昔学校の歴史の時間に習ったことばで未だに忘れられないことばがあります。明治の時代の政治家板垣退助の「板垣死すとも自由は死なず」です。自由党党首だった板垣退助は岐阜の演説会で暴漢に刺され、血を吐きながらこのことばを口にしました。 そして、このことばのゆえに、彼は自由民権運動の英雄となったと言われます。
板垣退助の言う自由は政治的自由ですが、人間は昔から様々な自由を求めてきました。政治的自由、経済的貧しさからの自由、職業選択の自由、病からの自由に恋愛・結婚の自由。宗教や思想の自由。まさにこの世において、自由ほど尊いものはなしという勢いです。
ところで、今日の箇所には「真理はあなたがたを自由にします。」と言う有名なことばがあります。イエス様が教える自由とは何なのか。それはこの世が求める自由とどこが違うのか。もし、その自由を持っているなら、それを私たちは実際に活用し生きているのか。今日はこの様なことについて考えてみたいと思います。
さて先回。ユダヤ人が大切にしていた秋の仮庵の祭りで賑わう都エルサレムの神殿で、イエス様はご自分を「わたしは世の光です。」と紹介しました。ギリシャ語で「エゴーエイミ」というイエス様独特の言い回しです。
これは旧約の昔、モーセが神様に対し「あなたの名は何ですか」と尋ねたのに対し、神様が「わたしはあってある者」とお答えになったことばで、つまり「神であるわたしは世の光なのです」との宣言でした。
ナザレの大工の息子、聖書を正式に学んだことのない、無学な田舎者で二流三流の教師とばかり思っていた都のユダヤ教指導者たちはこの驚きの宣言に怒り、殺そうとする。しかし、イエス様の奇跡や人気に心惹かれていた人々は信じたとあります。
それならばと言うことで、信じた人々にわたしの弟子とはどういう者かを解き勧めたのが今日の箇所でした。
8:31,32「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
イエス様の弟子とはみことばにとどまる者、そして真理であるイエス様を知り、つまりイエス様と親しく交わり自由にされた者と教えられます。「あなたがたはわたしを神の子、救い主と信じるだけでなく、わたしのことばを心に深くとどめ、わたしと交わって自由を持つわたしの弟子となれとの勧めでした。
しかし、イエス様によって自由にされると聞き、自分たちが自由なき奴隷とみなされたと感じたユダヤ人は反発します。神の選民としてのプライドを痛く傷つけられたのでしょう。私たちは奴隷になったこと等ないと鋭く言い放ったのです。
8:33~36「彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」
人々は自由と聞いて政治的自由を思ったようです。しかし、実際のところユダヤ人が政治的自由を謳歌した時期はほんの僅か。長い間エジプト、バビロン、ギリシャ、ローマと大国、強国の支配に甘んじてきました。けれど、誇り高きユダヤ人はそれを認めない。「私たちは神に選ばれたアブラハムの子孫、決してだれの奴隷になったことない」と押し返したのです。
しかし、イエス様が言われた自由は政治的自由のない奴隷という意味ではありませんでした。「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です」とある様に、私たち人間を罪の奴隷と指差し、罪から完全に自由な者、神の子であるわたしがあなたがたを罪から自由にすることができるのですよと教えられたのです。
罪の奴隷である人間が同じ罪の奴隷である人間を自由にすることはできない。罪なき神の子だけが罪人を罪から自由にすることができる。理に適ったことばでした。
なお、罪を行っている者とは罪を平気で犯し続ける者、罪の酷さを思わずに罪の中を生き続ける者という意味です。それが神様の御心ではないと知りながら、罪を行ってしまい、その罪を悲しむ信仰者のことではないと確認しておきたいと思います。
さらに、イエス様は面と向かって語ります。「あなたがたは確かに血筋から言えばアブラハムの子孫だけれど、わたしのことばを心に受け入れず、わたしを殺そうとしているのだから、罪の奴隷に間違いない。それが証拠に、あなたがたはあなたがたの父、悪魔から示されたことを行っている。」痛烈この上ないおことばでした。
8:37~41a「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」
彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。あなたがたはあなたがたの父のわざを行っているのです。」」
イエス様はこの時点ではまだユダヤ人たちの霊的な父を悪魔と名指してはいません。アブラハムとは違うあなたがたの父がいることを暗示するのみです。と
それでもなお「いいえ、私たち父はアブラハム」と抗弁する人々に、「アブラハムなら神から聞いたことを忠実に教えているわたしを殺そうとするはずがない。どうみてもあなたがたのしていることはアブラハムとは違うあなたがたの父、悪魔のわざ」と念を押すイエス様です。
事実、アブラハムほど神のことばをそのまま信じた人、神の使いを心から歓迎した人はいませんでした。まさにイエス様に反発するユダヤ人とは正反対の人物だったのです。
窮地に追い込まれたと感じたのでしょうか。ユダヤ人は「私たちにはひとりの父、ひとりの神がいるのみ」と言い返しました。
8:41b~43「彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。」」
「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。」とは、旧約聖書を背景にして言われたことば。真の神ではない異教の神、偶像を信じる人を結婚関係になぞらえて「姦淫する者、不品行な者」と旧約聖書は呼んでいます。
「私たちは偶像の神を拝んだことはない。ただひとりの神を父として信じている」と主張するユダヤ人。それに対して、イエス様はあなたがたが本当に神を父としているなら、神から遣わされたわたしを愛するはず、わたしの話していることがわかるはず」と一歩も譲りません。
ある人が「イエス・キリストについて改めて驚かされるのは、ご自分が神の子、紙から遣わされた救い主であることを全く疑っていないこと、当然のように確信しているその姿」と語っています。
ヨハネの福音書を読む者は、イエス・キリストが真の神なのか、それとも神と思い込んでいるただの人間なのか。いつも二つに一つの選択を迫られる気がします。
そして、ついにイエス様は「あなたがたの父、あなたがたが拝み従っているのは悪魔」と明言しました。これも神の子以外には言うことのできないことばのひとつでしょう。
8:44,45「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望(思い)を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。」
悪魔は神に反抗してやまない堕落した御使い。様々な方法を用いて人間を神から引き離そうと働きかけている霊的存在と聖書は教えています。そして悪魔の特徴は三つ。人殺し、真理つまり神を信ぜず、神を嫌うこと、常に偽りを言うことでした。
イエス様によれば、イエス様を信じない者はみな悪魔の影響を受けている存在。人を妬み、人を見下し、自分を正当化して人を赦し、和解しようとしない心の殺人者。神に背を向け、神を無視して考え行動する罪人。そして「神などいない、もしいたとしても信じ従う価値などない。自分を神として生きるのが人間の正しい生き方」と説く、悪魔の偽りに耳を傾ける者だったのです。
皆様はこのイエス様の語ることを受け入れられるでしょうか。それとも、ユダヤ人のように反発するでしょうか。
そして、やはりというべきなのでしょうか。このように人間の罪を暴き、指摘するイエス様が「このわたしに罪があると責めることのできる人はいますか。そんな人はいないでしょう。わたしは神の子、わたしの語ることはすべて真理」と断言するのです。
8:46,47「あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」
普段は柔和で謙遜で、人を癒し人に仕える、人間らしいイエス様が、どうしてここまで強烈に執拗にご自分が神の子であり真理であることを主張するのか。ご自分に従わず、ご自分のことばを心に受け入れない人々を責めるのか。
もしかすると、皆様の中には「こういうイエス様はついていけない」と感じる向きもあるかもしれません。しかし、この背後にあるのはご自分のことばを受け入れ、ご自分と交わる者となるか否か、それが私たちの永遠の運命を決める、本当に決定的で重要な決断であることを知っている神の子イエス様の深い愛と思われます。
本当の医者なら、自分の病気の深刻さを分かっていない患者に対し、たとえ患者の耳を開いてでも真実を告げ、どんな痛みが伴ってもなすべき手術をするでしょう。本当の医者は心から患者の回復を願い、全力を尽くすからです。
それと同じく、私たちは今日のイエス様のお姿に、私たち罪人に罪からの自由を与えるため、私たちの魂が真に健康を回復するため、全身全霊仕えてくださる愛を覚えたいと思いますし、覚えるべきでしょう。今日の聖句です。
ガラテヤ5:13,14「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えあいなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。」
イエス・キリストが十字架に登り、み代わりに受けてくださった私たちの罪に対する神の罰。心の中の殺人、神を無視してきた罪、悪魔の偽りに耳を傾けてきた罪、それらすべての罪のためにイエス・キリストが十字架で死んでくださったことにより、私たちに与えられた罪からの自由。この事実をパウロは「あなたがたは自由を与えられるために召された」と言い表しました。
十字架の死に至るまでイエス・キリストが私たちを愛し、私たちに与えてくださった尊い自由。この自由を私たちは喜んでいるでしょうか。この尊い自由を活用して日々歩んでいるでしょうか。
この自由を活用するため、私たちがなすべきことが二つ教えられています。
ひとつは、この自由を肉の働く機会としないことです。肉とは私たちの中にある自己中心の性質から生まれてくる思い、願いに基づいて考え、行動しないことです。
人を妬む、人を見下す、人を受け入れず自分のために人を変えようとする、自分を正当化し人をさばく、人を赦さないなど罪の思いを神様に示された時は悔い改めて、キリストの十字架に帰り、その尽きざる愛を思うことです。
私たちが与えられた自由は何でも思いのママ生きる自由ではありません。神様の喜ばれないことを考えない自由、行わない自由、自己中心の自分に従わない自由でした。キリストが血を流して与えてくれた自由。その折角の自由を無駄にしないようにと教えられたいのです。
ふたつめは、この自由を神様の御心、すなわち愛をもって人に仕えるために用いることです。愛をもってとは、人に強いられて嫌々ではなく、自由な喜ぶべき奉仕として人に仕えること、自分の名誉のためでなく、その人の幸いのために心から仕えることです。
しかし、悲しむべきことに、私たちの心は放っておくと自然と自由を肉の働く機会とし、愛をもって仕えることにこれを活用しようとはしません。この私たちの弱さを思う時、イエス様の弟子として生きるように招いてくださるその意味が分かるのではないでしょうか。
日々イエス・キリストのことばにとどまること、日々イエス・キリストを知り、親しく交わること。このような歩みを積み重ね、自由を正しく活用するうちにキリスト者の自由をますます喜び、満喫する。そんな歩みを私たち積み重ねてゆきたいと思います。