人生で大きな決断をする時、悩みのうちにある時、何をどうしたら良いのか分からない時。どのように決断したら良いのか。何に取り組んだら良いのか。どのように生きたら良いのか。私たちは神様に聞きます。朝起きて、今日一日をどのように生きたら良いのか。私たちは神様に聞きます。
この世界を創り、支配されている方と共に生きることが出来るというのは、私たちクリスチャンの大きな特権です。とはいえ、私たちが神様に聞くという時、神様から声が聞こえてくるというわけではありません。(絶対に無いというのではなく、今の時代はそれ以外の方法がとられていると考えます。)
聖書を開きますと、神様が人間に語りかける場面が出てきます。神様が直接語られる、御使いを通して語られる、預言者を通して語られる。神様から語りかけられる場面もあれば、人間が神様に問いかけ、それに答えられるという場面もあります。少し羨ましく感じます。学校を選ぶ時、仕事を選ぶ時、結婚を考えている時。仕事を辞め第二の人生を選択する時。神様から、あの学校に行けとか、あの仕事に就けとか、あの人と結婚するように、これをしなさいと言われたら、楽なように感じます。苦しみや悲しみで、解決が見えない時。こうしたら良いと、神様から具体的な解決案が提示されたら、楽だと思います。
何故、聖書には神様から直接的な語りかけの場面が記されているのに、私たちは同じように直接的な語りかけを聞くことがないのでしょうか。それは、今は神の言葉である聖書が完成しており、またキリストを信じる者には、聖書から全てのことを教えて下さる聖霊(ヨハネ14章26節等)なる神様が与えられているからです。私たちが決断をする時、悩む時。一日をどのように過ごすべきなのか、神様に聞きたい時。私たちは、祈りと聖書を通して、神様からの語りかけを聞くのです。
このように確認しますと、私たちが本当に神様の御心を求めるのならば、本心から神様に従いたいと考えるならば、欠かすことが出来ない、どうしても必要なのは、聖書を読むということです。それも特定の箇所、自分の好きな箇所だけを読むというのではなく、聖書全体から、神様がどのようなお方なのか、私たちは神様の前でどのように生きるべきなのか、考え続けることが必要です。
いかがでしょうか。皆さまは聖書を読むことに取り組んでおられるでしょうか。読めない日があること、読む気力がなくなることは、度々起こるのですが、それでも聖書を読み続ける大切さを覚えつつ、何度でも取り組みたいと願っています。
このようなことを考えまして、取り組んでいます一書説教。これまで断続的に行ってきましたが、今日は十一回目。旧約聖書第十一の巻、第一列王記となりました。
列王記。サウル、ダビデの後に続くイスラエルの王たちの活躍や失敗の記録です。多くの人、多くの出来事が記され、馴染みのない名前や地名の連続で、読みにくいと感じるか。あるいは、歴史、政治、戦物が好きな方は、興味深く読むことが出来るか。どちらにしろ、一書説教の際は、説教を聞いた後で、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。
さて、第一列王記を読み進める前に、その背景を確認しておきたいと思います。神の民として選ばれたイスラエル民族。神の民としての使命は、その生活を通して、人間のあるべき生き方、神様との関係を全世界の人々に示していくというものでした。イスラエルの民は、カナンの地で暮らすようになり、そこで神様に従う生き方をすることが使命でした。
このイスラエル民族に王が立てられるようになる。それが先に確認しました、サムエル記に記されていたことです。神様に従うことが使命とされている民に立てられし王。王の役割は、民が神様に従うことを導くこと、国全体としてそれに取り組むことが出来るようにすることでした。初代王サウルは、この点で失敗。神様に従うことよりも、自分の思い、自分の考えを優先させてしまった。残念な姿が記録されていました。二代目のダビデは、神様に従うことに取り組み続けた人生。大きな失敗もありましたが、その都度悔い改めては、神様に従うことに取り組むことをした王。
このダビデに続く王たちの記録が列王記となります。その活動が多く記されている王もいれば、具体的なことは殆ど記されていない王もいます。全ての王、全ての出来事に注目出来れば理想的ですが、時間の都合で、この一書説教では三人の王に注目します。主に前半に記されているソロモン、中盤のヤロブアム、後半のアハブの三人です。
まずはソロモンです。ダビデの子、それもあのバテ・シェバの子、ソロモン。その活躍は凄まじく、記されている分量も多く、一章から十一章まで主にソロモンの記録となります。特筆すべきは、その繁栄ぶり。ソロモンが王であった時は、イスラエル王国の歴史で最も繁栄した時代。イエス様もソロモンを指して、栄華を極めたと言われた程です。何故、それ程の繁栄を見せたのか。その理由が、三章に出てきます。
Ⅰ列王記3章5節
「その夜、ギブオンで主は夢のうちにソロモンに現われた。神は仰せられた。『あなたに何を与えようか。願え。』」
もし神様にこのように問われたら、自分ならば何と答えるのか。
実際に、ソロモンは何と答えたのか。国を治めるための知恵を求めたのです(Ⅰ列王記3章9節~10節)。神の民の王として何が必要なのか考え、自分に与えられた使命を果たすための力を神様に求める。信仰者として見習いたい姿。
知恵を求めたというのは、神様の喜ばれることであり、その結果、ソロモンは大変な知恵を頂くと同時に、更に富と誉も与えると約束をもらいます。ソロモンの繁栄の理由はここにあると聖書は記すのです。
ソロモンが神様に知恵を願った結果、その知恵、富は非常に有名なものとなり、国の内外を問わず、多くの人がソロモンの知恵を聞きにきたと記録されています(Ⅰ列王記4章34節)。詳しい出来事もいくつか記録されており、二人の女性が、一人の子を、これは自分の子どもだと主張する事件。シェバという国の王女が、ソロモンのもとを訪れ、あまりの凄さに息が止まりそうになったという記事。ソロモンの知恵と富は、私たちが想像出来ない程のものだったのでしょう。
この知恵と富を用いてソロモンがなした一大事業が、神殿を建てることでした。父ダビデは建てることが許されなかった神殿をソロモンが建てる。これ以降、ソロモンがエルサレムに建てた神殿が礼拝の中心地となります。
神様に知恵を求めた純粋さ。神殿を建て上げた信仰。知恵、富、誉に満ちたソロモン。ソロモン程、神様に従うことの重要性と意味を理解していた人物はいないと思われるところ。しかし、その晩年に大きな失敗があります。
Ⅰ列王記11章3節~6節
「彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。こうしてソロモンは、主の目の前に悪を行ない、父ダビデのようには、主に従い通さなかった。」
稀代の英雄、大王ソロモンですが、女性の問題に落ち込んだ。ソロモンは多くの政略結婚をし、平和を保っていましたが、その妻や妾から異教の神々の影響を受けたのです。このソロモンに神様は二度現われて、注意をしたにもかかわらず、その神様の命令に従わなかったといいます。残念無念。
その結果、神様はこのソロモンの国を引き裂くと宣言されました。
Ⅰ列王記11章11節~13節
「それゆえ、主はソロモンに仰せられた。『あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約とおきてとを守らなかったので、わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたの存命中は、そうしないが、あなたの子の手からそれを引き裂こう。ただし、王国全部を引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与えよう。』」
神様の宣言通り、ソロモンの死後、国は南北に割れます。これ以降、二王国時代となる。一般的に、北の国を北イスラエル、南の国を南ユダと呼びます(聖書の記述は、北の国をイスラエル、南をユダとだけ記されます)。
ところで、覚えておられるでしょうか。先に読みました第二サムエル記にて、神様がダビデに約束していたことがあります。それは、ダビデの家、ダビデの王座は堅く立つ(Ⅱサムエル記7章16節)というもの。(最終的には、イエス・キリストにおいて成就するものですが)この約束のため、ダビデの血筋が王を引き継ぐことになるのですが、それは南ユダで実現します。北イスラエルは、ダビデとは異なる家系が王となる。
そうしますと、北イスラエルより南ユダの記録の方が重要なのではないかと思うのですが、第一列王記はどちらかと言うと、北イスラエルの王に多くの記事を割きます。
ソロモン王の後、南北に分裂した後、ソロモンの後を継ぐのは南ユダのレハブアム。それに対して北イスラエルに立つ王は、ヤロブアム。この一書説教ではヤロブアムに焦点を当てます。
イスラエルが南北に分裂し、北イスラエルを治めるヤロブアムには大きな問題がありました。何が問題だったのか。皆さまは何だと推測するでしょうか。ヤロブアム自身の思いが聖書にこのように記されていました。
Ⅰ列王記12章26節~27節
「ヤロブアムは心に思った。『今のままなら、この王国はダビデの家に戻るだろう。この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえをささげるために上って行くことになっていれば、この民の心は、彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、私を殺し、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。』」
北イスラエルを治めるヤロブアムの抱えた問題。それは、南ユダの領土エルサレムに神殿があったということです。礼拝の度に、北イスラエルの民が神殿に行くと、いつか南ユダへの思いが強くなり、謀反が起こる。このままでは国として成り立たないと心配したのです。
仮に、もし皆さまがヤロブアムの立場だとしたら、この問題をどのように解決したでしょうか。実際にヤロブアムがなした政策が聖書に記されています。
Ⅰ列王記12章28節、31節、33節
「そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。『もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。』・・・それから、彼は高き所の宮を建て、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。・・・彼は自分で勝手に考え出した月である第八の月の十五日に、ベテルに造った祭壇でいけにえをささげ、イスラエル人のために祭りの日を定め、祭壇でいけにえをささげ、香をたいた。」
北イスラエルの民が、エルサレムにある神殿に行かないように、ヤロブアムがなしたこと。それは自分勝手な礼拝を計画することでした。神殿にある神の箱の代わりでしょうか、金の子牛を作り、これこそ私たちの神様だと宣言。勝手に祭司を任命し、祭り・礼拝の日付けも自分で決めた。聖書が禁じている方法で、聖書の神様を礼拝するようにした。それはつまり、聖書が教えていることよりも、政治的思惑を優先させたということです。この自分勝手な礼拝は、ヤロブアムだけのことではなく、これ以降、北イスラエルの王が踏襲していきます。
この自分勝手な礼拝は、ひどい悪、罪として覚えられ、聖書の中で何度も、「ヤロブアムの罪」という言葉で表現されるもの。その結果、ヤロブアムとその一族に対する裁きは厳しいものであり、また「ヤロブアムの罪」を踏襲していく北イスラエルの王に対する裁きも同様に厳しいもの。結果として、北イスラエルは長らく続く王朝はなく、謀反、造反の繰り返しで、王が次々に変わる歴史を歩むことになります。
そのような中、北イスラエルの王に最悪と呼ばれる王が立つことになる。アハブです。アハブのしたことは、「ヤロブアムの罪」が軽いとされるもの。
Ⅰ列王記16章30節~31節a
「オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目の前に悪を行なった。彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。」
アハブは、彼以前のだれよりも悪かった。ヤロブアムの罪が軽く見える程だと言われます。アハブは一体、何をしたのか。
これまで王が続々と変わり、混乱していた北イスラエルを建てなおすために、アハブが取り組んだことの一つに、シドン(フェニキア地方)と同盟を結ぶというものがありました。
シドンという国は、北王国より更に北にあります。高い文化、高い技術力を持った国。技術力はあるも、高地にあるため、食糧難に陥りやすい国。対してアハブの治める北イスラエルは、文化面、技術面でシドンより劣るものの、食糧を得るには適した土地がある。シドンの高い文化、技術力と、北イスラエルの食糧。どちらの国にも、この同盟は有効的でした。
アハブはシドンと手を組みました。政略結婚をし、シドンの王女イゼベルという妻を迎えます。結果として、アハブは、高い文化、技術力を手にします。事実、物質的には、北王国は繁栄しました。この世の評価であれば、アハブは大王。良い政策を打ち出し、成功させた王。しかし、同時にシドンで流行していた、バアル宗教が北イスラエルにもなだれこんできた。アハブは首都サマリヤにバアルの宮を建て、自身もバアルに仕え、拝んだと記されます。
つまり、アハブの罪というのは、国を豊にするために、聖書の神様を捨てて、バアル宗教を取り入れたこと。これまでの王は、勝手な礼拝や、金の子牛を使いながらも、それをもって聖書の神に対する信仰を持っていました。ヤロブアムの罪です。
しかし、アハブは、ヤロブアムの罪以上のことをした人。聖書の神を捨て、バアルという異教の宗教を国に取り入れた人物。アハブの罪とは、異教を取り入れたこと。政治的、経済的利益のためならば、何でもするという態度。だから、聖書は「彼以前の誰よりも主の目の前に悪を行った」人物として評価するのでした。
このアハブの時代に、神様は北イスラエルに有名な預言者を送られました。エリヤです。預言者の中でも際立つ働きをした人物。預言者の中の預言者。預言者として一番有名、預言者の代表格と言っても過言ではない人物。アハブとの手に汗握る攻防、その具体的な活躍は、是非聖書を読んで確認して頂きたいと思いますが、そのエリヤが、最悪の王、アハブの時代に北イスラエルで活躍したということに、神様の恵みを覚えます。人間は、神様を捨てるのに、神様は人間を見捨てない。
ところで、このアハブの記事で重要な記録があります。アハブは散々悪事を働くのですが、ある時、エリヤの糾弾の声に悔い改めることがあります。アハブの悔い改め。それに対する神様の言葉が、非常に印象的です。
Ⅰ列王記21章27節~29節
「アハブは、これらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に荒布をまとい、断食をし、荒布を着て伏し、また、打ちしおれて歩いた。そのとき、ティシュベ人エリヤに次のような主のことばがあった。『あなたはアハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間は、わざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。』」
アハブでも悔い改める時に、裁きが回避されるという記事です。あのアハブですら、悔い改めれば、裁きが回避される。驚くと同時に、いやこれこそキリスト教という場面。罪が示された時、悔い改めることがどれ程重要なことなのか。よくよく教えられる場面の一つです。
以上、第一列王記を三人の人物に焦点を当てて概観しました。最後に二つのことを確認して終わりにしたいと思います。
一つは人間の不真実さです。ソロモン、ヤロブアム、アハブ。それぞれ大きな恵みを頂きながら、神様に従うことをしない。不真実さが目につきます。神様との関係において徹底的に不真実。「義人はいない」(ローマ3章)「彼らは腐っている」(詩篇14篇)という言葉が聞こえてくるところ。その結果、自分も、神の民にも、自分たちの子孫にも多大な悪影響を与えることになる姿を確認しました。くれぐれも、神様に従うことを止めないように。自分の思いを聖書より優先させることのないようにと教えられます。
そして人間の不真実さを覚えると同時に、もう一つ覚えたいのは、神様の真実さです。それぞれ不真実な姿を晒す王たちに、神様は直接語りかけることも、預言者を通して語られることもします。もう見捨てても良いのではないかという場面でも、粘り強く、人間を導こうとされている神様の姿を再確認出来ます。これが、私たちの神様の姿。私たちがどのような者であろうとも。たとえ、神様に対して不真実を尽くす者であったとしても、私たちに語りかけ、導こうとされる神様。この神様の愛、真実さを、忘れないように。私たちの日々の生活で、この神様の語りかけ、導きに応じる者でありたいと思います。
今日の聖句です。詩篇33篇4節
「まことに、主のことばは正しく、そのわざはことごとく真実である。」