2013年9月29日日曜日

「分からずとも」 創世記37:12~28

 私の説教の際、断続的に一書説教を行っています。六十六巻ある聖書のうち、一つの書をまるごと扱う説教。そして説教を聞いた後は、是非扱われた箇所をお読み下さいとお伝えしてきました。
先週が第一列王記。いかがでしょうか。第一列王記を読むことに取り組まれていますでしょうか。先週の説教の後、ある方が「これまでさぼってきたので、まだ列王記に到達していません。このままでは、どんどん遅れそうです。」と声をかけて下さいました。その方に申し上げたのは、「これまでのことは置いておき、とりあえず第一列王記を読むことをお勧めいたします。」ということです。説教を聞いた後で、その記憶があるうちに実際にその箇所を読むと、より理解が深まると思います。まだ取り組まれていない方は、どうぞ第一列王記を読むことをお勧めいたします。
ところで、第一列王記以外にも皆さまに読んでもらいたい箇所があります。それは週報とともに配布しております祈祷表にある聖書通読の箇所です。一書説教の度に、聖書を読むことが勧められるのに、それとは別の箇所が祈祷表に載っている。これでは、どちらを読んだら良いのか。混乱されている方がいらっしゃるでしょうか。お勧めしたいのは、どちらも読むことです。一書説教の際には、扱われた書を。それと同時に祈祷表の箇所も。どちらも読むことをお勧めいたします。「礼拝説教であの牧師は聖書を読むことばかり勧めてくる。」と言われそうですが、その通り。そればかり勧めているのです。愛する四日市キリスト教会が、聖書を読むという点でも強き教会になることを強く願っているところです。
 このようなことを考えまして、今日の説教で扱いますのは、祈祷表に載っている昨日の聖書箇所、創世記三十七章としました。祈祷表に従って聖書を読んでいる方には、同じ箇所から私がどのようなことを考えたのか分かち合うことになります。読んでおられない方は、これを機に、続く章から読み進めて頂ければと思います。

 創世記三十七章はヨセフが兄弟たちに奴隷として売られる記録。創世記はアブラハム、イサク、ヤコブと人物に焦点を合わせて記事が進められていますが、ヤコブの子どものうち、主にヨセフに焦点が当てられるところ。
 ヤコブの子どもは、男子で十二人いましたが、なぜヨセフは兄弟に嫌われ、奴隷として売られることになったのか。その原因は、父ヤコブが子どもたちの中でも、特にヨセフを愛し、特別な扱いをしたからでした。またヨセフはヨセフで、そのことを鼻にかけていた節があります。兄弟たちは父の寵愛を受けているヨセフが気にくわなかった。ある意味で、その嫉妬、怒りは当然のことでした。
ヨセフはエジプトに奴隷として売られ、その後、冤罪で囚人となる。ところがその後でエジプトの大臣となる。おそらくは聖書中、最も劇的な人生を送ることになる人。「事実は小説より奇なり」という言葉を地でいく人。このヨセフの生涯は、創世記後半の山場となりますが、今日はそのヨセフの劇的な人生の幕開けとなる記事となります。

 創世記37章12節~14節
「その後、兄たちはシェケムで父の羊の群れを飼うために出かけて行った。それで、イスラエルはヨセフに言った。『おまえの兄さんたちはシェケムで群れを飼っている。さあ、あの人たちのところに使いに行ってもらいたい。』すると答えた。『はい。まいります。』また言った。『さあ、行って兄さんたちや、羊の群れが無事であるかを見て、そのことを私に知らせに帰って来ておくれ。』こうして彼をヘブロンの谷から使いにやった。それで彼はシェケムに行った。」

 ことの発端はヨセフの兄たちが羊の放牧から、なかなか帰ってこなかったことです。父ヤコブは、子どもたちが帰ってこなかったことを心配します。何しろ、行き先はシェケム。シェケムと言えば、先に問題が起こり(三十四章)、危険があるためにその場所には住めないと考えた土地です。子どもたちに何かあったのではないか。心配したヤコブが、様子を見てきてほしいと、ヨセフを使いに出すのです。ヨセフは「行きます。」と答えて、シェケムに向かいました。
(考えてみますと、兄たちは羊飼いの仕事をし、ヨセフは父のもとにいた。これも、ヨセフが特別扱いを受けていた一つのことと見ることが出来ます。)

 すると何が起こったのか。
創世記37章15節~17節
「彼が野をさまよっていると、ひとりの人が彼に出会った。その人は尋ねて言った。『何を捜しているのですか。』ヨセフは言った。『私は兄たちを捜しているところです。どこで群れを飼っているか教えてください。』するとその人は言った。『ここから、もう立って行ったはずです。あの人たちが、『ドタンのほうに行こうではないか。』と言っているのを私が聞いたからです。』そこでヨセフは兄たちのあとを追って行き、ドタンで彼らを見つけた。」

 ヘブロンからシェケムまでは約八十キロ。頑張って一日。普通なら二日の道のりでしょうか。ところがシェケムに行ったヨセフは、兄たちを見つけることが出来ず、その地をさまよいました。すると見知らぬ人に声をかけられ、兄たちはドタンの方に行ったと聞く。ドタンは北に約三十キロ。そこでドタンへ向かい、もう一日分歩いて、兄たちに会ったという記録。何の変哲もない。普通の記録。しかし、この記録は少しおかしくないでしょうか。気にならないでしょうか。
 通常、記録というのは出来事の全てを記すことはしません。重要なことだけを記します。実際このヨセフの記録でも、シェケムの状況とか、この時の天候とか、ヨセフに声をかけた人の名前など、記録されていません。創世記の著者が、それらは重要ではないと判断したからでしょう。
 しかし、重要かどうかという視点で言うならば、この十五節から十七節全部が、重要でないように感じます。「ヨセフはシェケムに行ったがそこに兄たちはいなく、ドタンで兄たちに会った。」と記せば十分。それが、ヨセフがさまよったことや、見知らぬ人との会話が記録されるのです。何故でしょうか。皆様が映画監督で、創世記三十七章を撮るとしたら、わざわざ、このシェケムの場面を撮影するでしょうか。この十五節から十七節に重要な意味があるのでしょうか。

 更に言いますと、十四節の終わりの「彼(ヨセフ)はシェケムに行った」とある「行った」という言葉は、次の場面へ焦点を合わせる言葉が使われています。ヘブロンの谷から、次はシェケムに場面が変わるということを、読者は意識することになるのです。
かつて事件があったシェケム。そこにヨセフが行った。ハラハラ、ドキドキ。何が起こるのか。緊張の場面かと思いきや、何も起こらない。ヨセフはシェケムでさまよっただけ。すぐにドタンへと場面が移る。肩すかしのような記事です。何故、この記録が記されているのか。皆様は、ここに何か重要な意味を見出すでしょうか。後ほど、考えたいと思います。

 ともかくヨセフはドタンへ行き、そこで兄たちに会います。
 創世記37章18節~24節
「彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ。彼らは互いに言った。『見ろ。あの夢見る者がやって来る。さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。』しかし、ルベンはこれを聞き、彼らの手から彼を救い出そうとして、『あの子のいのちを打ってはならない。』と言った。ルベンはさらに言った。『血を流してはならない。彼を荒野のこの穴に投げ込みなさい。彼に手を下してはならない。』ヨセフを彼らの手から救い出し、父のところに返すためであった。ヨセフが兄たちのところに来たとき、彼らはヨセフの長服、彼が着ていたそでつきの長服をはぎ取り、彼を捕えて、穴の中に投げ込んだ。その穴はからで、その中には水がなかった。」


 ヨセフの兄たちは、ヨセフに対して妬みや怒りがあり、それは殺意を抱くほどのもの。もとはと言えば、父ヤコブの偏愛が招いた悲劇です。この時、ヨセフはヤコブから特別にもらった長服を着ていました。それが目印となったのか、兄たちは遠くからでもヨセフだと分かった。そして、その長服が火に油を注ぐことになったのでしょうか。兄たちはヨセフ憎し、ヨセフ殺そうとなったのです。(ここで兄たちはヨセフのことを、「夢見る者。」「あれの夢がどうなるか見ようではないか。」と言っていますが、それは創世記三十七章冒頭の記事を確認下さい。)
しかし、兄弟全員が同じように妬みや怒り、殺意を持っていたわけではありませんでした。ヨセフを殺そうという意見に対して、長男ルベンは殺すことはよくない。ひとまず穴に閉じ込めようと提案します。長男として、年長者として分別が働いた。ルベン自身は、ヨセフを殺さず連れ戻そうと考えていたことが記されています。
 最終的にどうするかはともかく、ここはひとまずルベンの意見を採用するとして、兄弟たちは一致します。この地方は雨水を貯める穴が多数あり、しかし、この時は水もなく、これ幸いとそこにヨセフを投げ入れます。さて、これからヨセフはどうなるのか。兄たちの話し合いの結果次第では、命を落とすかもしれない緊迫の場面。

 するとここに、隊商が通りかかったと言います。
 創世記37章25節~28節
「それから彼らはすわって食事をした。彼らが目を上げて見ると、そこに、イシュマエル人の隊商がギルアデから来ていた。らくだには樹膠と乳香と没薬を背負わせ、彼らはエジプトへ下って行くところであった。すると、ユダが兄弟たちに言った。『弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが彼に手をかけてはならない。彼はわれわれの肉親の弟だから。』兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。そのとき、ミデヤン人の商人が通りかかった。それで彼らはヨセフを穴から引き上げ、ヨセフを銀二十枚でイシュマエル人に売った。イシュマエル人はヨセフをエジプトへ連れて行った。」

 ヨセフを穴に入れ、さてどうするかと話している、丁度その時。目の前にイシュマエル人、ミデヤン人の隊商が通りかかる。(イシュマエル人というのは、広く遊牧の民を意味し、ミデヤン人はその中の一つの民族と考えられます。私たちの多くが、日本人であり、四日市人であるのと同じ。)そこで四男のユダが提案したと言います。ヨセフを殺したとて何の益にもならない。どうせなら奴隷として売ってしまおう、とです。兄弟たちは、それは良いとしてヨセフは奴隷としてエジプトへ行くことになる。
 この時、このエジプト行きの隊商にヨセフを売ったことが、後々重大な意味を持つことになります。つまり、エジプト行きの隊商に売られたので、ヨセフはエジプトでの生活が始まります。紆余曲折あり、ヨセフはエジプトで大臣へ。その結果、大飢饉の際に、父ヤコブも、この時ヨセフを売った兄たちも助かることになるのです。
これがエジプト行きでない隊商だったら、後にヨセフがエジプトで大臣になることはなかったでしょう。また、ヨセフを穴に入れ兄たちが食事をしている、このタイミングで隊商がこなかったとしたら。ヨセフは殺されていたか、長男のルベンによって父のもとに帰されたか。どちらにしろ、後にヨセフがエジプトで大臣になることはなかったでしょう。
 これに続く歴史を知っている者からすると、兄たちがヨセフをどうするか決まっていない丁度この時、エジプト行きの隊商がここを通ることが重要な意味があるのです。丁度この時、絶妙のタイミングだった。

 このように考えると、一つ見えてくることがあります。先に考えました、十五節から十七節の意味です。もう一度、読んでみます。

 創世記37章15節~17節
「彼が野をさまよっていると、ひとりの人が彼に出会った。その人は尋ねて言った。『何を捜しているのですか。』ヨセフは言った。『私は兄たちを捜しているところです。どこで群れを飼っているか教えてください。』するとその人は言った。『ここから、もう立って行ったはずです。あの人たちが、『ドタンのほうに行こうではないか。』と言っているのを私が聞いたからです。』そこでヨセフは兄たちのあとを追って行き、ドタンで彼らを見つけた。」

 ヨセフが兄たちを探しに行く。その視点だけでは、この箇所がなぜ記録されているのか分からない。この箇所の重要性が分からないところ。しかし、兄たちがヨセフをどうするか決まっていない。丁度そのタイミングで、隊商が通ったということを基準に、この箇所を読むと、何故この箇所が聖書に記録されていたのか、分かる気がします。
 つまり、ここでヨセフがさまよっている必要があったのです。さまようことなく、すぐにドタンに行っていると、隊商が通りかかるより前に着いてしまう。また名前も記されていない人に声をかけてもらうタイミングも良かったのです。(ヨセフが声をかけたのではなく、名もなき人からヨセフに声をかけています。)ゴシェンでさまよい、丁度良く時に声をかけられたからこそ、穴に落とされたところをエジプト行きの隊商が通りかかったのです。この絶妙な神様の導きを示すために、このゴシェンでの出来事が詳細に記されていたと感じるのです。

 ヨセフはゴシェンで兄たちを探し、見つけられない。探しながらさまよっていた時、そのさまよっていることに意味があると思っていたでしょうか。ここでさまよっていれば、丁度タイミングが合い、自分はエジプトに売られ、やがてエジプトで大臣になるなんてことは、当然、その時は分からなかった。本人は分からずとも、重大な意味があった。そのことに、私は大いに励まされます。
 私たちの人生には躓きや失敗があります。前進がない。成長がない。停滞している。足踏みしていると感じる時があります。事故や病気。落第、浪人、降格、失職。自分の願うようにはいかず、人生をさまよっているように感じることもあります。
 現代は効率主義、成果主義の時代。前進がない。停滞しているように感じる状態は良くないとされ、人生をさまよっているように感じる時は、自分で自分のことを受け入れることも難しくなる。
しかし本当に、さまよっていることは良くないことでしょうか。無意味でしょうか。いや、そうではない。今日の箇所が一つの答えを出しています。時に、そのさまよっていることが重大な意味がある。本人には分からずとも、重要な意味があると教えられるのです。何しろ、ヨセフがゴシェンでさまよっていたことは、エジプトで大臣になることへとつながるのです。神様の絶妙な導きを見てとれるところ。

 この神様の絶妙な導き、私たちの想像や理解を遥かに超える神様の導きについて、パウロが告白していました。今日の聖句です。ローマ人への手紙8章28節
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

 以上、創世記三十七章のうち、特にヨセフが兄たちに奴隷として売られる場面に注目しました。同じ創世記三十七章を読むのでも、説教で扱ったテーマとは異なる視点で教えられることがあると思います。それはそれで良いことで、皆で聖書を読み進めていきたいと願います。

今日の説教で確認したのは、私たちの神様は、私たち神の民を特別に扱われること。それは全てを益にして下さる恵みであること。たとえ自分では意味を見出せない状況。衰退、低迷、さまよっているように感じる時でも、神様の導きは変わらずにあるということ。自分では分からずとも、神様が最善へと導いて下さっている信仰を持ちつつ、皆でキリスト者の歩みを全うしていきたいと思います。