彼に手を下してはならない。』ヨセフを彼らの手から救い出し、父のところに返すためであった。ヨセフが兄たちのところに来たとき、彼らはヨセフの長服、彼が着ていたそでつきの長服をはぎ取り、彼を捕えて、穴の中に投げ込んだ。その穴はからで、その中には水がなかった。」


 ヨセフの兄たちは、ヨセフに対して妬みや怒りがあり、それは殺意を抱くほどのもの。もとはと言えば、父ヤコブの偏愛が招いた悲劇です。この時、ヨセフはヤコブから特別にもらった長服を着ていました。それが目印となったのか、兄たちは遠くからでもヨセフだと分かった。そして、その長服が火に油を注ぐことになったのでしょうか。兄たちはヨセフ憎し、ヨセフ殺そうとなったのです。(ここで兄たちはヨセフのことを、「夢見る者。」「あれの夢がどうなるか見ようではないか。」と言っていますが、それは創世記三十七章冒頭の記事を確認下さい。)
しかし、兄弟全員が同じように妬みや怒り、殺意を持っていたわけではありませんでした。ヨセフを殺そうという意見に対して、長男ルベンは殺すことはよくない。ひとまず穴に閉じ込めようと提案します。長男として、年長者として分別が働いた。ルベン自身は、ヨセフを殺さず連れ戻そうと考えていたことが記されています。
 最終的にどうするかはともかく、ここはひとまずルベンの意見を採用するとして、兄弟たちは一致します。この地方は雨水を貯める穴が多数あり、しかし、この時は水もなく、これ幸いとそこにヨセフを投げ入れます。さて、これからヨセフはどうなるのか。兄たちの話し合いの結果次第では、命を落とすかもしれない緊迫の場面。

 するとここに、隊商が通りかかったと言います。
 創世記37章25節~28節
「それから彼らはすわって食事をした。彼らが目を上げて見ると、そこに、イシュマエル人の隊商がギルアデから来ていた。らくだには樹膠と乳香と没薬を背負わせ、彼らはエジプトへ下って行くところであった。すると、ユダが兄弟たちに言った。『弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが彼に手をかけてはならない。彼はわれわれの肉親の弟だから。』兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。そのとき、ミデヤン人の商人が通りかかった。それで彼らはヨセフを穴から引き上げ、ヨセフを銀二十枚でイシュマエル人に売った。イシュマエル人はヨセフをエジプトへ連れて行った。」

 ヨセフを穴に入れ、さてどうするかと話している、丁度その時。目の前にイシュマエル人、ミデヤン人の隊商が通りかかる。(イシュマエル人というのは、広く遊牧の民を意味し、ミデヤン人はその中の一つの民族と考えられます。私たちの多くが、日本人であり、四日市人であるのと同じ。)そこで四男のユダが提案したと言います。ヨセフを殺したとて何の益にもならない。どうせなら奴隷として売ってしまおう、とです。兄弟たちは、それは良いとしてヨセフは奴隷としてエジプトへ行くことになる。
 この時、このエジプト行きの隊商にヨセフを売ったことが、後々重大な意味を持つことになります。つまり、エジプト行きの隊商に売られたので、ヨセフはエジプトでの生活が始まります。紆余曲折あり、ヨセフはエジプトで大臣へ。その結果、大飢饉の際に、父ヤコブも、この時ヨセフを売った兄たちも助かることになるのです。
これがエジプト行きでない隊商だったら、後にヨセフがエジプトで大臣になることはなかったでしょう。また、ヨセフを穴に入れ兄たちが食事をしている、このタイミングで隊商がこなかったとしたら。ヨセフは殺されていたか、長男のルベンによって父のもとに帰されたか。どちらにしろ、後にヨセフがエジプトで大臣になることはなかったでしょう。
 これに続く歴史を知っている者からすると、兄たちがヨセフをどうするか決まっていない丁度この時、エジプト行きの隊商がここを通ることが重要な意味があるのです。丁度この時、絶妙のタイミングだった。

 このように考えると、一つ見えてくることがあります。先に考えました、十五節から十七節の意味です。もう一度、読んでみます。

 創世記37章15節~17節
「彼が野をさまよっていると、ひとりの人が彼に出会った。その人は尋ねて言った。『何を捜しているのですか。』ヨセフは言った。『私は兄たちを捜しているところです。どこで群れを飼っているか教えてください。』するとその人は言った。『ここから、もう立って行ったはずです。あの人たちが、『ドタンのほうに行こうではないか。』と言っているのを私が聞いたからです。』そこでヨセフは兄たちのあとを追って行き、ドタンで彼らを見つけた。」

 ヨセフが兄たちを探しに行く。その視点だけでは、この箇所がなぜ記録されているのか分からない。この箇所の重要性が分からないところ。しかし、兄たちがヨセフをどうするか決まっていない。丁度そのタイミングで、隊商が通ったということを基準に、この箇所を読むと、何故この箇所が聖書に記録されていたのか、分かる気がします。
 つまり、ここでヨセフがさまよっている必要があったのです。さまようことなく、すぐにドタンに行っていると、隊商が通りかかるより前に着いてしまう。また名前も記されていない人に声をかけてもらうタイミングも良かったのです。(ヨセフが声をかけたのではなく、名もなき人からヨセフに声をかけています。)ゴシェンでさまよい、丁度良く時に声をかけられたからこそ、穴に落とされたところをエジプト行きの隊商が通りかかったのです。この絶妙な神様の導きを示すために、このゴシェンでの出来事が詳細に記されていたと感じるのです。

 ヨセフはゴシェンで兄たちを探し、見つけられない。探しながらさまよっていた時、そのさまよっていることに意味があると思っていたでしょうか。ここでさまよっていれば、丁度タイミングが合い、自分はエジプトに売られ、やがてエジプトで大臣になるなんてことは、当然、その時は分からなかった。本人は分からずとも、重大な意味があった。そのことに、私は大いに励まされます。
 私たちの人生には躓きや失敗があります。前進がない。成長がない。停滞している。足踏みしていると感じる時があります。事故や病気。落第、浪人、降格、失職。自分の願うようにはいかず、人生をさまよっているように感じることもあります。
 現代は効率主義、成果主義の時代。前進がない。停滞しているように感じる状態は良くないとされ、人生をさまよっているように感じる時は、自分で自分のことを受け入れることも難しくなる。
しかし本当に、さまよっていることは良くないことでしょうか。無意味でしょうか。いや、そうではない。今日の箇所が一つの答えを出しています。時に、そのさまよっていることが重大な意味がある。本人には分からずとも、重要な意味があると教えられるのです。何しろ、ヨセフがゴシェンでさまよっていたことは、エジプトで大臣になることへとつながるのです。神様の絶妙な導きを見てとれるところ。

 この神様の絶妙な導き、私たちの想像や理解を遥かに超える神様の導きについて、パウロが告白していました。今日の聖句です。ローマ人への手紙8章28節
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

 以上、創世記三十七章のうち、特にヨセフが兄たちに奴隷として売られる場面に注目しました。同じ創世記三十七章を読むのでも、説教で扱ったテーマとは異なる視点で教えられることがあると思います。それはそれで良いことで、皆で聖書を読み進めていきたいと願います。

今日の説教で確認したのは、私たちの神様は、私たち神の民を特別に扱われること。それは全てを益にして下さる恵みであること。たとえ自分では意味を見出せない状況。衰退、低迷、さまよっているように感じる時でも、神様の導きは変わらずにあるということ。自分では分からずとも、神様が最善へと導いて下さっている信仰を持ちつつ、皆でキリスト者の歩みを全うしていきたいと思います。

2013年9月22日日曜日

「一書説教 Ⅰ列王記―人の不真実と神様の真実ー」Ⅰ列王記11章1節~13節


 人生で大きな決断をする時、悩みのうちにある時、何をどうしたら良いのか分からない時。どのように決断したら良いのか。何に取り組んだら良いのか。どのように生きたら良いのか。私たちは神様に聞きます。朝起きて、今日一日をどのように生きたら良いのか。私たちは神様に聞きます。
この世界を創り、支配されている方と共に生きることが出来るというのは、私たちクリスチャンの大きな特権です。とはいえ、私たちが神様に聞くという時、神様から声が聞こえてくるというわけではありません。(絶対に無いというのではなく、今の時代はそれ以外の方法がとられていると考えます。)
 聖書を開きますと、神様が人間に語りかける場面が出てきます。神様が直接語られる、御使いを通して語られる、預言者を通して語られる。神様から語りかけられる場面もあれば、人間が神様に問いかけ、それに答えられるという場面もあります。少し羨ましく感じます。学校を選ぶ時、仕事を選ぶ時、結婚を考えている時。仕事を辞め第二の人生を選択する時。神様から、あの学校に行けとか、あの仕事に就けとか、あの人と結婚するように、これをしなさいと言われたら、楽なように感じます。苦しみや悲しみで、解決が見えない時。こうしたら良いと、神様から具体的な解決案が提示されたら、楽だと思います。
 何故、聖書には神様から直接的な語りかけの場面が記されているのに、私たちは同じように直接的な語りかけを聞くことがないのでしょうか。それは、今は神の言葉である聖書が完成しており、またキリストを信じる者には、聖書から全てのことを教えて下さる聖霊(ヨハネ14章26節等)なる神様が与えられているからです。私たちが決断をする時、悩む時。一日をどのように過ごすべきなのか、神様に聞きたい時。私たちは、祈りと聖書を通して、神様からの語りかけを聞くのです。
 このように確認しますと、私たちが本当に神様の御心を求めるのならば、本心から神様に従いたいと考えるならば、欠かすことが出来ない、どうしても必要なのは、聖書を読むということです。それも特定の箇所、自分の好きな箇所だけを読むというのではなく、聖書全体から、神様がどのようなお方なのか、私たちは神様の前でどのように生きるべきなのか、考え続けることが必要です。
 いかがでしょうか。皆さまは聖書を読むことに取り組んでおられるでしょうか。読めない日があること、読む気力がなくなることは、度々起こるのですが、それでも聖書を読み続ける大切さを覚えつつ、何度でも取り組みたいと願っています。

 このようなことを考えまして、取り組んでいます一書説教。これまで断続的に行ってきましたが、今日は十一回目。旧約聖書第十一の巻、第一列王記となりました。
 列王記。サウル、ダビデの後に続くイスラエルの王たちの活躍や失敗の記録です。多くの人、多くの出来事が記され、馴染みのない名前や地名の連続で、読みにくいと感じるか。あるいは、歴史、政治、戦物が好きな方は、興味深く読むことが出来るか。どちらにしろ、一書説教の際は、説教を聞いた後で、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。

 さて、第一列王記を読み進める前に、その背景を確認しておきたいと思います。神の民として選ばれたイスラエル民族。神の民としての使命は、その生活を通して、人間のあるべき生き方、神様との関係を全世界の人々に示していくというものでした。イスラエルの民は、カナンの地で暮らすようになり、そこで神様に従う生き方をすることが使命でした。
 このイスラエル民族に王が立てられるようになる。それが先に確認しました、サムエル記に記されていたことです。神様に従うことが使命とされている民に立てられし王。王の役割は、民が神様に従うことを導くこと、国全体としてそれに取り組むことが出来るようにすることでした。初代王サウルは、この点で失敗。神様に従うことよりも、自分の思い、自分の考えを優先させてしまった。残念な姿が記録されていました。二代目のダビデは、神様に従うことに取り組み続けた人生。大きな失敗もありましたが、その都度悔い改めては、神様に従うことに取り組むことをした王。
 このダビデに続く王たちの記録が列王記となります。その活動が多く記されている王もいれば、具体的なことは殆ど記されていない王もいます。全ての王、全ての出来事に注目出来れば理想的ですが、時間の都合で、この一書説教では三人の王に注目します。主に前半に記されているソロモン、中盤のヤロブアム、後半のアハブの三人です。

 まずはソロモンです。ダビデの子、それもあのバテ・シェバの子、ソロモン。その活躍は凄まじく、記されている分量も多く、一章から十一章まで主にソロモンの記録となります。特筆すべきは、その繁栄ぶり。ソロモンが王であった時は、イスラエル王国の歴史で最も繁栄した時代。イエス様もソロモンを指して、栄華を極めたと言われた程です。何故、それ程の繁栄を見せたのか。その理由が、三章に出てきます。

 Ⅰ列王記3章5節
「その夜、ギブオンで主は夢のうちにソロモンに現われた。神は仰せられた。『あなたに何を与えようか。願え。』」

 もし神様にこのように問われたら、自分ならば何と答えるのか。
実際に、ソロモンは何と答えたのか。国を治めるための知恵を求めたのです(Ⅰ列王記3章9節~10節)。神の民の王として何が必要なのか考え、自分に与えられた使命を果たすための力を神様に求める。信仰者として見習いたい姿。
 知恵を求めたというのは、神様の喜ばれることであり、その結果、ソロモンは大変な知恵を頂くと同時に、更に富と誉も与えると約束をもらいます。ソロモンの繁栄の理由はここにあると聖書は記すのです。
 ソロモンが神様に知恵を願った結果、その知恵、富は非常に有名なものとなり、国の内外を問わず、多くの人がソロモンの知恵を聞きにきたと記録されています(Ⅰ列王記4章34節)。詳しい出来事もいくつか記録されており、二人の女性が、一人の子を、これは自分の子どもだと主張する事件。シェバという国の王女が、ソロモンのもとを訪れ、あまりの凄さに息が止まりそうになったという記事。ソロモンの知恵と富は、私たちが想像出来ない程のものだったのでしょう。
 この知恵と富を用いてソロモンがなした一大事業が、神殿を建てることでした。父ダビデは建てることが許されなかった神殿をソロモンが建てる。これ以降、ソロモンがエルサレムに建てた神殿が礼拝の中心地となります。
 神様に知恵を求めた純粋さ。神殿を建て上げた信仰。知恵、富、誉に満ちたソロモン。ソロモン程、神様に従うことの重要性と意味を理解していた人物はいないと思われるところ。しかし、その晩年に大きな失敗があります。

 Ⅰ列王記11章3節~6節
「彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。こうしてソロモンは、主の目の前に悪を行ない、父ダビデのようには、主に従い通さなかった。」

 稀代の英雄、大王ソロモンですが、女性の問題に落ち込んだ。ソロモンは多くの政略結婚をし、平和を保っていましたが、その妻や妾から異教の神々の影響を受けたのです。このソロモンに神様は二度現われて、注意をしたにもかかわらず、その神様の命令に従わなかったといいます。残念無念。
 その結果、神様はこのソロモンの国を引き裂くと宣言されました。
 Ⅰ列王記11章11節~13節
「それゆえ、主はソロモンに仰せられた。『あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約とおきてとを守らなかったので、わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたの存命中は、そうしないが、あなたの子の手からそれを引き裂こう。ただし、王国全部を引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与えよう。』」

 神様の宣言通り、ソロモンの死後、国は南北に割れます。これ以降、二王国時代となる。一般的に、北の国を北イスラエル、南の国を南ユダと呼びます(聖書の記述は、北の国をイスラエル、南をユダとだけ記されます)。
 ところで、覚えておられるでしょうか。先に読みました第二サムエル記にて、神様がダビデに約束していたことがあります。それは、ダビデの家、ダビデの王座は堅く立つ(Ⅱサムエル記7章16節)というもの。(最終的には、イエス・キリストにおいて成就するものですが)この約束のため、ダビデの血筋が王を引き継ぐことになるのですが、それは南ユダで実現します。北イスラエルは、ダビデとは異なる家系が王となる。
 そうしますと、北イスラエルより南ユダの記録の方が重要なのではないかと思うのですが、第一列王記はどちらかと言うと、北イスラエルの王に多くの記事を割きます。
 ソロモン王の後、南北に分裂した後、ソロモンの後を継ぐのは南ユダのレハブアム。それに対して北イスラエルに立つ王は、ヤロブアム。この一書説教ではヤロブアムに焦点を当てます。

 イスラエルが南北に分裂し、北イスラエルを治めるヤロブアムには大きな問題がありました。何が問題だったのか。皆さまは何だと推測するでしょうか。ヤロブアム自身の思いが聖書にこのように記されていました。
 Ⅰ列王記12章26節~27節
「ヤロブアムは心に思った。『今のままなら、この王国はダビデの家に戻るだろう。この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえをささげるために上って行くことになっていれば、この民の心は、彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、私を殺し、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。』」

北イスラエルを治めるヤロブアムの抱えた問題。それは、南ユダの領土エルサレムに神殿があったということです。礼拝の度に、北イスラエルの民が神殿に行くと、いつか南ユダへの思いが強くなり、謀反が起こる。このままでは国として成り立たないと心配したのです。
仮に、もし皆さまがヤロブアムの立場だとしたら、この問題をどのように解決したでしょうか。実際にヤロブアムがなした政策が聖書に記されています。

 Ⅰ列王記12章28節、31節、33節
「そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。『もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。』・・・それから、彼は高き所の宮を建て、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。・・・彼は自分で勝手に考え出した月である第八の月の十五日に、ベテルに造った祭壇でいけにえをささげ、イスラエル人のために祭りの日を定め、祭壇でいけにえをささげ、香をたいた。」

 北イスラエルの民が、エルサレムにある神殿に行かないように、ヤロブアムがなしたこと。それは自分勝手な礼拝を計画することでした。神殿にある神の箱の代わりでしょうか、金の子牛を作り、これこそ私たちの神様だと宣言。勝手に祭司を任命し、祭り・礼拝の日付けも自分で決めた。聖書が禁じている方法で、聖書の神様を礼拝するようにした。それはつまり、聖書が教えていることよりも、政治的思惑を優先させたということです。この自分勝手な礼拝は、ヤロブアムだけのことではなく、これ以降、北イスラエルの王が踏襲していきます。
この自分勝手な礼拝は、ひどい悪、罪として覚えられ、聖書の中で何度も、「ヤロブアムの罪」という言葉で表現されるもの。その結果、ヤロブアムとその一族に対する裁きは厳しいものであり、また「ヤロブアムの罪」を踏襲していく北イスラエルの王に対する裁きも同様に厳しいもの。結果として、北イスラエルは長らく続く王朝はなく、謀反、造反の繰り返しで、王が次々に変わる歴史を歩むことになります。

 そのような中、北イスラエルの王に最悪と呼ばれる王が立つことになる。アハブです。アハブのしたことは、「ヤロブアムの罪」が軽いとされるもの。
  Ⅰ列王記16章30節~31節a
「オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目の前に悪を行なった。彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。」

 アハブは、彼以前のだれよりも悪かった。ヤロブアムの罪が軽く見える程だと言われます。アハブは一体、何をしたのか。
これまで王が続々と変わり、混乱していた北イスラエルを建てなおすために、アハブが取り組んだことの一つに、シドン(フェニキア地方)と同盟を結ぶというものがありました。
 シドンという国は、北王国より更に北にあります。高い文化、高い技術力を持った国。技術力はあるも、高地にあるため、食糧難に陥りやすい国。対してアハブの治める北イスラエルは、文化面、技術面でシドンより劣るものの、食糧を得るには適した土地がある。シドンの高い文化、技術力と、北イスラエルの食糧。どちらの国にも、この同盟は有効的でした。
 アハブはシドンと手を組みました。政略結婚をし、シドンの王女イゼベルという妻を迎えます。結果として、アハブは、高い文化、技術力を手にします。事実、物質的には、北王国は繁栄しました。この世の評価であれば、アハブは大王。良い政策を打ち出し、成功させた王。しかし、同時にシドンで流行していた、バアル宗教が北イスラエルにもなだれこんできた。アハブは首都サマリヤにバアルの宮を建て、自身もバアルに仕え、拝んだと記されます。

 つまり、アハブの罪というのは、国を豊にするために、聖書の神様を捨てて、バアル宗教を取り入れたこと。これまでの王は、勝手な礼拝や、金の子牛を使いながらも、それをもって聖書の神に対する信仰を持っていました。ヤロブアムの罪です。
しかし、アハブは、ヤロブアムの罪以上のことをした人。聖書の神を捨て、バアルという異教の宗教を国に取り入れた人物。アハブの罪とは、異教を取り入れたこと。政治的、経済的利益のためならば、何でもするという態度。だから、聖書は「彼以前の誰よりも主の目の前に悪を行った」人物として評価するのでした。

 このアハブの時代に、神様は北イスラエルに有名な預言者を送られました。エリヤです。預言者の中でも際立つ働きをした人物。預言者の中の預言者。預言者として一番有名、預言者の代表格と言っても過言ではない人物。アハブとの手に汗握る攻防、その具体的な活躍は、是非聖書を読んで確認して頂きたいと思いますが、そのエリヤが、最悪の王、アハブの時代に北イスラエルで活躍したということに、神様の恵みを覚えます。人間は、神様を捨てるのに、神様は人間を見捨てない。

 ところで、このアハブの記事で重要な記録があります。アハブは散々悪事を働くのですが、ある時、エリヤの糾弾の声に悔い改めることがあります。アハブの悔い改め。それに対する神様の言葉が、非常に印象的です。
 Ⅰ列王記21章27節~29節
「アハブは、これらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に荒布をまとい、断食をし、荒布を着て伏し、また、打ちしおれて歩いた。そのとき、ティシュベ人エリヤに次のような主のことばがあった。『あなたはアハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間は、わざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。』」

 アハブでも悔い改める時に、裁きが回避されるという記事です。あのアハブですら、悔い改めれば、裁きが回避される。驚くと同時に、いやこれこそキリスト教という場面。罪が示された時、悔い改めることがどれ程重要なことなのか。よくよく教えられる場面の一つです。

 以上、第一列王記を三人の人物に焦点を当てて概観しました。最後に二つのことを確認して終わりにしたいと思います。
一つは人間の不真実さです。ソロモン、ヤロブアム、アハブ。それぞれ大きな恵みを頂きながら、神様に従うことをしない。不真実さが目につきます。神様との関係において徹底的に不真実。「義人はいない」(ローマ3章)「彼らは腐っている」(詩篇14篇)という言葉が聞こえてくるところ。その結果、自分も、神の民にも、自分たちの子孫にも多大な悪影響を与えることになる姿を確認しました。くれぐれも、神様に従うことを止めないように。自分の思いを聖書より優先させることのないようにと教えられます。
そして人間の不真実さを覚えると同時に、もう一つ覚えたいのは、神様の真実さです。それぞれ不真実な姿を晒す王たちに、神様は直接語りかけることも、預言者を通して語られることもします。もう見捨てても良いのではないかという場面でも、粘り強く、人間を導こうとされている神様の姿を再確認出来ます。これが、私たちの神様の姿。私たちがどのような者であろうとも。たとえ、神様に対して不真実を尽くす者であったとしても、私たちに語りかけ、導こうとされる神様。この神様の愛、真実さを、忘れないように。私たちの日々の生活で、この神様の語りかけ、導きに応じる者でありたいと思います。

今日の聖句です。詩篇33篇4節
「まことに、主のことばは正しく、そのわざはことごとく真実である。」


2013年9月15日日曜日

詩篇146篇「いのちのあるかぎり」

 60歳は還暦、70歳は古希、77歳は喜寿、80歳は傘寿(さんじゅ)、88歳は米寿、90歳は卒寿、99歳を白寿として、長寿をお祝いする。語呂合わせや言葉遊びの要素も多分にありますが、一体全体、この様な国が他にあるのだろうかと思うほど、日本人は昔から長寿を祝うことを大切にしてきました。
しかし、長寿を祝うことにおいては聖書も負けてはいません。むしろ、ただ長寿を祝い喜ぶだけでなく、長寿を命の源である神様の祝福と考え、神様に感謝し礼拝することを勧める聖書こそ、本当の意味で長寿を祝う心を育てるものと言えるでしょう。
長寿を神様の祝福と教える聖書の箇所はさまざまにありますが、もしこの一箇所をと言われれば、是非あげておきたいのが有名な十戒の第五戒です。

出エジプト2012「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」

神様の戒めは私たちを縛り、苦しめるためのものではない。反対に神様が戒めを与えられたのは、私たちに長寿という祝福を与えんがためでした。「あなたの齢が長くなるためである」との約束のことばに、そのような神様の愛を覚えるところです。
「あなたが父と母を敬うことは、あなたの父母のためだけでなく、あなた自身の幸いな長寿のため」と教えられると、父母を代表とする目上の人、年配の人すべてを愛し、敬うことの大切さが俄然心に響いてきます。
つまり、長寿をお祝いすることは、どれだけ今現在私たちが敬老の心をもって父母をはじめとする年長者に接しているかを問われることでもあったのです。
しばしばキリスト教は家族を大切にしない。親を敬わない、自分の親よりも神様を大切にすると批判されます。しかし、その神様が「あなたの父母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるため」と命じ、長寿の約束まで与えてくださっているのですから、その様な批判は大いなる誤解でした。
ですから、聖書は敬老の勧めで満ちています。一例を挙げればこのようなことばがあります。

レビ記1932「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。・・・」

私たちの教会には敬うべき人生の先輩、年長者の兄弟姉妹がたくさんおられます。70歳以上の兄弟姉妹が60名。本当に私たちの教会は祝福されていると感じます。神様に信頼し、御心に従って生きてこられた方、その結果長寿の祝福を受け取られた方々がこんなにも大勢いる。こんなに嬉しいことはない。これら兄弟姉妹は四日市キリスト教会の宝物。このような教会で仕えられる私は幸せな牧師だと思います。
しかし、こうして毎年敬老の心を確認することには意味があります。
老父ヤコブのために心を砕く孝行息子のヨセフ。義理の母ナオミにどこまでもついてゆき、仕えた嫁のルツ。
聖書にはこのような良い模範もありますが、悪い模範もあるからです。イスラエル王国の最盛期に君臨したソロモン王の息子レハブアムという人は、自分にとって厳しいことばを語る老人老臣を退け、幼馴染で取り巻きの若者のことばに耳を貸したため政治を誤り、国を二つに割ってしまいました。
年配者を敬い、そのことばに耳を傾けるのか。それとも、鬱陶しい存在として遠ざけるのか。それが、人生を大きく変える可能性があることを思うと、常日頃から敬老の心を抱いて生活することの大切さを教えられるのです。
以上、聖書が長寿を神様の祝福とし、敬老の心を持って生きるよう教えていることを、私たち確認しました。
しかし、長寿は祝福だとしても、ただ命が長ければそれで良いのか。長寿そのものが、生きながらえること自体が人生の目的となって良いのか。その様なことも、聖書は私たちに問いかけていました。それが、今日の詩篇146篇です。

詩篇1461,2「ハレルヤ。私のたましいよ。主をほめたたえよ。私は生きている限り、主をほめたたえよう。いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を歌おう。」

詩人は「生きているかぎり」「いのちのあるかぎり」と、自分の年齢に限りがあることを自覚しています。
その上で限りあるいのちを他の人はいかにもあれ、私は主をほめたたえるために使おう、神様にほめ歌を歌うことにささげようと心からの告白をしているのです。
果たして私たちは自分の年齢にかぎりがあることをどれだけ自覚しているでしょうか。たとえ自覚したとしても、「いのちのあるかぎり」、このいのちを使って何をしようとしてきたでしょうか。
無病息災、家内安全、商売繁盛、できる限りお金がたまるように、できるだけ病気にならないように、もし病気になったらできるだけよい病院に入れるように、死んでも命がありますように。
そんなことで尽きていたものが、真の神様を知ってからは「私は生きている限り、主をほめたたえよう。いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を歌おう。」と変えられた。本当の命の使い方、自分が生かされていることの意味が分かった詩人の、この感動の告白に私たちは賛成し、同意できるでしょうか。
しかし、こんな詩人の思いもこの世のものに頼り、裏切られ、痛い経験を散々積み重ねた上でのものだったようです。「君主」は文字通りには地上の王様のことですが、王様に代表される、この世において私たちをして頼みにしたいと思わせる力あるもののシンボルとも考えることもできるでしょう。

1463,4「君主たちに頼ってはならない。救いのない人間の子に。霊が出てゆくと、人はおのれの土に帰り、その日のうちに彼のもろもろの計画は滅びうせる。」

アレクサンダー大王も、織田信長や豊臣秀吉も、彼らの栄耀栄華はその死とともに潰えて消え去りました。現代でも、この大統領なら、この人が大臣なら、この党が政権についたら社会が良くなると期待された政治家、政党が、何度庶民の夢を打ち砕き、消えていったことか。
王様や政治家だけではありません。財産、地位や名誉、能力や健康など、頼りになるものと教えられ、そう信じてきたこれらのものがいかに変わりやすく、移ろいやすいか、いかに頼りにならないものか。年齢を重ねると共に、その思いは深くなります。
そのような経験を通して、詩人の思いは「真に頼るべきは主なる神のみ」と一本になっていったのでしょう。

146510「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は。主は天と地と海とその中のいっさいを造った方。とこしえまでも真実を守り、しいたげられた者のためにさばきを行い、飢えた者にパンを与える方。主は捕われ人を解放される。主は盲人の目を開け、主はかがんでいる者を起こされる。主は正しい者を愛し、主は在留異国人を守り、みなしごとやもめをささえられる。しかし主は悪者の道を曲げられる。主はとこしえまでも統べ治められる。シオンよ。あなたの神は代々にいます。ハレルヤ。」

幸いなのは、人間とこの世のものにより頼む者ではなく、主なる神を助けとし、望みを置く者。なぜなら、主なる神こそ天と地と海とその中のいっさいを造ったお方、すべての人にとって平和で幸いな世界を打ち建てることのできる方と詩人は語ります。
もちろんこのような世界が完全に実現するには、イエス・キリスト再臨の日を待たねばなりません。しかし、イエス・キリストが地上に来られた時からこのような世界が始まったことを、私たち確認することができます。
イエス・キリストは虐げられた者を助け、飢えた者にパンを与え、捕われ人を解放し、盲人の目を開け、体の不自由な者を健やかにし、孤児ややもめなど社会的弱者を守られました。そして、今も私たち教会を通して、このようなわざを行っておられるのです。
神様のみ力と人間に対する愛とに心動かされた詩人は、自分もまた愛をもって隣人に仕えることを御心と覚え、与えられた命をそのために用い、ささげたと思われます。
さて、この詩篇を読み終えて、私たちの心に残るのは最初のことばです。「私は生きているかぎり、主をほめたたえよう。いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌おう。」
このことばを通して分かることは、詩人はただ長寿を、この世に生きながらえることを願っているのではなく、与えられた命を神様をほめたたえるために使いたい、使いきりたいと心から願っていることです。その様な生き方こそ人間として最も幸いな生き方だと確信していることです。
ただ長寿を、生きながらえることを願う時、私たちは様々なものに頼って、自分の命を守る姿勢に入ります。しかし、自分が頼りとするものを守ろうとすればするほど、思い煩いも増えてゆきます。
財産を守ろうとして財産について思い煩い、地位や名誉を守ろうとしてあれこれと心配をする。健康を守ろうとするあまり、健康について思い煩う。人に頼るとその人の自分への評価が気になって思い煩う。
つまり、自分の命を守ろうとする生き方には思い煩いが付きまとって離れないということです。普通人間にとって一番大切なものは自分の命。だからこそ、常に命を守ることを第一に考えます。
しかし、自分の命よりも神様を大切に思い、神様のために命を使うことを大切にするなら、その人は本当に幸いだとこの詩篇は教えているのです。何故なら、神様を大切に思い、神様のために命を使えば使うほど、私たちは思い煩いから解放され、自由になり、人としてあるべき生き方に近づけるからです。これがいのちあるかぎり主なる神様をほめたたえることでした。
最後に、いのちあるかぎり主なる神様をほめたたえる生き方とは、具体的にどういうことなのか。三つのことをお勧めしたいと思います。
ひとつめは、日々みことばを聞き、神様に愛されている者として生きることです。年を重ねれば重ねるほど失うものがあります。社会的立場、働き盛りの収入、仕事仲間、健康、記憶力、愛する人などです。
その様な中、自分は社会に、家庭に必要とされているのか。足手まといではないのか。心細い、肩身の狭い思いを感じる時もあるでしょう。しかし、たとえ世間が冷たくても、この世界を創造した神様はこう言われます。

イザヤ434「わたしの眼に、あなたは高価で、尊い。わたしはあなたを愛している。」

年を取っても、地位を失っても、能力が衰えたり、病に臥せったりしても、そんな自分を自分自身が嫌になっても、神様は私たち一人一人の存在を心から大切に思い、かけがえのない存在と思っていてくださる。だから神の御子イエス・キリストが十字架で私たちの罪のため死んで下さった。この神様の愛を喜び、神様に愛されている者として日々歩むこと、歩み続けること。これをお勧めします。
二つ目は、できる限り教会で神様を礼拝し、信仰の友と交わることです。私たちにはただのひとりで信仰の生涯を歩み続ける力はありません。教会で神様を礼拝し、賛美することには特別な祝福があります。同じ神様を信じる兄弟姉妹と礼拝する時、私たちはより神様を身近に感じることができるのです。
年を重ねると閉じこもりがちになる心を神様に向けて開き、神様の愛を思い、考えることで、私たちの心は新たになります。年齢ゆえに体調や病のため休むことがあったとしても、健康が許される限り教会での礼拝を守り続けることをお勧めします。
三つ目は、神様の愛を頂いた者として、苦しむ者、飢えた人、不当な扱いを受けている者、体の不自由な方々、社会的に弱い立場にある人々に心を配ることです。
自分が生かされ、守られてきた家庭、教会、社会を少しでも良くして天の御国を目指すということです。神様がみもとに召されないということ、この世に生きることを許しておられるということは、私たちに周りの人々を良くする能力、使命があるということではないでしょうか。

敬愛する人生と信仰の先輩である兄弟姉妹たち。皆様のご長寿を心からお祝いします。どうか、皆様がその尊い命を神様に喜ばれることのために使い、ささげることができますように。主なる神様をいのちのかぎりほめたたえることができるように願い、祈りたいと思います。

2013年9月8日日曜日

ヨハネの福音書(26)ヨハネ8:31~47「真理はあなた方を自由に」

昔学校の歴史の時間に習ったことばで未だに忘れられないことばがあります。明治の時代の政治家板垣退助の「板垣死すとも自由は死なず」です。自由党党首だった板垣退助は岐阜の演説会で暴漢に刺され、血を吐きながらこのことばを口にしました。 そして、このことばのゆえに、彼は自由民権運動の英雄となったと言われます。
板垣退助の言う自由は政治的自由ですが、人間は昔から様々な自由を求めてきました。政治的自由、経済的貧しさからの自由、職業選択の自由、病からの自由に恋愛・結婚の自由。宗教や思想の自由。まさにこの世において、自由ほど尊いものはなしという勢いです。
ところで、今日の箇所には「真理はあなたがたを自由にします。」と言う有名なことばがあります。イエス様が教える自由とは何なのか。それはこの世が求める自由とどこが違うのか。もし、その自由を持っているなら、それを私たちは実際に活用し生きているのか。今日はこの様なことについて考えてみたいと思います。
さて先回。ユダヤ人が大切にしていた秋の仮庵の祭りで賑わう都エルサレムの神殿で、イエス様はご自分を「わたしは世の光です。」と紹介しました。ギリシャ語で「エゴーエイミ」というイエス様独特の言い回しです。
これは旧約の昔、モーセが神様に対し「あなたの名は何ですか」と尋ねたのに対し、神様が「わたしはあってある者」とお答えになったことばで、つまり「神であるわたしは世の光なのです」との宣言でした。
ナザレの大工の息子、聖書を正式に学んだことのない、無学な田舎者で二流三流の教師とばかり思っていた都のユダヤ教指導者たちはこの驚きの宣言に怒り、殺そうとする。しかし、イエス様の奇跡や人気に心惹かれていた人々は信じたとあります。
それならばと言うことで、信じた人々にわたしの弟子とはどういう者かを解き勧めたのが今日の箇所でした。

8:31,32「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

イエス様の弟子とはみことばにとどまる者、そして真理であるイエス様を知り、つまりイエス様と親しく交わり自由にされた者と教えられます。「あなたがたはわたしを神の子、救い主と信じるだけでなく、わたしのことばを心に深くとどめ、わたしと交わって自由を持つわたしの弟子となれとの勧めでした。
しかし、イエス様によって自由にされると聞き、自分たちが自由なき奴隷とみなされたと感じたユダヤ人は反発します。神の選民としてのプライドを痛く傷つけられたのでしょう。私たちは奴隷になったこと等ないと鋭く言い放ったのです。

8:3336「彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」

人々は自由と聞いて政治的自由を思ったようです。しかし、実際のところユダヤ人が政治的自由を謳歌した時期はほんの僅か。長い間エジプト、バビロン、ギリシャ、ローマと大国、強国の支配に甘んじてきました。けれど、誇り高きユダヤ人はそれを認めない。「私たちは神に選ばれたアブラハムの子孫、決してだれの奴隷になったことない」と押し返したのです。
しかし、イエス様が言われた自由は政治的自由のない奴隷という意味ではありませんでした。「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です」とある様に、私たち人間を罪の奴隷と指差し、罪から完全に自由な者、神の子であるわたしがあなたがたを罪から自由にすることができるのですよと教えられたのです。
罪の奴隷である人間が同じ罪の奴隷である人間を自由にすることはできない。罪なき神の子だけが罪人を罪から自由にすることができる。理に適ったことばでした。
なお、罪を行っている者とは罪を平気で犯し続ける者、罪の酷さを思わずに罪の中を生き続ける者という意味です。それが神様の御心ではないと知りながら、罪を行ってしまい、その罪を悲しむ信仰者のことではないと確認しておきたいと思います。
さらに、イエス様は面と向かって語ります。「あなたがたは確かに血筋から言えばアブラハムの子孫だけれど、わたしのことばを心に受け入れず、わたしを殺そうとしているのだから、罪の奴隷に間違いない。それが証拠に、あなたがたはあなたがたの父、悪魔から示されたことを行っている。」痛烈この上ないおことばでした。

8:3741a「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」
彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。あなたがたはあなたがたの父のわざを行っているのです。」」
イエス様はこの時点ではまだユダヤ人たちの霊的な父を悪魔と名指してはいません。アブラハムとは違うあなたがたの父がいることを暗示するのみです。と
それでもなお「いいえ、私たち父はアブラハム」と抗弁する人々に、「アブラハムなら神から聞いたことを忠実に教えているわたしを殺そうとするはずがない。どうみてもあなたがたのしていることはアブラハムとは違うあなたがたの父、悪魔のわざ」と念を押すイエス様です。 
事実、アブラハムほど神のことばをそのまま信じた人、神の使いを心から歓迎した人はいませんでした。まさにイエス様に反発するユダヤ人とは正反対の人物だったのです。
窮地に追い込まれたと感じたのでしょうか。ユダヤ人は「私たちにはひとりの父、ひとりの神がいるのみ」と言い返しました。

841b43「彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。」」

「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。」とは、旧約聖書を背景にして言われたことば。真の神ではない異教の神、偶像を信じる人を結婚関係になぞらえて「姦淫する者、不品行な者」と旧約聖書は呼んでいます。
「私たちは偶像の神を拝んだことはない。ただひとりの神を父として信じている」と主張するユダヤ人。それに対して、イエス様はあなたがたが本当に神を父としているなら、神から遣わされたわたしを愛するはず、わたしの話していることがわかるはず」と一歩も譲りません。
ある人が「イエス・キリストについて改めて驚かされるのは、ご自分が神の子、紙から遣わされた救い主であることを全く疑っていないこと、当然のように確信しているその姿」と語っています。
ヨハネの福音書を読む者は、イエス・キリストが真の神なのか、それとも神と思い込んでいるただの人間なのか。いつも二つに一つの選択を迫られる気がします。
そして、ついにイエス様は「あなたがたの父、あなたがたが拝み従っているのは悪魔」と明言しました。これも神の子以外には言うことのできないことばのひとつでしょう。

8:44,45「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望(思い)を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。」

悪魔は神に反抗してやまない堕落した御使い。様々な方法を用いて人間を神から引き離そうと働きかけている霊的存在と聖書は教えています。そして悪魔の特徴は三つ。人殺し、真理つまり神を信ぜず、神を嫌うこと、常に偽りを言うことでした。
イエス様によれば、イエス様を信じない者はみな悪魔の影響を受けている存在。人を妬み、人を見下し、自分を正当化して人を赦し、和解しようとしない心の殺人者。神に背を向け、神を無視して考え行動する罪人。そして「神などいない、もしいたとしても信じ従う価値などない。自分を神として生きるのが人間の正しい生き方」と説く、悪魔の偽りに耳を傾ける者だったのです。
皆様はこのイエス様の語ることを受け入れられるでしょうか。それとも、ユダヤ人のように反発するでしょうか。
そして、やはりというべきなのでしょうか。このように人間の罪を暴き、指摘するイエス様が「このわたしに罪があると責めることのできる人はいますか。そんな人はいないでしょう。わたしは神の子、わたしの語ることはすべて真理」と断言するのです。

8:46,47「あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」

普段は柔和で謙遜で、人を癒し人に仕える、人間らしいイエス様が、どうしてここまで強烈に執拗にご自分が神の子であり真理であることを主張するのか。ご自分に従わず、ご自分のことばを心に受け入れない人々を責めるのか。
もしかすると、皆様の中には「こういうイエス様はついていけない」と感じる向きもあるかもしれません。しかし、この背後にあるのはご自分のことばを受け入れ、ご自分と交わる者となるか否か、それが私たちの永遠の運命を決める、本当に決定的で重要な決断であることを知っている神の子イエス様の深い愛と思われます。
本当の医者なら、自分の病気の深刻さを分かっていない患者に対し、たとえ患者の耳を開いてでも真実を告げ、どんな痛みが伴ってもなすべき手術をするでしょう。本当の医者は心から患者の回復を願い、全力を尽くすからです。
それと同じく、私たちは今日のイエス様のお姿に、私たち罪人に罪からの自由を与えるため、私たちの魂が真に健康を回復するため、全身全霊仕えてくださる愛を覚えたいと思いますし、覚えるべきでしょう。今日の聖句です。
ガラテヤ513,14「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えあいなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。」

イエス・キリストが十字架に登り、み代わりに受けてくださった私たちの罪に対する神の罰。心の中の殺人、神を無視してきた罪、悪魔の偽りに耳を傾けてきた罪、それらすべての罪のためにイエス・キリストが十字架で死んでくださったことにより、私たちに与えられた罪からの自由。この事実をパウロは「あなたがたは自由を与えられるために召された」と言い表しました。
十字架の死に至るまでイエス・キリストが私たちを愛し、私たちに与えてくださった尊い自由。この自由を私たちは喜んでいるでしょうか。この尊い自由を活用して日々歩んでいるでしょうか。
この自由を活用するため、私たちがなすべきことが二つ教えられています。
ひとつは、この自由を肉の働く機会としないことです。肉とは私たちの中にある自己中心の性質から生まれてくる思い、願いに基づいて考え、行動しないことです。
人を妬む、人を見下す、人を受け入れず自分のために人を変えようとする、自分を正当化し人をさばく、人を赦さないなど罪の思いを神様に示された時は悔い改めて、キリストの十字架に帰り、その尽きざる愛を思うことです。
私たちが与えられた自由は何でも思いのママ生きる自由ではありません。神様の喜ばれないことを考えない自由、行わない自由、自己中心の自分に従わない自由でした。キリストが血を流して与えてくれた自由。その折角の自由を無駄にしないようにと教えられたいのです。
ふたつめは、この自由を神様の御心、すなわち愛をもって人に仕えるために用いることです。愛をもってとは、人に強いられて嫌々ではなく、自由な喜ぶべき奉仕として人に仕えること、自分の名誉のためでなく、その人の幸いのために心から仕えることです。
しかし、悲しむべきことに、私たちの心は放っておくと自然と自由を肉の働く機会とし、愛をもって仕えることにこれを活用しようとはしません。この私たちの弱さを思う時、イエス様の弟子として生きるように招いてくださるその意味が分かるのではないでしょうか。
日々イエス・キリストのことばにとどまること、日々イエス・キリストを知り、親しく交わること。このような歩みを積み重ね、自由を正しく活用するうちにキリスト者の自由をますます喜び、満喫する。そんな歩みを私たち積み重ねてゆきたいと思います。


2013年9月1日日曜日

ヨハネの福音書(25)ヨハネ8:12~30「いのちの光をもつ」

私たちが読み進めているヨハネの福音書。そのひとつの特徴はイエス様の自己紹介です。「わたしは~です」、そのような言い回しで当時ユダヤの人々にとって身近なものを取り上げ、ご自分がどのようなお方であるか紹介してくださるわけです。
「わたしはいのちのパンです。」「わたしは羊の門です。」「わたしはよみがえりです。いのちです。」等、これらのことばを中心に、関連するイエス様の奇跡や行動、教えがなされる。他の福音書には見られない際立った特徴でした。
今日の箇所もそのひとつ。「わたしは世の光です」とのイエス様の宣言を巡って、宗教指導者たちが喧々諤々。論争を繰り広げるという場面となっています。

8:1214「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」そこでパリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません。」イエスは答えて、彼らに言われた。「もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です。わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。」

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」イエス様がこう言われた時、都エルサレムは秋の収穫祭、仮庵の祭りで賑わっていました。そして、仮庵の祭りの初日の夜、宮の庭には都の町並みを赤々と照らし出す火柱が立てられると言う慣しがあったのです。出エジプトの昔ユダヤの先祖たちが荒野を旅した時、夜毎神様が宿営に火の柱を通して現れ、旅路を守って下さった恵みを記念し、思い起こす為の儀式です。
この様な背景の中、人々に対して語られたイエス様のことばは、ご自分こそ真の光、朝になると消えてしまう光ではなく永遠に人の心の闇を照らし、闇を払ういのちの光との宣言でした。
しかし、これにパリサイ人は大反発。自分のことを自分で証言する者、つまり自分のことを自分で推薦する人など信用できないというものでした。普通の人相手の議論とすれば筋が通っています。例えば、私が講壇から「私は世の光です」と真顔で言ったとしたら、皆様は「山崎はおかしい。信用できない」と感じても当然です。そう思わないほうがおかしい。
しかし、です。イエス様にこの論理、理屈は通じません。「もしこのわたしが自分のことを証言するなら、それは真実です。」と全く動じることなく答えるイエス様。その姿に改めてイエス様が私たちとは全くレベルの違う存在、神の子であることを思わされるところです。
けれども、妬みと怒りで一杯の宗教指導者にはそれが分からない。自分たちが相手にしているお方が人の姿をとってはいても、天の父なる神のもとから来て、また天の父の所に帰ってゆく神の子であることを知らなかった、いや知ろうとしなかったのです。
そのひとつの原因は、彼らが人を肉によってさばくこと、人を上っ面で判断することと、イエス様は指摘しました。

8:1518「あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。
しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」

 社会的地位の高い人ほど体裁を気にする。人を見る時も出身とか地位とか学歴とか所謂見てくれ、上っ面で判断する。昔から人間と言うのはこういう者だったのです。
 それとは対照的に、イエス様は人を肉によってさばかない、決して上っ面で判断しない。もし人をさばくにしても、ご自身のさばきは正しいと断言されました。しかも、イエス様ならそう言い切って終わりで良かったのに、律法を重んじるパリサイ人のレベルに合せ配慮されたのです。即ち、わたしのさばきはわたし一人でなく、わたしを遣わした父のさばきでもある。二人の共同作業、二人の証言だから、あなた方が重んじている律法にも適っているではないかと念を押しています。
しかし、恩を仇で返すとはこのことか。彼らはイエス様の言う父が人の目に見えない神であることを承知の上で、「あなたの言う父とやらが証人だというなら、どこにいるのか。ここに連れてきてみろ」と言い返したのです。イエス様のご配慮に皮肉を返すエリートの厭らしさでした。

8:19,20「すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕えなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。」

「もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」「天の父のことを本当に知りたいと思うなら、わたしを知るようにしなさい。心開いてわたしのことばを聞き、わたしを信じ、わたしと交わりなさい。そうすればあなたがたも天の父を知ることができるのに。」ご自分を捕えようとする敵のために、ことばも心も尽くすイエス様のお姿です。
ところで、皆様は日本を訪れる外国人の多くが食堂やレストランに入る時、何に驚き感動するのか、ご存知でしょうか。食堂やレストランの入り口にあるガラスケースの中に並べられている食品模型だそうです。
ラーメンそっくりのラーメン模型。カレーライスそっくりのカレーライス模型。カツ丼そっくりのカツ丼模型。入り口にある模型をみれば本物が分かる。自分の国には無い、本物そっくりの模型に驚く外国人は、ここまでお客様のために尽くす日本人の親切に感動するのだそうです。
イエス様は地上に現れた神様の模型。イエス様を見れば、イエス様を知れば天の神様を知ることができる。「あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」イエス様を知ればご自身が分かるように、イエス様を地上に届けてくださった神様。この神様の愛、神様の親切に感謝したいところです。
続くは論争の第二段、ご自身を拒む者にイエス様のことばも少しきつめに響きます。

8:2124「イエスはまた彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「あの人は『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない。』と言うが、自殺するつもりなのか。」
それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」

「わたしは去ってゆく。その時になってわたしを捜しても遅い。今のうちに悔い改めなければ自分の罪の中で死ぬ。わたしが行く天にあなた方は来ることができない。」これは、「わたしの証しを聞いて、わたしを信じて救われる機会はいつまでも続かない。今罪を悔い改め、わたしを信ぜよ。」とのイエス様渾身のメッセージでしょう。
それが証拠に、「あなたがたは下から来た者、この罪の世に属する者、わたしは上から来た者、この罪の世に属する者ではない」と言われたイエス様は、「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」と信じて救われる道を示されたのです。
「わたしのことを信じなければ」ということばは「わたしを神と信じなければ」との意味だと考えられてきました。つまり、イエス様はそれを言ったら死刑になるだろうことばを、ご自分に敵対する人々のために語られたのです。
それなのに、イエス様の心を人は知らない、思わない。「わたしが行く所にあなたがたは来ることができないなんて、こいつはどこかに逃げて自殺でもするつもりか。」そう嘲るのです。それでいながら、「あなたはだれですか」等と、またもことば尻を捕えイエス様を逮捕しようとするユダヤ人。「もう、こんな人々のことは放っておきましょう、イエス様。」と私たちでさえ感じるのに、イエス様は尚も尊い証しを続けられます。

8:2527「そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれですか。」イエスは言われた。「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです。わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった。」

今まで散々イエス様の教えを聞き、奇跡を見てきたはずのユダヤ人。イエス様は天の父から聞いたことをそのまま語る忠実な神の子であることを何度も目撃してきたはずなのに、この期に及んでなおも天の父のことが分からない頑固な人々。それでも、イエス様の証しは続きます。罪人に仕えるしもべ、イエス様の忍耐は尽きることなしでした。

8:2830「イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」
イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。」

 「あなた方ユダヤ人が人の子であるわたしを十字架の木に上げ、その結果わたしが天に上げられると、あなたがたはわたしが何であるか、つまり神であることを知るようになる。」最後まで、ご自分が神であること、天の父と一心一体の神の子であることを説き続けたイエス様の忍耐はようやく報われたかに見えます。「多くの者がイエスを信じた」とあるからです。
 そして、私たちも漸くイエス様が何故ここまで徹底的に忍耐を尽くして、ご自分についての証言、証しを繰り返してきたのか。その理由が分かるような気がします。
 それは、イエス様を信じるか否か、従うか否かが私たちの人生に決定的な違いをもたらすことをご存知だったからです。イエス様のことばはご自分を高くするためではなく、罪人であるユダヤ人や私たちの救いのためでした。今日の聖句です。

 ヨハネ812「・・・わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
 
 聖書において闇は罪の支配する心を表します。光は神様のシンボルですから、いのちの光とは神様の命と言って良いでしょう。イエス・キリストに従う者は、決して罪の中を歩むことなく、平安と愛が支配する神のいのちを持つ。
 キリストは私たちにご自分を信じるか否か、従うか否か。二つに一つを迫るお方です。信じること、従うことは神のいのちをもつこと、信じないこと、従わないことは罪の中で死ぬこと。どらでもない中立の立場は無いと言うことです。
 先程から信じる事と従う事を同じ意味で使っていますが、これは聖書が本当に救われ、神のいのちを得る信仰とはキリストに従うことと教えられているからです。
 例えて言うなら、荒海の中で溺れかけているかなづちの人がいます。そこに救助者が近づいてきて、「さあ、私にすがれ!」と命じます。それでもおぼれてしまう人には二つのタイプがあります。ひとつは、救助者を見ても「この人が私を助けてくれるとは思えない」と考え、すがろうとしない人です。同じ様に、イエス・キリストを神の御子、救い主と認めない人は救われません。
 ふたつめは、「この人は私を助けてくれる人だ」と頭では理解していますが、実際にすがろうとしない人です。「私にもプライドがあります。自分で努力してみます。」とか「私のために別の助け手が来るかもしれない。」と思っているうちに彼らも溺れます。
 それでは、どういう人が荒海から助かるのか。救助者を信頼しすがりつく人、素直に従う人です。同じ様に、罪の荒海から救われ、神様のいのちをもつのは、イエス・キリストにすがりつき、従う人なのです。
 この世には光と輝き私たちを助けてくれるように思われる富、名声、地位、様々な娯楽、快楽などがあります。これらの物自体は悪ではありません。しかし、これらのものを人生の目的としたり、人生の助けとしてすがりつく限り、私たちの心は満たされず、罪の中を歩み続けるのです。そういう意味で、私たちは心から信頼しすがりつくものを間違わないようにしたい。イエス・キリストに従い与えられる神のいのちだけが私たちの心を平安と愛で満たすことのできるものであることを確認したいと思います。
最後にもうひとつ。キリストに従い続けるのは簡単なことではありません。キリストに従わない時、私たち何に従っているのか。自分の思い、自分の願い、自我です。つまり、信仰生活はイエス・キリストに従うか、それとも自分に従うか。日々戦いと言う面があります。
 しばしば、私たちにとって自然で心地よく感じられるのは自分に従うことです。イエス・キリストは私たちが人を赦せないと思う時、赦せと命じます。こんな苦しい状況から抜け出したいと願う時、そこで人に仕えることを学べと命じます。感謝することなど見当たらないと感じる時、感謝し喜べと命じます。

 自然に自分に従ってしまう私たちがイエス・キリストに従うには、日々神様の愛に憩い、神様と交わり助けられることが必要です。しかし、イエス・キリストに従うことを選び続ける時、私たちの心は神のいのちに満たされてゆく。そのことを覚え、心からキリストに従うものと私たちなりたく思います。