2013年9月15日日曜日

詩篇146篇「いのちのあるかぎり」

 60歳は還暦、70歳は古希、77歳は喜寿、80歳は傘寿(さんじゅ)、88歳は米寿、90歳は卒寿、99歳を白寿として、長寿をお祝いする。語呂合わせや言葉遊びの要素も多分にありますが、一体全体、この様な国が他にあるのだろうかと思うほど、日本人は昔から長寿を祝うことを大切にしてきました。
しかし、長寿を祝うことにおいては聖書も負けてはいません。むしろ、ただ長寿を祝い喜ぶだけでなく、長寿を命の源である神様の祝福と考え、神様に感謝し礼拝することを勧める聖書こそ、本当の意味で長寿を祝う心を育てるものと言えるでしょう。
長寿を神様の祝福と教える聖書の箇所はさまざまにありますが、もしこの一箇所をと言われれば、是非あげておきたいのが有名な十戒の第五戒です。

出エジプト2012「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」

神様の戒めは私たちを縛り、苦しめるためのものではない。反対に神様が戒めを与えられたのは、私たちに長寿という祝福を与えんがためでした。「あなたの齢が長くなるためである」との約束のことばに、そのような神様の愛を覚えるところです。
「あなたが父と母を敬うことは、あなたの父母のためだけでなく、あなた自身の幸いな長寿のため」と教えられると、父母を代表とする目上の人、年配の人すべてを愛し、敬うことの大切さが俄然心に響いてきます。
つまり、長寿をお祝いすることは、どれだけ今現在私たちが敬老の心をもって父母をはじめとする年長者に接しているかを問われることでもあったのです。
しばしばキリスト教は家族を大切にしない。親を敬わない、自分の親よりも神様を大切にすると批判されます。しかし、その神様が「あなたの父母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるため」と命じ、長寿の約束まで与えてくださっているのですから、その様な批判は大いなる誤解でした。
ですから、聖書は敬老の勧めで満ちています。一例を挙げればこのようなことばがあります。

レビ記1932「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。・・・」

私たちの教会には敬うべき人生の先輩、年長者の兄弟姉妹がたくさんおられます。70歳以上の兄弟姉妹が60名。本当に私たちの教会は祝福されていると感じます。神様に信頼し、御心に従って生きてこられた方、その結果長寿の祝福を受け取られた方々がこんなにも大勢いる。こんなに嬉しいことはない。これら兄弟姉妹は四日市キリスト教会の宝物。このような教会で仕えられる私は幸せな牧師だと思います。
しかし、こうして毎年敬老の心を確認することには意味があります。
老父ヤコブのために心を砕く孝行息子のヨセフ。義理の母ナオミにどこまでもついてゆき、仕えた嫁のルツ。
聖書にはこのような良い模範もありますが、悪い模範もあるからです。イスラエル王国の最盛期に君臨したソロモン王の息子レハブアムという人は、自分にとって厳しいことばを語る老人老臣を退け、幼馴染で取り巻きの若者のことばに耳を貸したため政治を誤り、国を二つに割ってしまいました。
年配者を敬い、そのことばに耳を傾けるのか。それとも、鬱陶しい存在として遠ざけるのか。それが、人生を大きく変える可能性があることを思うと、常日頃から敬老の心を抱いて生活することの大切さを教えられるのです。
以上、聖書が長寿を神様の祝福とし、敬老の心を持って生きるよう教えていることを、私たち確認しました。
しかし、長寿は祝福だとしても、ただ命が長ければそれで良いのか。長寿そのものが、生きながらえること自体が人生の目的となって良いのか。その様なことも、聖書は私たちに問いかけていました。それが、今日の詩篇146篇です。

詩篇1461,2「ハレルヤ。私のたましいよ。主をほめたたえよ。私は生きている限り、主をほめたたえよう。いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を歌おう。」

詩人は「生きているかぎり」「いのちのあるかぎり」と、自分の年齢に限りがあることを自覚しています。
その上で限りあるいのちを他の人はいかにもあれ、私は主をほめたたえるために使おう、神様にほめ歌を歌うことにささげようと心からの告白をしているのです。
果たして私たちは自分の年齢にかぎりがあることをどれだけ自覚しているでしょうか。たとえ自覚したとしても、「いのちのあるかぎり」、このいのちを使って何をしようとしてきたでしょうか。
無病息災、家内安全、商売繁盛、できる限りお金がたまるように、できるだけ病気にならないように、もし病気になったらできるだけよい病院に入れるように、死んでも命がありますように。
そんなことで尽きていたものが、真の神様を知ってからは「私は生きている限り、主をほめたたえよう。いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を歌おう。」と変えられた。本当の命の使い方、自分が生かされていることの意味が分かった詩人の、この感動の告白に私たちは賛成し、同意できるでしょうか。
しかし、こんな詩人の思いもこの世のものに頼り、裏切られ、痛い経験を散々積み重ねた上でのものだったようです。「君主」は文字通りには地上の王様のことですが、王様に代表される、この世において私たちをして頼みにしたいと思わせる力あるもののシンボルとも考えることもできるでしょう。

1463,4「君主たちに頼ってはならない。救いのない人間の子に。霊が出てゆくと、人はおのれの土に帰り、その日のうちに彼のもろもろの計画は滅びうせる。」

アレクサンダー大王も、織田信長や豊臣秀吉も、彼らの栄耀栄華はその死とともに潰えて消え去りました。現代でも、この大統領なら、この人が大臣なら、この党が政権についたら社会が良くなると期待された政治家、政党が、何度庶民の夢を打ち砕き、消えていったことか。
王様や政治家だけではありません。財産、地位や名誉、能力や健康など、頼りになるものと教えられ、そう信じてきたこれらのものがいかに変わりやすく、移ろいやすいか、いかに頼りにならないものか。年齢を重ねると共に、その思いは深くなります。
そのような経験を通して、詩人の思いは「真に頼るべきは主なる神のみ」と一本になっていったのでしょう。

146510「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は。主は天と地と海とその中のいっさいを造った方。とこしえまでも真実を守り、しいたげられた者のためにさばきを行い、飢えた者にパンを与える方。主は捕われ人を解放される。主は盲人の目を開け、主はかがんでいる者を起こされる。主は正しい者を愛し、主は在留異国人を守り、みなしごとやもめをささえられる。しかし主は悪者の道を曲げられる。主はとこしえまでも統べ治められる。シオンよ。あなたの神は代々にいます。ハレルヤ。」

幸いなのは、人間とこの世のものにより頼む者ではなく、主なる神を助けとし、望みを置く者。なぜなら、主なる神こそ天と地と海とその中のいっさいを造ったお方、すべての人にとって平和で幸いな世界を打ち建てることのできる方と詩人は語ります。
もちろんこのような世界が完全に実現するには、イエス・キリスト再臨の日を待たねばなりません。しかし、イエス・キリストが地上に来られた時からこのような世界が始まったことを、私たち確認することができます。
イエス・キリストは虐げられた者を助け、飢えた者にパンを与え、捕われ人を解放し、盲人の目を開け、体の不自由な者を健やかにし、孤児ややもめなど社会的弱者を守られました。そして、今も私たち教会を通して、このようなわざを行っておられるのです。
神様のみ力と人間に対する愛とに心動かされた詩人は、自分もまた愛をもって隣人に仕えることを御心と覚え、与えられた命をそのために用い、ささげたと思われます。
さて、この詩篇を読み終えて、私たちの心に残るのは最初のことばです。「私は生きているかぎり、主をほめたたえよう。いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌おう。」
このことばを通して分かることは、詩人はただ長寿を、この世に生きながらえることを願っているのではなく、与えられた命を神様をほめたたえるために使いたい、使いきりたいと心から願っていることです。その様な生き方こそ人間として最も幸いな生き方だと確信していることです。
ただ長寿を、生きながらえることを願う時、私たちは様々なものに頼って、自分の命を守る姿勢に入ります。しかし、自分が頼りとするものを守ろうとすればするほど、思い煩いも増えてゆきます。
財産を守ろうとして財産について思い煩い、地位や名誉を守ろうとしてあれこれと心配をする。健康を守ろうとするあまり、健康について思い煩う。人に頼るとその人の自分への評価が気になって思い煩う。
つまり、自分の命を守ろうとする生き方には思い煩いが付きまとって離れないということです。普通人間にとって一番大切なものは自分の命。だからこそ、常に命を守ることを第一に考えます。
しかし、自分の命よりも神様を大切に思い、神様のために命を使うことを大切にするなら、その人は本当に幸いだとこの詩篇は教えているのです。何故なら、神様を大切に思い、神様のために命を使えば使うほど、私たちは思い煩いから解放され、自由になり、人としてあるべき生き方に近づけるからです。これがいのちあるかぎり主なる神様をほめたたえることでした。
最後に、いのちあるかぎり主なる神様をほめたたえる生き方とは、具体的にどういうことなのか。三つのことをお勧めしたいと思います。
ひとつめは、日々みことばを聞き、神様に愛されている者として生きることです。年を重ねれば重ねるほど失うものがあります。社会的立場、働き盛りの収入、仕事仲間、健康、記憶力、愛する人などです。
その様な中、自分は社会に、家庭に必要とされているのか。足手まといではないのか。心細い、肩身の狭い思いを感じる時もあるでしょう。しかし、たとえ世間が冷たくても、この世界を創造した神様はこう言われます。

イザヤ434「わたしの眼に、あなたは高価で、尊い。わたしはあなたを愛している。」

年を取っても、地位を失っても、能力が衰えたり、病に臥せったりしても、そんな自分を自分自身が嫌になっても、神様は私たち一人一人の存在を心から大切に思い、かけがえのない存在と思っていてくださる。だから神の御子イエス・キリストが十字架で私たちの罪のため死んで下さった。この神様の愛を喜び、神様に愛されている者として日々歩むこと、歩み続けること。これをお勧めします。
二つ目は、できる限り教会で神様を礼拝し、信仰の友と交わることです。私たちにはただのひとりで信仰の生涯を歩み続ける力はありません。教会で神様を礼拝し、賛美することには特別な祝福があります。同じ神様を信じる兄弟姉妹と礼拝する時、私たちはより神様を身近に感じることができるのです。
年を重ねると閉じこもりがちになる心を神様に向けて開き、神様の愛を思い、考えることで、私たちの心は新たになります。年齢ゆえに体調や病のため休むことがあったとしても、健康が許される限り教会での礼拝を守り続けることをお勧めします。
三つ目は、神様の愛を頂いた者として、苦しむ者、飢えた人、不当な扱いを受けている者、体の不自由な方々、社会的に弱い立場にある人々に心を配ることです。
自分が生かされ、守られてきた家庭、教会、社会を少しでも良くして天の御国を目指すということです。神様がみもとに召されないということ、この世に生きることを許しておられるということは、私たちに周りの人々を良くする能力、使命があるということではないでしょうか。

敬愛する人生と信仰の先輩である兄弟姉妹たち。皆様のご長寿を心からお祝いします。どうか、皆様がその尊い命を神様に喜ばれることのために使い、ささげることができますように。主なる神様をいのちのかぎりほめたたえることができるように願い、祈りたいと思います。